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「ワレ候補生乗艦中、オサキニ失礼」ニもの申す

山崎 実徳

私は当時伊勢艦橋後部信号甲板にいて、隼鷹被雷の模様を目撃しました。その時は、久方振りに見た故国の連峰は下方だけあわ白い幕を張ったようにして静かに眠っていました。

隼鷹は旗艦伊勢と陸岸の問をほとんど並行するような形で豊後水道に向っていたのです。勿論対潜哨戒之字運動を繰り返しながら。

私は丁度艦橋直を終了したはかりの処でしたが、戦隊は豊後水道に入る準備として、予定コースに進入しかかっていました。私はこの時まで何事もなくすんだので、一寸ほっと

した気持でうすく煙る故国の山々をぼう然と眺めていた時、信号見張員が突然″隼鷹被雷″とどなりました。私が眼を隼鷹に移した時はまだ水柱が飛行甲板より高く上っている

ように見えました。その後の隼鷹がどうなったかは実の処私は見ていません。司令官の指令を仰ぐために指揮所にとんで行ったからです。行った場所が戦闘艦橋であったか、普通

艦橋であっかた今では的確に思い出すことはできません。

 木村司令官は確か水雷の出身であったと思いますが、とっさに「潜水艦だな」と判断されて「あとは小船に頼んで早く入ろう」

「戦艦は、今は役に立たん」といわれたようで水道に向いました。

 この時司令官の頭の中にあったものは、被害を更に他艦に受けさせてはならない。特に主力艦に被害を出すことは絶対にいけない。又潜水艦に対して、大艦が右往左往しても効果はない。むしろ危険でさえあるということであって、この大局的立場から来た判断は、候補生にことよせて自分達だけ速に混乱の場から立ち去ろうとしたものではなかったようです。勿論候補生の生命を重んずるの余り、隼鷹の運命を軽ろんじたものでもありません。それは、直後から出された一連の指令でも充分察しがつきます。それよりむしろ、戦場においては司令官たる者一局面の被害に眩惑されたり、又必要以上に悲壮観に陥って、大局を見過ることのないように務めなければならないことを見本として示されたと学びとるべきです。この時司令官が背負はされていた重責は、

一、候補生の実戦教育

二、南西諸島への戦力急送輸送

三、虎の子ともいえる戦艦、大巡、空母を早く安全海面瀬戸内に導入すること。

など、その一つ一つが身を押しつぶす程の大きさのものでありましたが、もし、水雷戦隊司令官としてだけの本来の任務で、竜田に将旗を掲げ、駆逐隊を率いておられたならばおそらく「海戦はこうしてするものだ。候補生は胎をすえてよく見ておけ」とばかりに激しい駆潜作戦を展開されたことは間違いない処です。

 ところが、文面(なにわ会報)によれば、「にも拘わらず、同行中の戦艦戦隊は″ワレ候補生乗艦中、オサキニ失礼、利根は隼鷹を曳航して呉へ向え″という信号を発しながら白波をけ立てて、さっさと豊後水道に入ってしまいました。」などとやゆ半分に表現されていますが、これは甚だ残念なことで司令官に代って義憤を感ずるものです。

 我等が先輩はその地位立場において課せられた任務を万遺漏なく完遂するために、正に二十四時間努力し続けられたのであって、あの場合も決して隷下部隊の一部を切りすてて他人事とし、自分だけ急いで豊後水道に入ったものでないことを知って欲しいのです。

