岩村舒夫君の事など
押本 直正
私は十九年の二月霞ケ浦での練習機教程を終って艦爆操縦を矢張り茨城県の百里原航空隊で三十五名のクラスメイト(内三名は機関科コレス)と共に専修、同年七月末に飛行学生を卒業したが何の因果か当時飛行機乗りとして一番貧乏くじと云はれた霞ケ浦空の教官を同じ爆操の多胡光雄君と二人だけ拝命、卒業式に百里空から霞空へ向うバスの中から飛んでいる赤い中間練習機の姿を眺め乍ら、式後直ちに第一線実施部隊に配属され赴任する期友の嬉しそうな頬をぬすみ見して情無い思いをさせられたのであった。
然も終戦迄の一年余、即ち余の塔乗員生活の殆ど総てを″赤とんぼ″と共に明け暮れした次第で、(多胡は二十年三月横須賀空戦斗機隊へ転勤)七十二期にパイロット多しと雖も九三式陸上中間練習機に五百時間の飛行時間を有する者は余一人ならんと自負している次第である。
閑話休題、岩村とは霞空練習機時代同室で、小林俊夫、福俊一、石原輝雄、塚田浩の諸君と共に野中飛曹長、岡崎予備少尉と教員教官を同じくし、操縦のイロハから勉強したり共に土浦の町を歩いたりしたものであるが、彼はどうした事か単独飛行が少し遅れてくさっていた事を想い出す。
帰省したが、彼も私も九州なので帰郷する時間的余裕がなく、田村尚信と山田良彦の4人で塩原温泉に旅行した。スキーが出来るのではないかとの期待で出掛けたが雪はなく、然し非常に楽しい思い出深い旅行であった。
其の時、田村は「クラスの中に三人の田村がいたが一人はボートで斃れ、一人は小銃で自殺したし、残った俺も結局戦死する事になろうが、何とかして三人分御奉公して死にたいものだ」と洩していた。彼らしい見事な死に方をして呉れたものと思っている。
古里空時代の艦爆学生の生活は何と云っても楽しいものだった。
十九年三月三十日 金曜 晴
午前、飛行作業、スタント、離着陸互乗。
森下、伊佐機 鉾田本隊間の雑木林に不時着、機体大破せるも両名無事、けろりとして居る。飛行機はよくこわすが中々人間はこわれぬ。
午後、自習、別科 野球をやる。
夜間 映画見物、米国製の天然色映画を見て日本の其の方面に於ける進歩を切望する。凡そ現代料学の進歩如何が近代戦の勝敗を決すと云いて過言ならず。然るに吾人日常使用せる物品殆ど之毛唐よりの舶来か模倣なり。甚だ残念なるも致し方なし。紅毛の模倣し得ざる精神的方面の力のみを以てこの戦争の勝敗を決し得るや?甚だ疑問なり。
終了後天気図を書き二三五〇就寝。
隊長の薬師寺大尉(六六期)を中心に分隊長平野大尉(六九期)指導官附村岡大尉(七十期)及び若い教官学生が一致団結して訓練に精進していた。時々飛行機を壊し△を取られ(△とは罰金制度でヘマをやらかした学生、例えば定着の際軸線合はず、地上指揮官を狼狽せしめたり、ジャンプして脚を折るとか、列線に突入して並んだ飛行機をペラではねて見るとかすると、罪過はねて誉とかすると靂の大小に依り△、
1丁(50銭)多い時は△10丁(5円)とか20丁10円)の罰金を支払い、爆会の費用や指揮所の氷代やシロップ代等に充てた。急降下爆撃の弾着を50米以上飛ばして弾着修正棒で隊長からコツンと頭をたたかれたりした事もあったが、潜水艦爆撃で直撃すると清酒1本の隊長賞が出る等、実に和気藹々たるものであった。
