青木光雄兄とのこと
飯塚 正雄
青木兄と小生とは同じ新潟中学校の出身である。しかし中学時代、彼は秀オであり、小生はやっと機関学校に合格出来た成績であり、特に親しい間柄ではなかった。
彼が軍人志望であることは知っていたが機関学校を選んだのは眼が悪かったからの様である。小生も当初は兵学校に出願したかったが中学の事務所に兵学校の願書を貰いに行ったところ「もう無くなった。しかし、機関学校ならある」とのことで機関学校でも良いなと思って出願した。
その時から同じ機関学校志望と云うことで付き合う様になった。
機関学校時代同分隊のことは無かった。又小生が奇数分隊の時は、彼は偶数、小生が偶数の時は、彼は奇数分隊といった具合で、休暇で一緒に帰省する時以外は余り付き合う機会はなかった。しかし時々ノートを借りに行ったが彼はいつも心よく貸してくれた。今でも独楽の原理の物理実験のノートが凡帳面な字で原理がわかり易く書かれていたことが思い出される。
彼は成績優秀で卒業までチェリーマークを貰っていた。そして卒業時はトップで恩賜の短剣を拝受した。これは全く彼の人柄と努力の賜であり小生も同じ中学校出身者として誇らしく思った。
そして卒業時53期の代表として彼の「征きます」の言葉を残して我々は校門を後に戦場に出発したわけであるが、その時の彼の英姿は未だに小生の眼に焼き付いている。
そしてそれが彼の姿を見た最後であり、その後二度と彼と会うことはなかった。その後終戦も間近になった頃、彼は比島で切込隊の隊長として出撃して帰らぬ人となったことを人伝に知った。
終戦後小生は復員し彼のご両親を訪問した。ご両親とはその時が初対面であったが戦死した息子のことを思い出されて悲しまれるのではと思ったが案に反して非常に喜ばれて応対して下された。それで小生も仕事で新潟を離れるまでの数年間時々訪問した。
時には小生の就職先の心配までして下された。その時は就職先が決っていたので有難くお断りしたが戦死した息子とダブって思い出されたのかも知れないと思った。
しかしその後お彼岸にお仏壇をお参りに伺った時、彼のお父さんから「未だ戒名はつけてないんだよ」とのお言葉があった。
それでご両親は息子が死んだことを信じておられないことを知った。そのご両親も小生が新潟を離れている間にお亡くなりになった。
青木兄及びご両親のご冥福を深くお祈りする。
(機関記念誌113頁)