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平成9年9月寄稿

関西「なにわ会」の名づけについて

東條 重道

 

 平成九年度のなにわ会北海道旅行は天候にも恵まれ、右近君以下北海道在住クラスの方々の大変な御尽力により、楽しい思い出になりました。

 

 第一日目千歳空港から札幌へ向かう途中の貸切りバスの案内嬢が「なにわ会とはどんな会ですか」と執拗に質問してきた。七十歳過ぎの老人ばかり、まだまだ御若い御夫人もまざってはいるが、全体に若いとはいえない人ばかりの集団の名前が「なにわ会」とはこれ如何にというところだっただろう。すなおな質問のようで好意が感じられた。

 

 澤本倫生君が、@七十二期の会 A何糞に通じる B七十二期の融和を表わす と丁寧にメモして渡した。案内嬢はよく分かりましたと感激、納得してくれた。と同時に同乗の御夫人方も「ああそうだったの」と云う声もちらほら。

 

 誰からか大阪の「浪速」も、あるんだよなあ、おい東條、はっきりさせとけよと言う声もあり、かねがね近畿の会が「関西なにわ会」と自称しているので、なぜ「関西」と前置きを付けた呼称に変えたのかと多少疑問もあった。

 

 「なにわ会」は七十二期クラスとコレスの合同のクラス会の名称で、東京近郊の面々が名づけたものであるから、それはそれで結構なことである。

 

 その発足より多少早い時期に、大阪で「なには会」というのが結成されている。関西での七十二期のクラス会を「なには会」と名づけた。当時の参画者の一人として、その間の事情をおさらえしておこうと思い立った。

 

 七十五歳の惚けた頭の記憶だけでは信憑(しんぴょう)性がないと言われる恐れがあるので、何か記録はないかと探してみた。記録類が四散してほとんど無い。

 

 橘花部隊(七二四空)付になった、二十年七月一日から二十三年十月までの日誌風の記録があったので読み返してみた。ノートは紙質も悪くインキも粗悪なうえ、なにより悪筆で読むに耐えないが、なんとか判じ読みしてみた。

 

 クラス会に関係ある記述はあまりないが、拾って見ると

 

@ 二十・十二・十四

 学力補修講座に出席する。七十二期四名坂元、大谷、久武、小生。一部に「七二和会」なるものの誕生せりを聞く云々

 

 A 二十一・七・八

 海軍大尉も買い出しの仲間入り、一方将校調査等面白い世の中と

 

B   二十二・五・二十六

 計画的クラス会第一回?

  時   二十二・五・二十五・一三〇〇

  場 所 大阪市天王寺区上本町 

  会場の記述なし

  参集者 松田、渡辺、泉、藤尾、小林

 

  (23108没)東條ほか総員十四名

議 題 なし 

 懇親会の模様

   藤尾君のキリンビールからビール四ダース 渡辺君が運搬。天皇制、社会情勢、労働運動、ヘル談、歌あり、踊りあり、

   料理なし 女なし

 

 C 二十二・七・二十

    

 久武夫妻来訪 クラス生存者名簿持参二四〇名余掲載

 

 D 二十三・二・八

   駐在所へ呼び出される 田中春雄君の動静調査

   という程度の記録しかない。あとはおぼろげな記憶しかないが辿ってみることにする。

 

クラス会の発足

 

 関西で通知しあって計周的な会合を持ったのはBの大阪での集会が第一回目だったように思う。松田、藤尾、渡辺、小林君あたりが発起人だったようだ。藤尾君がビールを準備し、小林君が近鉄電革勤務で始発点上本町に詳しく会場を設定したのであらう。渡辺君が彼特有の行動力で、三輪自動車でビールの運搬をかつて出たのであろう。

 

 葉書の案内かなにかがあったのであろう。私は一時間程度早く着いている。十四人で四ダース。皆酒に弱くなったなあなどを書き留めている。

 

 当然の成り行きとしてクラス会を計画的にやろう、ということになったであろう。私が発会を強調したのかも知れない。

 

 Cの久武が生存者名簿を届けてくれたのもクラス会案内のためだったのかとも思う。

大阪での全般に呼びかけてのなにわ会の発会の記録は見当らない。日誌の前後の記録内容からみて全般に呼びかけてのクラス会はBの半年後、昭和二十二年の秋頃だったのではないかと思う。以下私の記憶を辿る。

 

期 日 昭和二十二年秋

   参集者 藤尾、松田、渡辺、小林文士君他二十名以上

   印象の鮮烈な者に菅井超君がある。

 

