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平成22年4月29日 校正すみ

田村生徒の殉職を藤田日記に偲

桂 理平

一、まえがき

 昭和五十二年十一月十九日、京都東山 南禅寺において昭和十七年海軍兵学校第四分隊員戦死者の三十三回忌慰霊祭法要が生存者によって催された。同期の戦死者藤田春男君の母堂と妹さんが参列して下さったが、その時持参された彼の日記を拝見し、深い感動を受けた。特に短艇競技中に全力力漕の末、心臓麻卑により殉職した田村誠治君に関する記述はその敢闘精神と藤田君の受けた感激ぶりが文中に躍っていた。年移り世は変ったとはいえ、あの頃の充実し緊張して過した日々をなつかしく思い出した。同分隊員であった私から紹介させていただく。

 太平洋戦争の勃発する直前、71期生徒11名、真崎三郎を初めとして72生徒12名、73期生徒17名を以って第四分隊が編成された。寝食を共にし日夜学業訓練に励んだ。昭和十七年五月、全校生徒の参加した短艇競技での出来事であった。

ニ、藤田日記(抜粋)

 五月十七日(昭和17年)

 此の日こそ余の一生を通じて忘れられざる日なるべし。短艇週間の最後の日なり。第四分隊第一クルーは第五十一カッターに移栗、競技場に出発す。「頑張れ」の声援をあとに必ず勝つの信念の下、意気旺盛なり。出発するやぐんぐん行脚がつく。全力力漕一等を期し漕ぎに漕ぐ。回頭点に至って先頭、帰りは既に全力を使い果し唯精神力のみ、漕ぐ漕ぐ、へたばる、頑張る。遂にゴールイン、一着だ。

「櫂立て」の号令、12本の櫂稽が勝ち誇るように一斉に立った。その瞬間二番の櫂がゆっくりと倒れ、田村がうつ伏せている。直ちに内火艇に移し軍医官の手当を受け病室に自動車で運び、血の滲み出る如き努力ありしに拘らず、田村は遂に帰らなかった。

 鳴呼、田村呼べど答えず、今は亡し。

 思えば昨年分隊編制替以来、自習室に寝室に倶楽部にと苦楽を共にした田村だった。

 彼は樺太真岡の出身、俺は南洋バラオだ。日本の最北と最南に生れた二人は気が良く合った。勉強の際は全智全能をしぼり、剣道は初段、銃剣術競技では五人を抜きし猛者。我れ勝たざるはカッターが悪いのだから底栓をあけて沈めてしまうぞと叫び、手に豆を十七つくった、生徒館一の豆を持っているぞと冗談も云う明朗な気性なり。意気と熱と頑張りの人なりき。「斃れて後己む」真に武人の典型たりと云うべし。

 

五月十八日

 風波あり。真に必勝を期す第四分隊、起床後第一クルー以外は悲しき故田村生徒の遺骨を拾いに行く。悲壮なる決意を持っての競技にして一生の内、思い出深き日となった。第四回戦圧倒的に勝つ。九分二十秒35、田

村の写真を乗せて漕ぐ。写真は艇長二階堂伍長の片手にあった。頑張る、頑張る「田村頑張るぞ」と心に叫び自らを鞭打ち力漕、死力を尽して戦う。真に壮烈 男を磨く。かくまで俺達は鍛えに鍛えるのだ。最後の優勝戦で

は二着となった。破れた! 残念、田村申訳ない、許せ・・・。しかし我々をして全校百六十二のクルーの中で第二位の栄冠をもたらせるは、実に田村の霊の然らしむる所だ。有り難う。今初めて「メタル」を授与された。貴様と話していたメタルだ。貴様も貰った、俺も貰った。喜べ。斃れて後己むとは言うは易いが行うは難し。それを実行した。海上武人の亀鑑なり。安らかに眠れ。戦死にも劣らざるものあり、俺も必ず立派に国の為に死せん。その時は又一緒に語らう。(筆者注、欄外に分隊生活の真髄を把捉したと誌されていた)

 萬事死を賭して当る、必ずや天は助けん。

 

五月二十三日

 故田村生徒、海軍葬の日なり。全校生徒千代田艦橋前に整列して行れたり。第四分隊員は儀伎隊となる。田村の遺骨が安置せられた。軍艦旗は悲しくも半揚、僧侶の読経の後、校長閣下、分隊監事、伍長、期生徒の切々たる弔辞、終って弔銃の発射。悲しくもあたりにこだます。田村よ、安ららかに眠れ。貴様の分も俺は必ずやるぞ。

 

三、あとがき

 藤田君は兵学校卒業後、飛行学生となり更に修業を積み転戦奮闘したが、昭和20319日神風特攻隊菊水隊員として九州南方空域に戦死した。田村に誓った言葉どおり護国の英霊となった。私共は33回忌にあたり一

花の蕾のまま散華された諸兄に対し心から冥福を祈りました。

 戦後を戦い抜きつつある私友も近い将来先きに逝った諸兄とも再会できる日が来ると思います。その時には大いに語りあいたいと考えています。

 貴様と俺とは同期の桜  離れ離れに散らうとも

  春の都の靖国神社  花の梢に咲いて逢おう

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(なにわ会ニュース38号47頁 昭和53年3月掲載)

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