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平成22年4月28日 校正すみ

潜水学校第12期出陣賦と橋口君

 泉 五郎

 

潜校第十二期出陣賦()! この歌詞を覚えている方は恐らく居ないだろう。大方のクラスメートも、どだいそんな歌など聞いたことも見たこともない、というのが本当のところだろう。

かく申す作者の小生ですら、殆ど忘れてしまっていたのだから、知っているという方がおかしい。

 もっともこの春関西クラス会で、渡辺 望君がこの歌を作曲した春日 仁君に、一緒に歌おうじゃないかと誘ったが、体よく断られたそうである。春日君もメロディに自信がないらしい。ただし,望君も、歌詞は忘れたがメロディだけはよく覚えているそうである。

 潜校12期の普通科学生というのは、71期が先任クラスで数名、72期が主力で30名強、73期が10名少々、概ね19年9月から20年1月まで激戦の真最中、幸運にも大竹で学生生活を満喫させて頂いた。 

 申し訳ないが、勿論休日には呉まで遠征して、大いに英気を養ったものだ。今から思えば甚だ贅沢と言おうか、悠長と言おうか、お陰で俺様なんどは命拾いをしたようなものである。それまでは海上勤務で金の使いようが無かった我々は、逆に学生生活で金の無くなった11期の某君からは、普通科ならぬ放蕩科学生などと悪態をつかれたが、今から思えば切なくも懐かしい時代であった。

 あまり勉強した覚えはなく、課業をさぼってカードをやったり,教官の〇〇大尉の禁止令を無視して上陸したり、とにかく相当手に負えない強者揃いであった。

 特にこの〇〇大尉の堅物振りには皆も些か抵抗感があって、卒業も迫ったある日のこと、呉のロックで学生会と称し、〇〇大尉をご招待申しあげることとなった。魂胆は酔いつぶして、芋掘りのお目当てにしようという訳である。

 全員がそうであったという訳ではないが、何名かの悪童共が、何か面白い方法はないかと考えたあげく、ビールに小便を混ぜて呑ませちゃおうということになった。

 そこでこの俺様が二階大広間の縁側で、大ジョッキのビールに小便を注ぎ込み、◎◎君が恭しく床の間に鎮座まします〇〇大尉のもとへと持って行った。ところが敵もさるもの、どうも怪しいと思ったのか、皆が勧めてもなかなか口にしようとしない。 それどころか、小便でも入れたのではないかと言出す始末。

 そこで痺れを切らした□□君が、我々を信用しないんですかとばかり、グイッと一口毒味して差出したが、とうとう敵は早々と退散してしまい、残念ながらこの悪企みは成功しなかった。という訳で、爾来小生と□□君とは切ってもきれぬ臭い仲だが、なんとも始末に負えない連中がいたものだ。

 とはいうものの、安閑たる学生生活に脾肉(ひにく)の嘆をかこつ一方、神風や回天の活躍に、いずれは自分達も負けてはならじと、内心闘志を燃やしていたものと思われる。

 その気持ちが昂じ、ある日私がこの歌を作り上げ、皆にご披露した次第である。

 今読み直してみると、痩せ我慢と空元気の寝言、稚気満々の言葉遊びのようなものだが、当時はそれなりに共感してくれる人もいて、早速春日君がこれに曲をつけて呉れた。発表会は学生舎でやったか、呉のレスで歌ったか、その辺の記憶も定かでないが、これが一応、幻の潜校12期の歌というわけである。

 然し、歌の出来た時期はいずれにせよ、19年の暮れか20年の正月頃。そして2月には12期は夫々新しい配置へと散っていった。

 テープとかコピーのような便利なものは無い時代なので、余程の名曲でなければ人口には膾炙しない。まして終戦時、この手の記録は概ね焼却処分、そして総ては終った。

 ところがである! この幻の歌が図らずも、53年ぶりに蘇って来たのである。誠に図らずもといおうか、奇しくもといおうか、実に人生の不思議を感ぜずには居られない。と言うのも、残っている筈はないと考えられたその歌詞を、丁寧に記録していた人がいたのである。なんとそれは、思いもよらぬ橋口寛君であった。彼がある日の自啓録に、その全文を書き写していたのである。

  そこで、彼が12期の学生で我々と一緒ならば話しも判るが、彼は大津島から平生へと回天一筋、何処でこの歌詞を手にしたのか、或いは何処かでこれを耳にし、そして覚えていてくれたのか、兎に角この自啓録の写しが突然私のところへ舞い込んできたのである。

 一瞬目を疑ったが、紛れもなく幻の12期の歌であった。正に死児がよみがえったような懐かしさと嬉しさ、と同時に、そんな事はあろう筈もないが、この歌が橋口君の自決に多少でも手を貸すことになったのでは無かろうか、という悔恨の念が頭をよぎった。

 以下掲載のこの出陣賦の前後に見られる彼の筆跡(網かけ部分)には、その烈々たる闘志が偲ばれ、そしてその最後を思うと、誰しも涙せずには居られないであろう。

 

