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平成22年4月28日 校正すみ

嗚呼わが艇長畠中和夫大尉

藤川 正視(13期予科練)

昭和20年8月18日午前8時前・・・場所は鹿児島県佐多岬の沖合、約2〜3キロの洋上で1発の拳銃が発射されました。私達の艇長、畠中大尉が自決されたのです。

終戦を知りつつ、2発の魚雷を抱いて、4人の私達艇付きを連れ、沖縄へ向け無断出撃を決行、思いがけぬ転輪コンパスの故障のため、突入を断念、その責任は己一人にあると言い残し拳銃で見事な最後を遂げられたのです。

終戦当時はあちこちでそんな話をよく聞いたと、簡単な出来事として聞き流す人が多いと思います。畠中大尉の自決については、海兵72期会誌「なにわ会」ニュース19号で昭和45年頃発表され、続いて昭和50年佐野氏の著書「特殊潜航艇」で「畠中大尉の最後」と言う見出しで発表されました。終戦後31年、当時の部下だった私達4人の艇付きはお互いに消息不明、そして当時の戦友からも全く音信もなく・・・51年の1月、戦後31年振りに戦友の消息を知り、戦友に会いに行った帰途、偶然佐野氏の「特殊潜航艇」の本を大阪で見つけ、私達の畠中艇長の最期が発表されていることを知り、おどろきました。その後当時の戦友、ご遺族の消息などもわかり、51年3月、31年目に再会することができました。ご遺族にもお会いでき、大変喜んでくれました。私が当時を想い出し、今から書くことは、是非最後まで読んで頂きたいと思います。何故なら、今まで発表された畠中大尉の最期は、私達艇付きの口から直接のものでないからです。真実のものでなく結果のみ書かれ、読む人によっては間違った見方をされると思います。正しく真実を伝えることが、現在生き残っている元部下だった私達の務めであり真実を伝えることで、終戦を知りながら沖縄へ向け畠中艇長を出撃させたものは何か?最後に何故畠中大尉は自決の道を選んだのか、当時の私達艇付きの心境はどうであったろうか、多少は理解もしてもらえると思います。

終戦時の混乱期、私達は当時の特潜隊員で最も悲しい出来事を経験したのです。私達にとっては、敗戦と言うショック以上に大きな出来事だったのです。見事とも言える最後を遂げた畠中艇長のことを正しく理解して頂き、正しく伝えて頂きたいと思います。

艇長には今もご母堂健在であり、また、当時の海兵の仲間も多勢います。特潜隊員の名誉を傷つけるものであってはならないと思います。私達を通して、自決された畠中大尉が当時、如何に立派な特潜隊員、海軍々人であったかを充分知って頂き、正しく伝えて下さるものと思います。

 

佐伯基地で終戦を知る

私達の艇は214号(蚊竜5人乗特殊潜航艇)当時の搭乗員は次のとおりです。

○艇長 畠中和男 海兵72

当時大尉(21歳)高知県出身

○艇付 渡辺  普通科

〃上兵曹(23歳)長野県出身

○〃  藤川正視 甲飛13期(奈良)

〃一飛曹(19歳)香川県出身

○〃  鎌田俊郎     〃)

○〃  後井俊彦     〃)

以上の5名で、その内3人は何れも甲飛13期です。昭和1812月奈良空(天理)に入隊、奈良空最初の特攻志願要員として、昭和19年9月呉の特潜基地(第一特別基地、P基地)に配属されました。その前、我々が呉に着いた時、各人名前を呼ばれ2組にわかれましたが、私達はP基地行き、別の組は回天(人間魚雷)基地行きだったことを後で知り、彼等の無事を心の中で祈ったものでした。

昭和20年5月聯合艦隊直属の一〇一突撃隊が編成されましたが、私達214号と、当時一緒によく訓練していた2隻の艇、合わせて3隻で編成されました。昭和20年8月の終戦時には、私達の214号は10隻ほどの隊長艇とてして大分県佐伯基地(当事40隻以上集結)で出撃命令を今日か明日かと待っていました。そして15日の終戦です。他艇の戦友達と基地で終戦のラジオを聞きました。他の戦友同様私達も半信半疑のうちに「命令を待て」との上からの命令もあり、基地の空気も特別変ったこともなく、私達も自艇の整備等で時を過していました。

