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平成22年4月27日 校正すみ

權代博美大尉永遠なれ

豊廣  稔

 
権代 博美

は じ め に

実施部隊で權代中尉と接触し、しかも中尉を心の底から敬仰している2人の元飛行機乗りがいる。根本正良氏(予飛13期前期)と篠原次郎氏(予飛13期前期)である。この元海軍飛行科士官の証言は、わがクラスメート權代博美大尉の実施部隊におけるある時期の人間像を把えて余すところなく語っているように思われる。根本少尉(当時)は昭和1910月、木更津基地で權代中尉(当時)に会っている。篠原少尉(当時)はやはり同じ頃、權代が木更津で残留部隊を預かっている時、ガンルームの予備士官先任者として權代中尉と親しく接触していた。その間のことについて根本氏は『中攻』(中攻会会報)に寄稿し、篠原氏は、權代の令妹井坂昭子様宛に書翰文により、自分が敬愛する權代中尉の人格、行動、功績について、余人は知らないことだからとお伝え申し上げた由。

 井坂様は、探し求めて今迄得られなかった兄の消息を、41年ぶりに初めて得られたと大変感謝された。何でもお父上は、吾子の消息が知りたくて戦後同期生は勿論、八方手を尽された由だが遂に一片の消息も得られぬまま、失意のうちに昭和35年に死去された由である。誠に痛ましく申訳ないことだと思うのである。因みに、攻703に權代と共に着任したクラスメートは、權代・粒良・山崎(惣)・野上・片岡(政)・渋谷(了)の6人であったが、渋谷を除いてすべて戦死している。渋谷(了)に聞いてみると、同じ飛行隊ながら権代と一緒にいたことは一度もなく、權代が木更津に残れば渋谷は本隊と共に宮崎基地に進出し、宮崎で留守部隊を預かるというふうであった由、戦後は航空自衛隊に入ったので、任地の関係でご遺族にもお目にかかるチャンスがなかったものと思われる。

筆者は、根本氏・篠原氏の文章を越えて、その間の權代のことを旨く記述することは不可能と思うので、両氏の了解のもとに、お二人の回想記を冒頭に転載させてもらうことにしたのでお含みいただきたい。


木更津基地にて權代中尉のこと

根本 正良

 

權代中尉は、実用機教程の中攻から、19729、攻703に着任し、2045夜、沖縄攻撃で未帰還となるまで中攻に終始した。

191010、木更津基地に在った攻703が台湾沖航空戦に参ずるために、急遽、江川簾平隊長以下主力が鹿屋に進出したあと飛行隊付の身で、残留部隊の最高責任者として彼等を指揮統率していた。同日午後、入れ違いに北方から香取を経て木更津に入った攻702(仲斉治隊長)が、1016から1022にかけて攻703の後を追うように慌しく攻撃隊主力が鹿屋へ、更に高雄、クラークへ進出していったあとの残留部隊も中尉の指揮下に入った。

錬成途次の若い隊員が主とはいえ、古参兵も混じる大部隊を率い、錬成を続行し、哨戒業務にも当った。

これをよく為し得たのは、中尉のお人柄がよく、人格優れ技量又秀でていたからで、隊員の信望と畏敬を集めていた為に他ならない。

私が中尉と交誼を結べたのは短期間にすぎないが、この間の印象を実証したのは中尉のサイパン爆撃の記録を見てである。

何と申しても、中尉の戦闘行動で特筆すべきは、191129のサイパン攻撃に際し、陸用六番12の他に光電管信管付八〇番1を過荷重搭載し、硫黄島の1,200米滑走路を離陸していることである。そして勇敢にも2航過爆撃を敢行し、アスリート飛行場爆砕、所在のB29炎上の大戦果をあげている。これは海軍が開発した光電管爆弾の最初にして最後の成功例となっている(注、当時クラークにいた攻7021130夜のレイテ、タクロバン爆撃隊の編成表が手許に残っているが、6機の内11D、21Dの搭載爆弾は「二五番31号4」とある。ワニJ以下「二五番陸用2、六番陸用6」となっていた。その時の説明はよく覚えているが、31号とは光電管爆弾で、地上の物体に反動して中空で炸裂する為、人員機材の設備能力は極めて大とのことであった。ただ欠点は雲にも反応するので、中空に雲があるとそこで作裂してしまうこと。結局当夜は天候悪化し取止め延期となったが、既に比島は雨期に入っており、攻702は当弾を使用する機会を永遠に失った)。

