平成22年4月28日 校正すみ
深井 良の記録
海軍兵学校72期21分隊(1号時)
1923年(大正12年)4月22日 深井清太郎とタケの5男3女の2男 良として横須賀で誕生
1931年(昭和6年)2月1日 五男利男(紳一の父)誕生
1934年(昭和9年)12月23日 清太郎逝去
横須賀中学在学生存者 以下敬称略
氏名 | 卒業中学 | 大学 | 学部 | 自衛隊 |
伊藤 正敬 | 攻玉社中48期 | ー | ー | 海自 |
左近允尚敏 |
横須賀中30期 |
ー |
ー |
海自 |
佐藤 静 |
横須賀中30期 |
東大 |
経 |
ー |
横中29期から入ったなにわ会の級友は海軍兵学校72期の加藤寿冶、斎藤勝延、佐藤美保、高木滋男、粒良久雄、土井輝章、林 慶治、深井 良、海軍機関学校53期の大津懿徳、海軍経理学校33期の安藤寿郎、吉田 博がいるが、加藤は平成20年、大津は平成3年、安藤は平成16年、吉田は昭和61年に病死
そのほか、横中29期で4年から合格した71期の加藤正一は戦死、神田英夫は昭和25年に病死している。
他に横中出身者のなにわ会会員には横中27期の土屋賢一(機)、30期の左近允尚敏、佐藤 静、吉成 淳がいるが、左近允、佐藤以外は戦死している。
海兵以外では牟田口義郎、西田通弘、吉田四郎(陸士56期)、斎須重一(陸士57期)森善治(陸士58期)、八巻淑博(13期飛行予備学生)成田真一、押田勇、石井宏三、福本裕、斉藤博、篠原茂雄(13期飛行予備学生)がいる。
横須賀中学29期、30期出身者の海軍兵学校の戦死者
氏名 |
階級 |
出身校 |
戦没地(所属) |
戦没年月日 |
横中 |
海軍 |
備考 |
加藤正一 |
大尉 |
横須賀中 |
台湾東方空域(攻501) |
19.10.14 |
29期 |
海兵71期 |
3番で卒業恩賜短剣拝受 |
高木滋男 |
中尉 |
横須賀中 |
サイパン沖(空母大鳳) |
19.06.19 |
29期 |
海兵72期 |
|
粒良久雄 |
大尉 |
横須賀中 |
宮崎基地(鹿屋空) |
19.12.14 |
29期 |
海兵72期 |
|
斎藤勝延 |
大尉 |
横須賀中 |
比島西方海面(駆逐艦樅) |
20.01.05 |
29期 |
海兵72期 |
|
土井輝章 |
大尉 |
横須賀中 |
マニラ(31特根) |
20.02.15 |
29期 |
海兵72期 |
|
林 慶治 |
大尉 |
横須賀中 |
小笠原方面(伊370) |
20.03.14 |
29期 |
海兵72期 |
|
深井 良 |
少佐 |
横須賀中 |
沖縄沖(攻501) |
20.05.11 |
29期 |
海兵72期 |
神風特攻 |
佐藤美保 |
大尉 |
横須賀中 |
南西諸島方面(攻704) |
20.05.24 |
29期 |
海兵72期 |
|
吉成 淳 |
少佐 |
横須賀中 |
門司港(駆逐艦冬月) |
20.08.20 |
30期 |
海兵72期 |
|
1940年(昭和15年) 横須賀中学(5年南組33番)修業。
11月3日 海軍兵学校合格通知
12月1日 海軍兵学校入学
真珠湾攻撃直後の母宛の手紙
お母さん 大へん御無沙汰して申譯ありません。此れには色々理由があったのです。
