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B29を撃つ

相澤善三郎

「潮崎南方150浬B29単機北上」 332空鳴尾基地に慌ただしく電探情報が入って来た。 昭和二十年一月十八日午前8時頃の事である。当時関西地方の戦略爆撃を企図する在サィパン米空軍は連日偵察機を飛乗せしめ綿密なる写真偵察を実施し去るのであるが、如何せん高度九千乃至一万、速力三百二、三十節の高性能を以て来る偵察機に対しては、我が愛機もカ及ばず未だ迎撃の機至らずして空しく切歯扼腕するのみであった。当時の迎撃機零戦、雷電は一万米上昇に35乃至40分を要し、しかも,三機の内一機位が辛うじて一万に上昇し得るのみ。他は九千米位でフラフラ状態に陥るのが落ちであった。実際九千米から先一万に達する迄の一千米と云うものは上昇非常に困難でエンジンの弱い機ではどうにもならなかった。

 出力は一万米では六千に於ける約1/4に低下し機速は百節が精一杯と云う所、仰角を一杯とり、頭を上げても機は少しも上昇しない。昇降舵は、「コンニャク」を握って居る様に全然動かない。従ってこの高度に於いては、戦闘機本来の性能である旋回運動は、この無力の舵を以てしては何としても無理であった。急旋回すれば次には忽ち朱速して、二、三米はすぐに落下してしまう有様である。

 そこで単機飛来するB29に対しては待ち伏せ攻撃が可能なる唯一の方法であった。しかも広漠なる大空での待ち伏せとは盲亀浮木以上の僥倖を待つことである。

とまれ、戦機は正にめぐり来た。小生と期友松木は相携へ試運転もそこそこに直に発進。雲一点も止めざる大空は飽く迄澄み稀なる晴天である。隊内随一の快調を誇る我が愛機は「バチバチ」と排気「ロケット」の心ゆくばかりの快音を残して澄み切った冬空をぐんぐんと上昇する。グツと頭をもたげ水平線を両足下に踏まえる様な急上昇の快感こそ我等戦闘機のみに与へられた歓びであり、匹夫と雖も攻撃精神の体内に充満するのを覚えるのであらう。今日という今日こそ上れるだけ上り、如何にもして一撃必殺の突撃を敢行せんものぞ。思えば今日迄何度か攻撃の機会恵まれながら、上昇能力不足なるが為みすみすチャンスを逸し去った事か。

高度八千。松木が離脱、「エンジン」が弱くてついて来らないらしい。頼もしい哉我が愛機零戦五十五号はグングン上る。計器高度壱万五百、遥か下の方に松木が旋回しているのが望見し得る。

機首を酉に向けると、機は偏西風に乗り殆んど動かない。生駒山の上空わずかに前に出る程度、斯くて絶好の高度を取り切ったその時「敵機神戸上空通過」との地上指揮所よりの電話。目を皿にして睨め回すが更に空漠々。

北に波静かなる日本海であろうか。足下を覗けば{パノラマ」の如き瀬戸内海の白いなぎさが鮮やかに西に続いて海陸の間を遮る。

 しかも無念なり。敵影は我が視野のいずくにもいない。命の綱と頼む酸素は、涼しく、冷くマスクに入るが会敵の機は刻一刻と去って行く。

 やがて、敵機は舞鶴に廻ったとの電話が入って来る。緊張は緩み、ため息と共に鼻唄が思はず口をつく。やはり俗人のしからしめるところ、ほっと一息。されば一万米よりの天龍下りを楽しむのみか。これはちょいと乙である。よし、今日は酸素のある限り頑張って、四方の景色を楽しまう等と考へる。

 かくて、戦機去ったかに見えた途端「敵機南下中」との電話。緊張と武者振いのせいか一瞬目がくらむ。目頭をこする。口の中はカサカサである。それでもぐっと生唾を飲む。

急に爆音が変った様な気がする。

一萬にもなると確かに爆音が小さい。遠いエンジンの音を聞いて居る様な気がする。総てが緊張の一瞬。電到る。

 「敵機汝の足下に向う」

しまったと我が翼下を覗けば″居った。

 目指す敵機は、平然として我が真下目指して飛来するではないか。夢に迄画いたB29の俯瞰図、何とその巨大なる事よ!轟々たる四発のその恐るべき重量感。一撃必墜の好機正に到るか。

 夢中で「スローロ−ル」を打つ。一万では無理だ。頭が下ってしまう。頭の下るのが少少早やすぎる。少し機首を右に回さねばならぬ。右に舵を取る。天我に与するか? 右に廻り込みながら機首を下げて行くではない

 我が銃口の指す所にB29はその巨体を静止せしめたかに見えた。思はず満身の力をあて、レバーを押せば、閃一閃、美しい曳痕を画いて二十粍機銃弾は敵影に吸い込まれて行く。

 急降下する我が眼前に、急速にその巨体は我が視野一杯に拡がって来る。その間寸秒、「ハッ」と思った瞬間、敵の尾翼すれすれにかはる事が出来た。が、次の瞬間頭上より浴せられるのは敵弾の雨だ。

 手足を一杯に反対操作をしながら、横滑り避弾運動に移る。大地が浮き上って来る様に感ずる。遂に攻撃は終った。水平飛行に戻し、高度計を見ると七千米。一瞬にして四千米の

降下をしたのであった。

 やっと落着きを取り戻し、振り返ればB29は遥か上空を、黒い尾を引きながら南下して行く。攻撃は奏効したものと見える。

 全く僥倖なる一撃と申す外はない。

後日譚

 敵機の熊野灘墜落を知ったのは着陸後、中部軍の通報に依り、当該時B29に攻撃を加へたのは、小生たる事を確認されてからの事であり、それを聞く迄はその効果たるや実に半信半疑であったのである。

 然しながら、新聞に、相沢中尉B29を云々と発表されてからと云うものは、諸々方々で、実に、MMCであった。呵々。

(なにわ会会誌1号 昭和27年12月掲載)

 

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