更に中尉は、危険を侵してこの新型爆弾攻撃に成功しながら、帰着後、3AF司令部から勝手にこれを行ったと激怒を買い、翌1130付を以て転隊させられている(中尉は一切弁明しなかったといわれるが、実は私にも似たような体験がある。私の場合は爆弾の投下間隔のことでいきなり詰問された。このことは勿論、私が勝手に決めたことでも、決められることでもない。隊長の命である。この時、侍立していた隊長が、直ぐ引取って自分の命であることを言い収まったが、戦果をあげて帰投し慰労の一言もなく、叱責は正直甚だ不愉快であった。従って、この時の中尉の心中察して余りあるが、一言の弁明もしないのは流石と感銘する)。

何をおいても以上のことは、中尉の隠れた一大功績である。この際公表して陽に当ててあげたいと切望する。

(『中攻』第23号所収、昭6231

 

篠原氏より井坂昭子様に宛てた書翰文

621221 篠原 次郎

 

師走も大分押しつまり文字通り馬齢を加え昨年は古希の歳を数える者であります。

御令兄については、根本様より「根拠文書」写しで、その御奮戦の一端が、当の御遺族である貴方様に届けられましたことで、私どもの故人を偲ぶ志が漸く果たされたことを大層嬉しく思っております。

この「戦闘行動調書」の中に、以下述べます様な異様な思い出が、悲しい負け戦さの故に秘められております。それはまた、安まりかけた貴方様の御兄上を偲ばれる御心を悲しませるかも知れず、私も心痛むものがありますがお許し下さい。

先ずこの調書は、攻撃第704飛行隊の攻撃に関するものでありますが、敗戦の混乱のため、702703等他隊と混同されており、防衛庁戦史室の兵学校71期出身の調査官とさんざん掛け合って、やっと定位置に蔵されることとなったものです。その間、この攻撃自体も当方の単なる誤記憶と片付けられていた歳月があった次第です。

第一、この「調書」の所在が不明でありましたため、例えば「本邦初の光電管付爆弾による地上爆撃効果の実戦テストは、銀河(陸上爆撃機3座) によりアスリートに対して行われた」と公刊戦史(防衛庁)の技術開発兵器関係の項には誤り伝えられております。

ここで大書しておきたいことは、如何に兵学校出身士官が有能な粒揃いであっても、權代兄は特に傑出していたのではなかろうかと思う点であります。

着任それも初任3ケ月の偵察士官でありながら(私どもも同じ初任3ケ月、しかも私は操縦のため、部隊指揮どころか一式陸攻を夜間飛行で使いこなすのがやっとのいわゆる初級士官、つまり第一線部隊のお荷物の頃)、横須賀空や空技廠という部隊の枠を越えた左右の機関と連携をはかり、硫黄島の前進基地に七五二空(親部隊)をして、所定通りこの秘密兵器(光電管付)800s爆弾を運ばせて攻撃に使用し、第1航過で60s爆弾を投下、そして第2航過でこの800s光電管付爆弾でアスリート飛行場列線のB29を攻撃していることであります。

この時の操縦員は、私どもより遥かに技柄が上の下士官であったと思われるのですが、この搭載量で、あの狭い硫黄島の千鳥飛行場をよく飛び立てたものだと、唯々驚嘆するばかりです。通常の搭載量でも大変なその発進基地から、本当の「燃弾過加重発進」に成功していることと、飛行場攻撃を2回やっていることは特筆大書すべきことなのです。

そしてしかも、全機無事帰還、こんな大成功は、19年の秋以降では全海軍を通じて全くない異様な戦例です。敵との戦力差のため、2月以降は全くの単機で戦場に潜入する形に変ってしまい、こんな晴れがましい攻撃は、この後には勿論先にも、攻撃終了後全機無事帰還という完全成功例はありません。

それなのに、この攻撃を終り、硫黄島経由木更津に帰投した權代中尉を待っていたのは、第三航空艦隊司令部の査問(注、名目は報告会でしたが、実際は査問委員会に近い内容)でした。それは冷酷極まるもので、ここにその具体を記すことは当時の参謀が故人となっているので省略しますが、約3時間にも亘るもので、そのため私は、司令部は部隊の敵であるという断絶した気持を胎の底まで疹み込ませたものでした。その後は、戦果はつとめて内目に報告して流線型化する処世術を身につけてしまった程です(例えば、雷撃成功命中、但し、戦果不明などの如く)。これは私の勘が正しかったのですが、初任3ケ月の權代中尉の方が参謀よりずっと戦術眼が正しかったと思っています。力倆の低い者が戦闘指導の任に当り、誤った判断を下していたのでは、次の戦闘の参考になる智恵を授かるチャンスは皆無でした。

(公刊戦史の)兵器史には光電管付爆弾のテストは失敗となり、開発は取りやめとなったというふうに記述されております。実は成功しているのを失敗とされたのです。その理由は、第3航空艦隊司令部の全くの誤判に原因があるわけです。そしてこの判定が誤りであることを指摘できるのは、悲しいかな今や予備士官である私1人なのが残念です。