先ず第一が日米戰争の勃撥ですね。これには、そちらでも相當驚いたことでしよう。遂に私達にとって来るべきものが来たのです。それ故、兵學校では、實に物凄いものですよ。8日の朝でした。日本が英米と戰争を始めたといふことを知ったのは、私達も少しは豫期して居りましたが餘りに急なこと故、驚いたわけです。それから續いてもう一つ驚いたことは、海軍のすばらしい戰果です。もう一つ2日経ってから、私達は、冬期休暇廃止といふ達示を受けました。時局多難の折から当然なこととは思ひましたが、何だか私は眼前の目標を失ってしまった様な感じが致しました。待ちに待った休暇が1ヶ月足らずといふのに、なくなるのですからね。お母さんも、既に御承知のことでしょう。私達の直接の先輩が今、太平洋上で、英米を向うに、大戰争をやってゐるのに、私達が今冬休暇で歸省するなんて、一寸考へられませんね。併し、冬休暇が無くなったばかりなら、まだ良いですが、それからの日課が亦、改正されたのです。この日課は12月25日から實施されるのですが、今迄のやうに毎日5時間授業は6時間、土曜日も、午後は課業があるし、それが終ると直ちに訓練、あとは食事、入浴、自習それだけです。ですから、自分で勉強するのは自習時間の3時間です。又、祭日でも、四大節以外は授業があるらしいのです。1年の行事も大部分変更になりました。又、此の分で行くと、私達の卒業も相当早くなるかも知れません。休暇も止めて、猛勉強猛訓練ですからね。私も非常時、超非常時の兵學校生徒たるからには、此れ位のことで少しもへこたれはしません。益々頑張る積りです。お母さんも私の事は少しも氣をかけず、お過ごし下さい。 −中略− 此の休暇で色々計画を作って居りましたので、近い内に、書物を送って貰うかも知れません。これは後日お便りすることにします。−中略− 弟達にも、私が歸れないことをよく言って下さい。それから、ポチ公とチビ公にも。お正月に寫眞を撮ったら私の處へも送って下さい。お母さんも暇な時に、一通でも手紙を出して下さい。楽しみにして居ります。寒さ加はる折から、充分、躰に氣をつけて下さい。皆々様によろしく。では又。良。12月13日
1943年(昭和18年)9月15日
江田島の海軍兵学校を卒業、午後9時、広島駅を出発した軍用臨時列車は、瀬戸内海の潮の香りと、若い少尉候補生の熱気をのせて一路東へ、憧れの霞ケ浦海軍航空隊へ。生徒から飛行学生へ、江田島から霞ケ浦航空隊へ直行とここに艦隊勤務を知らない少尉候補生を誕生せしめた。72期は、空と海とに、兵学校卒業と同時に2分されたのである。72期を主体とする第41期飛行学生の入隊である。彼等が、広島の街を潤歩している頃、彼等と3間起居を共にし、「同じデッキに血を流さん」と誓った半数のクラスメイト達は伊勢、山城、八雲、龍田の4艦に分乗し、練習実務航海の途についていた。
(第72期艦爆隊戦記 なにわ会より)
海軍兵学校入校の72期の艦爆隊に行ったのは4号-3号時34分隊で現在の生存者は足立喜次氏、2号時の37分隊で現在の生存者なし、1号21分隊時は旭 輝雄氏である。
1944年2月9日
霞空で練習機教程を終了し,百里空で99艦上爆撃機による実用機教程を開始
第41期飛行学生 艦爆 総計35名 オリジナルは山田良彦氏作成
戦没者 22名
戦没者 | 没年月日 | 戦死地 | 所属 | ニックネーム |
岡田 次夫 | 190921 | 比島マニラ | 攻105 | モモちゃん |
川端 博和 | 191013 | 台湾沖 | 偵3 | ガスキン |
金原 薫 | 191014 | 台湾沖 | 偵4 | |
鈴木 忠雄 | 191014 | 沖縄南方 | 攻5 | |
小嶋 辰雄 | 191025 | 比島方面 | 攻3 | タイソウ |
