七十二期を担当した人事局員の想い出
福地 誠夫(53期)
私が人事局員として七十二期とかかわり合いを持ったのは、君達が大尉に進級した昭和二十年六月からのことである。当時の海軍省人事局第一課の中も受持分担は兵科で言うと
Å局員 中佐と少佐の約半分
B局員 少佐の約半分と大尉
C局員 中、少尉と候補生
D局員 航空関係の配員
その他、機関科担当二名、主計科、軍医科、技術科、予備士官担当各1名、そして課長は全般を統括する他各科大佐級の、局長も同じく将官級の人事を自ら受持つことになっていた。
A局員は49期の長沢浩さん、B局員は53期の私、C局員は55期の赤堀次郎君、舶空の配員だけをナ起案するD局員は54期の寺井義守君で
期せずして後日海上自衛隊創設に参画することになったのは人集めの便宜のためであろう。
それで君達が大尉に進級したときC局員からB局員に移管され私の受持となったので、中少尉仮補生時代の人事は凡て赤堀君がやっていた訳である。だから期間は短かたけれども、帝国海軍終焉直前の配員人事は、直接その人の死生につながるため、精魂尽す思いのまことに苦しい任務であった。72期の方々で特に私の「えんま帳」に上がった人の記憶は無い。皆さん揃って優秀だったからであろう。
オープンだった人事局
「海軍省出仕(人事局一課勤務予定)の移動電報を受けたのは十8年十月、当時私は上海で支那方面艦隊参謀をして居た。開戦の二年程前から海軍大臣秘書官をやらされて居たので戦勢が落付くまで転勤できず、漸く十七年五月出して貰ったと思ったら銃後のその又銃後の支那勤務。君はバスに乗り遅れたんだから我慢しろとなだめられて来てから、一年半、今度こそは第一第部隊の希望も出し楽しみにしていたのに海軍省とはといささかがっかりした。しかも「人事局一課」とはえらいところに見込まれたもんだと驚いた。というのは、海軍士官の任免補職の所謂「人秘」事項を取り扱うということで、何となく他の人々から敬遠されるというか、こわ持てはしても親しまれるという課ではないと思っていたからである。昔クラス会幹事として人事局の担当局員に面会を申込んだとき、室内に入れて貰えず廊下の立ち話しで用事を済まされた印象が忘れられなかった為かも知れない。しかし着任して見ると意外に課内の空気は和やかで堅苦しいことは全然感ぜられなかった。「人秘」の書類をあけっぴろげて盗み目されるのはこっちが悪いので、今は誰もそんなへマをやる局員は居ないよ、気軽に入って来て貰っていろいろ話を聞くのも仕事のうちだという訳で廊下の立ち話はもうとっくに止めたよ、とのことであった。
前任者の猪口(詫間)力平(52期)君との中継期間一カ月問。最初の仕事は自分用の名簿を作ることであった。特別の用紙があって各人について書き込みができるよう一行の巾が広くなっている。写経でもするような気持で一人一人の名と必要なデーターを丹念に浄書した。そしてこの自製の自分専用の名簿が日を経るに従って戦死の朱書で真っ赤になっていくのは何ともやり切れないことであった。
次に第一線部隊への連絡使を命ぜられた。これは上海あたりで比較的のんびりやって来た田舎者の私に、前線のきびしい実状を肌で触れさせようという局長の思いやりであっ
た。サイパン、トラック、バラオ、ラボール
と一廻りし、古賀GF長官、草鹿南西方面艦隊長官初め諸司令官、諸所轄長に極力沢山会い人事上の注文を承って来いという訳である。
田舎者といえは、このときトラックで始めて大和を訪問し、その大きくて複雑な構造なのに目を丸くした私であった。大和、武蔵を見ないでしまった海軍の人は随分沢山ある訳で
ある。前戦視察を終って帰京、やがて一本立ちの局員となった。
自家用名簿と考課表
人事配員の要諦は「適材適所」であることに間違いない。かくして戦力も一層向上し、本人もその職に快く精進し、人物識見に磨きがかかって進歩するからである。問題は適材か否かを見極めることに在る。特に当時の戦勢は急迫の非を示し、応急に次ぐ応急、じつくり考える暇もないので新米局員まことに苦闘の連続であった。受持ちのクラスは初め五十九期から六十八期まで約一二〇〇名位、まず名前を覚え、経歴を調べ、考課表による歴代上司の評価、本人申告による希望等を早く呑込むことが急務なので、自家用名簿の作成が
大いに役立った訳である。
平時ならば、大尉になるまで、兵学校の成績と教官の所見の外、候補生(練習艦の指導官と二期の艦隊実習)の二枚、少尉二年間の二乃至四、中尉三年間の三乃至五枚(年一回