20年に入り、私どもがアスリート奇襲の剣作戦に備えて待機させられた時、捕虜迅間で得た情報で、B29は攻撃終了帰投後は整備完了次第、実に燃弾満載ののち列線に駐機させられていたという事実が判りました。わが方が攻撃直前までは燃料を抜きとり、錯雑地の狭間に点在する掩体壕に機体を散閉ざせていたのとは対照的な米軍の方式でした。

従って光電管付の散弾を一杯つけた800sが列線上の低空で炸裂することはいちばん恰好な攻撃法であったわけです。權代中尉の「発火炎上が8ヶ所以上みとめられた」という報告は誤認でも虚報でもない真実の叫びだったのに、これを押し殺すように「それは貴様達の戦場離脱直後進入した陸軍機(浜松発のキの67−百式重爆〈靖国〉)の戦果を、のこのこ舞戻って見届けたんだろう」と罵声が飛んだところで、彼は泰然として「攻撃704飛行隊の戦闘報告を終ります」と押し返して退席し、早速私を見るや、当時私がガンルーム予備士官の先任者で親しくしてもらっていたので、「篠原少尉、君ともお別れだ。2人でもっと良い作戦をじっくりやりたかったが、本日、私は現在の心境では、直ちに原隊(攻撃第703飛行隊)に復帰する。君もこれからは大変な苦労だが、攻撃704のため辛抱して頑張ってくれ」と言葉をかけてこられました。

御令兄は、いわゆる将棋の一枚の駒としてではなく、全部隊に輝くべき「あの人は恩賜だ」という通称にふさわしい若武者ぶりでした。天空快活! 敵胆を寒からしめる智略の持ち主で、このアスリート飛行場攻撃でも明確に我々の期待に応える形で戦果を挙げて下さったのに、あの暗く心寒い、負け戦の谷間にみんながさ迷っているような時代だったので、古参の特務士官や上司の方々からは戦さの重みも知らぬ(りょ)外者と受取られていた節があり悲しく思っております。

ともあれ、偉勲をたてても評価されず、原隊(K703)に復帰後も獅子奮迅の活躍で、1月以降の戦列参加も必ず毎回の出撃はダブルミッションで最後まで貫き通されています。御令兄は、私の接した同期の方の中でもいちばん明朗な方であったような気が致します。最後に御参考のためにつけ加えますが、第三航空艦隊参謀の、令兄に対する質問条項は大略次のようなことであったと記憶しております(私も同席していましたから)。

1、何故、新型爆弾を司令部の完全な同意なしに使用したか。

2、何故、1航過1発必中主義を破って2航過攻撃を企図したか。

3、何故、上級者を押しのけて初任の初級士官である若年者が作戦を案画・実施したか。

(篠原注・実際は1010日以来1126日までは、誰も先任者のいない飛行隊だったのです。爆撃隊の指揮官は一応、先任分隊長奥田大尉(予飛5)、又2小隊長として深谷大尉(兵70)が参加していますが、この方々は当日適々(たまたま)前線から転属したばかりの人でした。ために代って權代中尉が報告に立ったのでした。)

4、何故、戦果確認に無駄な時間を費やし、その直後に実施された陸軍機の戦果を横取りする様な誤認をしでかすのか。(陸軍機は、爆撃後低空に降り銃撃する任務・戦闘様式でした)。

5、何故、初級士官が部隊を代表して司令部に報告するのか。

(以下省略、篠原氏の書翰文終了)

 

筆 者 補 足

@  防衛庁の戦史叢書『大本営海軍部・連合艦隊』(その6)によれば、大本営がB−29のマリアナ進出を確認したのは昭和1910月下旬であった。

B−29のアスリート進出状況は、

1012日  1機着陸

1020日  4個中隊進出

1028日  18機トラック初空襲

1030日  18機トラック再空襲

わが方の最初の夜間攻撃は11月2日であった。

A 即ち、112の夜から113の明け方にかけて行われた第1回サイパンアスリート飛行場の爆撃は、台湾沖航空戦参加のため、宮崎基地に進出していた攻703飛行隊が木更津に帰り、硫黄島を前進基地として行っている。

1123の爆撃については、公式記録(戦闘行動調書)が現在小生の手許にないので、機数などちょっと不審な点があるが、本攻撃に参加した攻703の清水搭乗整備曹の回想によれば、「爆撃に参加したるは、陸軍重爆18機、海軍一式陸攻18機であった。陸軍機は17機の未帰還機を出したが、海軍機の方も56機の未帰還機があったと記憶している」

B 第2回目のアスリート飛行場爆撃は、1129日に行われており、新編攻704飛行隊(752空)が攻撃に当った。この爆撃行に權代中尉が参加したのである。これが權代の初陣であったらしい。

