兄の殉職となにわ会 たつた一度の父との旅―
岡野 武弘(井尻 文彦の弟)
あの日、昭和20年2月16日、父、武彦と私は、佐世保海軍航空隊大格納庫内で行われた、 3日前に殉職した兄と2下士官の葬儀に参列していた。将兵が威儀を正して整列する前を、中学2年生だった私は、悲しみを耐え、胸を張り、毅然たる態度で中央祭壇へ進み、折日正しく焼香を果たした。しかし、脳は痺れ、ただ、呆然と事態の進む中に居ただけであった。
粛然とした空気を裂く水兵隊の儀伏の弔砲の轟音も、司令官の式辞も夢現で聞いていた。神のように慕う兄が死ぬ訳がない、と、神国日本の軍国少年は、カーキー色の戦時学生服に傷心の身を包み、不動の姿勢のまま、父に並んで立ち続けていた。
台湾沖航空戦で敵1機撃墜、自らも被弾『海に不時着、漁師に救われ、九死に一生を得た兄、佐世保基地では、零式3座水上偵察機(通称ゼロ水)に搭乗、爆雷投下攻撃を繰り返し、九州近海で、敵潜水艦一隻を撃沈の公算大の戦果を挙げた兄だったのだ。(防衛庁で行動調書確認) _
それが、何で、最期が急降下訓練中、上昇に転じた時、右主翼飛散、海面に落下激突海没し、浮上したものが、兄の右飛行靴のみという殉職でなければならないのだ。
精鋭の偵察機ゼロ水(時速367キロ)とはいえ、所詮は、下駄履き(フロート付水上機)ではないか。ゼロ戦や爆撃機ならぃざ知らず、ゼロ水では無茶な話ではないのか?
水中で、もがき苦しんだであろう兄の顔がちらつくと、矢も盾もたまらず、跳び出したい衝動に駆られていたのであつた。
救いは、飛行長日比野 昇大尉の基地案内と、飛行士だった兄の部下たちが、士官室や宿舎で語ってくれた話を思いだすと、一縷の光明が灯った。基地内外での兄の数々のエピソードや営外居住の海軍法務少将の娘とのロマンスは、心を明るくさせた。
そして、鮮明に覚えている事が一つある。鹿屋基地から、零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦
時速530キロ)で駆けつけ、海軍兵学校72期代表として弔辞をささげて下さつた海軍中尉の存在だ。弔文奉読後直ちに基地に戻らんとする中尉が、居並ぶ司令官他上官たち、私たち父子に向けた礼節の挙措は、潮焼けした顔に、眉目秀麗、背恰好、歩き方などと相侯って、兄を目前にする思いであった。思わず、「兄ちゃん」と呼びたくなるほどの瞠目の衝動であった。見事な海軍式の敬礼をされ、スマートに式場から去られてしまつた。
最敬礼で見送り、後ろ姿に武運長久なれ、と祈るだけであつた、私は、この中尉が兄と府立六中(現新宿高校)でも同期であつた伊藤 叡中尉であつたと、今でもかたく信じている。(弔文は、兄の遺品の大半と共に、東京大空襲で焼失した。)
伊藤中尉は、この2カ月後の4月7日、沖縄特攻艦隊司令長官の戦艦大和に座乗の伊藤整一中将の長男である。同じ日、特攻機編隊長となった中尉は、大和上空から艦橋に立つ父との別れを告げる武門の子のシーンが語られている。(吉田満著、戦艦大和の最期及び映画から)
なにわ会(同期会)の見解では、中尉は4月26日、伊江島付近の空中戦で戦死され、特攻ではないとされている。私は、大和直掩機として燃料切れまで守り、父上に別れを告げた中尉の4月7日があつたと想いたい。
先人の異論もあろうが、大和(排水量64,000トン、全長263m。最大幅38.9m、速力27ノット、主砲46センチ砲3門、3056名戦死、276名救助)について付言する。
菊水作戦発動につぃて、上奏した時、
「航空部隊だけの攻撃なのか」の天皇のお言葉に、思わず、「海軍の全兵力を使用します」と奉答した及川軍令部総長であった。天皐の何気ない質問が、海軍最後の沖縄水上特攻艦隊の出撃命令になったとぃぅ。(戸高一成著、戦艦大和に捧ぐ)
伊藤長官は猛反対したが、潔く出撃した武人の心中如何ばかりであったろう。つくづく、戦争といぅ化け物の恐ろしさ、人間の叡智で平和を守る難しさを覚るのである。『大和』の生みの親の設計技師で、建造主任でもあった牧野茂海軍技術大佐は、私の母校府立(都立)八中(現小山台高校)の同期生、董君の父君である。「大和は失敗作ではなかったが、もっとよい艦に出来たはず」と語ってぃたそうで、工夫努力の研鑽の人であった。
