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平成6年3月寄稿

海行かば   飛鳥による洋上の旅

名村 英俊

 何かと東京を留守にすることが多かった今年の夏だったので、千葉の泉から、NYKの飛鳥による沖縄・瀬戸内海クルーズに乗船し洋上慰霊祭を行うについては『参加することにしておいたから』と言う留守番電話のメッセージを受取ったのは八月十日頃だっただろうか。詳細はよく分らなかったが、とにかく喜んで参加すると返事した。<BR>

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 あり様は、有志の献身的な努力によって能登半島周遊以来連綿と続いてきた「なにわ会」親睦旅行の伝統を、一年といえども中断することは誠にけしからぬことではないか。<BR>

更に言うなら、今年は卒業五十周年とあれば、その意義はいやが上にも強調されなければならない。されば、去る七月、同じ飛鳥船上での大和の慰霊祭に参加して触発された感激(なにわ会ニュース六十九号潜望鏡参照) を再現すること、すなわち洋上慰霊祭こそが最も時宜にかなった企画と言うべきではないか。多分これこそ彼が意を決して旗を揚げるに至った理由であろうと推測した。方針が決まった後の作業は迅速果敢、しかも間然する所の無い程、綿密な手続きを踏んで、例年の親睦旅行を「なにわ会」の公式行事に持ってきた彼と、彼を補佐した鬼山両君の情熱と実行力に改めて敬意を表する次第である。<BR>

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 飛鳥は日本郵船に所属し、総トン数二八、七一七トン、収容可能客数五八四名、航海速力二十一ノットを誇る純客船である。その計画は、本船の次航、「沖縄・瀬戸内海クルーズ」 に便乗して、太平洋戦争における最後の決戦舞台となった沖縄近海での洋上慰霊祭を行なわんとするものであった。<BR>

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慰霊祭参加者および航海スケジュール

コース別参加者名薄(敬称省略)

(横浜乗船〜横浜下船)
故岩波欣昭 兄 岩波正幸・静子  
故小島丈夫 妹 小島喜久江  故斉藤敏郎 弟 斉藤 健<BR>

故山田三郎 兄 山田一夫・八重妹  吉田とみ子   鬼山 茂樹 (幹事)<BR>

(横浜乗船〜神戸下船)

故加藤敏久 兄 加藤智一   故品川 弘 妻 品川蓉子  故富士栄一 妻 冨士英子<BR>

泉  五郎・才子   加藤 孝二・好子   名村 英俊  藤田 直司・昭子

(那覇乗船〜神戸下船)
故吉田克平 妹夫妻 本山哲太・和子   
岩松 重裕   上田  敦 (機)<BR>

大槻 敏直・みねよ   大堀 陽一   押本 直正・寿子   後藤 俊夫   椎野  廣 (撥)  <BR>

高崎 慎哉・みどり   高倉  薫・信暗(大槻友人)   樋口  直   三好 文彦

山田 良彦   山田  良   渡辺 収一・浦子   渡辺  望  門池 啓史(渡辺夫人の甥)


 なお、多数のご遺族より献花料等として、計十五万五千円の寄付を頂戴したほか、故人あての手紙類、般若心教写経、ふるさとの銘酒、それに故人ゆかりの心のこもった多くの品々が託された。


航海スケジュール

  十一月 五日(金)一一〇〇          横浜発<BR>

      六日(土)              終日クルージング<BR>

      七日(日)一三三〇          那覇新港着<BR>

      八日(月)一七〇〇          那覇新港発<BR>

           一八〇〇〜一八三〇     洋上慰霊祭<BR>

      九日(火)              終日クルージング<BR>

      十日(水)一四〇〇          神戸着<BR>

           一六〇〇          神戸発<BR>

     十一日(木)一六〇〇          東京晴海着

◎ なにわ会 洋上慰靂祭

日  時 平成五年十一月八日一八〇〇
場  所 伊江島の二〇〇度、二五浬 飛鳥船上
司  会 泉 五郎
開会の辞 樋口  直
慰霊の辞 椎野  廣
献花献酒等 飛鳥船長 石河薄史  船主代表 岩松重裕
ご遺族  ご遺族代理  期友  船客有志
(この間弔砲十三発、国の鎮め″吹奏)
汽  笛 長一声
海行かば″斉唱 指揮 高崎慎哉
黙  祷

 式は本船が那覇港界を離れた一八〇〇から泉の司会により進められた。本船幹部職員や船内新聞などで事情を知った船客有志の方がたなどを加えて百名になんなんとする参列者がプロムナード・デッキの船尾を埋める盛儀となったのは感澱であった。この日、季節風ようやく強く、暮れなずむ空は雲量六、慶良間の島々は既に濃気にその姿を没した。
 先ず樋口が進み出て、克明に数字を挙げて、太平洋全戦域の海に空に陸に散華した期友に呼びかけ、今日我らようやく素志を果たして洋上に再会し、慰霊祭を行う旨を告げて開式の辞とした。次いで、椎野が立って慰霊の辞を朗読。それは、潮騒も烈風も消し得ない血の叫びと言うべきであった。慰霊の辞は別掲する。期友諸君、是非再読、三読をお願いする。