 

俺に続け 針路沖縄

17日午後7時頃、畠中艇長は私達4人の艇付きを伴い、最後の夜間訓練に行ってくると言い残し、他艇の戦友の見守る中を蛟竜214号は出発しました。そして、それから12時間後に艇長の自決と言う悲しい出来事が私達の上に起ったのです。毎年8月が来ると当時のことが思い出され、胸がしめつけられるのです。基地を発ってから途中で変だと気付き、宮崎沖を通る頃に艇長が沖縄へ向け突入の決意であることを察知しました。私達艇付もそれからはお互いに無口となり、それぞれ決意を秘めて任務に就いていました。

それから転輪コンパスの故障、艇長の沖縄出撃の告白、そして自決の決意のこと、艇長の遺言とも言える最後の命令、そして艇長の自決・・・。

自決後の我々のとるべき道の協議、目まぐるしいばかりの時が流れ、そして今度は、12時間前に出発した基地に向って艇長の遺体をのせて帰途についたのです。

30時間かかつて、19日午後2時頃基地に帰投しました。12時間で走った所を30時間かかったのです。転輪コンパス故障のためと、夜間航行、そして触雷の危険を考え(前に四国沖で夜間航行中、間一髪で触雷の危険に遇ったことがあるので)思うように航走できず、艇の先端に見張りを立て暗礁に衝突の危険をさけながらの航走でした。今考えると本当によく帰れたと思います。艇長の導きがあったとしか思われません。基地に着いたが上陸を許されず、そのまま佐伯航空隊の特潜本部基地へ214号を回航、そして参謀の尋問、われわれとの問答、そしてその夜は通夜、次の日に遺体を火葬、そして呉の特潜基地に帰投、それから私達は復員したのです。今もなお、当時のことがハッキリ思い出されます。

 

島中大尉の人となり

畠中大尉は高知県に生まれました。坂本竜馬をこよなく愛し、竜馬の詩を書いたものを私は当時よく見かけました。艇長の中には竜馬の心が流れたぎっていたことと思います。51年の3月、艇長の御母堂にお会いできた時知ったことですが、艇長は畠中家の長男として生まれ、大変な秀才だったそうです。秀才故に小学校も中学校も卒業せずに進級、そのため、年齢若くして海兵に入ったそうです。

大変な努力家で、海兵72期、P基地で訓練中、同期の艇長の中では技術は抜群でした。当時訓練中は、普通監視艇をつけていましたが、私達の艇は何時も単独でした。人一倍努力家で寸暇を惜しんでよく訓練したものです。そうした艇長が当時の私達には一種の誇りでさえあったのです。無口で餞舌を好まず沈着冷静、その判断力、技術はズバ抜けており、私達も絶対の信頼をしておりました。昭和19年9月、私達と同時期に11期艇長講習員としてP基地に入って以来、機会もあったのに家族とも一度も面会せず、海兵卒業以来の音信と言えば、唯一通の葉書のみ、その内容も唯「元気だ」の12字だったとのこと、恥いしがり屋で一度、御家族からの手紙を隠れるようにして読んでいたのを誰かに女からの便りだと冷やかされ、艇長があわてて隠した様子が今でも想い出されるのです。

(中略)

私達香川県出身者が3人も畠中大尉の艇付となったことについては、最近知ったのですが、艇長が同じ四国の者をと私達3人を選んだそうです。(中略)

 

訓練・待機・出撃中止

私達は最初もらった艇はたしか209号だったと記憶しています。出撃もこれでいよいよ近いと、訓練の暇をみて艤装、完成したと思ったら、他の先任艇長に渡すこととなり、その艇は中野君等と共に出撃しました。当時私達の艇長がどんなに涙をのんだか、今でも当時の出撃の機会を逃がした艇長の残念がった様子を憶えています。

出撃の機会を逃がした最初がこれでした。続いて4月頃、私達に石垣島への出撃命令が出ました。2、3日後に出撃と言う時に突然中止となりました。出発の基地設営の資材輸送船が潜水艦にやられて中止です。続いて硫黄島へ出撃命令が出ましたが、これも中止でした。(中略)