不思議な縁故で、戦災後の父が勤めたのは、海軍艦政本部で第4部長(造船)の牧野大佐に面識を賜ったそぅで、部下思いの、痩せた太っ腹の人、と語ってくれた事がある。敗戦後、父が軍用トラックを頼み、運んだ中に大きなデスクがあった。私は勿論、長男、次男の勉強机となって愛用し、今もその棚板が健在である。艦政本部の今に残る官物である。
さて、話を元に戻す。佐世保駅から帰京の車中でも、有らぬ思いに、ぼんやりと4ヵ月ほど前の武田昌男中尉の殉職を思い出していた。戦闘機で故障発生、低空飛行で厚木市内の高圧線に尾翼が触れての感電死であった。家が近く、兵学校生徒時代以来の交流だ。昌男さんは豪傑で、私は手荒く可愛がられたものだ。母同士、労り、慰め、大声で泣きあうのを耳にしながら、毅然と振舞う父上と実弟(拓殖大学生)の手伝いを黙々とした葬儀前日の悲哀漂う武田零の事を思い出していた。
―噫、 兄もまた、武田さんの後を追って殉職してしまったのか―一―と嘆いた。
すると、人波をかき分けて、故海軍大尉井尻文彦霊位の遺骨を大切に胸に抱く私の前に立ち、脱帽し最敬礼して下さつた、壮年色黒の海軍大尉が居た。大尉は海軍兵学校の砲術教官だったが、転属命令で任地に赴く途中との事であった。兄の生徒時代をよく覚えていた。殉職死だった事と、遺骨は無く、飛行靴である事を、正直に話すと、「惜しい男を亡くしました。さぞやご無念の事でしょう。お父さんはご子息の分まで長生きをして下さい。私も、これから前戦で、奉公します」と、口はやに、明快な癸音での心に残る言葉であった。
突如、空襲警報のサイレンが鳴り渡ると、汽車は急停車した。近頃は警報よりも速く空襲する敵F機(グラマン)F4F、F6F)だつた。佐世保駅を出て数時間でもう3回日の警報だ。
父はデッキから、私は連結機から飛び降り、線路伝いに列車から離れるまで走り、小川に掛かる鉄橋の下の茂みに隠れた。大尉は、背負った鉄兜をちらりと見たきりで、視界から消えてしまつた。艦隊勤務で、ひょっとして、大和乗組かもしれず、大和の巨砲を駆使して、敵艦隊を撃滅してくれと祈った。一期一会の出会いは、脳漿に刻まれている。
ふと、父の目に宿る大粒の涙を見た。武家育ちの厳めしい父に、初めて見る涙だ。慌てて目を背けたが、見てはならないものを見た思いは一一もう、兄の死は、絶対の事実になった。生き返る事は、もう絶対に無いのだ一一
と覚らせられ、涙線は堰を切ったように涙を噴出させた。耐えていた涙は、恥も外聞もなく止めようがなくなった。堪えようとして、嗚咽が続いた。父が顔を寄せ、両肩を抱いてくれた。カーキー色の国民服にゲートル巻の父であつた。「武弘は、この旅行でよく頑張った。もう数えの15歳だ。今から元服だ。これから日本は、大変な事になる。民雄も居ないし、武弘の武は武田の武だ。しつかり家を守れ!」と、叱るような声だが、寡黙な父の本心と強い抱き方に優しさを知っつて落着いていった。
次兄の民雄は、海軍経理学校37期生で、品川から垂水に移っていた。弟の正彦は、小学2年生で、甘えっ子なのに、富山県に学童疎開したばかりであった。上野駅から夜8時の出発で、見送り厳禁だったが、母の意を体し、勝手知った出身小学校で、餓鬼大将の優等生だった私は、車内に乗り込み、「弟をよろしく」と熊切校長、原島担任訓導、悪ガキたちに挨拶して回った。私一人に見送られた都南国民学校(小学校が戦時中変更呼称された)の子供たちであつた。
夜中に大鳥居駅に着くと、英霊となった兄を、町民挙げての出迎えであった。父は町会長、母は国防婦人会長であつた。母は、遺骨の前に進み出て、小声ながらはっきりと「文彦、お帰りなさい。ご苦労様でした。」と言って、深々と頭を垂れた。私の脇に並び、町民の高張り提灯の列に、大声で挨拶する父に従い、長時間待ち続けてくれた好意を謝した。大和撫子の範を示し涙は無かつた。
ところが、葬式が済んで、誰も居ないと思ったのか、兄の仏前で、「文彦ォー! 何で死んでしまったのーツ」と、畳を叩いて号泣している声に、階下へ飛び降り駆け付ける私であつた。