台湾沖航空戦では、本隊(攻703)が作戦に参加したのに留守部隊の先任士官として木更津に残されて、切歯振腕している様が、令妹より拝借した彼の『自啓録の記述に現われているように思われる。19年の半ば頃から書いてある言葉がだんだん激越になってくるのだが、戦況を憂うる余りのことで、もはや彼の脳裏には生も死もないようになっていた。つまり、いつでも喜んで死ねる状態になっていたと思われる。

 

いざ敵撃滅へ 一発必中 斃而後己 空征かば雲染む屍

昭和191128
 
初陣に当りて
  
攻撃成功、サイパン島一番乗 2回のやり直し後 80番の巨弾 
   「アスリート」飛行場中枢部に命中、之を爆砕 
鳴呼、感激の初陣の日よ

昭和191129日午後7時

C 権代はこの感激、この嬉しさを妹にも知らせてやりたかったらしい。その手紙の一部が令妹のところに残っていた。

「……夜は実に綺麗だ。雷撃隊出動の映画を見たそうだがあれどころじゃない。敵の弾が次から次へと美しい線を引いて飛んでくる。

照明弾で昼の様になる。そこへ敵の探照灯がパーツと光って来て10数個の探照灯が一斉に兄さんの飛行機を照らし出す。何も見えなくなる。機首の前方でパッパッ、ドグワン、ドグワンと作裂する。機銃弾がシュッシュッ、シュルルルルルと尾を引いて飛んでくる。とてつもなく美しい。よく両国の花火大会といふが見た事もないけれども、恐らくそれの何10倍も綺麗だと思ふ。見る間に兄さんの爆弾或は味方の爆弾が命中してB―29が炎々と燃え出す。

ヒユーンルル、シュッシュッ、パーツと何ともいへぬと思ふと後の方から敵の戦闘機が追っかけてくる。来たなっと思ふとサーッと体をかはして逃げる。夜戦の味は何ともいへぬ。何度でも行って見たい様な気がする。此の間は残念乍ら台湾沖・比島沖の戦争に出られなかったが、今度は出るぞ。夜の戦争、本当に皆を連れてって見せてやりたい気がする。然し時々コンッカリカリッと敵の高射砲の弾片が命中して大きな穴があくのは、少しは気持が悪いね。

ではさようなら。

昭子も芳紀正に19歳か。少しはナイスになった事だらうな。ウフフフ」

妹思いの兄權代の心が手にとるように判る一文である。片仮名で書いた「音」の表現が実に上手で、現代の劇画作家も顔負けの程だ。

このあたりが彼の明朗さの根源なのかもしれない。

小生が權代について印象深く記憶していることに次のような一幕がある。記憶しているのは小生だけではなく大勢のクラスメートがいると思うが、入校教育時、あの参考館講堂で、どういう場合だったかちょっと忘れてしまったが、第5部第17分隊の先任の權代生徒が演壇を前にして自己紹介をしたことがあった。

「俺は権代だ。権代とは変った苗字と思うだろうが、大根の反対と覚えておいてくれ」

と言った。これはもう強烈に小生の脳裏に残り、一ペんで、彼の名前と顔を覚えてしまった。

大根、ダイコンの反対、ゴンダイかー・大体ダイコンなどという名詞が出るところが少し子供じみている。しかもそれをひっくりかえして言ってみるところがまた小学校の男の子の遊びにもありそうなことで、子供のような発想をする奴だと思ったことを昨日のことのように覚えている。それは昭和1512月のことだから正しく半世紀前の出来事なワケだが。子供じみた奴と一たんは思ったが、小生この年になるまでそのことを覚えさせていること自体、結果的に見て彼は大変な天才PRマンであったわけである。彼の適確な情況判断と実行力を今に至るまでほめたたえる昔の戦友・部下がいるが、彼が戦後に生きのびていたら、どういう大人になっていただろうかと惜しまれてならない。

D 權代は一号の冬休暇に入る直前、昭和1712月9日、病身の母上を亡くしている。彼は大の母親っ子であった。彼は母上をこよなく敬愛していた。母上のおっしゃることは、細かいところまで配慮が行き届いて本当に尊敬できると事あるごとに言っている。權代自身がこの母上にそっくりであったように思われる。彼の母上は、彼が兵学校に入校した時既に病身であった。彼の休暇記録は、母親のことを気遣う彼の言葉で満ち溢れており、読む人をして感動させずにはおかない。