場 所 焼き野原と化した阪神でクラス会を開ける場所がなく、やむなく私の姉の嫁ぎ先 大阪市西区江戸堀北通り二丁目(現土佐堀一丁目)真言宗高野寺の庫裏二階十二帖二間を借用した。

 

 

 議 題 クラス会の結成

 

 議 事 開会挨拶は誰かがして、会の趣旨説明が終わったところで、菅井君が立って会の規約を作ってみたと読み始めた。

 この会は○○○と称する

 この会の事務所は大阪市に置く

 この会の会員は××××でもって構成する。・・・・

 まあまあということで、途中で説明を中止して、会の名称をどうするかを協議した。

72期生ならクラス会の名称は 72=なにの語感が先ず出てくる。

大阪での集まりになるので浪速(なには)がすぐ頭に浮かぶ。「浪速会」になったのか、                  

 「なには会」になったのか、「なにわ会」になったのかさだかではない。

会の名称はどうでもいいではないかと云う仲間ではあったが、当時は旧軍の将校の集まりということが明白に判る名称は是非さけてほしい、とくに海兵とか72期という表現は使わないで欲しいと要望があったように記憶する。小生の日記にもA、Dの様な記事もある。

 そのうえクラスのたれもが聞いてすぐ72期と判るものが欲しい。原田主任指導官の訓育の浸透宜しく「なには会」がすんなり決まったように記憶する。

 次に、会員としてどこまでの地域のクラスを対象にするか? 菅井規約案にいう対象地域をどうするかだが、これも大阪を中心としてという考えが自然に発想されていた。浪速という大阪の古い地名の漢字が浮かんだようにも思う。平仮名での会の名称は当時としては馴染みにくかったことを考えると「浪速」にきめたかもしれない。

平仮名にしたとしても「なにわ」と「わ」の字ではなく「は」の字を使っただろうと思う。大阪の古い地名 難波津は 「なにはづ」と辞典にも載せられている。

 「浪速会」または 「なには会」が大阪でのクラス会の名称となったように思う。

対象地域は、大阪(浪速)を中心に東は名古屋、西は岡山くらいまで呼びかけようということになったと思う。

会費はどれくらいの賛同があるか判らず会の運営は会合での残金で賄(まかな)おう位に落ちついたと思う。

 

 以上おわかりのように大阪のなには会は、正式に召集して、会合議題として討議し決定したものである。議事録までは作成してはないが。形を残して官憲から眼を着けられるようなことにはなりたくないとして、菅井式規約は作成されなかったと記憶する。勿論印刷などされたはずはない。

 

 余談にはなるが、ニュース十八号でのなにわ会の名称起源についての押本論文にでてくる昭和二十年八月「なには会名簿」なるものは、終戦復員以前の呉地区でのクラス名簿であって、大阪のクラス会命名には関係ない。

 

 小生日誌に出てきて不審に思っていた二十・十二・十四の記事「七二和会」の噂話の謎が解けたように思う。

 

 ニュース十九号で澤本倫生君が「なにわ会」の名の由来について明快に解説されている。

関東なにわ会と呼んでいたのを二十五年ころ「なにわ会」になったと。大阪の意味をもつ「なにわ」という言葉を使うのは如何なものかという異議もあったが、なにわ会の名は既に72期クラスの名称のようになりつつあるとして全員一致で会の名となったとしている。

そして、その時以前に大阪なにわ会があるとは聞いていたとしている。

 

 本論にもどす。72期の会は「なにわ」でいい。コレスも加わって大きな和―輪になる。全国規模の「なにわ会」の名の由来は、なにくその72期とコレスの和をこめたふんばり気味の名称だが「なにわ会」と名付けられたという。ふさわしい、住い名前だと思う。

 

 関西のなにわ会は大阪なにわ会ではなくただの「なには会」として出発した。その後全国規模でクラス、コレスを糾合したクラス会を結成して 「なにわ会」ができ名簿も作られた。そのなにわ会の関西の分会として 「関西なにわ会」と呼ぶようになったのであらうと推察する。いつごろからかは判らない。たぶん小生が自衛隊に入隊して以後のことであろうと思う。

 

 還暦は遥か、喜寿になんなんとしてクラス会の名の由来を思い起こすべく、古い日誌に読みふけった。悔いることばかりの過去、楽しみを知らずに過ごした日々、反面、新しい天地に生き甲斐を感じ、愛情豊かに過ごした我が人生に感謝しつつ筆を置く。

なにわ会ニュース79号21頁 平成10年9月

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