近藤 寿男 | 191027 | 比島レイテ | 特攻義烈隊 | |
長尾榮二郎 | 191101 | 比島レイテ | 攻3 | |
長尾 利男 | 101107 | 箱根 | 302空 | ロング |
田邊 正 | 191125 | 比島方面 | 特攻吉野隊 | |
園田 勇 | 200106 | 比島イバ沖 | 特攻23金剛隊 | |
折笠 義郎 | 200121 | 大分基地 | 大分空 | |
西田 幸三 | 200121 | 台湾東方 | 特攻新高隊 | |
搦q 富二 | 200121 | 台湾東方 | 攻401 | |
阿部宏一郎 | 200216 | 犬吠埼南方 | 601空 | |
黒髪 馨 | 200226 | 鹿屋基地 | 攻262 | ヘルマン |
高崎 孝一 | 200402 | 沖縄方面 | 601空 | |
牛尾 久二 | 200406 | 沖縄北飛行場沖 | 特攻第1正統隊 | |
前橋 誠一 | 200406 | 沖縄方面 | 特攻第1正統隊 | |
高橋 義郎 | 200406 | 沖縄方面 | 特攻第1草薙隊 | ナグロー |
小山 力 | 200422 | 喜界島付近 | 偵102 | |
深井 良 | 200511 | 沖縄沖 | 特攻第9銀河隊 | ナイスボーイ |
岩村 舒夫 | 200726 | 第2千歳基地 | 霞空 | |
計 22名 |
戦後物故者(没年月日) 9名 | |||||
氏名 | 没年月日 | 氏名 | 没年月日 | 氏名 | 没年月日 |
清水憲太郎 | S551219 | 鬼山 茂樹 | H081227 | 押本 直正 | H131227 |
冨士 榮一 | S600720 | 藤尾 圭司 | H090202 | 伊佐 弘道 | H140627 |
坂元 正一 | H181228 | 多胡 光雄 | H220529 | 中川 好成 | H221113 |
生存者 4名(23年05月10日現在) |
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石坂 美男 | 谷内 能孝 | 東條 重道 | 山田 良彦 |
1944年9月〜45年3月まで宇佐空で実用機教程の教官として学生の訓練を担当
1945年3月15日 全練習航空隊は解散 教官配置の搭乗員は実施部隊へ
1945年3月21日 宇佐空(練習航空隊)
1945年3月23日 鹿屋基地着。実施部隊762空攻撃501飛行隊に編入
良の3月27日の日記
「小雨モ様ニ付∨(飛行)中止 母、野中、松浦ニ便リヲ書く 夜間攻撃ナシ
小雨降る淋しき夜」
日記中のハガキ
「前略 母上様には其の後お変わりなきことと存じます。扨(さ)て私も今宇佐を出てから某所に於て軍務に努めて居ります。時局多難の折、これより大いに張り切って國に御奉公致す覚悟です。母上様にはさぞお一人で色々と骨折られ居ることと思ひますが、呉々もお躰には御注意なされてお暮し下さい。私のことなどは何も御心配なく 必ず立派にやって見せますから。君に捧げたこの躰、私の躰ではありません。飛ぶ鳥はいずこを指してゆくのやら 己が古巣は靖国の森 母上様始め皆々様の御健康を切に祈って居ります。御返事は書くに及びません。小夜奈良 匆々 3月27日
1945年3月29日 鹿児島出水空の飛行隊に派遣
1945年4月16日 K501,k406は米軍の爆撃、空襲を避けるために島根第二美保空へ移動
1945年5月10日 美保空から陸上爆撃機銀河9機を宮崎空まで空輸する任務に就く
