平成22年4月28日 校正すみ
福山正通を直掩して
藤田 昇
十二月三十日か三十一日、比島マバラカット西飛行場に飛来した。それは二十機程度の隊であったと思う。元山空から派遣された特攻隊で、隊長は七十一期金谷真一大尉。搭乗機は練習航空隊らしくカーキ色の一号戦あり、52型も旧式のものがほとんどであった。比島は気温40度程度で空気密度が薄く、朝鮮及び内地から来ると機のスピードが非常に速く、着陸時には驚く程の猛スピードで地上を走った。又舵の利きが悪く、同一メーターでも約2倍の対地スピードに感じられる。又、事実その様だった。そのため3〜4機が着陸に失敗して破損した。隊員で兵学校出身者は金谷氏と福山君2名で、他は予備学生諸君がほとんどであったと思う。小生記録をほとんど焼失しているので思い出すままで失礼します。他の人名は記憶にありません。
19年12月末頃マバラカットは、連日空襲下にあり、昼間はBー29の編隊爆撃、又はBー25の低空落下傘爆撃があり、同時にP38・47の制空銃撃ありで、その間をぬっての攻撃発進又は空中待避(爆撃破損を避ける為に4〜5時間他所へ飛行する)に明け暮れしていた。小生も比島の当地へ来たのは十二月下旬で、内地松山を発って上海回りで来たのだが、未だその時、搭乗員はマバラカット町にある一寸程度のよい民家一軒の宿舎に居た。着陸したのが午後4時頃で、すべて飛来到着するのがその頃をねらっていた。それは、その時間には敵機はほとんど帰った後であり、又、クラーク飛行場は爆撃の整備も終り、飛来機の誘導も出来る状態であった。飛来機を我が基地に着陸させ、それを獲得するため獲得合戦の様な事になり、各基地からバンクを振って誘導する飛行機が別々に何機も出現して、飛来機は何処へ行けば良いのか分らなくなるような事もあった。
マバラカット飛行場は、その中央に農道の様な道があり、カムフラージュのため移動出来る小屋が中央に置いてあり、発着時にはこれを取りのぞいて、ランウェイとして使用する様にしてあった。ために、最初来た時には、その上空を通過したのに分らなかった。敵がよくも見つけえたものだと感心するくらい巧妙に配置されており、その為、マバラカット西飛行場は、割合後日迄爆撃をまぬがれたらしい。
着陸着任早々、その夜、中島 正飛行長より長々と特攻隊の説明があり、夜の12時頃迄やりきれぬ思いでそのお達しを聞いたのを覚えている。各地にある不時着場及び現在の戦況等、又特攻の攻撃方法、精神訓話など、ためになる事が多かった様だが、何しろ熱くて眠く暗く、とにかく苦痛であったのが先にたった。小生等は第一航戦より派遣された36機の編成であった。艦爆隊12機、直掩隊12機、誘導隊彗星6機、予備機6機であり、出発時には当隊は空母にのみ体当りを行い、その他輸送船等には降下爆撃をすると言う命令であった。ところが、中島中佐飛行長は、当二〇一空に来たからにはそんなことは出来ないと、我々の目的変更を命令された。当六〇一空派遣隊の兵学校出身者は、七〇期の艦爆、青野 豊大尉を隊長として、機関科コレス園田 勇君(爆)、それに私、藤田 昇(戦)であった。総員、20年1月6日、リンガエン攻撃にて、私の直掩を最後にリンガエンの海に消えた。20年1月6日の攻撃時は爆装16機、直掩は私の他に一名、加藤上飛曹であった。出発時、玉井浅一司令より、直掩は帰って来いよと強く言い渡された。16機も突入隊を出すのである。突入機本人に対しても、或る心の安らぎを与え得た様に思われた。
隊の編制16機の内訳は、青野隊8名(含む 園田 勇)、元山隊8名(含む 福山正通)の混合部隊となった。元山隊の一機故障で引返し、又青野隊の一機降爆により輸送船に命中弾を与えたのち帰投したが、その他は分らない。小生機は元山隊のオレンジ色練習機一号戦であり、エンジンの馬力もなく、青野機の二五〇sを持つ機に追いつかず直掩機ながら下方後部にとり残された形で、リンガエンに向った。その為、青野隊長機には追従出来ずリンガエン湾内高度一〇〇〇mで16機の戦果確認のみとなり、敵艦よりの機銃高角砲の砲撃を受けながら約二時間湾内を右往左往し、時たまに黒煙白煙が敵艦よりあがるのを見るや、状況確認の為、そちらへ行きつ、もどりつして、二番機が我燃料あと少量と報告してくるまでリンガエン湾上にあった。いちばん近くで確認した戦果は、千五百米程度の距離で巡洋艦後部砲搭直撃一機、残念ながら閃光一つ、零戦の主翼破片が後部デッキに見え黒煙少々、どうも不発であった様だった。感傷にふける間もなく8隻からの集中水平射撃を受く。4〜5千mに黒煙2条、水平線上に黒煙3条望観す。
敵グラマン編隊北方上空に望観するも当方には気づかない。超低高度で基地へ向かう途中、敵9機の編隊銃撃を受く。P40と思われた。難なくふり切り、又爆撃中の基地に帰着したが二番機撃墜さる。この特攻攻撃を私の手元にある記録では十九金剛隊となっているが、他には二三金剛隊と記したものもあり、今もって何れか不明である。
金谷大尉及び福山君等は、元山空に於いて率先してこの攻撃に参加すべく志願し決死の覚悟を以って来比された事については、私は心がいたむのを覚える。私の場合は、私の不在中に命令されており、それは木更津に飛行機受領に行っていた間の出来事であった。松山に帰着するや隊長より、藤田お前は特攻の直掩にフィリッピンに行ってくれと言われたのがそもそもの始めであり、それについて行く部下搭乗員11名を人選する様に言われただけである。知らぬ間になった特攻隊員である。
福山君および当隊(一航戦)爆の園田 勇君の様な決心は何も無く、考え様によってはまことにはずかしい次第であるが、唯命令のままに動いた。又、二〇一空では玉井浅一司令も一航戦よりの特攻隊として、特に直掩隊は爆装しなかった。主に戦闘機の任務として命令されていた様に思う。
福山君たちの一隊は、19年12月末マバラカットに来てから突入まで約6日間の短い日数であったが、宿舎は記憶にないが飛行場で毎日顔を合わせていた。その隊の中に学徒出の13期でものすごく元気な人がいて、毎日大声で話をして笑っていた事を憶えている。「駆逐艦であろうと何であろうと編隊でぶつかろうではないか」と。1月6日出撃まで毎日爆撃を受け、私は2回退避飛行をしたので4時間ぐらいは不在であった。6日の午前最後の命令を受ける。
本日の攻撃を以ってわが二〇一空、いや比島に於ける海軍の最後の攻撃であると司令よりの話があった。爆装隊員はこれを逃すと、山ごもり陸戦隊になる事は充分分っていたので、希望者が多かった事は事実であった。
(なにわ会ニュース60号19頁)