5月に一〇一突撃隊となり、3隻がいつも一緒でした。九州、四国と訓練を重ね、時には四国沖に米潜水艦出現と言うことで真夜中に出撃したこともあり、終戦前はP基地に一度帰り、隊長艇として、P基地の他の艇をつれて佐伯基地へ帰りました。(8月10日頃)

出撃もいよいよ近いと言うところで終戦となりました。

 

最後の夜間訓練・沖縄へ直行

私達の畠中艇長は全く何時もと異なる所もなく、17日の昼過ぎ私達に「残念だが日本も遂に敗れた、戦争も終った故再びこの艇に乗ることもないだろう。今夜最後の夜間訓練をする。食料、燃料、水を一杯つんでおくように、今夕、7時出発する。」と私達に命令されました。

一晩ぐらいの夜間訓練に、燃料や水を充分積めとは、ちょっと変だな、と私達の間で話題になったが、それ以上特別のことも考えず出発しました。当時他のどの艇も待機命令中で、夜間訓練などに出る艇は全く無く、他艇の同僚が、ちょっと変だとささやいていたようですが・・・。私達の出た後参謀たちが知り、帰りが遅いので大騒ぎとなり、飛行機を飛ばしたりしての大捜索だったようです。佐伯を出てから、1時間もすると、私達もいつもと様子が違うのに気付きました。艇長は何時もと全く態度が一緒でしたが、途中、一度変針したきりで、何の訓練もなく、水上航走のみ、そして進路が鹿児島沖へと唯一直線でした。宮崎沖を通過する頃私達もそれぞれ決心をしたようです。「艇長は沖縄へ行くつもりらしい」それからはお互いに余りしゃべらず、艇長も何も言いません。私は機関担当でしたので17日の午後出発以来、ずっとヂーゼルにかかりきりです。他の艇付き達の表情が何時もとは変っていたように憶えています。

いよいよ最後の時が来た・・・と言う決意と緊張感がそうさせたのだと思います。私は何時もより機関の調子を気にしていました。

故障すればそれで艇長の目的を遂げさせることができないからです。機関の調子は最高でした。

時刻は大体、18日午前7時前ぐらいだったと思いますが、我々の艇は佐田岬の沖合2〜3キロにあたりに到着していました。私達も夜通しの運転で相当疲れていましたし、ヂーゼルも12時間連続運転で限界、機械を止め少し休ませてほしいと艇長にその旨を伝えました。

 

甲板は血の海・艇長自決

「機械を止めろ」との命令、私は後部電池室で寝ました。どのくらい寝たのか正確には憶えていませんが、突然、後井兵曹に起されました。「救急箱は・・・」私はその時、誰かが、(もしかしたら艇長でも)敵の飛行機にでも機銃でやられたのでは・・・と一瞬思った。佐多岬沖に出た時、これから先は、何時敵の攻撃があるかも知れぬと言う緊張感があった故、そう判断したのです。私は急いで救急箱を取り、ハッチの昇り口の所へ行きました。その時ハッチの下で操縦席あたりが、かなり水びたしになっていることに気がつきました。何時もと全く違ってかなり多くの海水が飛び込んで来たことが一目でわかりました。

ハッチの上で艇長が倒れ、狭い甲板は血の海です。海面に近い辺りはすでに海水で血も洗い流されている様子、右コメカミから左にかけての弾のあと、渡辺兵曹、鎌田兵曹もただ顔青ざめてボー然と立っています。おびただしい血の量と傷口の状況、艇長の顔色を見て包帯の無駄なことを直感しましたが、それでも急いで傷口を包帯できつくしばりました。その時は傷口からの出血はほとんど止っておりました。