母上が亡くなった時、はじめて父親を案ずる言葉が出てくるが、総じて親思いの優しい子供であったことが巧まずして表出している

その權代が敬愛する母親の死に直面した時、人の生死について痛烈に悩んでいる。休暇記録に次のように述べられている。

「本日遺骨ヲ捧ゲテ故郷ニ帰り納骨セントスルニ当り寒風ニ曝サレ冷々トシテ立テル墓ヲ見テ其ノ中ニ淋シク納ムルニ忍ビザルモノアリキ  生前其ノ手ニ取縋リシ時ノ温カサヲ思ヒ出シテハ変リ果テシ姿ヲ悲シムト共ニ又雲ノ何処ニアリヤヲ迷ヘリ 従来吾人ハ世ノ所謂霊魂ハ永ク滅ビズ護国ノ英霊ハ常ニ草場ノ陰ヨリ皇国ヲ護ルト信ジテアリキ 然り卜難モ草葉ノ陰トハ何処ヲ指シ居ルモノナルヤ漠然トシテ考フル力モ無カリキ 然ルニ今母ノ死ニ遭ヒ其ノ霊ヲ慰メントスルニ当リ何処ニアルモノナルヤ確固タル信念ノ必要ヲ痛感シタト

以上凡ソ生死ノ問題ニ就キテハ古へヨリ多クノ人々ノ苦シム処浅薄ナル吾人ノ能ク究ムル処ニハ非ザレドモ突然身近ニ起レル此ノ問題ニ就キ其ノ究明ノ不充分ヲ甚ダ残念ニ感ズ」と記している。

彼權代は、生死の問題については既に兵学校へ入校した直後の昭和1512月5日の日付で真先に『自啓録』第1頁に論述している。その内容は流石にまだ誠に姿婆気に満ちたものであったので、後年、多分一号になってから、その末尾に態々(わざわざ)赤ペンで、俺はこんなことを考えていたのか、自分ながらとても恥かしいと書き加えてあった。

そういうことから彼の死生観は、卒業後比較的早い時期に確立されていたのではなかろうかと思われる。死を全く度外視した彼の勇敢な行動、責任を全うしようとするひたむきな実践努力、しかも部下に対する優しさ、度量の大きさ、実際に彼が実施部隊で身につけていた青年士官としての素晴しい徳目は『自啓録』や『休暇記録』を拝見する限り、傑出した兵学校の教育方針とともに、たゆまず自己研鎖していった彼の努力と、そして両親から承け継いだ資質の賜であろうかと思われるのである。

 

沖縄戦に参加する

五航艦は昭和20210日に新編された。長官は宇垣纏中将で、司令部は鹿屋に置かれた。攻703飛行隊(隊長岡秀雄大尉・兵66)は、昼夜の哨戒偵察を主任務とする五航艦の801空(司令江口英二中佐・兵52)に所属していた。保有機数は陸攻11(鹿屋)、陸攻8(大村)、陸攻6(済州)であった。

20325、敵は慶良問列島に上陸、326天一号作戦(沖縄防衛戦)が発動された。

315付で攻703は偵703に名称替えとなった。

この頃、偵703は鹿屋基地から連日連夜索敵を実施していた。しかし、行動海域は敵の夜戦が出没し、鹿屋基地上空まで現われ、薄暮から黎明にいたる間でもグラマン戦闘機が来襲していた。大型機の昼間行動はすでに困難になりつつあった。

703の本部は錦谷の一角にあった(錦谷とは鹿屋基地の南側にあり、錦は801空の秘匿名称錦部隊よりとったものだった)。

丁度この頃、偵707の隊長要員として鹿屋基地に着任したばかりの町田忠次郎大尉(兵66)は、錦谷に同期の偵703の岡秀雄隊長を訪ねた。兵舎はすべて分散していて既に三角兵舎であった。岡隊長の兵舎もその一角にあった。町田大尉が岡隊長に会うのは4年半ぶりであった。

町田大尉が直感したことは、本部内が異常に緊張した様子で、岡隊長は疲れているように見えた。連日連夜の索敵の疲れ、また中城湾に航空機雷敷設作戦が計画されている時期でそのことも気になっていたのであろう。町田大尉は、先任中隊長の渡辺譲大尉(兵68 20510戦死)から、岡隊長がこのところ部隊の消耗が激しいので心痛し、自分で飛び出そうとされるので自重するように忠告して欲しいと頼まれたが、適切な忠告ができないまま別れたと思う。岡隊長がただ、困った、困ったと憂欝そうに話していたのを覚えているとのことであった。(町田氏書翰文より)

岡秀雄703飛行隊長の指揮下にわが権代中尉はいたわけで、木更津の頃に較べ、今や海軍航空作戦の最前線に配置、權代も苦労していたであろうことは推測できる。 3月12日、丁度この日は權代の誕生日に当り、妹昭子さんは、父上に連れられて呉から鹿屋航空隊に、既に不便になりつつあった汽車を乗り継いで兄を訪ねて行った。

