TOPへ   戦没目次

平成22年4月24日 校正すみ

金剛隊隊長 遠藤晴次中尉

高橋 良生

遠藤 晴次

(編集部説明 ・筆者は遠藤晴次が第28金剛隊指揮官として、昭和20年1月七日、比島リンガエン湾の敵艦船に突入した時、直(えん)機としてその最期を看取った部下である。

57年11月30日、12月10日、12月19日、58年1月5日と4回にわたって、遠藤の母堂に書き送られた手紙に、中見出しをつけるなどして編集したものである。

なお、高橋良生氏は甲種予科練習生10期、17年4月入隊。飛練練習機教程を霞空三沢分遣隊で終了し、戦闘機延長・実用機教程を大村・岩国空で19年4月卒業。253空(トラック)、201空(比島)と転戦し、20年2月から343空(松山)で終戦となった。」

 

謹啓、師走となり何かと気忙しい時となりしました。私、元201空で金剛隊の遠藤中尉と一緒に出撃しました高橋と申します。堅牢通信と言う新聞(57920号)に金剛隊、遠藤清次氏の書簡(注)が載っていました。間違いなく私の分隊士であった遠藤中尉だと思い、海兵72期大村哲哉氏に連絡を取り、分隊士の御遺族の住所を知りました。

遠藤中尉とは、19年12月14日から出撃の1月7日まで一緒に暮しました。特攻と言う環境にあったせいか、40年近くなる今日でも良く思い出されます。それにもまして分隊士の人となりが武人の手本でもあった故だと思います。

 

 遠藤中尉との出会い

12月14日「高橋兵曹、指揮所前に集会。」と要務士(予備学生の分隊士)の呼出しに私は予期して居ない事に「特攻では?」と一瞬とまどいと身の震えを感じました。

指揮所(比島マバラカット西飛行場の西の端に小高く盛り上った処を切り開いて造ってあった。)に急いで参りました。将校が2人、兵が6名です。整列を終り飛行長より「特攻隊としてエチヤゲ基地(ルソン島北部にある小さな町)に向け出発せよ。以後の指揮は、エチヤゲ基地の隊長の命による。必勝の成功を祈る。」と命令が下されました。私は「思っていた通り特攻か…。」心臓が早鐘の様に鳴り飛行長の命令も聞き取れぬ程でした。

飛行長に敬礼を終り、特攻隊の隊長より「これからエチヤゲ基地に向け出発する。途中敵機の攻撃があるかも知れないから、編隊をくずさない様にして見張りには特に注意する様に。」との注意が与えられました。特攻隊の隊長が遠藤中尉でした。私は遠藤中尉の3番機として、エチヤゲ基地に出発しました。飛行機の人となった私の心は落ち着いていました。

エチヤゲ基地に無事着き、基地隊長より「労をねぎらう言葉と必勝を期待する言葉」が有りました。遠藤隊長より「今日は赤穂四十七士の討入りの日である。必ず特攻は成功するものと信ずる。各自体に気を付ける様に。」との注意の言葉があり解散しました。

12月15日、特攻隊の編成が基地隊長より発表され、特攻命令があるまで待機です。

 遠藤中尉が隊長で遠藤小隊と予備学生の小隊に分れ、私は隊長機の直掩機(特攻機を敵機から守り戦果を確認する。)です。250s爆弾を装備します。

 

 出撃前の訓練

待機中の日々(15日から20日)隊長は戦闘訓練をしました。編隊訓練、追撃攻撃訓練、同位攻撃訓練、劣位退避訓練等でした。

 隊長は「俺は腕が未熟だからな。」と言って、他小隊では訓練を行わなくても進んで私を引っ張って訓練に上がりました。力一杯の訓練です。私は待機所に居てあれこれと考えこむより、訓練ですべてを忘れる方がずっと楽でした。然し、隊長は「攻撃途中敵機に出合ったら腕が充分でなければ敵艦を攻撃することは出来ないから、充分腕を磨いておこう」と考えての訓練であったと思います。

隊長としての責任、特攻としての責任を充分考えられていた立派な方だったこと、今も心に残っています。特攻でなく直掩機であったらきっと其の責任を果し、良く一機当千、一機よく十艦を打ち取った事だろうと思っています。

12月21日「マニラ東方○○浬に敵機動部隊が現れたから特攻待機とする。」との指示により、本日より訓練が中止となりました。特攻機に爆弾が取り付けられ、待機所は緊張に包まれました。然し、誤報との事で緊張はほぐれ、飛行機の爆弾はおろされました。特攻待機はずっと続きました。

