TOPへ   戦没目次 

平成22年4月24日 校正すみ

平成9年9月寄稿

 魂の復員(二)

岡野 武弘(旧姓 井尻)

一 はじめに

「なにわ会」に出席した次兄民雄から電話があって、私宛の原稿依頼を受けて帰ったので、よろしくとの事でした。

「魂の復員」なる稚拙な文章を会誌に載せて戴いた五十年前を、編集の方が、よぐぞ、心に留めて下さっていたものと、お礼申上げたい気持になりました。

私は、あの頃にすぐ戻れます。そこには凛々しい兵学校出の飛行将校と、その人に憧れ、恋い慕う少年が顔を見合わせている図なのです。語る事は、海・山ほどあっても、只、お互いを見詰めているのです。少年の、今の、六十六才は、時間は無となり、兄の気高い香気立ち上る、二十二才のイメージを、年は取っても成長で越えることはできないのです。しかし、心は、いつも、兄を照らし消えることもないのですが、やがて今度は、時が来て、無明の世界を彷徨(さまよ)う私を、冥土(めいど)から手明かりを伸ばして助けて呉れる兄であることも間違いないのです。

教職歴半ばの頃、母みどりのお供での「なにわ会」でした。通常は単独行か、兄弟、嫁が付添いました。「同期の方が、みんな文彦に見える」とか、「医学博士に、肩を挟んで貰った」とか、その喜び様から、老いの、生き甲斐の一日である事を知りました。

校長になった年、母の手を取っての「なにわ会」でした。声掛けも揉む手も、私よりも、一層優しく「親身でいたわる」とはの意味を教えて下さった同期の方々。この心を教育に生かそうと誓ったものでした。

校長、最後の年、母は「これで、文彦の所へ行ける」と、にこりとして、耐えて咲く、野菊の如き、九十才の一生を、静かに閉じました。耳に残した「ありがとう」の言葉は、幸い戦後から、母親の如く接して下さった同期の方々への、母からの感謝の気持でもありました。

 親から子へ、子から孫へと「なにわ会」は、永久に不滅でなければなりません。そこに、語り継ぐべき歴史があります。守るべき栄誉があります。

自由業となった今、私は、「自分史(旅)」に、在りし昔の日の語りべたらんと、勇気(言う気)をもって、テーマを求めて書き続けているのです。

ここに、「魂の復員 二」を続編として書かせて頂きます。

今度は、兄への追憶の鎮魂賦です。同時に同期の方々への謝辞でもあります。ご叱正ください。

二 海軍葬

佐世保海軍航空隊の大格納庫の式場は、総員、軍装に身を包み威儀を正して整列していた。祭壇には、一メートルもあろうかという木の位牌に、黒痕鮮やかに、「海軍大尉井尻文彦霊位)とあり、白木の白布の遺骨箱(骨にあらずして、海流に漂い出た飛行靴のみ)と菊が飾ってあった。他に、二名の搭乗員の下士官と共に、荘厳、かつ、しめやかに、海軍葬が行われた。

礼砲の号音が、水兵たちのきびきびした一連の動作で、庫内に轟き渡ると、天に向かった銃口からは、ぱっぱっと、次々に紫煙が閃光と共に立ち上った。

父の後から進み出る。焼香する手も足も肩も力が失われ萎えて崩れ落ちてしまうかのようだった。

かくて、兄は逝った。弔砲一発が、死を覚らせ、中尉が大尉に昇進した事で、はっきり裏付けられた。あと、二ケ月で、二十二才の誕生日となる、昭和二十年二月十三日が命日となった。私は、十四才になったばかりの中学二年生であった。

台湾の航空隊基地から、戦闘機で駆け付けて軍服に着替えるや、弔辞を捧げて下さり、急ぎ反転、飛行服の人となられて、戦場に戻られた、同期同分隊だった方の今も、鮮明に、そのネービーブルーの後姿を、瞼に焼き付けている。

