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海軍兵学校受験から合格まで

編集部

 昨年の年末クラス会の時,浦本生君と話しをしていて,海軍兵学校受験時の身体検査の話になった。その元は,11月に行われた幸田正仁君企画の秋の旅行会に参加した私の家内が偶然新横浜から米原まで新幹線で隣り合わせの席となり,車中色んな話があったそうである。この話については浦本君の寄稿(後述)を参照されたい。 

 さて,我々72期が海軍兵学校を受験したのは昭和15年,今から68年前のことであった。当時は海軍兵学校といえば中学生の憧れの学校で,各中学の優秀な生徒が競って受験したものであった。

まず願書を取り寄せて提出する。その中に,『上半身裸体,下半身はパンツ一枚』の写真の提出を求められていた。そこで,写真屋に行き,次ぎのような写真(写真略)を写して提出した。この写真は浦本生君が昭和15年8月海軍兵学校受験時(中学5年生)提出したものである。

身体検査は7月28日に全国各地に設けられた試験会場で行われた。志願者心得中の「交互ノ対照ヲ著シク失スルモノ」という項目を気にしつつ検査場へ行った。検査場にはみるからに頑丈なのが押しよせている。その中に検査が始まった。まず一人一人軍医の所へ行き写真と、予め渡された検査票を示す。そして家族の人数、健康状態、自己の体歴等を尋ねられる。次は視力検査であったが、いつも1.2はあったからと思っていたが、漸く1.0であったと覚えている。真夏の太陽がてりつける建物の側で行なっているので、片目でみているとぼうっとしてくる。だから視力検査の時は直感でいうのがよいと思う。今度は身長その他をはかった。身長169糎、胸囲79糎(乳の下ではかる)体重54キロであった。胸囲をはかる時は住所氏名等を尋ねられる。肺活量は4300立方糎で十分にあった。受検者中には3000に充たない者や全然できぬ者があったが、この検査は、一つは要領にもよるからできれば練習しておいた方が得である。次に耳鼻咽喉の検査であるが,聴力検査はしなかったと思う。歯は六本も修理してあったが、治してあればいいようだ。M検は何でもなかった。次に内臓や概括的全体的体格をみられたが、注意深く調べられるから平素から健康を保ち、当日は最良の状態にしておかねばならぬ。またこれを検査される時A、B、C等の記号が検査票へ書かれる。これは最後に合格決定の時A合格かB合格か等級をきめる標準になるらしい。

 腕力検査の綱へ下るのは5秒乃至10秒出来ればいいようだ。綱に結び玉がつくってあるから、滑ることはないが、手が痛い。それから体操のようなことをやり、いよいよ判定である。僕はびくびくしていたが、幸にも合格をいい渡された時はほんとに嬉しかった。けれども中には不合格となり悄(しょう)然として帰るのを見た時は全く同情した。これで体格検査は終ったのであるが、大抵は身長胸囲その他規定以上あれば通るようだ。けれども軽視は禁物、どっしりした立派な健康体にこしたことはないと思う。合格の種類が採用を定める際に大いに影響するという。

(以上の身体検査のところは,鈴木健治君《静岡県立志太中学校出身、12分隊伍長、偵察学生、1912月3日302空の夜間戦闘機月光偵察員として出撃、犬吠岬東南方洋上で戦死》の海兵受験記による。)

  学科試験は8月14日から17日まで 英語、数学、物理化学、国語漢文、日本歴史、作文の順に行われた。

海軍生徒志願者心得に「試験ノ成績著シク不良ナルトキハ爾後ノ受験ヲ停止ス」とあったごとく、毎日午前受験をして夕方発表を見にいき、朱線で消されなければ、次の日受験するという身の細る思いをして、最後までいけば翌18日は口頭試問と服及び靴の採寸,これでやっと解放。採点の結果と身許検査を勘案されて11月3日「カイヘイゴウカクイインテウ」の電報を受け取ることになった。

1124日 江田島集合 クラブ宿泊

   25日 着校指定日 被服試着 

  26日 2次体格検査(レントゲン)、体力検定

  27日 2次体格検査(検尿、検便、血圧検査)靴試着

  28日 総合的身体検査,合否判定

この時,身体検査で不合格になって帰ったものが21名いて,そのうち10名は氏名等不明である。ある程度様子が分かっている11名は次のとおりである。

 

関口 武士君

 樺太真岡中学からの合格者で,カッター競技で殉職した田村誠治君の1年後輩であった。慢性腎炎で不合格となり涙を飲んで江田島をあとにした。中央信託銀行会長として活躍,池田武邦,山根眞樹生,小林勝の3君との愉快な仲間としてゴルフを楽しんでいた。(ニュース5717頁参照)

峰松 陽一君 身体検査で不合格となり江田島を去り,学者になっている。都竹 卓郎君の知り合いである。

(ニュース8127頁参照)

 

川崎 政治君

 大谷友之君と30年間同じ会社に勤務,4修での合格であったが,身体検査で不合格,江田島を去った。  

平成101219日逝去。

(ニュース8127頁参照)

 

萱場 倫夫君

 大谷君が入校前真下クラブで同宿,身体検査で不合格となり江田島を去った。その後,二高・東北大医学部に進み,医師として活躍。仙台タワービル内科クリニック所長等歴任。(ニュース7639頁参照)

 

米澤 慎吾君

 同じく身体検査で不合格となり江田島を去った。その後八高,東大工学部を経て東京理科大学の教授となった。   (ニュース7639頁参照)

 

