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平成22年4月28日 校正すみ

昭和16年9月寄稿

特攻に散ったわが子

(海軍神風特別攻撃隊員)正通の思い出

  

  語り母  福山モトヱ
まとめ 次弟 福山 正昭

 昭和十九年(一九四四年)十二月二十九日、朝日新聞に神風特別攻撃隊金谷隊として、隊長金谷大尉、次に福山正通中尉と名前が出ました。毎日新聞にも「郷土の誇り特攻隊勇士、県下初の特攻隊」と載りました。

 やっぱり特攻隊か。もはや生きてはいないと思いました。実際は明年一月六日比島リンガエン湾の敵艦に突っ込んだそうです。十一月の末ごろ、毛筆書きの手紙が来ました。

「三年前、米英に対し大事の事、催され候……此秋に当り、かねて熱望の第一線出撃の恩命に浴し近く出征することと相成、正通は勇躍出征仕候……先は取り急ぎお別れ如此御座候、最後に母上様を始め皆々様末長く御栄えの程祈上候……」

と書かれていましたので、これは普通ではないと思いながらも、どこかに「運のよい子だから」と希望を持っていましたのに。それまで朝鮮元山航空隊の教官でしたが、いよいよ戦地へ行くということがまさか特攻隊とは……。

 当時、私たちは親子四人、津に住んで、父政之の留守を守っていました。すぐ下の妹の淑子は、津高女を卒業して、挺身隊で高茶屋海軍工廠に、久美も同じ学校から学徒動員で三重重工に行っていました。正昭は津中学一年生。父政之は陸軍少佐でビルマ(ミャンマー)に出征中。一度も便りがありません。 

 思えば正通は父との縁が薄い子でした。父政之が再役で京都師団司令部書記の時、約一年間は一緒でしたが、父が士官学校入学、私と正通は引き揚げ、政之が奈良三十八連隊に少尉で帰ると、私たちは奈良に住んだのですが、正通は福山家の跡取りだからと、祖父母と毛原に残りました。

 東豊小学校四年生の三学期、やっと奈良第二小学校へ転校。田舎から出て来てどうかと思いましたが、誰にも負けず、奈良中学校(現奈良高)へ入りました。父はその入学当時、満州から帰っていましたが、また、日中戦争が始まり、昭和十二年十二月、三十八連隊機関銃中隊中隊長として出征、十四年八月無事帰還。昭和十五年の正月だけ、やっと両親と子ども四人が−緒になりました。父は正通の卒業も待たずに少佐になり、大隊長として渡満。そんなことで、正通の海軍兵学校合格も手紙で知らせました。当時は陸士・海兵と言えば全国から俊英が集まる所で、とくに海兵は募集人員も少なく、その時奈良県で三名の合格だったそうです。

 「入校には母さんも大変だろうから、俺独りで行く」と言っていましたが、十二月一日の入校日が近づくにつれ「やっぱり一緒に行って」となりました。

 海軍兵学校は広島県江田島にあります。クラブ(学校で借りている民家)で一泊。翌日校門をくぐると、学校は清潔で美しく、生徒もきびきびしていて、こんな所で正通がついて行けるか心配でした。入校式には、紺サージの軍服に短剣を吊って出て来ますと、その姿に見とれて、我が子が我が子でなくなったような寂しい気持ちになりました。正通が物心ついて、母と二人だけの旅は、これが初めての終わりでした。

 それから私たちは、母子四人の留守家族となってしまいました。政之は陸軍少佐とはいいながら外地にあり、何の恩典もありません。かえって軍人家族として恥ずかしいことをしては、二人に申しわけないと思って頑張りました。毛原へ帰ってもよかったのですが、久美も姉と同じ学校へ入りましたし、田舎の姑と祖母も元気で守ってくれましたので、そのまま居座っていました。

 昭和十八年七月、政之より、「戦争も大きくなった。俺も内地へ帰れないかも知れない。一度来ないか」との事。正通も最上級生に進み、六百余人中五、六番とか、九月卒業すればすぐ任地へ向かう。正通も子供たちも、父と別れて足掛け四年。正通の八月の休みに思い切って満州へ行こうということになりました。

 正通とは下関で落ち合うことになり、関釜連絡船上で見ていますと、真っ白の軍服の一団が、短剣を押さえて駆け足で乗り込んで来ました。三〇人ほどですが、皆大陸に両親兄弟のいる人たちです。正通が最上級生なので引率して来たとのことでした。