さて、岩村が霞ケ浦空附兼教官として着任して来たのは、二十年の六月中旬だった。当時、関東地方は空襲が頻繁なので霞ヶ浦では充分な訓練が出来ず、5月初旬霞空飛行隊は、北海道千歳に移動、六月初旬には74期(43期飛行学生、このクラスは19年12月未だ生徒のまま入隊した)の練習機教程を終って、北海道の美幌で艦爆、艦攻、千歳で戦斗機、第二美幌で中攻・偵察と実用機教程が開始されたため、戦斗機隊に森園良已・三宅道久、中攻隊に浅沼薫、艦爆隊に坂元正一、・岩村舒夫とクラスが続々着任、19年末に偵察学生指導官付として在任していた伊中四郎と霞空の主である余を併せて72期が霞空教官の中堅を占める感となった。
従って岩村と坂元が百里原空から勇躍中攻を駆って霞空に着任して来たのは、北海道のオホーツク海岸の網走に近い第一美幌基地に桜や桃の花が咲き、鈴蘭の香りが漂い、野にはわらび、山には人の丈もある蕗が繁茂する頃であった。
クラスメイトが急に増えて嬉しくてたまらず、美幌に一軒しかない何とか言う薄汚い所で湯豆腐を囲んでクラス会を開いたり、温根、川湯、弟子屈等の阿寒国立公園の温泉地に足を伸ばして大いに浩然の気を養ったのもこの頃であった。
七月に入り戦局は愈々多難、のんびりと学生の訓練を続けることが出来なくなり、学生は中練特攻隊及び秋水要員に分かれて、中練による緩降下爆撃,追蹤攻撃、夜間艦船攻撃、25番爆弾を抱いての離着陸訓練等吾々の学生時代には思いもよらなかった訓練を開始、一方教官は九九艦爆隊を編成、北海道周辺への敵艦船(主として輸送船)来攻に備えるという緊迫した状況となり索敵及び操訓用として第1千歳基地にあった彗星艦爆二機を美幌に空輸することになり、岩村は隊長の宮内安則少佐(66期)と共に、一寸行って来るからな
と例の調子で軽く言って千歳に飛んだのであった。
思えばこれが彼の最後で、七月二十六日午後、千歳から電話あり、「岩村大尉、第3千歳基地に不時着殉職と。」
隊長の話によれば、第1千歳を離陸して間もなく岩村機は大きくバンクし乍ら高度を下げ、脚フラップを出して第3基地に不時着の体勢を取ったが、高度が低く(多分エンジン不調、又は停止の為充分な着陸姿勢をとり得ざりしならん)滑走路エンドの検体壕に激突、隊長の通報により救援隊が到着した時は小破で、彼にも大した外傷も無く、接地の際のショックで即死したものと判定されたとの事であった。
千歳で荼毘 に附された岩村は白木の箱に入れられ、隊長の胸に抱かれて28日淋しく吾々の所に帰って来た。その夜坂元と二人で遺品の整理をしながら、また私室から士官室への長い廊下を行ったり戻ったりして。
「岩村よ! 何故死んだのか」と何度も何度も心の中で叫んでいた。
彼が沖縄の菊水特攻作戦に出撃、エンジン不調で引き返し作戦中止で生還したためか、同じ作戦で戦死した十航艦の高橋義郎、牛場久一、前橋誠一、中西達二、畑岩冶、その他諸君の事を想い浮かべてはあの時死処を失ったが、今度こそ大事を為さんとの気構えで学生の教育訓練にあたっていただけに、彼の死は決して彼の本望でなかった事は事実であり、吾々としても彼の心中を察して暗涙にむせんのだった。
私は前に述べたように内地部隊のしかも霞ヶ浦に居たため、クラスの死に直面する例が少なく、二十年四月十九日要務で霞ケ浦から厚木へ飛んだ時、私の着陸寸前の空襲遊撃戦で福田英君が戦死、その夜お通夜をして同隊の上野典夫君と熱海でクラス会を開いた時、借用した雨着と短剣が数日前南九州上空で散華した同じ302空の片山市吾君の遺品であった事とか、4月24日、田中洋一君が中練でグライダー曳航中失速(或いはグライダーに逆に曳かれ操縦の自由を失い足るべし)して飛行場の端の方に墜落殉職したのに直面した程度で同じ所轄のクラスメイトを失ったのは精神的にも大きな痛手であった。
早速宮崎市のご遺族に連絡、美幌での告別式を済まして、私は彼の遺骨を胸に30日鉄路千歳に向う。
