平成22年4月27日 校正すみ
出宮候補生の戦死
野村 治男
出宮 喜顕
昭和19年2月、常夏のトラック島から、急遽、横須賀に連合艦隊司令部をのせて、武蔵は帰投しましたが、みぞれまじりの横須賀の寒かったこと、実に骨身にとたえました。
そして、2月下旬、今度はパラオに向けて出港しましたが、早速ものすごい暴風雨に遭遇してしまいました。直衛の駆逐艦の難渋は実に大へんなもので、速力を2〜3節にまで落して、竿立ちになりながらようやくついてくる有様。武蔵も22節のときは40米の合成風速の中で微動もしなかったのに、速力を落したため、うねりのままに大きく揺れはじめ、甲板上に積んだ爆弾やドラム缶など海中にさらわれる程でした。
その夜、夕方の配置訓練後、直衛の駆逐艦「白露」から「ワレデキシャアリ。ソウサクニヒキ力エス」旨の信号があったことを耳にしたが、この嵐の中で、大変なことだなと思った程度で、さして気にもとめませんでした。
「火の元点検」を終えて、艦橋に上りましたところ、艦長の朝倉豊次少将が、前方の海を見つめたまま、「甲板 出宮候補生を知っているか?」と突然問いかけられました。
知っているどころではない、横須賀出港の日、水交社でともに飲み(昼間なので実はコーヒー)ながら、今度は暇がなくて一緒に飲めなかったから、パラオに着いたら、大いに飲もうと肩をたたき合って、それぞれの艦に別れたばかりでありました。
「はい、よく知っております。」
「さっきの白露からの信号、知っているか?」
私は.ドキッとして、身体がこわばった。
「はい。それが出宮だったのですか」
と確かめずにはいられませんでした。
「この天候じゃなあ・・・捜索を打切って、引返してきたらしい。今氏名を報告してきた。」
それっきり、艦長は沈黙してしまった。後で聞いたのですが、その夜一番砲塔附近に浸水が起り、たまたま掌砲長(特務士官)が近くにいなかったため、責任観旺盛な彼が、その代りに前甲板に向ったのだそうです。当時小生は武蔵の甲板士官でした。
寒い風が吹く夜になると、出宮の元気だった頃を思い出しています。
(なにわ会ニュース10号27頁 昭和42年2月掲載)