拳銃はその時、紐で結んで艇長の首にかけていたようでした。そばに拳銃があり、艇長の自決を私は直感し、機銃でないことを知りました。その直後、沖の洋上から向ってくる1機の飛行機を見つけ、敵機かも知れないと思い、急いで艇長の遺体を前部電池室に安置急速潜航しました。しばらくして浮上後、今度は2機の飛行機が低空で向ってくる様子で再び潜航、しばらくして浮上、甲板上で3人からくわしく事情を知らされました。私の仮眠中、横波を受けてハッチから大量の海水が入り、転輪コンパスに相当量の海水がかかって作動がおかしくなり故障。その後艇長が私を除いた3人の艇付きを甲板上に集め、沖縄へ出撃する予定であったこと、艇付きに出撃することを知らさなかったことを詫び、転輪コンパス故障のため、攻撃はほとんど成功の可能性の無いこと、また、これは最も重要なことだが、司令官の命令であったこと、(これは、後は参謀の尋問で問題となり、未だにその真相が私達にもわかりません)そして今更艇長としては基地へ生きて帰ることはできない。この責任は私1人のものだ、お前達には一切責任はない、私は今から自決して責任をとる、私の遺体は海に捨てよ。鹿児島の特潜基地に入り、陸路佐伯基地に帰り報告せよ。・・・と最後の言葉を残しました。

最後の命令を言い終えた艇長は3人の艇付きの制止を振り切り、自分で前部電池室から拳銃を持ち出し、畳1枚分ほどの狭い甲板上の3人の艇付きを前にして蛟竜の司令塔上に立ち、1発目を鹿児島に向けて発射、続いて2発目を沖縄の方向に向けて発射、3発目を右コメカミに当てて発射されました。

拳銃の弾は完全に左コメカミに貫通、艇長の身体は発射音と同時にドット前に倒れました。あたりは鮮血で血の海でした。多少粘っこい真赤な鮮血が、司令塔から辺りの狭い甲板上迄吹き飛びました。艇付きの搭乗服にもかなりの血しぶきが飛びかかりました。顔の右を下にして既に艇長の顔からは血の気が消えており完全に即死された様子でした。かくして畠中大尉は21歳の青春を見事とも言える自決という最期で自らの手で終らせたのです。

若い青春の命をすべて海軍にかけ、特潜基地に配属された時から、我が命は既に捧げたものとして、一度も家族とも会われず、激しい訓練を続け、1日も早く出撃して日本のために少しでもお役に立ちたいと、唯、出撃命令だけを心秘かに待っていた私達の艇長、2度、3度と、出撃の機会を逃がし今度こそいよいよ決戦だ、出撃も間近いと決意もしていたであろう艇長・。日本遂に敗れた・・の衝撃は艇長にとっては我々以上に大きかったことと思います。当時の我々特潜隊員の海軍魂を永久に残し伝えるためとも思えるような立派な最期でした。

 

我等艇長に続かん

昨年、高松市在住の鎌田君と会った時の話ですが、あの時渡辺兵曹が、「艇長!転輪コンパス故障でも攻撃できます。沖縄へ一緒に連れて行って下さい。突込みましょう」と艇長の決意をうながすように言ったが、「駄目だ」と許されず「己一人が責任をとればいい」と言い残し、私達艇付きの自決を制止するためとも思える最後の命令を与えて自決した艇長。その間の艇長は顔色一つ変えず、話し方態度にも全く日常と変ったところは見られなかった。あと何分かの自決を目前にして、人はあのように淡々としておれるものだろうか・・・。鎌田君は今でもその時の艇長の姿を忘れることはできないと話していました。

艇長の流した21歳の鮮血もその後2度の潜航で完全に洗い流されていました。今後をどうするか、私達4人で協議しました。それぞれ自分の考えを出しました。私達3人の13期は当時19歳、誰からともなく艇長1人を死なせてこのまま生きて帰ることはできない。艇長のあとを追ってそれぞれ自決しょうと決心、決まりました。

その時、私の頭の中には母の顔が一瞬通りすぎました。「母が悲しむだろうなあ・・・戦争も終わり、戦わずして自決。人は犬死に、無駄死にと言うかも知れない、どんな方法で自決しょうか、残された拳銃にはまだ弾は残っている、艇長の自決された拳銃で艇長のよぅに自決しようか、拳銃で自決できない時は艇に積んである日本刀で腹を切ろう・・・」ほんの短い間にそんなことを考えました。渡辺兵曹が私達をたしなめるように言いました。「自決は何時でもできる。艇長の最後の命令もある、艇を帰し、報告してからでも遅くはない・・。」この言葉を聞いて私は艇長の最後の命令を考える心のゆとりができました。

 

