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平成22年4月27日 校正すみ

土井輝章君の遺書

阿部 克巳

 2月号の『靖國』「靖國神社の月報」に72期の土井輝章君の『最後ノ手紙』が載っています。これは同君が昭和191228日マニラからご両親に出した手紙です。

 私は土井君とは生前面識はありませんが、同君が乗り組んだ軽巡「木曽」と空母「隼鷹」を小生の「30駆逐隊」(夕月、卵月、秋風)でマニラまで護衛した縁があり、更に、昨年、「水交」誌八、九月号に、海没艦乗員の一人としてマニラ水交社に滞在した経験について寄稿した際調べた資料から、土井君が乗艦「木曽」の沈没後小生と同時期にマニラにおられ、「マニラ海軍防衛部隊」(マ海防)で戦死されたことを知ったので特別の関心を抱いていました。 

小生とまったく同じ環境で、「死」を迎えねばならなかった土井君の此の手紙に感動しましたので、お知らせします。(既に「なにわ会ニュース」に載せておられたかも知りませんが)。

 『今年モ正二終局ヲ告ゲントシテヰル今日、レイテ島方面ノ作戦愈々急ナリ。此ノ時二於イテ如何バカリ重要ナルカ御想像通リナリ

 私モ運ヨク「ガンルーム」ヲ引ツ張ツテ生還スルカ 或ハ又陸戦隊ヲ編成サレテヰル現今「マ二ラ」ト共二運命ヲ決スルカ 何レニナルヤ知レザレド 男子ノ最後ハ見事二成シ遂ゲル堅キ決心ナレバ 御両親ニ於イテモ御安心下サイ

 コレガ最後ノ言ヅケトナルト思考スルニ付 ドウカ厳寒ノ折オ体大切ニ 私ノ知人ニハ宜敷クオ伝へ下サイ
 デハ

              土井 輝章

 昭和十九年十二月十八日

  土井 申二様

     繁子様                   』

 『「ガンルーム」ヲ引ッ張ッテ生還スルカ、「マニラ」ト運命ヲ共ニスルカ』とありますが、「木曽」生存士官は、恐らく鎮守府付など内地への転勤を命じられたでしょう。しかし、戦況の悪化で内地への脱出が難しくなり、一種の極限状態の中で「これからどう成るのか」との動揺が起きたことは小生自身も体験しました。「身に寸鉄も帯びぬ」海没者として「封鎖され、米軍侵攻に曝されたフィリッピン」から、内地へ組織を離れて内地へ転勤」することなぞ悪い冗談に過ぎなかった。此の状態で海没乗員の大多数が陸戦隊に編入されたのはやむを得なかったと思います。土井君も、色々の思いがあったであろうであろうに、ケップガンとして最後の覚悟を決め、ご両親に書き送られたことに涙無きを得ません。」

 土井君の最期に就いては、二ユース48号に左近允兄の紹介で、土井君の部下で生還した河村清一氏の記事があり、大体のことが分かります。多くの犠牲者を出し、マニラを灰塵に帰した海軍の悲惨なマニラ防衛戦については、色々な疑問、批判がありますが、分からないことが多く、また本稿の主眼では無いので割愛します

 (左近允からの手紙)

「靖国五一一号(平成十年二月一日)に、二月社頭掲示の『最後の手紙]として海軍大尉土井輝章命 昭和二十年二月十三日 マニラ方面にて戦死 兵庫県揖保郡新宮町出身 二十三歳と紹介されている旨の通知あり。

 同封の記事御参考までにお送りします。

土井君とは十九年十一月末マニラで会いました。小生の乗艦熊野の生存者三十余名が土井君の隊に入ってマニラの市街戦で戦っていますとのこと。

(なにわ会ニュース79号42頁 平成10年9月掲載)

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