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なにわ会を振り返って

東條 重道

 なにわ会には戦後大阪に発足した「なにわ会」以降隋分とお世話になりました。その閉会に当たり、長い間のご厚誼に厚くお礼申し上げます。

 ご承知のとおり、72期は7+2=9でナニクソになり「頑張る」「頑張れ」と72期主任指導官から受けた訓話は延々と60年以上の今日に続いている。この訓育の模様は昨日のことのように思い出して奮い立つ私の生涯の姿勢になっている。

 このナニクソがどうして{なにわ}と言う優しい言葉で72期を意味するように変わったかは正確な知識はない。

 私の記憶では「なにわ会」の名称が使われたのは終戦後間もなく呉に上陸した72期の復員待ちの同期生が、このまま郷里に四散すると連絡の仕様も無くなるから、せめて名簿だけでも作ろうと「なにわ会」が始まつたようだ。72期の波の会にしよう。72期の万里を馳せた者の会、これなら敵さん文句言うまいと「72期生き残り者名簿」の表題につけた名前らしい。夫々の郷里に帰れば連絡の仕様も無くなる。せめて帰郷先を明確にしたいとの切ない思いからできた名簿だったであろう。

昭和23年頃、私が主導して出来た「なにわ会」は大阪の名称「なにわ津」の「なにわ」から大阪周辺の72期生の集まりとしてつけたものである。当時軍の匂いのしないものという希望ではあり、「なにわ」なら世情では大阪であり72期とは重ならないが、我々にはピンと来ると言うので全会一致で決まった。当時は「なには」と「は」の字を使っていたかもしれない。地名を掲げて72期生をあらわしてつけたもの、名称の底には「がんばろう」の気持ちであった。東京でも72期会が出来てやはり原田教官の訓話から『なにわ会』と呼称されたようだ。

 

正式に期会として名付ける時『大阪に既にあるが』という意見も出たが「なにわ」は72期を現すとのことできまったと言う。

機関、経理出身コレスと合併しても72「和」と大同合併したらしい。まことにいい名前だ。

穏やかな名前でありながら根底には『頑張ろう』の強い意思を含んでいる。私はこの強靭ななにわの魂に生きてきた。

80歳を越えても、右足を切断されてもナニクソ頑張れ、ナニクソ、ナニクソ

72期なんだと頑張っていきたい。会誌ニュースを楽しみに読み返しながら。

会誌が終わるにあたって期友、コレス諸兄、ご遺族、はては、諸英霊に、長年のご好意深くお礼申し上げます。

(なにわ会ニュース10062頁 平成21年3月掲載)

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