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純白の海軍大尉の正装を真紅に染めて

(橋口寛大尉の最後)

鹿児島二中同窓会誌より

経歴など

昭和12年4月  鹿児島二中入学

昭和1512月  海軍兵学校入学

昭和18年9月  海兵卒業(72期)

昭和1812月  軍艦五十鈴乗組

砲術士兼衛兵副司令

昭和19年3月  巡洋艦摩耶乗組

昭和1910月  回天特攻基地

  (大津島)転属

昭和20年     回天特攻教官

昭和20年8月  

広島県平生回天特攻基地において出撃を嘆願しながらも後進指導のため教官として残され、同志の期友はすでに出撃・歯をくいしぼる思いで出撃の日を待っていた。

ようやく8月20日ごろを期し特攻隊長として出撃することになった。その喜びもつかの間、ついに終戦という屈辱的事態となり、多くの回天特攻隊員に死におくれ、また国体護持の大任を果たしえなかった敗戦という事実の前に責任を感じ、8月18日、自分が乗って行くことになっていた回天の前で、真っ白な第二種軍装に身を正し拳銃で自決し果てた。

昭和1512月  4年修了

叙 勲  正7位勲5等

戒 名  至誠院繹寛寺

本 籍  鹿児島市 上荒田町197

遺 族  父 橋口盛秀

 

○ 遺  書

出撃を前にして期友にこたえる。

共に回天の事を罷りし10人の期友、卿等は己に皇国護持突撃の先登に起ち、吾は卿等に後進指導を約し、1歳生の道を歩んだ。

吾若年多血、何ぞ此の任の重く又耐え難かりし。吾又男子なり。

顧みれば、昨年9月回天未だ世に出でざるの日、肉弾救国を叫びて大津島に赴けり。窮行滅敵こそ七生への宿志なれ。

述上の道非才且多血弱冠の吾人何ぞ耐ふるに容からんや、悩々1歳鳴呼早きかな。1歳卿等ゆきて蒼惶1歳逝く又長かりしかな。

1歳の間、風雲人事一昔を劃す。卿等を憶ひ、旧風を慕ひ、感無量今昔漠々たり。又人知るなし、昔は又今日ならず、1歳世相又変遷す。ああ嗜 懐心を語らんとして投合の知己なし、孤愁卿等が生幻を追うのみ。

憂憤或は剣をさかしまにし命を断たんと欲し、慷慨或は銃口を額にして決を期せんとす、又幾度ぞ。鳴呼忘れ得ず卿等への誓、剣を捨て銃を投げうちて嗚咽(おえつ)動哭せしのみ。

幾度ぞ夜半孤り出て、奇傑晋作の詩を低吟し、滂沱(ぼうだ)たる血涙拭ふ能はざりし、大津島秋愴の光、狂嵐の最中、佐賀月明の夜半、唯卿等の生幻を追ひて鳴咽に生きしのみ。時に卿等の精霊仲天に逝くを見、卿等の生幻机上に立つを見る。

 

「出撃を前に

秋を待たで 枯れゆく 島の青草は

皇国の春に 甦らなむ

矢弾つき 天地そめて 散るとても

魂かえり 魂かえり 皇国護らむ

 

○ そのほか遺詠

回天特攻基地にて

匂ひては 御代を護らむ その花の

荒ふる神と 散りしその後

吾も又 君が代の為 踏石と

微笑み 朽ちむ 狂人の道

 

海軍少尉候補生として練習艦龍田にて

秋立てば 深山の紅葉 きそうらん

大和をのこの 胸のくれない

世の人の 目の為ならず 人知らぬ

南の島の磯の捨石

 

○ 遺族の回顧

父 橋口 盛秀

寛が、人間魚雷回天特攻基地で出撃を嘆願しながらも、その機会を得ず、ついに終戦という屈辱的な事態となり、多くの回天特攻隊員に死に後れ、また、国体護持の大任を果たし得なかった責任を感じ、自決し果てた息子の気持ちに報ゆるために、彼が書き残した遺言を転記します。

 

出撃を間近にひかえた折の通信

1歳憂憤の雲も晴れて宿志遂に神明の容れ給う日の近く、不肖の喜び手の舞ひ足の踏む所を知らんずる今日にて御座候。

顧れば期友川久保等征きて己に1歳、彼は突撃の先登に立ち、吾は残りて後進指導の重任に生く。皇国守護の大道に二つながら存せずと錐も、不肖又年少多血忍ぶに耐え難かりし1歳にて有之候。

今や醜敵の土足正に神洲本土を穢さんとするの秋に当り、不肖の武運や遂に開かれて醜足を一刀の下に断たんずるを得、御父母様相共にお喜び下され度候。

顧れば不肖20有2歳育英の御高恩逐次として思い出馳せ候も、不肖孝養の子道一として思い出ずるものなく、唯々恐心仕り居り候。過去1歳にわたらせましても、寛は一体何処で何をぐずぐずして居るや、とそれをのみ歯痔ゆく思召し候ひけん御事と拝察、歯を喰いしぼり居り候。せめて武運開かるる秋をまちて、御高恩の万分の一にも御孝養仕えまいらすべしと頑張り居り候。