 話は変りますが、ドイツでは戦争の末期のあの苦しい中にも海軍士官は海の上で汐風に当てながら育てるべきものだ。お前達は今からその修錬の場に行くのだとばかりに、無謀

とさえ思えたあの情況の中で候補生全員を新鋭戦艦ドイツチャランド号に乗艦させ大西洋へ送り出しました。

 戦艦は長期間に亘って通商、補給線破壊戦と、侯補生の実務訓練を強行しましたが、帰途には、イギリスの航空圏内で捕捉され遂にあのような運命になりました。

 この時は長い時間空海の激闘は繰返されましたが艦が遂に停止し、最後の運命を待っていた時海軍省は候補生にとっては始めてであり終りであった、勇敢な戦闘振りを激賞して

全員の少尉任官を電令したといわれます。

 清新の士官教官名を一度に失った海軍省は開戦以来最大の被害であったとして悲痛のどん底に沈んだと報ぜられています。

 この悲惨な話は、士官の鍛錬に忠実の余りドイツ人のあの理づめで気まじめさが柔軟性を失った例でありますが、これと酷似する情況下の我練習艦部隊は適切な指揮の下、侯補

生一名も失うことなく(或はその大事件を知らずにさえいる者もある程)無難に乗り切ったのでありますから優れた指揮判断であったという他はありません。

 私は司令官評をなしたり、兵学校教育論をぶったりする智識と器量を持ちませんが、敢えていうことを許して貰えるなら、海軍士官は洋の東西、古今を問わず、一貫して汐風の

上で育てなければいざという時に役に立たないといい伝えられていることを織り返したいのです。

 昔、ペーパー・ネービー・オフサー等といって筆をとると速かに名文を作り、或は優秀対策を書き下す人は多数いました。しかしこのような人の中には戦闘の場面では左程でも

なかったと評せられた人もあったと開いています。

 抑々指揮官はその任期中にただ一度だけ一言の号令を吐くためにあります。しかし、その一言たるや、ことに当っては瞬発であって正しく、変更のないことが必要であります。日本海海戦の時司令長官が放たれた敵前での「回頭、並行戦」の一号令は余りにも有名でありますが、この一言葉が国難を救い、日本には勝利を与えました。しかしながら、この一言菓はその時単に思いつきでなされたものでなく、又霊感によって神が与え給うた言葉でもありません。

 

 長官が長い間に亘って、自ら想定された幾千幾音の戦況設問に対して錬りに錬った結果として出された答案の一つでしかありません。

 これにても分るように指揮官は平時、或は眠るが如く、或は遊べるが如くにして時を費やしておられるように見えますが、頭の中には陸続として押し寄せる戦況を想定して、与えられた任務と較べながら頭を錬っていられるのです。

 このような修錬は現実では海上にあって、部隊を率いている者でないと適確な答案を出すことはできないのであって、ペーパーの上であ不可能であります。

 木村司令官の「この場は駆逐隊と爆撃隊に任かせて、大艦と候補生は一刻も早く引込める」という決断は決してその場の情況に対して思いつきでなされたものでなく、又参謀の

意見具申に動かされた判断でもありません。トラック島以来「もし、豊後水道入口で敵潜の攻撃を受けた場合はどうするか」の自己設問に対して練った結果出された答案であった

というべきです。

 今防衛の頂点に立って責任を一身に背負っておられる皆様方、或は企業の主幹となって業界をリードされていられる皆様方のご自愛とご健闘を祈るものであります。

自己紹介

 私は機53期の学年指導監事を拝命していました。諸君の学校卒業期限は戦局の苛烈なるままに次々に繰上げられました。初めは何とか学科選択、短縮等の方法で切り抜けられましたが、最後にはこれ以上はしおっては官の品位が保たれないといわれるようになりました。そこで、未完成のままでも一応学校だけは卒業させて実施部隊で学ばせながら適応訓練をしょうということになりましたので、丁度学年監事であった私は学校教育の出来上りと実施部隊のつながりを円滑にするために機関学校教官のまま、兼補第一艦隊司令部付(乗艦指定山城)の辞令で練習艦隊に出向した訳です。これは従来のように生徒課程を規定通りに修了してから、設備と教育陣容共に整った練習艦隊の専任指導官に引継ぐのとは異なったやり方でありました。兵学校からは太田教官が戦隊参謀として出向して来られました。

 そのような都合から隼鷹の事件の時は、私は司令部当直(教育担当)として艦橋にいたわけです。(534・5)

(なにわ会ニュース39号 24頁 昭和53年9月掲載)

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