葬儀が始まる前の時間に、飛行場内を案内の先に立って下さったのは、日比野昇大尉であった。兄の上官である。

父の背を叩き、

「日比野大尉は、兄ちゃんにそっくりの歩きき方だよ」

と、声を高く、弾ませると、聞き付けたか

「同じ、兵学校出です」

と、にっこりとされた。多くを語らなかったが、相当に個性的だった兄を、カバーして呉れていた事は、仄(ほの)かな話し振りの中に、よく分った。

飛行機の発進地となっているコンクリースローブの波打際には、水上機の各種が固定されてあった。格納庫の並ぶ棟までは、百メートルはあろうかと思われた。

兄は、零式三座水偵に搭乗し、他機も指揮する隊長の任にあったという。三機を引具して、佐伯湾頭に向かい、対潜爆雷投下の訓練を開始して、急降下爆撃を繰返す内に、突っ込み過ぎか、粗製の噂高き、螺子の緩みか、片翼が飛んで、そのまま、海に叩き付けられという。一度沈んだ機体は、海面に上がり近くにいた駆逐艇が機体にローブを掛け、何とか、引っ張りきろうとしたが、激しい海流に抗し切れず、海に放すしかなかったという。この艇長が、同期の方で、「あの機が、井尻と分かっていれば……」と、絶句されたという。

兄の、この死に至る瞬間までの心の中「如何なるものであったか、推測するだけで、断腸の思いが走る。

 今はこの僅かな、時の経過を、脳内分析し、心理と葛藤を描写し、兄の姿を彷彿とさせるべく機会を見つけ綴ってみようと思っている。私の憧れであった、美男、美声、野球の名選手、小児マヒを克服した、俊才健敏の兵学校出身者は、この世を去った。

昨夜、司令ご招待の夕食会を済ませ、佐世保市内の旅館に帰ると、訪ねてきていた飯塚市の警察署長と大牟田市銀水の青年師範学校長は、共に叔父に当たる人で司令から届いたという酒で、お通夜を始めていた。父と違うタイプの遠慮のない人たちで、おそらく、酒も催促したものだろう。これに加わった、梅谷少尉候補生を交えて飲み続けた。「文ちゃんは、童貞だったか、どうか」の話になった。日曜日などの休日には、市外の海軍法務少将宅を訪ねていたという話が出て、その家に、フェースナイスのコーベル (娘)が居たという事は、私に、何か希望を持たせて呉れるよい話だった。

父が町会長をしている事務所に、幸田さんという羽田の漁村から通って来る別嬢の娘がいて、兄が、百里原(飛行学生)からの休暇で家にいる時、茶の間を開けると、二人が、ベターとしている姿を見て、私の方が昂奮してしまった事があったが、母と顔を合わすと、「黙っていなさい」と、目配せしたので、母の差し金であることは瞭然であった。しかし、この場合は、時間切れと身分違いがあり過ぎたと思う。私には、未経験のことだが、兄が、崇高な悦楽を遂げて、立派な男としての総身を抛(なげう)っての死であったと思いたかった。

今、私の手元に、空襲前に救い出してあった、兄の「自啓録」がある。最期近くのページから、抜粋してみると、

入隊二際シ所感

懐カシノ兵学校ヲ卒業后、直ニ第四十一期飛行学生ヲ命ゼラレ本隊ニ入隊セリ

此ノ凄烈ナル航空決戦ノ捨石タラント飛行機ヲ熱望セシ吾人、憧レノ飛行機搭乗員タルヲ思ハバ我等ノ血潮ノ燃エ立ツヲ覚エ、吾人ノ責務ハ重且大ナリ

吾等ハ大ニ奮励努力以テ優秀ナル搭乗員トナリテ一日モ早ク宸襟(しんきん)ヲ安ンジ奉ラザルベカラズ

 

部下ノ統御ニッキ所感

敬礼ハ統率ノ妙ナリ 部下ニ対スル心持 偏見ハ絶対ニアルベカラズ 結果ヨリモ動機ヲ重ンジテ叱責訓戒スルヲ要ス

下ノ者ノ前デ上ノ者ヲ叱責スルナ

作業ヲ命ゼバ結果マデヨク見ヨ

下カラノ意見ニ耳ヲカセ

指導ハ率先窮行ニアリ

とあった。以下はかなりのベージが余白であった。戦局、日々激化、書く暇もなく、戦闘行為の中に自啓を求めていたのであろう。それにしても、「宸襟ヲ安ンジテ」を除き、今の時代にも適合する指導原理を衝いた内容表現であると感銘が深い。

今の世の者、中学から漢文が消えたために、このような漢語調の簡明なる文章はとても書けまい。兵学校生徒のみの優れた学力と言えた。

自啓録の初っ端の文の所感に

「栄アル皇紀二千六百年ノ佳キ年ニ当り幸ニモ海軍兵学校生徒ヲ命ゼラルルニ至レリ。身ノ面目之レニ過グルアランヤ……。」

と続くのだから、私にしても、漢語を軸にした散文の構成の重要性の意義と、身の不足の学力を改めて知らされてしまった。この事だけをとっても、兄とは言わず、可惜、同期の若い人材を失ったものだと、日本のために残念に思う。