途中温根というかって彼と共に遊んだ温泉場の駅を過ぎ
君と共に温泉に遊びしこの鉄道を
白木の君と抱きて行くとは
期友は南の空に散りゆくも
職に殉ぜし君なげきぞ
些かセンチであるが、これが当時の実感であった。
翌日、千歳から定期便ダグラスで三沢飛び経由厚木へ、三沢に着陸したら中攻の大坪久幸がサイパン再攻略のなけなしの飛行機を空襲で焼かれて呆然としていたが、大坪は当時の事を記憶しているかしら。
厚木から日吉部隊(GF)参謀の車に同乗して、焼け跡の横浜市を通過した時、道行く人が車の中の白布の遺骨を覗き込んでおき乍ら、一礼をすらする人が居ない。美幌から千歳への車中、名も知らぬ一老人が御線香代にと、若干の金子を遺骨に供へて呉れたり、会う人毎に丁重な礼を以て迎へられた事と思い較べて北海道の人が純朴なのか内地の人が虚無的な精神状態になっていたのか、兎に角、奇異な気持になった事を今でも覚へている。
横浜駅から灯火管制で真っ暗な土浦駅着、霞空へ迎の便を頼んでも今空襲中だから暫く待てと言う。やっと霞空の防空指揮所へ遺骨を安置すると、今度は数百隻の輸送船団が本土
当時、戦斗機の石井 晃が空輸任務の鳩部隊に居て霞ケ浦の航空廠側にとぐらを巻いていたので、(君には物の事で始終御世話に相成り、誌上をかりて改めて御礼を申す)、彼の隊の北方定期便に便乗すべくダグラスを待ったが、遂にしびれを切らして上野から東北線を利用した。道中青函連絡船の欠航で花巻温泉に一泊したり(石里空七〇期町野大尉と共に)空襲の為函館の北の大沼公園で下車退避させられたり(御蔭で公園の見物は出来たが)命がけの旅行をして千歳に帰り着いたのが、八月十日、帰って見たら広島に原爆が落ちてこれからは白服を着て退避せねば等と大騒の最中であった。
私は八月八日附山形県の神町航空隊分隊長に発令されていたので、転任を兼ね十七日艦爆十機を百里空へ空輸する途次天候不良で松島空へ不時着したが其の時、指導官だった原田耕作大佐(基地司令なりしか)に御会いしたが、終戦直後で非常に御忙しそうで充分な話も出来なかった。
復員して二十一年の始めから海防艦竹生の航海長で対馬海峡、宮古島、瀬戸内海の掃海に従事、其の年の暮、大竹から鹿児島在泊の海二〇七号に転勤の途中、宮崎に岩村君の御
″あ と が き″
長い病床生活をしていると、健康であった昔の出来事が走馬灯の様に次から次へと頭の中へ浮んで来て飽きる事を知らない。
私と同じ中学から(大分県宇佐中)池田誠治・高橋英敏の両君、中学は別だが隣村から池田仲光君何れも南の海に、南の空に花と散っている。従って田舎に帰っても共に過ぎにし青春を語る友は居ない。
二十二年の八月海防艦金輪をシンガポールで英海軍に引渡しの作業を終って退官、其の年の十月に鹿島建設横浜支店に入社、二十四年十月結婚、翌年九月に長男俊明出生、元気
ここは昔、横須賀海軍病院の分院だった処で、海岸の松林の中に病舎が点在、全く都塵を離れた別天地、七十一期の野村実氏も既に二十三年から療養を続けて居られる。時々会って話をしているが、肺病とは実に面倒な病気で「俺は肺病等には関係ばない」.と思っていた小生等も知らぬ間におかされ而も自覚の症状が初期は全くないため、気がついた時に
うちのクラスにも二、三の人が同病に苦しんでおられるらしい。粟屋徹君の如きも気ついたのは小生より遅かったのだ
災害は忘れた頃にやって来るとか、命あっての物種なれば、諸賢一層の御自愛ありて、前車の轍を踏まざる様、病床より御願いする。
(二八・一〇・一八記)
(なにわ会会誌 2号48頁 昭和29年掲載)