遺体を乗せて佐伯に帰投

遺体を海に捨てろ、と艇長は言われたが、まだ、かすかに息があるようだった。もしかしたら助かるかも知れない・、助かるものなら、何としても助けたい・。遺体を海に捨てることはできない。陸地も近い、戦地なら、そして遠く外洋ならともかく遺族にも申し訳ない。鹿児島へ行き陸路基地に帰り報告せよ、との命令だったが、一度も鹿児島基地へは行ったことも無く、不慣れであったことと、12時間ぐらいで基地へ帰れる。転輪故障でも海岸に沿って航行すれば、基地へ帰れるだろう・。結局私達は自分達の出発した基地へ艇長の遺体を乗せて引き返すことに決定したのです。

先任の渡辺兵曹を艇長代理とすることも決め、その後は渡辺兵曹が指揮をとりました。艇長は途中かすかに息のある様子でしたが、約2時間後には完全に息を引きとりました。軍艦旗を艇長の顔にかけてあげました。私は目を閉じて合掌し、心の中で艇長に別れを言いました。遺体を海に捨ててくれ、との言葉を無視しての私達の行動を艇長は怒っていないだろうか・、そんな想いをしながら、私達は基地へ向っていたのでした。

12時間ぐらいで来たのだから、案外早く基地へ着けると考えていた私達の考えが間違っていたと気付いたのは、夜に入ってからでした。真っ暗やみの中を、基地を求めてさまよいました。

基地の地形とよく似た海岸が多く、余り海岸に近づきすぎたことが、結果的にはあんなに時間がかかったのだと思います。かなり沖合まで暗礁が散在し、岩にぶつかりそうになっては艇を止め・・・の連続でした。艇首に絶えず見張りを立て、暗礁との衝突をさけながらの航行でした。余り沖合に出なかったのにも理由があるのです。以前四国沖で夜間訓練中私達の艇が敵の機雷に危なく触れそうになったことを憶えていたからです。このため見張りは機雷にも絶えず気を配っていたのです。位置が充分確認できず、途中小舟を見つけ位置を知ろうと近づいたところ敵の潜水艦と間違えられ、どんどん逃げられたのには弱りました。30時間近くもかかり、やっと、19日たしか午後2時頃基地に入ることができました。

 

良い顔しているな 生きているようだ

私達の艇が基地に近づくと、多くの戦友達が我々の艇を見ています。その時始めて基地でも大変だったんだなあと直感しました。基地の様子が何時もと異なり、ざわめいているこることを感じとりました。艇を横付けするなり、畠中艇長の無二の戦友だった海兵72期のコレスポンドの機関学校53期吉本大尉(整備士官)が飛び込んで来ました。

司令塔に畠中大尉の姿が見えず、渡辺兵曹が艇の指揮をとっているのに気付き、異状を感じたことと思います。艇に飛び込んでくるなり「島中はおるか・・・大丈夫か!」と叫びました。その声を聞いた瞬間、私達の張りつめていた緊張と感情が一度にドッと吹き出したように、私の目からは大粒の涙が止めどなくポクボタと流れ落ちるのでした。「艇長は自決されました。」私は吉本大尉に向ってこう答えるのがやっとでした。一瞬、吉本大尉の顔色が変り、唯一言、「やはり駄目だったか・。」ハッチを降りて遺体にかけ寄り、かけてあった軍旗を静かにとり、艇長の顔をのぞき込むようにして言いました。「良い顔をしているな、生きているようだ」

あとは唯、艇長の遺体を静かに撫で、それはあたかも慈母が我が子をいつくしむような姿でした。

その後、簡単な状況説明をしましたが、その間も私の目からは止めどなく唯、涙があふれ落ちるだけでした。30時間の張りつめた気特が一度に涙となって吹き出した感じでした。母艦の潜水艦から発火信号あり、「艇長は居るか」吉本大尉から応答を促され、私は手旗信号を送りました。「艇長自決せり」その間も涙、涙でうまく信号が送れず、2度信号を送ったことを今でもおぼえています。

「了解、そのまま佐伯航空隊に行け」。この命令で、吉本大尉に艇長の遺言等のくわしいことを伝えることもできぬまま、遺体を乗せて佐伯航空隊の本隊へ向いました。

艇長が吉本大尉宛に遺書を残していたことはこの時知りましたが、その内容は全く私達も知らず、(51年3月、31年目にはじめて艇長の遺書を拝観し、吉本氏に事の真相をお話しすることもできました。)佐伯に着いて艇長の遺体を上陸させ、検視後真新しい寝棺に移しました。それまで身に付けていた油でまっくろだった搭乗服を新しいのと取り替え、真新しい軍艦旗をひつぎにかけ、体育館か武道館のような所へ安置しました。