神谷 祐信君

 同じく身体検査で不合格となり江田島を去ったが,翌年受験。73期で合格,卒業後,宇佐空・210空・名古屋空・752空で活躍。平成7年1221日逝去。

(ニュース7529頁参照)

 

塩野 嘉君

 同じく身体検査で不合格となり江田島を去ったが,翌年受験。73期で合格,卒業後,宇佐空・722空・801空で活躍。昭和541214日逝去。

(ニュース7529頁参照)

 

山垣 清平君

 入校前バスケット中に足を捻挫,身体検査で不合格となり,トボトボと小用に向う途中,兵学校の車に跳ねられ負傷,治療後帰郷した。彼は泉 五郎君の三田中学の同級生で,帰郷後六高・東大を経て高校教師となった。

平成7年1月17日阪神淡路大震災で圧死して逝去。

(ニュース7628頁・7946頁参照)

 

原田昇左右君

 同じく身体検査で目が悪く不合格となり江田島を去った。帰郷後,静岡高校。東大工学部に進み,農林省に入り・運輸省を経て衆議院議員となり,建設大臣を歴任,平成14年勲1等旭日大綬章を受賞。 平成18年7月2日逝去。

(ニュース8774頁参照)

 

三上 哲男君

 同じく身体検査で不合格となり江田島を去ったが,2年後受験。74期で合格,卒業後,砲術学校講習員から学校付兼第1警備隊付となり終戦。陸上自衛隊で勤務。

(ニュース8035頁参照)

 

山本 居清君

 同じく身体検査で胸部疾患のため不合格となり江田島を去ったが,高校の教師として活躍していた。平成7年1月逝去。

 以上が、情況が判明している11名である。              

入校式

 

12月1日 72期生徒 659名 入校式(他に8名,71期から編入)

      

最後に故押本直正君の手元にあった入校当時109名の身上調書を分析した資料(丁度クラス総数の1/6にあたり、完全ではないが、かなりの精度の高いものといえる)によって、72期を概観してみよう。

(1)平均生年月日 大正12年7月

72期の受験資格年齢は大正1012月2日以降14年4月1日以前。

 11年3月以前    生まれ 6%

 11年4月〜12年3月生まれ 34

 12年4月〜13年3月生まれ 45

13年4月〜14年3月生まれ 15

(2)身長・体重

平均身長   平均体重

72期平均 163.8cm、 55.8s

合格 基準 152.0p、43.0s

全国 平均 160.9p、51.8s

(3)父は平均明治23年生れ、母は28年生れで長男が49%を占めていた。両親の年齢は,昭和15年で、父親51歳、母親45歳であった。 また、兄弟姉妹の平均人数は4.2名、一人息子が16%を占めていた。

(4)出身地

関東出身者29%、 九州勢18%。

(5)出身中学(卒業時の総員625名の統計)

北海道14、東 北34、関 東182、中 部90、近 畿88、中 国58、四 国30、九 州115、外 地14

16%の102名が東京都内の中学出身者。

 

海軍兵学校受験時の想い出      浦本 生

 

「昨年11月,幸田正仁君企画指導の「歩こう会」越前若狭方面旅行の折,新横浜から乗った新幹線でたまたま伊藤正敬君の奥様(節子さん)と隣り合わせの指定席となり,その際話したものである。」

 私の郷里は熊本県(水俣市)と県境の鹿児島県出水市である。出水には昭和15年海軍航空隊が設置された。また,出水は日本一のなべ鶴の渡来地で,今は約一万三千羽もが北方から飛来する。

1 鹿児島標準語の勉強

 鹿児島県内には約4区分の地方語がある。鹿児島市の鹿児島標準語,薩摩半島南部の枕崎(鰹節産地)方面語,東部大隅半島方面語,そして,県境の出水方面語である。県内の者でも,お互いに話が通じ難くむしろ東北弁の方が通じ易いかも。(?)

 鎖国時代,薩摩藩は更に閉鎖的で二重鎖国となっていた。県境の出水では藩外からの不法潜入をきびしく防止していた。そこには「言葉改めの関」として野間の関所(現在も関所跡は保存されている。)が設けられており,入関者に対し薩摩語で検問し,相手が理解できず首をかしげたりすると入関禁止となった。頼山陽や高山彦九郎も入関出来なかったとのこと。

 それで受験の為,鹿児島市に行く場合,宿泊その他で非常に苦労するとのことで,予め鹿児島標準語の勉強をしたものである。(その為に,英語の勉強が出来ず,今でも駄目?)

 また,入校して4号時代,1号生徒から(貴様,日本人か,ちゃんと日本語で話せ)と何発もくらい,自習の中休みに練兵場に出て半泣きで悔しがったものである。

2 4日間の学科試験

 夕方その日の合格発表があるので,毎朝宿泊代を支払って試験場に行き,幸いその日合格であれば,また,その宿に戻った。

3 視力の向上

 4年生の受験時には視力が0,8であり不合格,その為5年生のときは1月ほど前から毎晩,自宅の屋根の上に筵を敷き仰向けとなり星空を眺め続けた。そのためがあったか,視力は1.0で身体検査は合格,とても嬉しかった。

4 M検の笑い話

 生れて初めてM検を受けることになった。軍医官の検査のために並んで待った。私の前の受験生が軍医から「したを出せ」と言われた時,本人は口を開けて「舌」を出した。下を見つめていた軍医から,また,「おい こら,したを出せ」と大声で言われ,本人は驚いて更に口を大きく開けて「ベローツ」と出した。怒った軍医官は上を向いて驚き,「した」というのは「この下」だとMを突いた。そして,笑ってしまった。

以上,本当につまらない想い出でした。

なにわ会ニュース98号59頁 平成20年3月

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