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平成22年4月29日 校正すみ

同郷のクラスメイト

産土の山川 父祖のおくつきへ

 年老いた母と暮急ぐ山裾を

失意の様に歩いていた

許された僅か三日の休暇 つぎの戦場へ

生還を望むべくもない決戦の彼方へ

私は微かに母へ最後の訣れを告げた

母はだまって額き

ほのかに靄うるむ山畠の上を仰いだ

 

 「私はあの三星様を 同じ中学から共に 兵学校に進んだお前達三人と思っています。
 お前は真中のあの星」

敗戦 同窓の二人の友は再び還らなかった

二十年の人生を束の間に永遠ならしめて

 

私は今 ベラソダの軒高くかかげる      

初冬の三星を 未来へ熟れ透る

慈味の果実として 暖かく胸底に映しとり乍ら 

静かに病の癒へる日を待っている

熾烈だった戦の庭に かけおちた

二つの星も しきりに激しいまたたきを

送って呉れるのを見つめ乍ら

 

 昭和299月に発行された72期のクラス会誌3号に、私はこんな駄詩を書いている。

 紙面の都合で一部省略したが、要するに昭和1512月、大分県立宇佐中学校から兵学校に進んだ三人の若者たちを、私の母が暖く見守っていたことが言いたかったのである。

 池田誠治、高橋英敏と私、それがオリオン星座の三つ星様に母は思えたのであろう。

      ×     ×     ×

 今年の八月、私は郷里を訪れた。今までにも何度か帰郷しているが、真夏の帰省は兵学校の休暇以来約四十年振りのことであった。

      ×      ×      ×

  「九日十一時本校に到着途中は無事。善光寺駅にて和問の松原さんと、中津駅にて安藤高橋に会いました。宮島駅に午前五時到着、既に明るかったけれども附近の旅館に行き休憩、一睡りして九時本校汽艇で江田島に向いました。汽艇で中島さんや長野さんと会っていろいろ話しました。

 休暇記録は九日中に書き終り、いつでも提出し得るようになっていますから心配しないで下さい。近所の人に見送って貰いましたが、非常時柄一々御返礼は致しません。母上より宜しくお伝へ下きい。(後略)

 海軍兵学校第四十八分隊生徒 池田誠治

大分県宇佐郡駅館村法鏡寺 池田セキ様

 

池田が昭和16年の夏休暇のあと、母堂に送ったハガキである。休暇記録のことまで書いてあるのがほほえましいが、文中にある個人名について記載順に若干の説明を加えると、

松原正治(71期 宇佐中 181111 阿賀野)

安藤直正(72期 宇佐中 現押本、生存)

高橋英敏(72期 宇佐中 191023 筑摩)

中島文生(71期 中津中 20 516 羽黒)

長野重喜(71期 宇佐中 191014 攻406

池田誠治(72期 宇佐中 19・ 2・17香取)

     ×      ×      ×

 父上、母上、お元気の事と存じます。

元気で毎日の勤務に邁進してゐます。病気などした事は一度もなく愉快に過してゐます。手紙に書いて見ましたが、何もこのほか書くことは有りません。

 二人とも充分体に気をつけられて、無理な仕事作業はせずに安楽に過して下さい。それのみ私の願いです。(中略)

 呉々も体に気をつけられて御多幸の程を祈ってゐます。お便りのない時は元気と想ってゐます。そのかわり、私から便りのない時も私は元気で頑張ってゐると想って下さい。黙々として或物に突進します。

さらば お大事に 

    
英敏より

 御両親様

 

 この手紙は軍艦筑摩高橋英敏から大分県宇佐郡糸口村  高橋モキ様あて出された軍事郵便である。検閲済(山内)の印があり、二月四日着と御母堂モキ様の記入がある。

 「さらば」と書かれたところが気になったので、高橋と同じく筑摩乗組だった鈴木 脩に確めたところ、この手紙は昭和19年2月、シンガポールに出撃する直前、呉から投函たものに間違いなく、検閲した(山内)とは筑摩の副長の名前であるとのこと。

      ×      ×      ×

 大分県立宇佐中学校は、昭和10年代に

時枝重良(66期 19 9 9 偵11飛行隊)

馬場朔彦(67期 1811・5 瑞鶴)

草地静夫(67期 19 731 131空)

若山宣久(73期 20 4 3 榛名)

前記71期2名、723名、計9名を江田内に送った。

そして、御覧のように小生1名を残して全滅した。嗚呼。

(なにわ会ニュース47号13頁)

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