その後、私達は参謀達に呼ばれ、尋問を受けました。3人の参謀と私達4人の艇付きが衛兵の監視のもとに相対し、尋問を受けました。艇長の最後に残された言葉の中で、司令官云々のことで、どの参謀も大変おどろいた様子でした。「そんな命令を出すはずはない・。」我々も、「自決の前に艇長が嘘をつくはずがない・。」などと、私達との間で相当きついやり取りがありました。結局、真相はわからず、参謀等も最後には、「君等を軍法会議にかけることもできる…。」 「軍法会議にでも何でもかけて下さい。私達は真実をお話しするだけです。・」そんなきついやりとりまであったのです。

その時の私達の気持は、自分のことはどんな処置を受けてもよい・・・と腹もすわり、充分な心のゆとりができていたように思います。結局、参謀達から結論は出ず、艇長の扱いについてどうしたらよいか、君達の意見を聞きたいと言うことになり、私達からは、艇長の名誉のためと、遺族のことを考え、次の2点を要求し、参謀等もそのように努力することで意見が合ったのです。その2点と言うのは、

@ 遺族のことを考え、公報は内海方面で戦傷死と言うことにしてほしい。

A 2階級は無理としても、1階級の昇進をお願いしたい。

と言うことでした。

参謀は最後に、「君達を軍法会議にはかけない。この事実を知っているのは、我々と君達だけだ。誰にも今後一切話をしないように」

との口約束で参謀の尋問は一切終了したのでした。

これより先、私は、私達の艇が基地に帰投した時、「これで遺体と艇は無事基地に帰すことができた。我々の任務は、すべてを報告したらそれで終り、次は自分の責任をとり自決しょう」と決心しておりましたが、その後衛兵の銃剣付きの監視がはじまり、参謀の犯罪者を扱うような尋問を受けるなど、我々は夢にも考えておりませんでした。参謀との激しいやりとりの間も私達は唯、艇長を自決と言う最後で失った悲しみと、艇長の名誉のこと、ご遺族の悲しみのことしか頭になく、参謀との激しいやりとりの終った頃には、何時の間にか私の自決の決意も消えていることに気が付き気ました。

その夜は艇長のお通夜をしました。一緒にいつも訓練をしていた他の2隻の艇長、艇付きの戦友達が艇長は神道だからと言うことで、近くの海で、発音弾を落として魚をとり、酒と魚をお供えしました。また、誰かが、お経もとなえ、私達も共にお通夜をしました。その後、とって来た魚と酒で、かなり賑やかなお通夜をしたことを憶えています。しかし、私達は誰も食欲がなく、何も食べないので、心配して、食事をしようと誘ってくれたが、誰も食事をとりませんでした。その時、私達は始めて、17日の出発後からずっと、水以外のものは一切、口に入れていないことに気が付きました。3日間、全然食事をしていなかったのです。睡眠もほとんどとっておりませんでした。その日一晩通夜を済ませ、翌20日近くの火葬場で遺体を火葬、艇長と最後のお別れをしました。何人かの銃を持った衛兵が私達のまわりに絶えずつきまとい、犯罪者扱いをされている感じで、士官に対する礼として衛兵が参加したのでしょうが、私達にとってはいやな感じだったことを憶えています。

最初、私達艇付きには参列させない様子でしたので、私達も腹が立ち、私達から参列させてくれるよう申し立てたと記憶しています。火葬の後、皆でお骨を拾いましたが、その時、艇長の「遺体を海に捨てよ」の遺言のことを申し上げ、「せめて近くの海にでもお骨の一部を流してあげてほしい」とお願いしました。

その後、他の戦友達の手で海に遺骨の一部が流されたことを知らされ、「艇長もさぞかし満足されたであろう・・・と、何かホッとした気持ちになりました。そして、その日はじめて食事の汁がのどを通ったことを憶えています。3日振りの食事、そして、その夜は3日振りにぐっすり眠りにつくことができました。その後、呉の基地に他艇と共に帰り、2発の魚雷は亀ケ首の岬あたりで発射し、呉のドック辺りに艇を回航のあと私達もそれぞれ他の戦友同様、故郷へ復員していったのでした。

