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橋口 寛 海軍大尉

編集部

略歴

大正13年 7月15日 鹿児島県鹿児島市出身
昭和18年11月15日 重巡「摩耶」乗り組み
昭和19年10月30日 大津島基地
昭和18年 9月15日 ハワイ真珠湾攻撃
昭和18年 9月15日 海軍兵学校卒業(72期)
昭和18年 9月15日 艦務実習
昭和19年 9月 4日 第一特別基地隊大迫基地着任
昭和19年11月  日 光基地
昭和20年 3月  日 平生基地
昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦
昭和20年 8月16日 神州隊として日本海方面に出撃
昭和20年 8月18日 命令により帰還
昭和20年 8月18日 平生基地にて自決(享年22歳)

 

後れても誓ひし言葉忘れめや

人間魚雷「回天」の基地、大津島、光、平生と出撃を嘆願しながらも許されず、後進指導のため教官として残され、ようやくにして八月二十日頃を期して特攻隊長として出撃することになったが終戦。

練習潜水艦「伊159」を駆り「神州隊」として強行出撃するも、帰還命令により平生基地へ帰投。多くの回天特攻隊員に死に遅れ、また国体護持の大任を果し得なかった敗戦という事実の前に責任を感じ、自分が乗っていくことになっていた「回天」艇内の操縦席で、第二種軍装に身を正し拳銃で胸を撃ち抜き自決して果てた。 

遺  書

新事態は遂に御聖断に決裁せられしを知る。即ち臣民の国体護持遂に足りず、御聖慮の下神州を終焉せしむるの止むを得ざるに到る。神州は吾人の努め足らざるの故に、その国体は永遠に失はれたり。今臣道臣節いかん。国体に徴すれば論議の余地なし。一億相率いて吾人の努め足らざりしが故に、吾人の代において神州の国体を擁護し得ず終焉せしむるに到し罪を、聖上陛下の御前に、皇祖皇宗の御前に謝し、責を執らざるべからず。

今日臣道明々白々たり。然りといえども、顧みれば唯残念の一語につく。護持の大道にさきがけし、先輩期友を思えば、ああ吾人のつとめ足らざりしの故に、神州の国体は再び帰らず。

君が代の 唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを 噫、又さきがけし期友に申し訳なし。神州ついに護持し得ず。後れても後れても亦卿達に誓ひしことば忘れめや。 

石川、川久保、吉本、久住、小灘、河合、柿崎、中島、福島、土井。

  

伊三十六潜の反転

資料提供:小灘利春様(海兵72期、第二回天隊長、全国回天会会長)

昭和20年8月11日、本来「回天」神州隊として出撃するはずだった伊36潜は、瀬戸内海「早瀬の瀬戸」で米戦闘機の銃撃に遭い、損傷を受けた同艦は呉工廠に引き返した。修理は終戦に間に合わず、「回天」神州隊の出撃はかなわなかった。

戦争中の人生は偶然によって切り分けられる。この運命の狭水道で敵機との遭遇が無ければ、橋口隊は勇躍出撃したであろう。それぞれの搭乗員は今とは別の人生になっていたかも知れないが、仮に戦場で潜水艦から発進していれば、橋口隊は能力を最大限に発揮して志のままに散華を遂げ、大きな戦果を挙げたのではあるまいか。その成果は日本民族の誇りを支え、必ずや戦後うちひしがれた国民精神のより速かな回復に貢献したであろう。

ともあれ、彼の人格、品性、行動力は今後の日本の若人にとっても模範とする価値があり、後世に伝えたいものである。

  

唐湊墓地

鹿児島県鹿児島市


(HPより)

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