「この時が兄との最後になりました。兄は痩せて少し痛々しいように見えました。別れ際に父に何やら渡していたようでしたが、遺書のつもりで身辺においてあった自啓録などを渡していたことが、あとで父よりきいて判りました」とのことだった。

703による沖縄の機雷敷設作戦は2回行われており、第1回目は4月5日の北飛行場の北西10マイルの海面と、第2回目は4月11日の中城湾口である。

権代は第1回目に岡隊長と同乗で出撃している。機数は全部で4機。4機のうち2機は天候不良で途中から引返し、あとの2機が戦場に到達、のちに述べる安西大尉機が機雷投下後ただ1機帰投している。岡、權代機は0200ごろの発信を最後に消息を絶ち、未帰還となった。当時の状況、特に權代の戦死の模様を知りたいが、確かな寄りどころは、手許にある該作戦の「戦闘詳報」の写しだけである。

知り得たことを左記に述べると、鹿屋基地からの4機発進、時刻は安西大尉機2241(正確には5日の夜)、岡大尉・權代中尉機2249、蕨少尉機2300、小西飛曹長機2305、7〜8分おきに4機が単機発進している。蕨機と小西機は途中から引返している。

○ 蕨機 天候不良引返ス(2345)、鹿屋基地帰着(0025

○ 小西機 天候不良、水平儀・高度計作動不良引返ス(0050)、天候不良ノ為基地上空付近ニテ待機(0315)鹿屋基地帰着、被害ナシ(0515

(戦場到達機2機のうち)

○ 安西機(0128)戦場到達、慶良問列島並ニ那覇港付近ヨリ敵ノ防御砲火ヲ受ク(0225)粟国島ヨリ備瀬崎ヲ結ブ線上ニ全弾投下、戦場離脱、針路3度(0500)鹿屋基地帰着、被害ナシ

○ 岡・權代機(0200)僚機感度アリタルモ其後連絡ヲ断チ未帰還トナル

当夜の天候は曇、雲量は10、雲高2002,000、視界0ー2。

雲が低くたれこめて視界はゼロ、ただし、ただ1機の任務完了、帰還した安西機の報告によれば、戦場付近は雲高200、視界2であった。目標がなんとか見通せて、雲が低いので敵機の迎撃を避ける意味からはよかったのかも知れない。

岡・権代機の電波を僚機が感知したのは0200である。僚機とは小西機とのことであるが、安西機が目標海面に全弾(4発)投下した時刻が0225であるから、0200という時刻は、岡・權代機も全弾投下の後と考えるのが順当ではなかろうか。作戦中は厳密な無線封止をするが、ただ一度だけ任務終了時には、波を発してよいことになっていたから尚更である。

しかし、現実には未帰還となっているから、そのあとで夜戦との交戦により撃墜されたか、あるいは対空砲火により撃墜されたのであろう。

岡・種代機の目標投下海面は粟国島の13010マイルの付近であった。そこに三式二号航空機雷4個を投下敷設するのが岡・權代機の任務であった。粟国島は北飛行場より310度方向20マイルのところにある比較的大きな島である。だから、粟国島と北飛行場を直線で結び丁度中間点あたりが目標海面となる。

飛行機の場合は、単機行動なら尚更のこと戦友の戦死の状況は判らない。すべて情況、推測になるのでいい加減なことは言えないし、こうして戦記を書くのも正直なところしんどい作業である。さてもう少し推測を進めてみたい。

703の分隊長で、安西大助大尉という方がおられる。安西大尉は特務士官で偵練の出身だからもちろん偵察士官である。飛行時間の長さから言ったら、恐らく703の最長不倒記録の持主と推定される。なぜならば、サイパン爆撃の時からこの沖縄の機雷敷設の2回の作戦まで、私が知る限り全部出撃されている。しかも的確な情況判断により任務を遂行、帰還している。驚くべきベテラン分隊長で、しかも感状を幾度か受けている。

戦後この方の手記が『中攻史話集』に、『中城湾の航空機雷戦』というタイトルで出ている。さわりの部分を見るだけで、単機指揮官の心境が手にとるように分る。あとは戦場における運・不運が50%を左右するものであろう。岡・権代機も、恐らく安西大尉と同じようなコースを辿って戦場に到達、不運にも夜戦に撃墜されたか、あるいは機雷の投下高度は50米だそうだから低く降り過ぎたために、海面に激突したか、あるいは敵の対空砲火により撃墜されたか、全く推測の域を出ることは不可能である。が、旨く目標海面に機雷4個を完全投下して、明朗な擢代が快哉をとなえた後であったことを祈るばかりである。