の定期の外転勤の度に出されるので転勤の多かった人は枚数が多い)合計九枚以上の考課表が一人一人にある訳で、綜合評点もある所轄では乙上の人が次の所轄では甲中になるという具合だから片寄った評価も平均化されてまず妥当な線が出て来るのだが、諸君等の場合は余りにも進級が早くて、これが二枚しかないから判断がむずかしい。中に、これはえ
らくにらまれたものだと思う極端な考課にぶつかると、それを書いた上司がどんな人物かを調べる。前の考課表と余りにも違う場合も両方の上司を調べて見ると点の甘い人、辛い人という癖が判るのでその評価に手心を加えるという風に公正を期する為努力した。考課表に本人申告の欄のあるのはご承知の通りで勤務上の希望、健康状況、家族構成も重要な
データーとして例の自製名簿にメモした。
普通ならば前記の約十枚の考課表の分析で兵学校卒業時のいわゆるハンモックナンバーをガンルーム時代の実務実績によって修正するに足るデーターも得られるし、各人の個性や希望を加味して将来の進路の大まかな予測もできる訳で、ガンルーム時代のようにオールラウンドの体験を得させる配員から適材適所的の考慮ができる時機に入るのである。が諸君の場合、我々が六年かかったところを二年足らずで進級して来たのと、戦争末期の急迫した慌ただしい状勢下で受持ったということで、キメの細かいお世話のできなかったことを今も申訳ないことだと思っている。
卒業成績より実力本位
よく海軍では兵学校卒業成績順位、即ちハンモックナンバーの権威は絶対であったという声を聞くけれども歴代の海軍大臣、連合艦隊長官でクラスヘッドだった人はまずないのではないか。米内光政さんも及川古志郎さんもマン中よりズーッと下の方で卒業して居られる。要は実力本位である。肩書や順番よりも実力というのが海軍人事の特徴であった。例えば海軍大学校甲種学生といえば海軍の最高学府で、俊秀の人達には違いはないであろうが、大学出で将官にならなかった人もあるし野村吉三郎さんのように大学は出なくても大
将になった人もある。陸軍が大学出身を表わす天保銭マーク(本当の名称は知らない)を胸間に侃用して人事上も別扱いにしていたのに比べると、海軍は天保銭マークも早くから
廃止し一視同仁であった。人材を発掘するため、各人の真価を認識させる手段として考課表利度ができていたのである。部下の考課表を書く人も真剣真面目な態度で実情を明細に
記入した。そして書く人の個人差はあったが多くのものを見ている中に解明できる訳である。
進級のときに従来の順序から、ある人は抜擢せられ、ある人は下げられる。或は員数の都合で進級する人とできない人をカットする場合が起きる場合、それをどうして決めるか。
人事局員限りの内規があって、おのおのチェックポイント(人物、術カ、勤怠、賞罰、戦時中は特に戦功、健康、特技等々々)にプラス・マイナスの評点が決められ、少佐へ進級
する場合は、大尉になってからの考課表からその評点を累計平均値を出すことになっている。その計算の基礎となるデーターを一覧表にすると大分長い巻物になる。それを持って
人事局長、人事一課長の前で逐一説明し、局長が決裁すると、局長が全部の巻物を持って直接大臣の決裁を貰うという手順で、人事補任の書類は官房、次官等を経ないで、いきな
り大臣直裁というのが特徴であった。今から考えると、進級会議の巻物作りはコンピューターのような仕事だったなと思う。大変な作業だったが公平、無私、誠にリーゾナブルな
やり方であった。
危険な配置を志願
最後に私が最も感銘したことは兵学校出身者(機関学校も経理学校出身者も勿論同様と思うが)が戦勢苛烈になればなる程、最も危険な配置への志願者が多かったことで、只の
一回として何とか尤もらしい理由をつけて前線から内地へ返してくれ等という申出でを聞かなかったことである。諸君は、当然のことと思われるであろうが、いわゆる上流家庭出
身の短現や予備士官の父親や母親から、倅は何々の持病があるので南方勤務は無理だから内地に残して貰いたいというようなことを何々大臣とかお歴々を通じてよく云って来たものである。それに引きかえ、例えば私が兵学校へ教官の員数を減らす相談をしに行くとどこから洩れたのか血書の願書を持って是非特攻へやってくれ等と夜の宿舎に押しかけて来る若い教官があったという具合で、私としては大変嬉しくもあり有難いことであった。