 私たちが満州にいたのは一週間ほどですが、父親は息子自慢で、連隊へ連れて行き、「連隊長にも会わして来た。立派な息子さんだと言って褒めて頂いた」と嬉しそうでした。それが父子の今生の別れでした。

 十八年九月十八日、正通は卒業と同時に肉親と会うことなく、霞ケ浦へ飛行学生として行きました。その時は、すぐ戦場へ行かなくて済んだとホッとしました。

 突然政之が満州から津へ帰って来ました。「ビルマ(ミャンマー)へ行くことになった。今度はどうなるか分からん。各務原から飛行機で行く。連絡あるまで待機」とのこと。早速毛原へも別れに帰り、今日か明日かと連絡待ちで、結局二〇日ほどおりました。

 正通が正月休暇に帰った時「そんなにいたのなら、父さん来てほしかった」と残念がりました。また政之も戦後「あの時、無理してでも面会に行ったらよかった」と口惜しがりましたが、晩年になり、「あの時面会に行けば別れになるようで」と申していました。自分も第一線へ行くからと覚悟していたのです。

 十九年七月、正通は朝鮮の元山航空隊教官で行くことになり、二、三日津へ寄りました。「同級生四人で俺が先任だよ」「先任てなんなの」「一番えらいんだ。挨拶に○○以下と言うだろ」「ふーん」と子どもたちと愉快にしゃべっていましたが、これが家族との最後になりました。

 二十年七月になると、津も空襲で大変でした。自宅も焼けて、線路ぎわをふとんかぶって逃げました。久美とはぐれて、もう生きて会えないかと心配しましたが、幸い自宅の焼け跡で一緒になりました。夏なのに明け方は寒く、母子三人かたまって残り火にあたりました(淑子は毛原へ帰っていました)。あの混乱ですのに、夜が明けると焼け残った新町小学校で、大きな玄米のおにぎりを頂きました。焼け跡で二日ぐらい過ごし、久美を毛原へ帰して、正昭と二人、知り合いの農家へ厄介になっているうちに終戦になり、玉音放送はそこで聞きました。

 十六日と思いますが、毛原へ帰るため、名張に着いたら夕方で、暗くなると、どの家もあかあかと道まで明かりが漏れています。ああ、これで戦争は終わったのだとしみじみ思いました。大勢の人が死んだ。正通も、弟の増田一郎も。そして多分、政之も……。あの人も、この人もと思うと、胸が痛みました。 正通の遺品が届きました。あの激戦地から、戦友の皆様が、一生懸命守って、持って帰って下さったと思います。

「明日早朝攻撃に向ふ。二千六百年の光輝ある歴史 皇国の隆昌を願ふのみ。生前今日迄の御養育を謝し、正通は「にっこり」笑って敵に突込む。遥か母上様の御健康を祈る。」             昭和二十年一月三日 

出撃前夜 二四、○○ 於比島某基地

君の為尽す命は惜しまねど

唯気にかかる国の行くすえ

たらちねの父母迎えん靖国に

明日は行くなり南冥の空

散って征く あゝ散って征く

散って征く 

元気ナ英姿ヲ残シテ 福山ハ征キマシタ  皆様ヨ、  同期生 床尾中尉」

(原文のまま・編集部)

 正通の同期生六二五人、戦死者三三五人、見送って下さった床尾中尉さんも特攻で四月散華、幸い、父政之は、二十一年ビルマ(ミヤンマー)から九死に一生を得て帰って来たのでした。

「神鷹追想記」より(原文のまま・編集部)

○「正通に捧ぐ」  

 父 福山 政之 明治三十一年生

 昭和二十年八月十八日、終戦のことを聞くや、息子正通は健在か、あるいは空の華と散りしか、希望と危惧(きぐ)の念五分々々にて帰還船の来るのを待てり。

 昭和二十一年七月十日、待望の内地(宇品)に上陸するや、直ちに正通の安否を妻に照会す。七月十九日、待ちに待ちたる返事を、広島市南方復員本部にて受け取り、吉か凶か胸躍らせつつ開封黙読すれば、その一節に「……それよりもあなたを落胆させることが一つ待っていたのです。それは正通が蕾(つぼみ)のまま散って行ったことです。名も床しい神風特攻隊員として、比島「リンガエン湾」に砕けてしまいました。