 

3、クリスマス・イブの思い出

12月24日、待機所に毎日昼近く果物や砂糖を売りに来るおばさんが居りました。おばさんか「今日はクリスマスのサービスをするから、これ買って下さい。」と一羽の鶏を持って来ました。私達はどうしたものかワイワイ言っていました。隊長がニコニコして私達の仲間に入って来ました。「よし俺が買ってやる。今晩皆で食べよう。」と言って隊長がその鶏を買いました。おばさんは約束通り、バナナ一房をサービスして呉れました。

午后、予備学生の分隊士が「鶏の首を俺が切ってやる。」と言って軍刀を持って来ました。

鶏の首と足を紐で縛って首が長くなる様、上下に引張りつるしました。分隊士が軍刀を振りかざし、サット横に振りました。羽根が厚いのか、あの細い首が切れません。隊長はそれを見て「俺が切ってやる。」と言って、鶏を横に引っ張って首の下に板を敷きました。軍刀を上段にかまえ、サット振りおろすと首は見事に切れました。

整備科の兵隊が見る間に鶏を解体しました。甘そうな肉が一杯出来ました。骨はスープ、肉は煮込みにして士官も兵も一緒になって食べました。

きっと隊長が料理人、材料、鍋等、昼の間に手配して呉れたものと思っています。

隊長が待機所を引き揚げる夕方、私達に「今晩町に遊びに来ないか。」と誘って下さいました。(私達の兵舎から町の入口まで6、7百米あったと思います)約束の町の入口に行くと、隊長と分隊士が待っていました。三叉路(私達の来た方から町に入ると其処が三叉路でした。)を左に曲がって少し行った所に一寸した広場があり、多勢の人が集まっておりました。何だろうと見ると豚をマナ板の上に縛り付け、お婆さんが何か神に祈っています。祈り終るとキーキー鳴く豚の心臓目掛けて短刀を付き差しました。町の人に聞いて見ると、「クリスマス・イブには豚の丸焼きをして、皆なで食べる。」との事でした。そして豚を神に捧げるお祈りをするのだそうです。

広場を去って三叉路を右の方へ行きました。飛行服を着ている私達が珍しいのか、大勢の人が私達を取り囲み、何か質問をします。

隊長は英語で答えます。一人の若者が手まねで何か尋ねます。「飛行機が宙返りの時に搭乗員はなぜ落ちないのか。」と言うのです。隊長は英語と日本語を交ぜて答えました。若者は、なっとくした様でした。

私は「隊長は『海兵』の出身だと思っていたが、こんなに上手に英語を話すのだから、若しや大学出の予備学生ではないか。」と思いました。この疑問は最近まで続いていました。

隊長が「高橋兵曹、好い娘が居るぞ。」と私に言いました。大勢の人々と分れて二・三十米歩いた処です。日が暮れて夕闇に包まれ、まだ人の顔が近くでは見えます(比島では冬でも内地の夏の様でした。7時頃には全く暗くなります)見ると娘はスペイン系の娘です。娘は私達の前まで来ると、右に曲って行きました。私達は娘の後を付けました。間もなく娘は、小さな、小さな教会へは入って行きました。

私達も入りました。教会の中で一番後の席に着いて、娘は何処かと探しました。私達の右方少し前の席に彼氏か主人か男性と一緒でした。隊長が「彼氏が居て残念。」と言って笑いました。お祈りがあり、オルガンに合せて歌が歌われました。私達は静かに教会を出ました。

暗い裸電球が町の人々を静かに照らし、お祈りする人々の姿が私達を追い出す様でした。

外は全く暗くなって居ました。角の処まで来ると、町の人が三々五々歩いております。その後について私達も歩きました。広い広場に多勢の人が集って、音楽に合せて踊って居ました。町の人は夢中でした。でも私達にはこの祭りも合いません.直ぐ引き上げました。

三叉路に戻り、隊長等と分れて私達は兵舎に帰りました。士官は町の中の民家を借りていた様です。私達は高校の一室を借りて兵舎にして居ました。

 

4, クリスマスと最後の訓練

12月25日、待機所から兵舎に帰る時になって、隊長から「今晩招待されて居るから、皆遊びに来ないか。昨日の処で待っている。」と言われました。

三叉路を右に曲った直ぐの処の家が招待してくれた家でした。床の高い家です。階段を上ると右に応接室がありました。何の飾りもない只広い部屋で、テーブルと椅子が置いてあるだけです。まず、主人が挨拶をして奥に行き、代りに奥さんが出て来て私達に挨拶をしました。隊長中心に話が始まりました。今度は主人が出て来て奥さんと代りました。間もなく(でも大変長い間の様でした。)食事が出ました。ライスカレーでした。果物が出ました。話は隊長中心です」。私達は久し振りの食事(隊外で食事すること)に嬉しさ一杯でした。

