TOPへ    戦没目次

合原 直君の出撃

三好 文彦

合原 直

去る17日の午前、恒川君の訃報あり。

この日、森嶋通失の"血にコクリコの花咲けば″を一気呵成に読み終え、その感動さめやらぬ翌朝、この書評が朝日新聞にありました。

既にご存じとは思いますが、ここには合原君に思いをよせる著書の一言が、短く、しかし万感の思いを込めて記されています。

本の一部と書評をコピー致しました。

恒川君は大村空勤務であったときいています。それだけに、この17日は私には大村デーになった次第です。著書の中にある松林中尉について、手許の資料で調べましたが、出身その他不明でした。調べて下されば幸いです。

 

とあれ、恒川君の逝去、残念でした。昨年末から悲しい報せが続きます。何れはわれもと思いますが、自重自戒したいものです

去る4月23日後藤 脩君(高雄蛟竜会)、5月10日溝井 清君来福、そして来る24日は富尾治郎君がやってきます。一寸だけ盃を重ねる予定でいます。621日は関西なにわ会に出かける予定です。

 三月末から四月初めにかけて、大村空の特攻隊員は、まず南九州にある最終的な発進基地に向かい、次いでそこから沖縄に飛んでいった。彼らが出発する時には、ラウドスピーカーで航空隊員全員に知らされ、手あきの者は飛行場に整列して、帽子を振って別れた。しかし私は、通信室に残って仕事を続け、見るにしのぴない見送りを出来るだけ避けた。通信室は飛行場の片隅にあったが、地下壕であったので外部とはすっかり遮断されていた。

 出発して行った隊員のあと始末は、冷酷に事務的に行なわれた。各隊員にはそれぞれ二名ずつの遺品整理係が指名されており、彼らは隊員の依頼通りに、遺品を両親や親類や恋人や友人のそれぞれの住所に素早く発送した。

このような特攻隊員の中で、私の心に一生消えることのない思い出を刻みつけて出撃したのは合原中尉と松林中尉である。彼らは共に海兵出身で私よりも年少であった。二人とも背は私のように低く、まだあどけない顔をしていた。特攻隊員になると家族との面会も自由になったが、私がたまたま通信室の地下壕から居室に帰る途中、衛兵詰所からお母さんと弟を自室にまで案内して行く松林中尉の後姿を見た。それは出発を数日後にひかえた日のことで、彼は小さい弟の手を取って、跳びはねんばかりうきうきしていた。

出発の前日に彼は合原中尉とつれだって私のところに来た。

 「われわれはいよいよ明日出発するが、最後にもう一度、隊員に送信訓練をしてくれないか。おそらく大変な事態が次々と発生するに違いないが、そういう状況の下で戦況を正確に報告するには、何よりもまず送信技術が大切ですからね」

 そういう申し込みを通信料にした特攻隊長は彼ら二人だけだった。私は技術の最も優秀な下士官を教員に選んだ。訓練のあと、二人はまだ口のまわりにうぶ毛が生えている顔をにっこりほころばせ、「ありがとう。これで総ての準備が出来た」といって立ち去った。

日本の末期症状がはじまったころのことである。

戦後、私は江田島の記念館を訪問する機会があったが、その時中央の一番大きい部屋の正面のガラス戸棚に、飛行服姿の合原中尉の写真が飾られていたのを見たことを付記して置きたい。予期してなかったので、私は血の気がひく思いで彼を見つめた。そして妻に「これが合原中尉だ」と紹介したが、私は涙声だった。ああ何というむごい作戦をしたことよ。それ程日本が大切なのか。それ程日本人が大切でないのか。

(なにわ会ニュース77号51頁 平成9年9月掲載)

TOPへ    戦没目次