三度出撃の期を失う 死あるのみ 

血書を以て意を伝ふる所あらんとするも通ぜず

回天戦斗も今爾を以て其の最後たらんとす

邦家の為にも吾人指導官配置に残りて攻撃に参加せざれば一にして国賊たり

呉にて期友に 「貴様は当分出撃せざるならん」と問はれて無念如何許りか 

そして 潜校第十二期出陣賦 泉 五郎作 として引き続き次の歌詞が書かれていた

  一 恨みは深し ソロモンに    玉と砕けて 益荒男が

   髑髏(どくろ)の山を 築きしが   熱田の神は 北の辺に

   白雪染めて 紅の          血潮の河を 流せしが

   更に南の 島々に          大和男子の 肝脳は

   土にまみれて 朽ちにけり

 

 二 雲染む屍 神風の    魁(さきがけ)たらんと 散り征きし

   嗚呼敷島の 大和魂    水漬く屍は 回天の

   猛気となりて 吹き荒ぶ    散りてぞ悔いず 若桜

   されど醜(しゅう)(よく)日を覆い   敵艦海を 制せども

   神風未だ 吹き初めず 

 

 三 神風吹けと 言う勿れ   楠公出でよと 言う勿れ

   勝敗これもと 兵の常     神州の民 滅敵の 

   熱魂滾(たぎ)る 武士が    雌伏(しふく)半歳 いまこそは

   皇国護持の 血に燃えて    菊水薫(かお)る 旗のもと 

   怒涛(どとう)の海に 征かんとす

 

 四 いざ征け東亜の 聖海に    妖気(ようき)はこめて 日は曇り

   千尋(ちひろ)の海に 竜神の       怒り狂いて 渦を巻く      

   武士五十 いざ征かん            狂瀾(きょうらん)天を 衝かうとも

   狂風如何に 猛(たけ)くとも         我らが碧血 潮染め        

   怒涛の海を 凪(なぎ)しめん

 

 五 散らぬも吉野 山桜   花も蕾(つぼみ)の 時過ぎて

   咲きて万朶(ばんだ)の 香を競う   暗雲閉ざせる 東海に  

   夜半の嵐の 荒ぶとも        あだには散らじ 花吹雪

   花一輪が 散るときは      醜(しこ)の夷(えびす)の 幾千を

   具してぞ 散らん若桜

今次攻撃ニハ必ズ小官ノ参加ヲ御許容被下度嘆願申上候

昨年六月以来ノ血願未ダニ報イラレ難ク今日ニ及ビ申候

不肖無能徒生シテハ更ニ皇国ニ益スル所ナク空シク国力ヲ…

 

 以上は橋口君の自啓録写しであるが、この自啓録の写しを私に齎してくれたのは門池啓史君、橋口君と同じく回天で苦労した渡辺収一君の甥である。

 平成五年十一月、飛鳥でのクラスの洋上慰霊祭にも同行して呉れたが、戦後生れの若い人にもかかわらず、回天や橋口君の顕彰に力を注いでくれている奇特の士である。 私には橋口君が、天国からこの門池君を通じて、この歌詞を届けてくれたとしか思えない。

 というのも、さきに薩摩琵琶の大家、七十七期の森園史城(本名安男)氏のご協力を得て、「琵琶曲 回天特別攻撃隊」のテープを所要の向きに配布いたしました。

 その際、小灘君より、回天関係者の意見としては、この琵琶曲の文言だけでは回天のことが、一般人にはよく理解できないかもしれない、という話があった。

 そこで琵琶曲本文とは別に、別掲「海征かば人間魚雷回天抄」と題し橋口君など戦後自決した方々への思いも述べておいた。

 出撃に成功、特攻散華した英霊もさることながら、戦後自決者への処遇は必ずしも正当とは言えない。

 彼等の壮烈な最後を思うと、誰しも涙を禁じ得ないであろう。

 この思いが彼に通じ、お返しに私にとっては懐かしいこの幻の歌を、彼がプレゼントして呉れたのではないか、という因縁めいた思いに駆られるのである。

 昔日の彼の温顔を思い浮かべつつ、改めてご冥福をお祈りする次第である。

但し、小便を飲まそうとした話には後日談がある。

 平成十一年の暮頃、一期下のT君から自分史が届いた。その文中、同君は自分が首謀者で、私に相談をしたところ快諾を得たので、実行に及んだとあつた。

 事の次第は□□君を実行犯に仕立て、銚子に酒三分の二、残りは小便を混ぜて呑ませるのに成功、大笑いしたというのである。マンマと成功したのに味をしめ、今度はビールでもう一度と思つたが、これは失敗したということのようである。

 このT君、戦後超一流会社のお偉いさんになったが、彼も亦、この教官の陰険さにほとほと癪にさわっていたようである。

 然しいずれにせよ、余り褒められた話ではない。 

(注) この原稿は平成9年秋に一度投稿したものであるが,少々品位に欠ける点があり,ボツになっていたらしい。

(なにわ会ニュース98号52頁 平成17年9月掲載)

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