 

三 動乱の中を生きる

府立八中の三年生になって直ぐ、大空襲に遭う。父は町会長で不在、蒲田区糀谷町二の一〇三八番地の自宅は、私一人の守備であった。母と弟は、打合わせ通りの避難場所に逃がしてあった。焼夷弾と格闘演ずるも、次のサイクルで落とされた、焼夷弾群には抗し切れず、二階建てのわが家は、外壁が膨らんだと見る間に爆破的に炎上してしまった。

この時、滾々(こんこん)たる庭の井戸に抛(ほう)り込んだ、兄の遺品の木箱*は、無惨にも、涸()れた水の中で灰と化してしまっていた。(*佐世保空、日比野大尉が送って下さった物、軍刀と自啓録は出してあったが、マミヤシックス他、日用品遺物はすべて焼失)機銃掃射を逃れ、羽田航空隊基地脇の広大な空地で、数千人の避難民の中から母と弟を闇の中に発見できたのは、思いがけない事だった。

低空飛行のグラマンF6Fの搭乗員の若い顔が風防に見え、思わず、「バカヤロー」と拳を振り上げた。

この日、四月十四日午後三時ごろから、蒲田、大森、品川を中心に来襲した敵B29は、三百三十機、翌朝分を合わせると実に、その数四百三十九機、死者、六千七百九十五人と後に記録されることになる。

こうした、弾雨の生死の境の中を、父母、兄弟が生き抜けたのは、この十四日が、長兄が生きておれば、二十二才の誕生日であって、その念力で守護して呉れたものと思えるのであった。(こめ空襲体験記は「旅その一」として、自分史に綴る。この一部の冊数は、関係小学校の教材として使用している)

蒲田、目黒と焼け出され、移った先は世田谷の奥沢町の緑ケ丘駅付近の一戸建てであった。敗戦となり、海経に在学中だった次兄も帰り、家族はすべて、無事に顔合わせが出来たが極端な貧乏のどん底が襲ってきた。

私は、中学四年で一高を受験、二次で不合格。中学五年では、物理専門学校夜間部のみ無試験で入学、英語通訳とタイピストの資格で貿易商社に入社、少しでも家計を助けようとしたのだが……。そういう時に、兄の同期の門松安彦さんが鹿児島から上京して、わが家に寄宿することになった。

「魂の復員」の兄に代わって、門松さんが復員して下さったのだ。

心にはありながらも、門松さんには、何一つ優過してあげられず、貧乏の付合いをさせてしまった。私には、甘えがあって、随分とご迷惑をお掛けしてしまった。只、父母は、門松さんを見る目は皿のようで、喜びの日々に張り切っていたようだ。

昭和二十五年十月に、警察予備隊ができ、理科大学に進んでいた私は、二年間の退職金の六万円欲しさに応募したが、受験の上、身上など厳しく調査された後、入隊することができた。入隊して二ケ月後の昇任試験で、一等警査(旧伍長)となったが、直ぐに警査長にするという話があって希望の湧く毎日だった。しかも、元陸軍大尉だった上官から説得され、復学する気持になっていくのであった。説得だげでは動じなかったものを、その岡崎一等警尉が、余りにも兄の風貌に似て、兄の「天の啓示」の声を聞くような思いになってしまったのであった。そして、復学し、学芸大学に転じ、授業料免除の扱いを受け、教育奨学生となって卒業し教師の道を歩むことになるのであった。

 

四 東条英機大将の孫

兄の墓地は、多摩霊園の東郷寺(東郷平八郎元帥の別邸を、海軍関係の墓地に開放)となり、大分県の菩提(ぼだい)寺以外で、東京にも基地を持てることになった。

      咲くもよし、散るもよしのの山桜

         花の心を 知る人ぞ知る

昭和三年四月八日 東郷平八郎の短歌の額のある本堂だった。軈(やが)て、父も、この墓地に眠ることになると、夫々へ独立した兄弟、眷(けん)族一同は、時にふれ墓参で顔を合わせ、子どもたちにも昔を語る場ができて、漸くの平和が、父や兄によって齎(もたら)せられた思いがした。