宮崎空到着直後に鹿屋の5航艦から直接翌朝の出撃命令を受ける。
762空の鈴木暸五郎飛行隊長は以前から特攻より強襲攻撃を支持、762空の壱岐春記少佐ともこの任務は特攻ではなく、空輸としてしか了解していない事を両氏から確認済み
機密電第092315番電
(ロ)晝間特攻隊(762部隊)極光ハ東海ヲ進撃 徳之島附近ニテ沖縄東方ニ迂囘 沖縄東南ヨリ0845頃泊地ニ進入 其ノ他ハ北西方面ヨリ突入
伊東勲一等飛行兵曹の遺書
「遺書 昭和20年5月10日午後5時48分
何もかくことはありません。只御両親様及久美子の健在を祈るのみ 勲は決して人におくれはとりません 潔よく散るのみです 目標は正規空母です 10日位したら徳島航空隊第14分隊5班上野切君に便りして下さい 写真は受け取ったと泣かずにほめて下さい 幸多かれと祈るなり 親戚の皆様に宜敷く 宮崎航空基地より6時20分
終り」
この第9銀河隊隊員の遺書から,特攻命令は1748以前,つまり美保空から宮崎空に到着直後に発令されたことが分かる。
1945年5月11日
0602宮崎基地発信 0726戦場到着予想時刻0900を発信、以後消息を絶ち行方不明。
戦闘詳報第108 「第5航空艦隊の作戦記録」
5月11日曇り後雨 10日2300沖縄攻撃周辺船夜間攻撃762部隊可動全力(銀河、重爆計13機)10日2300宮崎基地發進セルモ天候不良成果充分ナラズ 晝間攻撃隊制空戦闘機零戦65機、極光3機、艦攻5機、水偵2機、天山10機、櫻花4機、艦爆11機(哨戒艦艇攻撃)0530各基地發進0830頃突入攻撃ス、空母突入4機(極光、艦攻)艦種不詳突入2機(極光1、艦攻1)空母雷撃1、櫻花發進ヲ報ゼルモノ1機、6航軍重爆4機、四式戦闘機15機、特攻63機共同攻撃ヲ實施シ7機突入ヲ報ズ
(徳之島見張所ハ鳥島附近不詳2隻沈没ヲ認ム)敵信傍受ニヨレバ夜半以后夜戦延60機黎明后戦闘機延75機出撃シ我特攻隊ヲ邀撃セリ 泊地進入前撃墜セルモノ約40機ニ達セルモノノ如シ 我制空戦闘機ノ増強ハ天號作戦遂行上目下ノ急務ナリ 敵信傍受ニヨル敵損害ハ攻撃ヲ受ケタル艦船12隻 内2隻(Callours及びsister kate)ハ大損害ヲ受ケ1隻ハ沈没 1隻曳航ヲ要ス 他二隻(seawold ironside)ハ損傷ヲ受ク
櫻花ハ相當ノ損害ヲ與ヘタルガ如シ
USS Robley D Evancesの5月11日のDeck Logによると零戦 飛燕 天山 97式艦攻 99艦爆等の記述はあるが、(銀河、極光)は見当たらない。上記戦闘詳報では銀河による3隻の艦艇突入を記録している。アメリカ側の戦闘中の機種判別の確度は100%ではないので、銀河あるいは極光(銀河16型)が突入している可能性はある。また、戦史研究家神野正美氏により、アメリカ側から提供された銀河機の撃墜地点が確認されている
機密第111900番電
1KFGB天菊水6号作戦 戦闘概報(5月11日)
1 (略)
2 11日早朝発進
零戦制空隊約65機
航空母艦ニ突入ヲ報ゼシモノ 4機 極光2 爆戦2
艦種不詳ニ突入略確実ナルモノ2機 極光1 爆戦1
桜花発進ヲ報ゼシモノ 1機
極光(=銀河O型)の爆装は1tまでの設計ですが,80番(800kg)×2は1.6tで想定外の過荷重。直掩機も無く、陸上爆撃機銀河は空戦には不適である事もあり、会敵すれば死を意味するような無謀な作戦であったことが分かる。
神風特攻として2階級昇進、海軍少佐、従6 旭5等の叙勲
墓は横須賀市不入斗の西来寺 深忠院繹良詮信士 海軍少佐深井良と刻銘
深井良の手紙