深井 良のチェスト
編 集 部
1945年5月11日に第六次菊水作戦第九銀河隊指揮官として海軍宮崎基地からアメリカ海軍第58機動部隊に対し特攻攻撃して戦死した深井 良君を偲び、甥の深井紳一氏が『深井良のチェスト』と題したHPを公開した。その要旨を紹介する。
『伯父について調べる以前は、特攻とは理性より護皇とか熱烈な軍国主義に基づく情熱、感情で行なわれてきたものと漠然と考えていました。しかし伯父と父の書簡、海軍兵学校の同期生達の記録などを見ると彼等が冷静で健全な判断力、知性を持ち家族思いの素晴らしい青年達であった事が分かります。ただ、彼等に選択肢は無かったのです。特攻は美しい行為などではなく、人類の歴史で最も残酷な出来事のひとつであったと思います。テロリストによる自爆攻撃とは特攻が自分の利益が全く考えられていないという動機の点で全く異なる事だと考えます。
この記録を後世に残す責任を感じます。事実の記録は未来のための学習材料となるはずです。このサイトを訪れて頂いた方に特攻が遥か昔の自分達に無関係な事でなく、誰もが同じ状況に置かれれば起こりかねない身近なものに感じて頂けるなら幸いです。詳細についてご関心のある方は拙書「第九銀河隊指揮官深井良」元就出版社1680円をご覧下さい。蔵書されている図書館もあるようです。
深井良 22年20日の生涯
1923年(大正12年)4月22日
深井清太郎とタケの五男三女の二男として誕生
1931年(昭和6年)2月1日
五男利男(私の父)誕生
1934年(昭和9年)12月23日
清太郎逝去
1940年(昭和15年)
横須賀中学(5年南組33番)を卒業。
成績は1年の1学期を除き、5学年を通じ英語、数学はほぼ10、
その他もほぼ8〜9の評価
1943年(昭和18年)9月15日
江田島の海軍兵学校を卒業、午後九時、広島駅を出発した軍用臨時列車は、瀬戸内海の潮の香りと、若い少尉候補生の熱気をのせて一路東へ、憧れの霞ケ浦海軍航空隊へ。戦局の推移と戦術の変換は、彼等から遠洋航海の夢を奪った。のみならず、生徒から飛行学生へ、江田島から霞ケ浦航空隊へ直行とここに艦隊勤務を知らない少尉候補生を誕生せしめた。すなわち、彼等のクラス七十二期は、空と海とに、兵学校卒業と同時に二分されたのである。
七十二期を主体とする第四十一期飛行学生の入隊である。
海軍兵学校入校時、34分隊で現在の生存者は足立喜次氏、
2年時は37分隊で現在の生存者は鈴木 彊氏、渡辺収一氏、
3年時は旭 輝雄氏。
彼等が、広島の街を潤歩している頃、彼等と三年間起居を共にし、「同じデッキに血を流さん」と誓った半数のクラスメイトたちは伊勢、山城、八雲、龍田の四艦に分乗し、練習実務航海の途についていたのである。
(第72期艦爆隊戦記(一)艦爆会有志 海兵72期なにわ会HPより )
1944年2月9日
霞空での練習機教程を終了し、百里空で99艦上爆撃機による実用機教程を開始。
練習機教程については良の横中同期生篠原茂雄氏のサイトをご参照下さい。
http://www1.ocn.ne.jp/~sshigeo/akatombo1.htm
1944年9月〜45年3月
宇佐空で実用機教程の教官として学生の訓練を担当。
1945年3月15日
全練習航空隊は解散になり、教官配置の搭乗員はそれぞれ第十航空艦隊実施部隊に転勤になる。 深井 良は501空に転任。
1945年3月21日
宇佐空(練習航空隊)を退隊
1945年3月23日
鹿屋基地着。実施部隊501空に編入
1945年3月29日
鹿児島出水空の攻撃406飛行隊に派遣
1945年4月16日
島根第二美保空へ転勤
1945年5月10日
陸上爆撃機銀河9機を宮崎空まで搬送する任務に就く。
宮崎空到着後夕刻に翌朝の出撃命令を受ける。
1945年5月11日
0602宮崎基地発進、「0726戦場到着予想時刻0900」を発信、以後消息を絶つ。
神風特攻として2階級昇進、海軍少佐、従6、旭5等の叙勲。
墓は横須賀市不入斗の西来寺
深忠院繹良詮信士 海軍少佐深井良と刻銘されている。
(なにわ会ニュース93号72頁 平成17年9月掲載)