私が着任した十八年の暮、前任者の申継に「今六十二期の音羽侯爵(朝香官)がクェゼリンの特別根拠地隊参謀で行って居られるがそろそろ転任を考慮する時機と思う。」とあったので、GF司令部附としてトラックまで下って頂く案を書き局長へ持って行くと「良かろう。だが父宮殿下のご諒解を得てから発令しょう。」とのことで、局長がお伺いに参ったところ「絶対に罷りならぬ。この際皇族の一員としてあくまで最前線に留まるべきだ。厚意は有難いが・・・ときっぱり断わられて戻って来られた。結局十九年二月二十六日玉砕されたのである。勇戦奪闘、まことに立派なご最後であったという。いわゆる名士と称するダメ親父に比べて、朝香宮殿下や純粋な若い士官の報国の至誠は何という立派なことであろう。
終戦の頃、諸君の人事を担当し、えんま帳をひねくって居た者ということで、当時の憶い出を書くようにご依頼を受けたが果してご要望に添えたかどうか。最後に若くして散華された英霊に恭しく弔意を表し、又生存される「なにわ会」の諸君の益々発展されんことを切にお祈り申上げる。
昭和18年度実務練習艦隊行動概要(18.9.、15〜11.15) | |||||
八 雲 | 山 城 | 伊 勢 | 竜 田 | ||
18.9.10 | 金 | 郡中沖一桂島 | 柱島一安下庄 | ||
11 | 土 | 柱島一呉 | 安下庄 出動 運貸筒曳航実験) | ||
12 | 安下庄一柱島 | ||||
13 | 月 | 呉一江田内 | 柱島一江田内 | ||
14 | 火 | 呉一柱島 | |||
15 | 水 | 江田内(候補生乗檻)一柱島 | 江田内(候補生乗艦)一柱島 | 候補生乗艦 | 候補生乗艦 |
16 | 木 | 操舵試験のため出動 | |||
20 | 月 | 柱島一大黒神島 | |||
21 | 火 | 大黒神島一八島 | 柱島(砲校教程射撃〉一八島 | 柱島一八島 | 訓練のため柱島発 |
22 | 水 | 八島一柱島 | 八島一柱島 | ||
23 | 木 | 八島一柱島 | 八島を経て柱島帰投 | ||
27 | 月 | 柱島一八島 | 柱島一→呉 | 柱島一呉 | 柱島一宇島一呉 |
28 | 火 | 出動諸訓練 | |||
29 | 水 | 八島一長浜 | |||
30 | 木 | 長浜→八島 | |||
10.1 | 金 | 八島一柱島 | |||
2 | 土 | 柱島一呉 | |||
6 | 水 | 呉一柱島 | |||
7 | 木 | 呉→八島 | 出動訓練 速力試験 | ||
8 | 金 | 入渠 | 訓練のため伊予灘に出動 | 同上 | |
9 | 土 | 出動訓練 | 八島一宇品(陸軍諸物件搭載) | 同上 | |
10 | 出動訓練 | 宇品一呉 | |||
11 | 月 | 柱島一大三島 | 呉→宇品 | ||
12 | 火 | 大三島一高井神島 | 出渠 | 陸軍人員物件搭載 | |
13 | 水 | 高井神島一高松 | 呉→字品(陸軍側輸送物件搭載〉 | 呉一宇品 | 宇品一佐賀関 |
14 | 木 | 宇品(陸軍部隊乗塩)一佐賀関 | 字品(陸軍部隊乗檻)一佐賀関 | ||
15 | 金 | トラックに向け出撃 | トラックに向け出撃 | トラックに向け出撃 | |
16 | 土 | 高松一柱島 | |||
18 | 月 | 出動訓練 | |||
20 | 水 | 柱島一郡中沖 | トラック着 陸掲 | トラック着 陸揚 | トラック着 陸揚 |
22 | 金 | 郡中沖一柱島 | トラッターポナペ(陸掲) | ||
23 | 土 | 柱島一呉 | ポナペートラック | ||
25 | 月 | トラック→ポナペ(陸揚) | |||
26 | 火 | ポナペ→トラッタ | |||
27 | 水 | 呉一柱島 | |||
30 | 土 | 柱島一亀川沖 | |||
31 | 日 | 内地に向けトラック党 | 内地に向けトラック発 | 内地に向けトラック発 | |
11.2 | 火 | 亀川沖一柱島 | |||
5 | 金 | 柱島一徳山 | 徳山着 | 徳山着 | |
6 | 土 | 出動訓練 | 徳山着 | ||
7 | 日 | 徳山一柱島 | 徳山一柱島 | 徳山一柱島 | 徳山一柱島 |
10 | 水l | 柱島一呉 | 柱島一呉 | 柱島一呉 | 柱島一呉 |
15 | 月 | 候補生退艦 | 候補生退艦 | 候補生退艦 | 候補生退艦 |
18 | 木l | 呉一柱島 | 呉一柱島 |
(なにわ会ニュース39号22頁 昭和53年9月掲載)