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平成22年4月24日 校正すみ

秋田 実君の最後

編集部

秋田 稔

  昭和20年8月6日の広島原爆に運悪く遭遇し,8月12日に亡くなった秋田実君の最後について,73期岩井良平氏の記事を特四号自認の田島明朗氏から頂いたので、その記事をまとめてみた。
 秋田君は当時呉に在泊していた伊157潜の航海長であった。原爆投下の前日,8月5日の朝、非番であった砲術長岩井中尉は、前甲板で艦長に「呉は焼けてしまっているし、いよいよ最後も近い事だから、軍医長と3人で広島へ浩然の気を養いに行こう」と誘われた。事情があり,気が進まなかった砲術長は「何となく気が進みませんので、今回は遠慮させて頂きます。」と返答した。艦長は「残念だが航海長は当直だしするから、そんな事を言わず3人で行こう。」と勧められ,押し問答していた。そこへ航海長秋田大尉が来たので,砲術長は航海長に,「艦長が広島に行こうと言っておられるが,私は気が進まないので航海長行かれませんか」と勧めた。航海長は、「俺は当直だから」と渋った。通信長は「それなら,明日は私の当直ですから帰ってから交替して戴ければ良いですから。」と航海長の当直腕章に手を掛けて外すようにした。航海長は一寸考えていたが、「それでは、済まないが、そうするか」と当直腕章を砲術長に渡した。そして、暫くして、3人で上陸して広島に向かった。

 翌6日、朝食後8時の課業始めの時間が近くなっても艦長たち3人は帰って来なかった。課業始め5分前になって、下士官兵が前甲板に並び始めた頃、空襲警報発令。直ちに配置についた頃「B29 1機 広島上空 遠ざかる」とのことで、警報はすぐ解除された。砲術長は折椅子に腰をおろして、艦長たちもいい加減で帰ればいいものを等とぼんやり海面を眺めていた時、ピカーとエンジ色に紫色が混じったような光が走った。

 12時過ぎ、広島が全滅したらしい情報があり、機関長、水雷長、砲術長、手空きの准士官等で協議した結果、まだ艦長以下3人が帰らないところをみると、捜索の必要があるということになった。

 1300砲術長は当直を潜航長と交代して、広島出身の水兵長1名と広島に捜索に向かったが町中焼け野が原、全く分らなかった。翌7日朝8時過ぎ帰艦した。

 7日は機関長が捜索に行ったが、何等情報なく帰艦した。

 81600頃宇品基地隊の隊員の2等兵曹が来艦し、「伊157潜の艦長、航海長、軍医長と称する人たちを救助してあるが心当たりがありますか」とのこと。砲術長は大有りだと喜んだ。お礼を言うと共に事情を聞いた。

それによると、当日以前から基地隊の隊員が広島の郊外に駐屯して防空壕(ごう)の作業をしていたが、朝の爆発で広島が壊滅状態になったので、宇品の基地隊に向かって隊伍を組んで移動していた。広島と宇品の間の路上に倒れている3人の1人が伊157潜の艦長・航海長・軍医長だが助けてくれというので、放っても置けなかったから救助してあるとの事であった。

 9日、今度は水雷長が、6艦隊司令部のトラックを借用して宇品の基地隊より3人を引き取ってきて呉病に入院させた。その夜、砲術長も見舞に行った。3人とも全身に火傷をしており、艦長は大分こたえていて弱っておられた。航海長は全身にわたって火傷を負い苦しみながらも、はっきりと事情を話してくれた。「当日の朝、広島駅にきて列車の待ち時間が相当有るので、駅に近い橋の所で、魚釣りをしているのを見ていたところ、ピカットやられて地面に叩き付けられた。 気が付いてみると、周り中火災になっているので艦長を助けながら3人で宇品の方向に逃げた。 途中で艦長が精根尽き果てて動けなくなったところを宇品の基地隊の隊員に救助された。 最後の決戦を前にこんな事になってしまって申し訳がない. 仇(あだ)を取ってくれ。」と語った。 軍医長は「3人で逃げたが、艦長次いで航海長も、声もでないまでへたばり、自分も動けなくなっていたが、そこへ宇品の基地隊の隊員が通りかかったので、自分が呼び止めて救助して貰った。」とシミジミ語った。

 平素の航海長の艦長への補佐ぶりから、おおがらな艦長を助けながら移動してきた航海長も、艦長が精魂尽きてくるに従い手助けくらいでは及ばなくなり、共にへたばっていった姿が眼に浮かぶような気がした。

 呉病の横穴防空壕はコンクリート製で、艦長達は通路の横のドアも無ければ部屋らしくも整えられていない、小部屋風の所に収容されていたように憶えている。 通路の奥には大部屋があり、そこには民間人を含め23百人と思われる被災者が収容され治療を受けていた。 火傷の治療に塗る油性の薬の一種独特の臭気が充満していて耐え難い思いがした。 顔面等に火傷を負った340歳の婦人が子供を抱いて呆然として座っていた。その母の姿が、被災者が充満し殺伐としたコンクリートの大部屋と共に心に焼き付けられている。 数日後、呉病に収容された被災者は、航海長、軍医長を含めて、三朝温泉がラジューム泉で火傷に効くとかで貨物列車を仕立てて送られたと聞いた。 確か艦長は呉病に収容されてから1日おいた11日の夜、遂に永眠された。砲術長は当直で艦に残っていたが、機関長達が東京から来られた奥さんと、簡単に葬儀を行い、遺骨を引き渡されたとの事であった。

 秋田航海長は8月12日三朝温泉で逝去した。

(注 田島 明朗氏)

 この73期、岩井氏の原爆体験記は偶然入手し、編集長が要約してくださったものです。広島の放送屋として被爆者の消息に接する機会は多く、なにわ会ニュースでも詳細が解らなかった秋田氏の最後は気になり、詳しいことが解らないかと気をつけておりました。 この度岩井氏の体験記を読み、秋田氏は被爆後まず宇品の基地隊で手当てを受け、呉海軍病院に搬送、更に山陰の三朝海軍病院分院に移されたことが分かり、原爆被災者としてはとても恵まれた看護の末に亡くなったことを知り、何か救われた気がしました。尚、三朝の呉海軍病院分院とは、温泉の旅館群を海軍が借り上げ、昭和18年に開設した療養施設です。
(編集部)
この記事は過去にニュース65号40頁に掲載されていた。今ニュース目次を新しい者から順にチェックしていて発見した。平成23年10月10日。
 

(なにわ会だより002号30頁 平成22年3月掲載)

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