安西大助氏の手記の抜すいは左記のとおりである。

「当時、すでに沖縄上空はアメリカ軍の完全制空下にあって、昼間はもちろん、夜間においても電探で接近射撃する夜間戦闘機が跳梁して、とても編隊行動も月夜の飛行も不可能な状態でした。従って機雷敷設も暗夜単機とならざるを得ぬ次第。夜間、星の光を頼りに所定の海面に投下敷設は極めて困難事でした。

常に機位を確認しつつ飛行しなくては、投下位置の決定は出来得ません。航空図上の岬や島の確認、灯台の灯があるわけもありません。星の光でかすかに薄黒い岬と島を、それか、これか、と照合しっつ、機速と海面の波頭を頼りに永年の推測航法の体験による勘を信じ、そして思い切った投下の決断は、目標を確認して照準し投下する爆撃や雷撃とは又異なる心の闘いがございます。果たして所定地点なるや否や、あらゆる現象をとらえて、当らずといえども遠からざる範囲と推定し、8分の確信、いや、7分、3分の確信と不安感か、投下後の不安は極めて後味の悪いものです。

     *

これ一発に沢山な人達の労苦が積み重ねられています。搭乗員の辛苦も生かされるか、水の泡か、この決断一挙手にかかるわけです。

     *

夜戦に食われたか又は暗夜の超低空30米の水平飛行で海面に突入してしまったか?

星明りで海面すれすれの飛行は極めて危険であり難事でありました。

    *

作戦は発進より帰着まで単機行動、一切無線封止で、『任務終了帰途につく』のみ暗号発信が許されます。

    *

部下の命令、注意事項は発進前の戦闘指揮所で行なうのみで、後は部下の技倆、作戦能力にたよるだけでしたが、充分任務を遂行し得る優秀な部下を選抜したと今も信じています」

 

この項を終るに際し、最後に岡・權代機に同乗のペアの勇士の名前を挙げて冥福を祈りたい。

(主 操)飛曹長  増渕精三郎 

(副 操)二飛曹  湯峯  豊

(主 偵)大 尉  岡  秀雄

( 〃 )中 尉  權代 博美

(副 偵)飛 曹  佐谷  烈

(電 信)上飛曹  鶴見 堅二

( 〃 ) 〃   藤本 良雄

(電 探) 〃   柴田  保

(主 整)上整曹  杉本  実

(副整兼射撃)飛長 村上 志一    

 

お わ り に

河原文久氏の御名前を記してお礼を申し上げねばならない。河原氏と小生は現在、仕事を通して親交があり、大変お世話になっている。

同氏は戦中、權代と鹿屋基地で同じ飛行隊(801空、偵703飛行隊)に属し、第9期飛行科予備学生(東大)出身の海軍大尉・分隊長であった。權代は恩賜組だが、まだ隊付尉官で海軍中尉であった。両者の間には左程親密な接触はなかったようで、河原氏が抱いておられる權代中尉に対するイメージは、中肉中背で、頭の回転の早いキビキビした士官ということのようである。

この稿を書くに当っての資料は、大部分、小生が權代と海兵同期との理由で、河原氏から提供を受けたものである。

河原氏は、?白鴎遺族会の前理事でもあり、『海軍飛行科予備学生・生徒史』(昭63)の編集幹事をした方である。根拠となった「戦闘詳報」については、やはり戦中、同じ偵703飛行隊の分隊士であった小西良吉氏から河原氏に回送されたものを、河原氏がコピーをとって小生に提供下さったものである(小西氏は当時飛行兵曹長、のち少尉、甲飛出身)。

この戦闘詳報の原本は、もっと頁数の多いものであるようだが、表紙のところどころに英文で何やら記入されているのは、戦後、米国に持ち去られていたものかも知れない (再び日本に返遺されて、このコピーが存在するものか不明である)。

昭柑60629日(土)、攻(偵)702飛行隊の第15回慰霊祭が國神社で行われることになり、河原氏から小生にも出席方要請があり、同時に權代の令妹井坂昭子さんをお誘いして欲しいということだった。

慰霊祭当日、河原氏と小生は、井坂さんとは初対面のため胸に目印などつけて境内茶店でお待ちすることにした。井坂さんとわれわれとの間は、前年即ち昭和59年末から電話や書面上の連絡はとれていたが、お会いするのは初めてであった。井坂さんは、小学生の男のお孫さん2人と御長男のお嫁さんを伴って来られた。お互いにすぐそれと判った。井坂さんの御夫君は74期の井坂恭輔氏であるが、惜しくも昭和52年病没された。權代のシス(妹)との観念が先行していたが、幸せそうなおばあちゃまぶりであった。