承わる所、我家も灰燼と帰し、母上様妹に負傷ありたる由、愈々一家挙げて仇敵撃滅の勇心勃々たること遠察仕り候。不肖20有2歳御教育の下七生八生仇敵の上に誅剣を馳せ皇国を守らんずる決死の程に候。御安心下され度候、神洲は不滅にて候。

後れても 後れても 卿等に

誓ひしことば われ忘れめや

 

○ 橋口寛君の思い出

鹿児島二中同級生 内山  裕

橋口寛君との出会いは、鹿児島市立荒田小学校5年の春に始まる。奄美から転校してきたばかりの彼は、新入りをいじめようとした悪童連の、島の悪口に我慢ができなくなったらしく、猛然と抵抗を試みた。彼の目にはいちずなものがあった。その日下校の途中、彼を私の家に誘った。目を輝かして話してくれたハブとサンゴ礁の島々。

彼との親交は急速に深まった。学ぶのも、遊ぶのも、許される時間は彼といた。県立二中へも、2人相談して進学した。

そのころ、大陸の戦火は果てしなく広がって行きつつあった。学校でも軍事教練はきびしさを増していった。国の存亡を決める戦は、もう目前にあった。そんな中で、成績抜群な彼は、迷うことなく軍人への道を選び、当然のように海軍兵学校へ進学した。彼は「坂の上の雲」を見つめていたに違いない。そして私は、いささかのためらいのあと、医学への道を選んだ。

それでも、相変わらず2人の親交は続いていた。休暇には必ず私の所へ顔をみせた。任官すると、その楓爽たる青年士官の英姿を、いくらかはにかみながらも、立ち寄って見せてくれたりした。

戦争の様相が苛酷になるにつれ、彼が訪ねて来ることも少なくなり、音信も途絶えがちになった。戦いは前線だけではなかった。鹿児島市内にも空襲があいついだ。私たち医学生は、枯渇(こかつ)し始めた医療陣の中にあって、戦に明け暮れた。私の左腕に残る傷跡は、あの夏の日のグラマン戦闘機の回想でもある。

そしてやがて、永かった戦にも終末の時が来た。見渡す限り瓦礫(がれき)が続き、余燼(よじん)が白くくすぶり、ところどころ水道の栓が白く水を吹きあげていたあの廃嘘の中で、私は、帰ってくるであらう彼を待っていた。

そんな私の所へ届いたのは悲痛な知らせだった。自らの手で真っ赤に染めた海軍大尉の正装と、涙と血で綴られた手記とに接して御両親の前でただ声もなく泣いた。悲愁の色濃い戦場にあって、ただひたすら祖国を守り抜こうとして、挽回の一縷(いちる)の望みを託した彼は、自らを必死必殺の人間魚雷回天の隊長の責においていたのであった。

その彼に、終戦の大詔は、なんと悲しく、なんと切なく拝されたことか。死に赴いた部下、同僚に涙し、敗戦の責めを謝した彼には、もはや生への選択はあり得なかったのであろう。何よりも愛した祖国に、そして父母や弟妹に、静かに訣別し、遺書をしたためた彼は、

君が代の ただ君が代の さきくませと

祈り嘆きて 生きにしものを

 

辞世の一首を残して、愛艇の前に真っ白い軍装を赤く染めて、従容として、自らの手でその命を断った。

時に8月18日午前3時、所は広島県平生の回天特攻基地。橋口 寛、齢ようやく21歳。

 

○ ほかの遺書

新事態は遂に御聖断に決裁せられしを知る。即ち臣民の国体護持遂に足りず、御聖慮の下神州を終焉せしむるの止むを得ざるに到る。神州は吾人の努め足らざるの故に、その国体は永遠に失はれたり。今臣道臣節いかん。国体に徴すれば論議の余地なし。1億相率いて吾人の努め足らざりしが故に、吾人の代において神州の国体を擁護し得ず終焉せしむるに到し罪を、聖上陛下の御前に、皇祖皇宗の御前に謝し、責を執らざるべからず。今日臣道明々白々たり。然りといえども、顧みれば唯残念の一語につく。護持の大道にさきがけし、先輩期友を思えば、ああ吾人のつとめ足らざりしの故に、神州の国体は再び帰らず。

君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを、噫、又さきがけし期友に申し訳なし。神州ついに護持し得ず。後れても後れても亦卿達に 誓ひしことば忘れめや

石川、川久保、吉本、久住、小灘、河合、柿崎、中島、福島、土井

(なにわ会ニュース75号12頁 平成8年9月掲載)

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