一九五四年、私が受持った五年生の学級の中に東条英機大将の孫がいた。兄が「陸軍大将、東条英機奴ッー・」と言って、嫌っていた人の孫である。戦後、東条家は、家屋や洗濯物に、石や泥を投げつけられる迫害から、身を寄せ合って耐え抜いた家族だった。それに類する事は、数多かったという。それにもめげず遺族訪問の毎日だったという。孫の、古賀邦正君は、受持った時は、「登校拒否」の真最中だった。前担任の暴力に対する正義感からの抗議だった。

教育愛と情熱で、彼の心を解きほぐした。元来、明朗な優れた感性の持主で、学力優秀であった。現在は、某大手メーカーの重役として、国際的に活躍中である。

大将は、戦犯として処刑されたが、歴史的事実の評価とは別に、実は、香気立ち上るような人格者で、家族のみに見せた人間性は豊かであったと。カツ夫人との交流で知り得た事は、私自身の「人を広く見る目」を育てて呉れたものと、冥府で兄に語りたい一つになった。

 また、本間雅晴中将の孫が居た。うらなりなすび、のように、いじけた白面の弱々しい子であった。戦術にとかくの評判のあった将軍だが、陸士出には珍しくインテリで、ヒューマニストであった事は確かだ。

 マッカーサー司令官によって、「アイシャルリターン」と、捨て去られたアメリカ兵が、早々と、戦わずして降参した結果の「バターン死の行進」だったのだが、戦後、予備役だった中将は、フィリピンに呼び出され、残虐行為の責任者として、短日月後に銃殺刑に処せられてしまったのだ。

判決前後にわたって、天皇初め、陸軍関係首脳は、何の意志表示も、心の支援も見せなかった。富士子夫人から聞く話は悲惨そのもので、その生活が、孫に響かない筈はなかった。私の脳漿(のうしょう)を絞る教育の実践と工夫で、この子を、自主独立の明朗人とする努力が始まった。数奇な星の下に生まれた子だが、元来人なつっこい賢い美少年であった。これも冥土で、兄に語りたい事である。「陸軍は海軍ほど、スマートではなかった。」と・

 

防衛大学に入学した長男

私の二人の男の子の名は、文弘と武志だ。文彦と武弘に、(志)を入れた組み合わせで極めてシンプルに決めたが、「文武弘志」と、「文武両道」の兄、文彦の名を、血に残したかったからであった。

長男の文弘が、防衛大を受験したいと申出た時は夢かとばかりに喜んだ。兵学校に行けなかった私の夢を、代わって果たしてくれるものと……。難関を突破して入校の前日、東条カツ夫人から、お祝いが届き添えがきの短歌には、

      老いさびて 身の甲斐なさを知るほどに

       若き命のいよよ、たのもし

東条 カツ

とあった。

彼は防大生として、実に、恰好よかった。クラブは儀杖隊に入り、しかるべき訓練の後、背も高く目立つ存在だったから、一年生なのに、各行事に出場することになった。 私は、息子の「オッカケマン」になった。横浜・厚木・木更津と、隊の演技の集団の一致美に酔いに行った。

武道館での「自衛隊音楽祭」で見せた、防大儀枚隊のドリルは圧巻であった。銃と一心同体となった全員の動きに惚れ、涙のでるような出来映えと感激し、今は亡き妻と手を握って喜び合った。

鳳蘭(宝塚女優)の脇で、整列した防大生の中央に立つわが長男のフィナーレの写真が、今でも「三笠」の艦内資料室壁面に飾ってある。その誇りある彼が、リタイヤーを申し出てきた。いろいろと経緯する中、放置すれば脱柵もあるという事態に、頑固な私も折れて、二年進級を条件に許すことにした。防大理事となっていた私としては、恥を忍んで、身柄引き取りに校長室を訪ねた。

 尊敬に値する猪木正道校長であった。左近允尚敏訓練部長は、兄の同期生だった。
「岡野は、井尻の甥だったのか。もっと、目を掛けてやるのだった」と言われた。

私に付添って呉れた指導教官の豊嶋秀太良三等海佐も、吃驚して「私の引き止め方が足らなかった」と、申訳なさそうな顔をした。(否、そうではない。息子の根性の問題なのだ)と、只一人の学生の退学のために、この情のある扱いに、却って腸を毟(むし)られる思いで小原台を去ったのであった。