「母ちゃん、しつかりしてよッ! 兄ちゃんは死んでも、俺が居るじやないかッ!」と、激しく背を揺すり、肩を抱いて、優しく次々に声を掛け、そつと待った。今度は母の涙を労わる番になった。3月初め、母は富山から弟を連れ戻した。弟の虱の巣の衣類を焼き捨てた。
3月10日、本所、深川地区の空襲の天空を焦がす劫火を、間近の如く見て震えた。
4月14日〜15日、いよいよ京浜地区の空襲が始まった。焼夷弾(ナパーム弾)の無差別爆撃は、阿鼻叫喚の地獄図絵以上を描いた。
この日、家族が命を保全出来たのは、兄の魂が救ってくれたお蔭であった。この日、4月14日は、兄が22歳になる筈の誕生日で、この日を、皆の命日にする兄ではなかったのである。((東京大空数を生きる)再販 所属校で教材に利用される)
焼野原の羽田糀谷町から、天貝ハル小母の目黒の家作に移つたが、此処も、5月15日の空襲で、焼夷弾にガソリンの雨が加わって忽ち噴火、焼失した。
バラック建てから、父の教え子たちの世話で、世田谷の奥沢に家を借り転居が出来た。屋根や畳の有り難さを知った。
私は、中学3年の勤労動員中から選ばれ、品川台場の経理学校内で、特別甲種幹部候補生と共に起居した。各中学からの50名は、兵学校入学への予備訓練と講義を受けていて、敵機の機銃掃射による死者が出た。旬日後、敗戦の8月15日を迎え、混乱の中、家に帰った。
艦載機のアメリカ兵に、この馬鹿野郎ッ!、と石を投げたあの時も、兄の仇討ちをするんだ、と兵学校受験勉強に拍車を掛けたあの日々も、全て終わった。
戦後65年が経った今、兄の同期の生存の方々が結成された「なにわ会」の足跡を称えたい。まず、父母の傷心を救って下さつた。靖國神社昇殿参拝の後には、親睦会で、亡き兄に代って孝養を尽して下さつた。「息子たちに会いたい」と、父母が如何になにわ会を生き甲斐に参加したかは、全遺族と共によく知るところで、心から感謝している。
また、なにわ会内のパイプ役は伊藤正敬さん編集の「なにわ会だより」である。「なにわ会ニュース100号」を果たし、直ちに、左開き横書き式で、見出しなどは、従来を伝習での登場に、継続を喜び、大拍手である。伊藤編集長のご健康、ご高寿を
祈り上げる事切である。
アナログ派で、手書き、物書き人間の私には、パソコン操作は埒外と決めていたが、「なにわ会ホームペ_ジ」を検索する人が多いよぅで、今回、兄の殉職の場面を目撃した少年の日記から、小説の一部に表現したいと申し出の子孫(56歳)があるとご連絡を頂き、感激してぃる。兄たち、海軍育ちの「ゼロ水」の訓練ぶりや、佐伯湾の漁師の子供たちとの交流が小説化される事は、色々と嬉しいし、執筆者に応援のエールを送りたい。
兄は元来陽気で、歌の上手なスポーッマンだ。兄の部屋から聞こえる朝(島崎藤村作詞)の長い歌を、歌の好きな私は、直ぐ覚えて、やがて部屋に入って合唱し、兄に褒められた事があった。この歌は、私が担任した全クラスの伝統の学級歌となってぃる。野球では、名―塁手で、町内の試合に駆り出され、好打と美技を見せたが、「見ろッ! あれが俺の兄ちゃんだ」と男の子の子分たちに自慢したものだった。
「東條奴が戦争を長びかす」と休暇で帰省時、中尉になった兄がきりっとした口調で断言したが、東条大将の孫二人の小学生の担任を卒業まで引き受け、見事公教育を果たしたが、天界の兄は如何見ていたのだろうか? 日教組の教員らが、受持ち拒否の挙に出て、新卒の熱血正義の教員たるべき私が、この非道を許す訳がなかったのだ。この子たちは、企業定年後大学教授になり、有用な人材を育てつつ研究書も著述貢献していて元気だ。
兄の一号生徒時代同分隊だった浦本 生さんなどの方々と書いた寄書きがある。私の宝物になってぃる。(浦本さんから写真と共に頂いた。)
「武州浪人井尻文彦、我がままで短気な男」という一行と、伍長の福山正通さんに「貴様を見るとワン公を思い出す」の冗談にしても、恐れ多い
一言には驚いた。父が、「先祖は武田浪人」と言っていたのを、羽田糀谷「大鳥居駅周辺」も武蔵国にあるから、武州浪人と、洒落た名乗りにしたものだろう。意思疎通の、団結の分隊と分った。兄が私に与えた一言は「細心大胆」と「不良と餓鬼大将は違う」であった.