招待してくれた方は、官吏だとか言っていました。私達の為に兵舎等世話をして下さった方だと思いました。

食事を終えた私達(隊長を含めて)は近くの食堂に遊びに行きました。(この食堂の奥に賭博場があったからです)現地人の人は食事を手で食べて居ます。一寸変った風に驚きました。

奥の間に陸軍の伍長殿が居て、現地人の奥さん連中と賭けをして大分勝っていた様です。

奥さんと言うよりおばあさんと言う方が似合う人が、泣く子のお尻を打って血眼になって賭けていました。陸軍さんが私達に「明日ワニ狩を行うから見に来ないか。」と申しました。隊長は「私達は飛行機整備やら何かで忙しいから、暇が出来たら又お願いします。」と言って断りました。おとなしい挨拶でした。

私は陸軍さんに「この人は海軍中尉だぞ。」と告げました。陸軍さんはびっくりして、不動の姿勢をとり敬礼しました。隊長はニコニコして「頑張れよ。」と陸軍さんの肩をたたきました。私達は飛行服ですから、他人から見ると階級が一寸分りません。

隊長は隊外に出て遊ぶ時は、階級を意識して居ない様でした。

12月26日、特攻待機中ですが、基地隊長の許可を得て、編隊訓練を行いました。昨夜の陸軍さんの呼び掛けに答えている様でした。また、宙返りに疑問を持って居た人々に対する答えでもある様でした。訓練はそれが最後でした。

私達がエチヤゲ基地に特攻隊として待機している事は、軍の秘密だったのか隊長は町に出て一言も特攻という態度は見せませんでした。普通の兵隊であり、市民であるようでした。


5、 特攻待機の大みそかと元旦

12月31日、基地隊長より特攻命令が下されました。出発命令があるまで待機所のテーブルに向い、覚悟はしているものの矢張り故郷の事、親兄弟姉妹の事等、頭の中をぐるぐる廻り浮びます。テーブルには何時も筆と墨が用意してあります。遠藤隊長は落ち着いて皆の肩をたたき「準備は出来たか?」といって廻って居ました。飛行機が列線に並んだ時、基地隊長より「攻撃取り止め。」の命がありました。

1月1日、元旦の食事は常と違って立派でした。基地隊長の話では、食事は陸軍の方にお願いしておる由でした。マパラカットの特攻隊員は、雑炊に芋が付く位だとか、私達の食事は大変良かったと思います。

整列を終り基地隊長の号令で(皇居)北方遥拝をしました。隊長の新年の言葉が有り、「本日は特攻待機を解く。」と申し渡しがありました。

昼食から元旦の宴会が始まりました。士官、兵一緒でした。基地隊長からの差入れがあり盛大でした。皆で蛮声を張り上げ歌を歌いました。また、踊りました。士官では遠藤隊長が良く歌いました。兵では平野兵曹が歌い踊りました。私は隊長が良く歌を(流行歌)知っているので、矢張り大学出の予備学生かなと思いました。

2日から出撃までの事は覚えていません。敵が近くに来ている事、緊張感が強かった事は確かでした。

指揮所(士官が待機する処)待機所(兵が待機する所)と有り、朝の整列が終ると士官、兵それぞれの場所にて待機します。然し、待機の大部分は、士官、兵一緒に待機所で思い思いの事をしておりました。(将棋、トランプ、花札等です)昼近くなると物売りのおばさん、子供が来ます。英語と日本語で色々の話をしました。

基地隊長が「一口話」をして皆を笑わせました。隊長の言うのには「海軍大尉になるには、一口話の五十や百は知らなければなれない。」そうです。遠藤隊長は一生懸命考えては話してくれました。「鹿の上に馬が居るよ」「馬鹿!」、「垣根を造ったよ」「へイ」と言う様な言葉でした。毎食後、良く軍歌演習がありました。遠藤隊長の号令で大きく手を振って、ももを高く上げて大声で軍歌を歌いました。終って流行歌を歌いました。士気の高揚の為だったと思います。

 

 出撃・突入.遠藤中尉の最期

20年1月7日、基地隊長より「リンガエンに上陸する敵に対し特別攻撃を行う。攻撃隊形、遠藤小隊低空攻撃、他区隊(予備学生の中尉、名前を思い出せません)高々度攻撃。」と特攻の命が(くだ)りました。時は昼食を終った13時頃でした。

