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平成22年4月28日 校正すみ

服部健三君を偲んで

村上 義長

服部 健三

 私が服部君と起居を共にしたのは、二号の第13分隊の時である。この分隊で一緒だったのは53期戦死2号の石井君、特攻の近藤君、戦闘機乗りの吉盛君、信濃で艤装後回航中に戦死した佃君、つい最近亡くなった梅本君と5名の方が今は亡き人となっている。

同分隊で現在健在なのは吉本君と私の2人だけである。どう見ても亡くなった方は惜しい人であり、生き残りは蛇足のようなものである。さて服部君と一緒になった時、今迄の四号時代、三号時代には見なかった新顔である。

51期の時、病気で療養生活の後、我々の学年に編入して来たわけである。服部君は新顔で皆も馴じまなかったが、服部君の方から私には話し易いと見えて次第に彼とのつき合いが親密を増していった。休憩時又は日曜外出の時はよく話をしたがなかなか茶目っ気があり面白かったことを記憶している。51期の出で或は黒木さんとの係わりがあるかも知れぬが、国粋主義者で平泉博士に大変心酔していた。

冬休暇の折、東京を案内してくれんかと彼に頼まれ、東京駅で待合わすことにした。先ず宮城遥拝、次に靖国神社の参拝、更に新宿・銀座の目ぼしい所を案内した。銀座で昼食を済ませ、本郷の平泉博士の御宅を訪問した。博士は国家重大の時機に、君達の任務が如何に重大であるか分り易い言葉で懇々とお話しになり、2人とも大変感銘して辞去した。その時博士から菊池勤王誌を贈呈された。戦後博士を批判するむきもあるが、直々に博士のお話を伺った我々は批判のむきは全く当らないことを確信している。服部君とつき合ったためこう云う体験が出来少しも悔いがなく服部君に感謝している。′

服部君も休暇の最中に大阪からやって来たので我が家で夕食して夜行で帰って行った。

 

さて二号生活も服部君始め皆気の合う連中で楽しい分隊であったが、いよいよ一号になり私は16分隊、服部君は18分隊と同じ生徒館の、隣の分隊で、一号と云うこともあり二号時代と同じく話しをすることも出来た。私が一号になった時は入校後まだ2年であったが、服部君は4年経っていた。従って彼の軍帽は古く貫禄がついていた。軍帽の形を修正することは禁ぜられていたが、4年も経てば貫禄のつくのは当然である。彼が憧れていた利根型の艦首のような何とも言えぬすばらしい形となっていた。いくらか手を入れていると思われ彼も誇らしげであった。

 

彼は大変汗かきでよくハンカチで汗をふいていたが、或は汗の蒸気で帽子もスチームドレッサーの働きで整形されたのかも知れない。一号時代の服部君の分隊の訓示は見ていなかったので分らないが日本精神論などをぶっていたようである。彼の備忘録には山鹿素行の武教要録、武教小学その他楠木正成論、南北朝時代の勤王の志士の言行録等が一杯写してあった。恐らく温習時間又は就寝時に毎晩のように三号に対し訓示していたようである。大分迷惑した三号もいたに違いない。いよいよ一号生活も終り、昭和18年9月15日卒業となり少尉候補生を命ぜられた。

 

候補生の乗艦実習先は軍艦伊勢と決った。服部君も同じく伊勢で又一緒になり喜びあった。伊勢における生活も厳しいものであったが約2ケ月の乗艦実習はあっと云う間に楽しく過ぎた。最後の日であったと思うが、実習慰労会と云う形で呉のグリーンに食事に招待された。飛行学生は乗艦実習には参加していないがこのパーティーに参加した者はかなりの大人数であった。幸に服部君と同席できたので今までの話、これからの話等大いに花を咲かした。特にこれからの乗組先が服部君は筑摩、私は木曽であった。服部君は軍帽迄利根型にした程憧れていた姉妹艦筑摩だったので胸を張って意気軒昂であった。それに対し私が旧式の2等巡洋艦木曽であったのでえらく同情してくれた。

 

私の気持を察して『貴様気の毒やな、その中ええことあるで』と励ましてくれた。宴も(たけなわ)の頃別嬪(べっぴん)のメイドが2人の間に入って話を聞いたり聞かせたりお開きになるまで付きっ切りでサービスしてくれた。初な候補生としては若い女性のサービスででれっとして楽しい一時を過した。彼女がお名前教へてと言った時、服部君が名刺かメモに私の名前も入れて渡したように記憶している。

 

いい気持で伊勢に帰って見ると指導官付山鳥中尉から2人にプレゼントが届いていると何も云わずに渡してくれた。服部君が国粋主義でカチカチの若者と思っていたが、女性との付合もたいしたものだと思った。いたずらに生徒生活を2年余計にやったのではないなと感心した。

 

いよいよ伊勢の乗艦実習も終了し、昭和181118日天皇陛下に拝謁披仰付あり皇居に向った。初めての拝謁被仰付であり大変緊張し感激一杯で皇居を退去した。

 

その後夫々の乗艦先へ向ったが筑摩の服部君から便りを貰い、私も返信を出した。明くる昭和19年1月3日服部君が突然私の乗艦木曽を訪問して来た。木曽は当時修理中で舞鶴のドックに入っていて未だ一度も海へ出たことがないので申し訳ないが退屈な毎日であった。尤も機関学校が近いので偶々学校へ行ったり、学校から三号生徒が見学がてら遊びに来てくれたりしてはいたが、東京で別れて以来一月半振りであったが、随分久し振りのような感じがした。

 

ガンルームのコレスにも紹介したが、伊勢乗組の大堀君と名村君は覚えていて懐かしがった。服部君の希望で艦内を案内したが、上って来て言うには何と旧式な艦に乗っとることかと一種侮蔑とも同情ともつかぬことをもらしていた。

 

服部君の乗艦の筑摩は最新鋭で機械室も缶室もすばらしい、何時か機会があったら見学に釆ないかと言った。私も最初の乗艦がクラスでは一番小さい旧式な木曽であったことをそんなに気にしていなかったが、乗艦実習終了後と今後の訪問と2回に亘って服部君から言われて見るとやはり気になる点がないとは言い切れなかった。

その後木曽来訪時の礼状を1回受取ったのが彼との音信の最後であった。

 

昭和191025日比島沖海戦において敵機の来襲を受け筑摩は沈没した。この時私は小沢艦隊囮部隊として日向に乗っていたが、服部君の戦死の報は大分経ってから聞いた。

 

服部君は被爆をしても最後まで機関を止めず、部下を統率し最善を尽し悠久の大義を全うしたと確信する。改めて御冥福を祈る。

 

筑摩より木曽に訪ね来し三日かな

汗拭いて利根型の帽誇りにし

卒業後会へば飲み交ふ仲なりし

菊の酒二人で飲むや君の忌に

(なにわ会ニュース65号26頁 平成3年9月掲載)

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