慰霊祭が終り、小生に下さったお手紙は次のようなものであった。

「……長い間兄のおもかげが胸の中にしのばれて、打ちはらっても心のしみとなっておりましたが、皆様方のあの様に美しい、和気あいあいの雰囲気で40年前の様子を昨日のことのようにまざまざとお話しなさるのをお聞きしていますと、あれもこれも厳しい運命と申すはかなく、今は兄の冥福を祈り、想い出もあらたにめぐらしております。いろいろお聞きしたいことも胸の中にしるしてお詣りいたしましたので、ドキドキするばかりでございました。703空会の皆様方に御紹介して下さいましたご好意を、亡き父・母・兄もどんなにか有難く喜んでいることでございましょう。もの言わぬ両親、兄にかわり御礼申し上げます。

 

昭和60年7月7日

井坂昭子

 

最後に昨年、平成2年7月6日から9日まで、天空会(天草空戦友会)と白鴎遺族会の共催による沖縄巡拝旅行が計画され、この時も河原氏が井坂さんをお誘いし、自らもエスコート役として参加された(小生は都合悪く参加できなかった。)

井坂さんは、沖縄旅行は初めてとのことであった。小型機の便でもあれば粟国島まで足を伸ばされては如何ですかと、河原氏が砦の地元の海友会などに照会してみて下さったが、それはないということで、遥かに同島が位置するあたりを望見し、井坂さんは兄上の霊に呼びかけておられた。船便で本島から慰霊碑「雲の塔」のある伊平屋島に渡る時、便船と速さを競うように、飛魚の群が胸ビレをびんと張って空中飛行した。ハッとするような光景だった。それはまるで戦没搭乗員の精霊かと襟を正す思いがしたとのど感想だった。

エスコート下さった河原氏に対し、小生クラスメートの立場から、本紙上を借りてお礼申し上げたい。

〈参 考〉

兵学校卒業後の權代の歩いたコースを辿れば、

18915 海軍兵学校教程ヲ終了

卒業式・海軍少尉候補生ヲ命ゼラル

恩賜品拝受

18918 海軍練習航空隊飛行学生ヲ命ゼラル

第四十一期飛行学生ヲ命ゼラル(霞空)

181115 偵察専修学生ヲ命ゼラル

(百里ケ原海軍航空隊)

19315 海軍少尉ニ任官

19331 海軍練習航空隊練習機教程ヲ終了

19729 飛行学生卒業

◇    ◇    ◇

權代追想   加藤 孝二

二号時代、考査の時期になると、各分隊伍長が週番生徒に任命される習慣があった。

週番生徒は巡検終了から翌朝総員起し直前迄、各分隊寝室に戻って就寝する他は週番生徒室に詰めていたので、通常の生徒館分隊生活から離れた存在であった。夕食後の自習時間も勿論、分隊自習室にはおらず、週番生徒室で隔絶されていたので、割合自由時間が持てる環境であった。

考査期間中でもあり、各自それぞれ勉強に励んでいた訳であったが、普段と異なり、別々の分隊の一号連中が一堂に会して、下級生分隊員のいない場所では自ら、一号同志の自由な交流が行われたので、静粛なるべき自習時間中にも間々、雑談に花咲く場面もあった。

偶々、ユダヤの世界征服の野心の話題から、秘密結社のフリーメーソンの話が出たことがあった。この話題に真っ先に飛びつき、ソレカラソレカラと何時迄も話に引き込まれていたのが權代と坂元正一であった。お蔭で勉強している他の週番生徒の顰蹙(ひんしゅく)を買い、翌日の試験の下調べはソッチノケ、福助頭をフリフリ、眼玉をギョロツカセて、何時迄も話し込んでいた彼の面影が浮ぶ……

以下は權代を偲ぶ樋口 直の述懐である。

比島から帰り、消耗した偵察第3飛行隊(戦死者、71期・岩石、加来、八島各中尉で全滅、72期・水野英明、川端博和)再建の為、木更津へ移動した。木更津には中攻・銀河と偵12がいて、広瀬、小山、小生の歓迎会。幹事は權代で、佐藤美保、粒良、佐伯、平野誠、その他は失念、一度ガンルームでクラスだけで夕食後、飲んだことがある。肴は鮭缶と生魚を大火鉢で焼いて煙モウモウ。時の過ぎるのも知らず。巡検! の号令にビックリ総員起立、直立不動、森田大尉(70期)の巡検隊は煙の中を整々と通過。ユーモラスな場面であった。サイパン爆撃の話は聞いた記憶がない。とにかく、つかの間の楽しい雑談に終始した。そして我々と入れ代る様に進出。総員戦死。

203月頃、転勤の折、鹿屋の中攻隊指揮所に權代を訪ねた。ファイト満々、小柄な体、大きな頭をふりふり、大車輪、「ヤァー」と右手をあげ、眼線を合せただけ……で別れた。

彼のギョロ眼の中には、いつもの笑と余裕があった。

(なにわ会ニュース64号36頁 平成3年3月掲載)


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