特攻隊長の遠藤中尉からは何も注意はありません。他区隊長と打ち合わせをして私に「頼むぞ」の一言でした。大きく手を挙げ前に振り下ろして、出発の合図をしました。

エチヤゲ基地を離陸した遠藤中尉指揮する第28金剛隊8機は、西北西のリンガエン湾へと進撃しました。私の飛行機の調子が悪くなったのは、山越えに入る前でした。機庄計が一度に下って、プロペラの回転が出ません。高度は上らず、編隊から少しずつ遅れ始めました。

隊長機がスーツと私に近着き「早く来い。早く来い。」と手信号で呼び掛けます。隊長の顔は厳しいが、余裕ある顔です。私は口を開き、水を飲む。手信号で手を横に振ります。「燃料が出ない。だめだ、だめだ。」と合図をしました。隊長はゆっくりとバンクを振り、にっこり笑みを浮べて手を挙げ「了解々々。」と直ちに金剛隊の隊長機の位置に着きました。

私は引き返すか、このまま進むか一瞬ためらいました。私には直(えん)としての任務と戦果確認の務めがあります。遅れながらも戦果確認をと、山肌に沿って西へ西へと進みました。

他区隊の一機がおくれ始め、私の機と並びました。真鍋兵曹です。(空母から特攻に来た古参の兵曹です。)私は「ホット」しました。

2機は愛機をいたわり乍ら、リンガエン湾へと山肌に沿って進みました。

金剛隊は進路を少し北に変えて、山越えに入りました。山の向うに消えて行く隊長に「すみません。どうか攻撃を成劫させて下さい。」と心からお詫びすると同時に成功を祈りました。

リンガエンに出ました。北に向きを変えると、直ぐ目の前に敵の上陸舟艇、軍艦が見えます。空は敵の対空砲火の煙で暗くなる位です。「戦果は、戦果は」と気があせり見張に一生懸命です。突然ブルブルン、ブスと言う振動を感じましたでエシジン一杯にレバーを全開しています。ダメダ。エンジンを絞ってゆっくりでなければ、山か海岸に落ちてしまう。」と思っていると、私は卑怯にも飛行機を反転していました。

バンバンの基地に不時着しました。朝日山司令部(この時期には朝日山に防空ごうが掘られていて、此処が総司令部になっていた様です)に金剛隊の報告に参りました。

「金剛隊は攻撃に成功したものと信じます。戦果確認出来ませんでした。敵艦艇無数、数える事が出来ない位です。」と報告を終りました。

   ×  ×  ×
 

いろいろ思い出を書きました。私中心の事で隊長はそれなりに行動しておりました。

隊長の面影は一寸優しく、温和な部下思いの、そして厳しさのある方だったと、今もはっきり思い出されます。

12月14日、マバラカット基地よりエチヤゲ基地に進撃した時に、遠藤中尉が「今日は12月14日、四十七士が討ち入りした日だ。きっと我々も攻撃に成功して先輩たちの敵を討つぞ」と言って我々を勇気付けてくれた分隊士(このときはまだ私の分隊士でした)の言葉が今も心に残っています。

最後にご母堂様にはご高齢と存じます。くれぐれも御身お大切にご健康にお暮らしくだされことを心からお祈り申し上げます。あわせてご一同様のご多幸をお祈り申し上げます。

遠藤よし子様

高橋 良生

注・

(本稿冒頭にある堅牢通信という新聞にのっていた遠藤晴次の書簡)

拝啓 天候不良の為今日迄出発が延びました。愈々近い内に出発するつもりです。

今日も朝から雨で山には雪を載いて居る有様で、天候の急変にびっくりして居ります。天候晴れれば勇躍飛行機に乗り出発・〇〇基地を目指し、或はレイテ湾か?行く所不知、唯大命を仰ぎ待つのみ。一度飛び立てば米英何物ぞ、我等○○隊の意気を以てすれば恐るるものなし、大笑して唯々大義に生くるのみ。

弟妹達の教育を宜敷くお願いします。

それから「トランク」と行李の2荷物を送ります。また、第三種軍装で撮った戦地姿の写真(長崎で出発前に撮りました)を写真店で家に送る様依頼して置きましたから御承知ありたい。では弟妹よ ご機嫌よう。

両親様         晴次

(なにわ会ニュース49号20頁 昭和58年9月掲載)

 TOPへ    戦没目次