 

31年を経て母堂に報告

戦後、かなり長い間私達の胸の奥深く、私達の経験したこの終戦時の悲しい出来事について、命令云々の真相は果して何なのか・・・、参謀との約束のこと、この事件を明らかにした時、当時の基地の責任者は米占領軍の手で相当調査され、私達を含め、何人かその罪の責任をとらされる結果になるかも知れない、また、艇長のご遺族にも悲しい思いをさせるかも知れない。またその反面、せめてご遺族か吉本氏にでも事の真実を知らせてあげたい気持、様々の複雑な思いが、絶えず私達の頭の中をかけめぐっておりました。また命令が真実であれば……。命令さえなければ艇長も出撃することも無かったろうに・・・艇長を失うことも無かったろうに。

私達の尊敬する艇長が自決することもなければ、さぞ今頃は立派な人物として戦後の日本のために活躍しているだろうに・・・。今も様々の想いが、毎年8月18日がくる度に私の頭の中をかけ巡るのです。

51年の2月頃、当時別れた戦友達の消息がわかり、艇長のご遺族の消息もわかりました。吉本氏、そして私を含めた当時の艇付き達、お互いに連絡をとり、艇長ご母堂の喜寿のお祝いを兼ね、51年3月24日、大阪、泉大津のご遺族のお宅で31年振りにお互いに再会することができました。当時のくわしい状況、想い出等をご遺族にお伝えしましたが、その折、私が、艇長のせめてもの形見にと、当時艇長が何時も手首につけていた磁石と、艇の軍艦旗を持ち帰っており、ご遺族の手にお渡ししました。(この旗は自決後遺体にかけた旗です。)ご母堂も大変喜んで下さいました。その時、「皆さんを道連れにしていたら私はご家族に何とおわびを言ったらいいのか・・・皆さんを道連れにせず、自決したことを、和夫、立派だったとほめてやります。」とご母堂が言われ、その言葉を聞いた時、私達の目から再び涙が流れました。皆で旗に寄せ書きをし、写真も撮りました。ご母堂が大変喜ばれた姿を見た時

「これで私の務めも大体終った」と、何か、永年の心の曇りが取れた思いがしました。

艇長の遺言通りの処置をとらなかった私達ですが、ご母堂の喜ばれた姿を見た時、はじめて、「よかった、私達の処置は正しかった間違った処置をとらなくてよかった。」と言う安心感でいっぱいでした。

戦後間もなく少佐に昇進されたこと、当時の戦死の公報も参謀との約束通り、内海方面で戦傷死。であったことなども知りました。

艇長の吉本氏に残した遺書は、31年目にはじめて見せて頂きました。8月18日の艇長の命日には高知の艇長のお墓に是非お参りしたいと思っております。

長い間、命令の真相を知ろうと、吉本氏も大変努力されたようですが、すでに、当時の司令官も他界され、当時の参謀の方々は、終戦時、そのようなことがあった事実を認めておりますが、命令の件については結局わからず終いでした。

当時のことを思うと、あの時海水による転輪故障が無ければ、一体どうなっていたでしょう。畠中艇長なら、きっと攻撃は成功していたでしょう。空母、巡洋艦、または輸送船あたりを捕え、2発の魚雷を確実に命中させていたことでしょう。(終戦時私達が呉で発射した魚雷は2発共、見事なものでしたのでそのように想像もできます。)私達も2発目の魚雷と共に突入、生きて再び帰ることは無かったと思います。

艇長の出撃が艇長だけの考えで実行されたのか? 艇長が出撃を司令官に迫って黙認させたのか? 反対に司令官が2人の間だけの特別命令を出したのか? 今となっては全く不明、謎として永久に残って行くことでしょう。

ただ、私達はこんな記憶を持っています。それはたしか終戦の翌日の8月16日だったと思いますが、私達の艇長は司令官に呼ばれ、司令官の許に行ったことを今も憶えているのです。

(藤川氏の住所=略)

(なにわ会ニュース38号40頁 昭和53年3月掲載)

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