かくして、私の夢は消えたが、翌年彼は、東大文科に進み、その翌年、武志が同法科に入学したから、危うく三年違いの兄弟が、同級生になる所であった。

一高入学を果たせなかった残念な私を、補って呉れたのだろうと思っている。

現在は二人とも独立し、孫も男ばかりの三人で、可愛い盛りだ。この者たちに、海軍の歴史と祖父の兄、文彦の優れた人柄をいつ、どう伝えたらよいかが、課題だが、人間の繋がり、系図の意味、(生かし、生かされ、生きていく)生命の大切さに求めていきたい。

 

六、兵学校を訪ねる

広島市で、同和教育の大会が開かれた時、私を含め区内管理職三名が、これに参加した。その帰途に、江田島の兵学校を尋ねようと計画していた。同行するという一人と共に、広島港から、小用行の小型汽船に乗込んだ。前もって見学を申入れてあった。母が昔、面会に呉から行ったと言っていたのを思い出した。

江田島は、思っていた通りの、風光明媚にして、古鷹山下、水清き佳境であった。海軍贔屓の私の憧れのメッカであって、兄を育んで呉れた聖地であった。三曹の案内で、出身者遺族という資格で、特別に教育参考館、遺品室を見学できた。戦没者碑に、七十二期井尻文彦の刻銘と、遺品として格納されている兄の写真と記録文を見た時は、感一入のものがあった。

江田島湾を望めば、嘗て、水泳に、カッターにここを先途と、屋内ブールの如く活動した群像がイメージアップし、時を経ても存在する彼等の残した呼気を吸う思いがあった。げに、

古鷹山下水清く   松籟(かぜ)の音冴ゆるとき

明け離れ行く能美島の   影紫にかすむ時

進取尚武(しょうぶ)の旗上げて  送り迎えん四つの年

の意気は、其処此処の何処にも、しみついているようだった。

 同行者は感激し

「岡野先生と知り合いでよかった。お陰で、滅多に見られないものを見ることができた。此処は優秀な若人を鍛える神域だったんですね」

と言って、江田島に深く感動した様子であった。

 

七 佐伯湾に兄を弔う

私の妻は、結婚後十三年目に、スモン病に冒され、二十四年目にして、この世を去った。この間の妻の闘病の苦悶もさることながら、夫としての私の苦衷は誰も知らない。一番察して呉れたのは、母のみであった。それも、スモンによる神経症の実態を真に知っていた訳ではない。ブライド高き私は、孤独の戦いであった。

教頚となり、校長となっても、私は独身であった。学校の子どもたちと、家の子猫、チロが、唯一の心の慰めであった。

校長最後の年に、母、みどりは黄泉路に旅立ってしまった。その一年ほど前に、再婚できたのは、私と母にとって幸せなことであった。

妻、千鶴は、白百合学園高校の教師であるから、通勤の朝夕、靖国神社、社前に頚を下げる毎日である。

私に代わっての毎日の参拝だから、兄も、もう顔を覚えて呉れたろうと思う。私も、かくれ白百合教員のようなものだから、月に、一回くらいの参拝の機会があるが、白百合のカトリックの女生徒たちも、しっかりと参拝して通るのをご存知だろうか。

退職後、長年の希望であった九州旅行のドライブに、兄の没した大分県佐伯湾をコースの中に選んだ。

着いたのは、夕日のきれいな、波穏やかで清明の海の日だった。佐伯湾は水平線も鮮やかに、竹島が、はっきりと見えた。竹島沖が機の突入点であった。防波線に立ち、黙祷を捧げ、持参の日本酒を注ぎ、花束を思いっきり遠くへ投げた。

「兄ちゃん、来たよ、この海へ。波を枕に、安らかに眠って下さい。」

同じように、真剣に海に向かい手を合わせる妻に恥ずかし気もなく流す私の涙は似合っていた。釣人たちも、只、黙々と、この情景に和して呉れた。

小学校六年の夏休み、臨海学校に向かう私を蒲田駅まで、兵学校生徒の兄が送りに来たことを思い出す。あの時担任の中馬玄先生は、兄に向かい、「私の甥も、兵学校です兼四と言います」

と言って、挨拶を交わした。

その中馬兼四少佐は、シドニーの特攻の潜航艇に乗り、戦死された。

飛行機と潜航艇の違いこそあれ、今は、同じ縁の海の中。波を墓標に、水漬く屍。多くの仲間の方々と眠っていて下さい、と。私もこの海に眠りたいという思いがあった。

散る桜 残る桜も 散る桜

お前はまだだと 亡き兄の声

波鎮まりつ 兄の海

魂安かれと花束投げにき

(なにわ会ニュース77号23頁)

TOPへ  戦没目次