 戦い中ならばよくやったとあなたも賞めてやって下さって、諦らめもついたことでしょうが、今となって初めてお聞かせ申しては、さぞ御悲嘆に暮れられることでございましょう。任官になった晴れ姿をお見せ申したいと念願したものでしたが戦死してからの……」。

 また、久美よりは「お兄様は去年一月六日神風特別攻撃隊金剛隊員として、惜しき二十四歳の生涯を終えられました」とありて、初めて正通の壮烈なる戦死を知る。正通は報国の一念に燃え、一死君恩に報ぜんと欣然として、生きて帰らぬ愛機を操縦し、南冥の空高く飛び行きしならん。

 然れども遺憾なる終局となり、必死の行動もその効なかりしを憾みとす。せめて正通が生い立ちし人柄を記し、後世に遺すこととし、今は亡き愛児正通の霊に捧ぐ。

 かねてよりかくあるものと期しながら今日のおとずれ腸にしむ。

国の為 命ささげし いとし子の

心や神に ひとしかるらん

 愛し子の 晴れの死所は リンガエン

その名も床し 神風特攻隊 

海兵の制服姿で 訣れにし 

延吉駅のさま 目に浮かぶ

 (七月十九日 愛息の昇天を識りて)

―以下略―

○「兄を想う」 

妹 植田 淑子(旧 福山)

大正一五年生(大阪市)

兄弟姉妹四人のうち、兄は両親と別れて田舎に住んでいました。東豊小学校四年生の三学期から、奈良の小学校に転校しました。この兄は、私が女学校にパスすると (昭和十四年)、早速大阪の近鉄百貨店に連れて行き、若い女性用のコンビの革靴を買ってくれ、女店員さんがサイズを合わせる間、少し離れた所で手を後に組み、満足気にその様子を眺めておりました。今でも似たような靴を見るたびに、思い出して複雑な気持ちがします。海兵に見事に合格した兄は、帰省の度にいろいろとみやげを買って来てくれました。江田島のネーブルなどは本当においしかったです。

 ある時、帰りが深夜になり、私たちは待ちくたびれて寝ていたら、いつの間に帰ったのか枕元で「淑ベエ 起きろよ、兄さん帰ったぞ」とささやくではありませんか。私たちは、大好きな兄の声で飛び起きました。それぞれ、皆おみやげを頂いた中で、私が頂いたのは一本の口紅でした。まだ女学生で用のない物でしたが、兄はどんな想いで女性用の品物を買ったのでしょうか。殺伐とした世の中でしたから、何となく華やいだ気分に浸りたかったのではと想像します。

 「淑ベエ、兄さんがつけてあげよう」と言って、私のあごを支えて塗ってくれたのです。私は目を閉じてそのままじっとしていました。乙女心にうれしくて、鏡に映るきれいな唇を眺めておりました。翌日、妹と三人で津の町に散歩に出かけました。さっそうと闊歩(かっぽ)する兄の姿は本当に誇らしいものでした。短剣を吊()り、マントをひるがえして歩く兄の後から、町行く人の視線を浴び,私たち姉妹の自慢の兄でした。この兄も特攻隊で散って今年で五十回忌になります。どうぞ安らかに……、母さんをお守り下さいね.

 

○ 「兄に捧げる

        浦 久美(旧姓福山)
昭和三年生(切幡)

 元気で居れば、七十三歳の良いおじいさんになっているのであろう兄。

山添村には、兄を憶えていて下さる人はほとんどいないでしょうが、数年前、たまたま兄と同級生だった岩鼻のS・M様が「正通ちゃんは小学校四年生まで机を並べた仲だったのに、さよならも言わずに別れてしまい、とても悲しかった。今でも忘れてはいない」と言って下さり、とても感激しました。 私たちの育ったなつかしい家は、昭和十七年の毛原の大火で類焼してしまいましたが、その前年の夏休み、兄の入校後、初めての休暇で、兄弟姉妹そろってお祖母さんを訪ねました。年寄り二人で田畑を守って、農業、養蚕をしてくれてありがとう。済まないと思う気持ちが一杯だったのでしょう。兄が蓑(みの)着て笠着て鍬持って、お百姓さんご苦労さん。今年も豊年満作で、お米がたくさんとれるよう芽を出せ実れとお働き」と歌ったことが、今も忘れられません。

追悼亡兄五十年忌  浦  久美

(なにわ会ニュース91号45頁)

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