なにわ会の戦没者数は最大で、確かに、太平洋戦争の戦局不利の行方を、先頭をきって戦われた事が判然としている。今思う。戦死、殉職、病死、軍属その他の別なく、皆殉国の犠牲者の戦没者だ。國神社の祭神として、永劫祀って下さる。私も敬神崇祖の心だ。
文学少女だった母に、次の短歌がある。
咲き出づる九段の花に面影を
しのぶ人老い 木蔭さまよう(みどり)
事実、昇殿の折、社殿の大水甕上に、物故の民雄を、握手で迎える文彦兄と背後の父母の容姿が浮かんで見えた。やがて、私も靖國の庭をさまよおう。
幸い以後、6月4日が定例のなにわ会の永代神楽祭となり、会員、遺族の方々と嬉しい集いの目的が続けられる事に、
なにわ会よ 永遠なれと祈ること頻りである。妄言多謝
2010年1月15日記
参考
@ 2月3日は兄文彦の命日で、靖國神社の永代神楽祭には、従兄弟の茨木浩一郎夫妻と参列する。浩一郎さんは兄を慕い、飛行機乗りを望み、日航パイロツトの先駆者となった人である。
A 本年4月6日は、父武彦の50回忌に当たる。聖将山東郷寺(日蓮宗)
にて法会。戦後、東郷元帥別邸を海軍縁故の墓地として提供され兄を埋葬、今に続く。井尻家は大分県立石に曹洞宗長液寺が菩提寺としてある.
B どなたのご好意か? 岡野武弘のホームページが出来、著作の検索が出来る模様。
(編集部)次の記事があつた。(なにわ会編集長伊藤氏の話)
. 二等警査ものがたリーある警察予備隊員の青春: 岡野武弘
佐世保海軍航空隊で殉職した兄を思う: 岡野武弘
‐
命懸けの体罰: 岡野武弘
C 目下日航勤務の長男文弘は坂元正一さんのお取り上げ(関東老妻病院)で」誕生し、左近允尚敏さんのご支援で、防衛大から東大に進学できた。他にもなにわ会と繋がる不思議な縁が多くある。
殉職余聞
兄の搭乗機が急降下から上昇に転じた時、右翼の鋲が飛んだという整備不良があったとも言われた。
水中の潜水艦を発見しても、水面での光の屈折があるから、位置把握は難しい。真上に近く、水面にも近く、通常は30度の降下、40度以上にすることが要求された。訓練によってしかなし得ない必要な事と分った。
日比野大尉は、兄より2期先輩の飛行長で、親切に、説明案内してくれた。
広い滑走路を歩く時があって、余りにも大尉の歩き方が兄に似ていたので、「兄の歩き方そっくりです」と大尉に告げると、「兵学校では、皆似るもんです」と答えて呉れた。
戦闘指揮所が、海岸線の傍らに建っていた
木造二階建ての、窓の数の多い直方体の山小屋のような感じであった。海に向かって、小屋の正面前にテントが張られ、帆布張りの肘掛椅子があった。
「あっ、これは兄ちゃんが座っていた飛行服の写真のあの椅子だ!」と叫ぶと
「中尉は此処で、戦闘指揮を取っていました。細心の注意で、大胆に命じていました。」と日比野大尉も、椅子に手を当てて、さも懐かしむ感慨を示した。
波打ち際のコンクリートの斜面と近くの波間に、数機の水上機が浮かんでいた。「あのいきの良いのがゼロ水です」と指さして教えて呉れた。
私は暫く、その機上に立つ兄の姿を瞼に浮かべ、佐世保湾から拡がる東シナ海の果てを見張るかしていた。
