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平成22年4月24日 校正すみ

筑波海軍航空隊記念碑除幕式に参加して

池田 ?親(故池田秀親弟)

 

 昨年六月の初旬、茨城県友部町の旧筑波海軍航空隊跡地に記念碑が建立され、新庄浩氏のご案内で私は記念碑除幕式に参列することが出来ました。

 記念碑建立の最適地と考えられる旧航空隊の正門一帯は県立病院の敷地となっていて許可が下りないので、関係者(代表世話人林富士夫氏・事務局小林金十郎氏)のご努力により、道路沿いのもと戦闘機格納庫跡地に適地を寄付して下さる方があり、また石碑も兵学校七十五期の方の御好意により記念碑は出来上がったということでした。私ども遺族にはその問の連絡はなく、出来上がって始めて除幕式に御案内を受けるというような次第で、遺族への負担をさせないというお心遣いが感じられました。

 初夏の日ざしの中、記念碑前の道ばたで除幕式が行われました。

記念碑には次のように刻まれています。

筑波海軍航空隊ここにありき

一九三四年六月開隊 練習機による操縦教育開始、四四年三月零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更、四十五年五月紫電戦闘機の実戦部隊となる。八月終戦。

 君は信じられるだろうか。ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘しその殆どが南溟の空に散ったことを

 また四四年十月以降フィリピン・沖縄の作戦に数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げたことを

 この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけでも五十五柱を越える

 ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且つは恒久の平和を念じてこの碑を建てる

   一九九九年六月                   筑波海軍航空隊関係者有志

          (用地は橋本二朗氏提供)

除幕式が終わると、近くの「グリーンビュー」で宴会がありました。参会者は遺族、生存者、来賓で約百五十名でありました。まず代表の挨拶がありましたが、記念碑を建立することについて、「五十年以上も経ってからねえ」という声と、なぜもっと早くやらなかったか」の両極端の声があったとのお話がありました。この議論はもっともだと思いますが、私ども遺族の立場からしますと、何はともあれこうしたものが出来たことは有り難く、関係者のご苦労に敬意を表したいと思います。

 私にとって記念碑の除幕式は、その宴席で亡兄の友人にお会いできたことで、その意義が倍加されました。世話人をされていた椿孟氏にお会いできたことです。

私は子供の頃で、お会いした記憶が定かではないのですが、昭和四四年に亡くなった母は折に触れ「椿さんに一度お会いせねば」と言っておりました。私は詳しいことは確かめもせず今日まで過ごしてしまいました。その椿氏に初めてお会いすることが出来たのです。宴席では立ち話に終わったのですが、後ほど亡兄との関係を丁重なお手紙で知らせてくださいました。椿氏のお許しを得て亡兄との関係の部分を原文のまま転載します。

秀親君とは、本当に「一期三会」でした。

(その一)宇野の小学校時代

 私の父は、三菱鉱業の社員でしたので、昭和九年五月に転勤で八幡市枝光から宇野へ参りました。そして偶然にも編入されたクラスに秀親君がいたのです。担任は、「三宅行雄先生」でした。貴家の父上は、三井造船所に勤務されていたと存じます。お互いの家が割合に近かったので、学校からの帰り道は毎日のように一緒でした。よく三時のオヤツを戴いたものです。五年生になってからは、級長と副級長として良くして貰いました。特に彼は絵が上手でしたので、いつもペン画で軍艦特に重巡を描いていて、ねだって一枚貰って大切にしていたのですが、その後の引越しで無くなりました。貴家の玄関を入ってすぐの三畳か四畳位の部屋で良く遊んだものです。しかし、昭和十年八月には直島の社宅が出来たので、島の小学校へ転校しました。わずか一年と三月でした。

(その二)中学と兵学校

昭和十二年三月に小学校を卒業した私たちは、秀親君は岡山一中へ、私は岡山二中へ進学しましたが、島住まいの私は寄宿舎に入りましたので、会う機会もないまま、また転勤で東京に行くことになり、昭和十三年九月からは、東京の「成城中学校」へ転校しましたので音信も無くなりました。その後昭和十六年十二月一日に七十三期として入校しました。その日からは目の回る一日を夢中で過ごしていましたが、十二月七日は最初の日曜日でしたが、三号は外出が無く校内見学やら、洗濯をしたりして、午後からは恒例の初の生徒姿の写真を撮って貰いましたが、その時廊下で二号生徒に呼び止められギョッとしたところ、なんと秀親君でしたのでびっくりしてその後の経過を立ち話したのが、二度目の出会いでした。

 兵学校では学年と部が異なったため余り会う機会は無く、今手元に残っている写真は、昭和十七年四月頃に大講堂前で「岡山県人会」で一緒に撮ったのが一枚だけ残っています。そして七十二期を送り出しました。

(その三)筑波空にて

その後私は、四十二期飛行学生となり、霞ケ浦空での中練教程を終わり、昭和十九年九月からは戦闘機学生として筑波空に行きました。此処でも秀親君は予備学生の教官でしたので十一月位までは気が付きませんでした。また同じ道を進む者として久し振りに懇談しました。そして運命の日がきたのです。

昭和二十年二月十五日夕方からは、私は副直将校として勤務につき当直将校に申告に行ったところ、なんと池田中尉が当直でした。奇遇にまた吃驚しました。巡検が終わる頃には、敵機動部隊の接近の情報が入って来ました。巡検終りのラッパを吹かせた後で、池田中尉が急に「おい、士官室で、二人でゆっくり話をしょうよ」というので、従兵にお茶を入れて貰い、楽しかった「宇野」の頃の思い出を語り合いました。そのうち彼は、実は明日の激撃戦では第一陣で上がることになっているんだというので、夜も更けてきたので早く寝ないと明日の戦にさしつかえるぞと言ってムリに寝て貰いました。

十六日は0800までは副直勤務でしたので、その後大慌てで飛行服に着替えて指揮所に駆けつけた時は、既に第一陣は離陸が始まつており残念ながら池田中尉の機がどれかは分かりませんでしたが、ただ武運の強からんことを祈るのみでした。

然しながら何時まで待っても池田機は帰還せず、午後になってから「涸沼」付近で同機が発見され搭乗員戦死の報が有り、ただ茫然とし昨夜の別れのみが想い出され悔し涙にくれました。この日の戦いは、我々学生に戦闘機隊の戦いの非情さをいやというほど教えてくれました。あの日のことは戦後五十四年経ても克明に想いだします。

椿氏は、このような亡兄との交友関係と戦死の模様を、昭和二十一年二月に母宛に出されたそうですが、私は母からその手紙を見せて貰った記憶がありません。私はそのころ、岡山から熊本への引っ越しや、学校の転入学で忙しくしていたこともありますが、母は一人胸に秘めておきたかったのかもしれません。

私にとっては、この手紙によって椿氏と亡兄との関係が初めて明らかになったわけで、深い感慨に襲われました。

 私の手元には「海と空の碑」(海と空の碑刊行会、平成元年)という大部な本があります。これには予備学生十四期だった方が北海道から南方の島まで八百余の記念碑を巡って掲載されていますが、筑波海軍航空隊のものは、記念碑としてではなく、その正門と県立病院本館前に残る「号令台」が載っております。

それらの記念碑に本記念碑が新たに加わったことになりますが、代表者のお話にありましたように「恒久平和を祈念」し「歴史の証拠を残す」ものとして友部町の道ばたに何時までも残るように遺族の一員として願うものであります。

(平成十二年一月)

(なにわ会ニュース82号13頁 平成12年3月掲載)

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