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昭和53年9月寄稿

練習艦隊の出撃、丁三号作戦

都 竹 卓 郎

 

 七十二期は兵学校各期の中で練習艦隊の経験を曲りなりに持った最後のクラスであり、また単なる陸兵輸送とはいえ、実習期間中にまとまって作戦行動に参加した(それがいわば遠洋航海の形になった)という点でもいささか特異なクラスといえるかも知れない。

 もっとも昭和十六年春卒業の六十九期以降建制としての練習艦隊は存在せず、我々の場合も内海西部所在の伊勢、山城、八零を兵力部署によって十一水雷戦隊司令部の指揮下に入れ、旗艦竜田と併せ都合四隻で、実務練習部隊を編成したものである。

 司令官は木村進少将、候補生担当の教育参謀は一号時代の期指導官太田一道少佐であった。十一水雷戦隊は元来新造駆逐艦の乗員に慣熟訓練を与えるための練習水雷戦隊であり、この種の任務にはある意味でうってつけであったともいえよう。

 

 伊勢では後部の大格納庫(瑞雲水爆24機搭載予定と聞いていた)に隣接する両舷の搭乗員室が候補生居住区に充てられていたが、とにかく暑い室であった。夜は中甲板の各通路にハンモックを吊って寝たが、朝には主任導官付柴田中尉(68期)以下ガンルームの面々による釣床点検というやつが時々ある。不良と認定された者はそれをかついで最上甲板一周を命ぜられるが、そこかしこに、屯している兵員に「通路を開け」と大喝する奴、中にはやおら釣床を置いて一発修正をお見舞して悠々と帰って来るサムライ等もいて結構面白い毎日であった。

 

 小生自身も甲板候補生の時、甲板下士官に集合を命じたところ、四号の入校教育時に短艇を習った伊達という教員に会い、懐かしさとも面映ゆきともつかぬ思いをした記憶がある。

 

 さて丁三号作戦であるが(トランスポートの頭文字のTと思っていたが、甲乙丙丁の丁らしい)、GF電令作七二七号(38号に電令作戦とあるのは誤り)が飛来したのは確かに九月末、通信料で実習中の澤本 先任候補生が「チェストー」と叫んでえらくはしゃいでいたが、ご当人の記憶は如何?

宇晶では陸軍の船舶司令部を見学、そこの幕僚の講話で、毎月十万屯の新造船量に対し、敵潜による損失が二十万屯であるという深刻な事情を聞かされたりした。伊勢に乗って来たのは鯖江の連隊で、格納庫にかいこ棚を設備して約千名を収容した。

 

 木村少将は将旗を山城に移揚し、十月十五日佐伯湾発、豊後水道出撃。土佐沖は相当の時化で伊勢の新兵(陸兵ではない)が一人波にさらわれるという事故があった。

 

 三日目には山城と伊勢が三万米離隔並航して互いに主砲の偏角実弾射撃を実施した。水平線上の相手艦のマストの辺りに閃光と砲煙がほとばしり、やがてシュルシュルキーンという飛翔音に続いてドーンと大水柱が立ち、最後にゴォーツと砲声が届いて来るという、型通りの古典的海戦のエギジビションである。

 

 四日目にマリアナ列島のパガン、アグリガン水道を通過、六日目の十月二十日トラック北水道から環礁内に入泊した。

 

 その頃GF主力は敵機動部隊との決戦を企図してブラウン(マーシャール群島)方面に出撃中であったが会敵に到らず、程なく帰投。大小七十隻の艦艇が泊地を埋めつくした光景はまことに壮観という他なかった。

十日程のトラック在泊中に武蔵・長門で、古賀GF長官と南雲一F長官の訓示を受けた。

「お前達はどんなに苦しい目に会っても、これで駄目だとは決して思ってはならない」といわれた南雲中将の言葉が、今でも耳に残っている。越えて二十八日には、ブーゲンビル方面に指向された敵の新たな攻勢を迎えて、ろ号作戦の発動が下命され、一航戦の飛行機隊がラバウルに進出して行った。翔鶴、瑞鶴の甲板から次々と飛び立つ機影をみつめながら、はるか南の最前線に熱い思いを馳せたのは私一人ではなかったであろう。

 

 帰路は隼鷹、利根を加えた八隻の部隊となり、旗艦は伊勢に変った。往路もそうであったが天測をふんだんにやらされた。

 隼鷹が被雷したのは沖の島を目前にした十一月五日の早朝、黎明警戒のため艦内哨戒第一配備がとられ、司令官以下総員が配置についていた時であるが、魚雷命中の轟音に一瞬総立ちになった艦橋は、引続いて旗譌甲板のあたりに起こったドーンという爆発音に二度ビックリ。これは哨戒長附候補生の春日仁が信号兵に命じて打たせた緊急警報用の信号弾で、このため彼は木村司令官からじきじきお目玉を頂戴するという光栄に浴した。

しかしこれは明らかに緊急事態というべきで、自分がビックリしたからといって候補生を叱責するのはいささか理に適っていない。主任指導官の副砲長(申訳ないがお名前は失念)もそれが気になったらしく、後刻とくに我々を集めて、「春日候補生の処置は.あれで宜しい、緊急時には断固思った通りにやれ」という話があり、春日も面目をほどこした。

 もっとも司令官の考えには、信号弾は異常を先に発見した時の通報手段で、命中音を全部隊がきいてしまった後では無意味になるということもあったらしく、事実その後私が何度か経験した類似の場面でも、信号弾が使われた例はついぞなかちたように思う。

 

 柱島帰着後は水雷艇で怒和島水道に爆雷投下訓練に行って鯛を漁り、その夜格納庫で開かれた候補生送別の夕食会では刺身をたら腹食べたこと、余興の時またもや春日仁が豪勇を以てなる長谷艦長の訓示の口真似をしきりにやった挙句、例の「うちのパパとうちのママが並んだ時・・・・」という歌を唱い、「パパの大きなものは靴下の破れ穴」と結んだところ、艦長が自分の靴下の裏をわざわざのぞきこんで大爆笑となったこと等、短い期間ながら青春の覇気と稚気とが混じり合って燃焼した思い出多き二カ月ではあった。

 

 えらく長文の稿になってしまったが、前号所載のクラス諸兄の話が余りにも頼りないので、(失礼)、こちらも余り老化せぬうちに備忘風に書き留めてみた。

 

 それにしても、いわば、「一つの籠に沢山のたまごを盛った」まま前進根拠地に送り出すとは、万一の危険を慮ればずいぶん思い切ったことをやったものである。その三年前の昭和十五年、ドイツ海軍の戦艦ビスンマルクと重巡プリンツオイゲンが五〇〇名の候補生を乗せて大西洋に出撃し、ほとんど全滅の悲運に際会した前例があるが、中央はそういった懸念を全く持たなかったものか、あるいは充分に検討の上で踏み切ったものか、ちょっと知りたい気持がする。

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