司令官室に案内され、挨拶を交わした。深甚なお悔やみを受けた。海軍大佐だった。会食になりビフテキとカレーライスが出て、後ろに立って控えている従兵が離れようとしないのが気になったが、よく食べた。でっぷりと肥え、貫禄のある大佐は、「海兵志望の武弘君、腹いっぱい食べなさい、君はいい体、いい面構えだね。きっと、いい兄貴のあと継ぎになるぞ。」と声を掛けてくれ、自分も米飯のお代りを従兵に頼んでいた。
父が、司令官と対等に喋っているのに安堵して何と私は三杯もお代りしてしまった。
一次士官室では、5,6人の尉官クラスから、お悔やみを受け、後刻、宿屋に参上するとのことであった。
金色の錨の金属マークをつけた乗用車が司令部前に着いて、父と私が乗ると車の中に、三本の日本酒一升瓶が持ち込まれた。父が、理由を尋ねると「宿に着かれれば、分ります。どうぞご遠慮なく」という返事だった。
佐世保駅前の宿屋に着くと、母の兄の松尾信次(青年師範学校長)と妹のご主人の飯田勝雄さん(八幡市警察署長)の叔父2人が部屋に到着していた。
酒は、二人が航空隊に電話して、今晩通夜するから、酒を寄越せとねだった結果だった。民間には、酒がない時だった。
父は二人と久闊を叙していた。松尾さんとは、特に遠慮のない間柄に見えた。
父より年下で痩身、ごま塩頭の紳士で、母と兄弟の間とは思えなかった。(一部略)
この夜は、隊から外出した兄の部下の士官たちが加わって、夜遅くまで、兄の生存中の話で持ち切った。色気のある話でMMK(もててもてて困る)の兄の一面も知った。
兄の遺骨代わりの右歩行靴の内側には細心の2字の筆文字があることが、又、左靴には大胆の文字が書かれていたとの事で、兄の座右の銘が、此処で歴然と分った。
翌日、海軍葬だ。司令棟に迎えの車で着くと、早速、兄の私室に案内された。
木造床の部屋は、清潔で整頓良く、日用品ニ見る兄の生気が伝わってきた。(後日、日比野大尉名で、この遺品を送って下さった。中にマミヤシックスがあった。)
コッ、コッンと部屋をノックする音がして、どうぞと答えると、泥棒猫のようにすっと入って来たのは菜っ葉服の一等水兵だった。もごもごと、羽田、大鳥居、吉岡、井尻中尉に世話。母の安否など喋る顔を見て、思い出した。「父ちゃん、この人はマコちゃんだよ」と教えるが、父が知る筈がない。吉岡 誠という名の打っての不良 やくざな男だ。私の子分たちも、殴られたり、金銭をせびられたりしていた。餓鬼大将の私がいれば背を向ける男だった。改心して海兵団に入った事は知っていたが、まさか、兄と一緒の航空隊に居たなんて知らなかった。
兄のお悔やみを言いに、水兵の身分では近づき難い本部二階の兄の私室まで訪ねて来たものらしい。父も町内会の青年と分り、穏やかな目を向けていた。しかし、その時、ノックと共に「入ります」と大声一番、日比野大尉が入室してマコちゃんと対した。
「貴様、何をしとるか!」と日比野大尉の怒声に
「日比野さん、近所の出身で、お悔やみに来てくれたのです。許してやって下さい。」
と私は思わず、間、髪を容れず叫んだ。
殴る体勢にあった大尉は「よし、早く勤務に戻れ」と一喝した。最敬礼のマコちゃんは、慌てて戦闘帽をかぶり、挙手の敬礼をすると帰りますと言って、ドアを出て締めようとする寸前、私は短く大尉の肩越しに鋭く声を放った。
「マコちゃん、お母さんは元気だよ。会ったことは伝えておくよ。空襲はまだないし、家は大丈夫だよ。」と。
閉まるドアから、顔の目だけが、感謝を表し、笑ったように見えた。
小間物行商の母親に、マコちゃんの活気を伝えると、私の手を押し戴いて喜んだ。