 やがて 国の鎮め″吹葵と弔砲のとどろきと共に献酒献花の開始、順序に従って男性方には花と酒を、女性方には花と握りご飯、それにご遺族より託された手向けの品々は、参加した期友の夫人方の手により残らず海に献じて頂いた。

 終わって、汽笛長一声、海行かば″斉唱黙祷。幽明境を異にして既に五十年、我々も馬齢を重ねて古稀に至り、将来再び今日の様な機会を得ることは必ずしも容易でないことを予見するが故に、万感ひとしお胸に迫るものを覚えながら洋上慰霊祭を閉じた。
 ただ、我々の会場設営や運営の不備故に多数のご参列を頂いた方がたに混乱を強いる結果となったのは申し訳ない次第であった。これもひとえに、事前の図演の我々の判断が甘おった結果であり、謹んでお詫びすると同時だ、臨機の処置を講ずるため、何かと応援を願った乗組員の皆様に厚くお礼を申し上げたい。

◎ なにわ会」懇親会

 十一月九日一〇三〇からプラザ・デッキのピアノ・アーにおいて、NYK岩松常任蘇問の主催により、「なにわ会」懇親会が開かれほぼ総員が出席した。この日は横浜出港以降初めて荒天に見舞われたが、慰霊祭を昨日無事終えた安堵感も漂って、和やかな1刻を楽しんだ。ちなみに、岩松(自称三分の二 「なにわ会」会員)はこの計画を知るや急きょ乗船して、陰になり、日向になって援助してくれたのは有難かった。今夏、トップ (日本郵船副会長)の重責から漸く解放されたことでもあるし、これからは「なにわ会」 の集いには常連として顔を出して欲しいと思う。

 解散後、船長のきもいりでブリッジを解放し、半世紀前の名航海長どもの縦覧に供して貰った。自衛隊経験者などは別として、我々にとっては、GPSなど往時のそれとは懸絶した性能を持つ航海機器などには興味を引かれた。風雪にさいなまれながら、六分儀片手に星を求めて徹夜した北方部隊での苦労などはまさに夢のまた夢である。(この時本船の位置…屋久島の真西二・五浬)

 十一月十日正子豊後水道通過。かつては我々の庭であった内海西部は漆黒の闇に沈んでいた。〇八〇〇瀬戸大橋をくぐり、一四〇〇予定通り神戸ポートアイランド埠頭に着岸して、洋上慰霊の旅は実質的に終わった。

 Aコース選択の数名を残して全てここで下船するからである。思えば戦闘配置こそ違え、等しく軍艦旗の栄光のもとに戦った我々の共通項は「海」であろう。飛鳥の航海を通じて青春の思い出が一杯詰まった輝く「海」を満喫した。そして、やがてそれは散華した友を抱く鎮魂の「海」に暗転する。

 押本の来信に言う。

 「うれしゅうて やがて 寂しい 飛鳥クルーズ哉・・・」

今回の慰霊祭は、極めて短い準備期問であったにも拘らず、幹事の卓抜した采配と本船初め関係各位の協力を得て、予想以上に順調に推移し、深い感銘を残して無事終了したことはご同慶の至りである。ここに、「なにわ会」 の名において、この慰霊祭に参加頂いたご遺族、期友諸君、飛鳥乗組及び船客ご有志各位に厚くお礼申しあげる。更に献花料その他英霊ゆかりの品々を恵贈賜ったご遺族には、御礼とともに、みな底深くお届けしたことをご報告申し上げて拙稿を終わる。

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追記・・・別掲した「慰霊の辞」は泉の心血を注いだ告文であり、若くして散華した期友を思う感動の名文である。これを朗読したのが椎野であり、その真情にあふれた語り口は参列者の胸を打つものであった。彼が同時に文筆の士であることは広く知られているが、それにも拘らず、いったん朗読を快諾するや、一言一句異議を挟むことなく、しかも、暗唱し得るまでに練習を棲んだばかりか、更に自ら筆をとってこれを巻紙に謹写した。恐らく何度も書き改めたであろうと推察されるが、読み終わって推野はそれを静かに海に献じた。

 折から西天の暗雲は茜の残照を遮って波ようやく高く、船尾より白く沸き立つウエーキは巨大な光芒となって南に走る。黒と茜と白の織り成す乾坤は悲愁の気に満ち、飛鳥の高速二十一節は飄々たる海風となっては耳たぶに迫る。それは恰も鬼神の突くが如き情景のなか、墨痕鮮やかなその巻紙は白く輝く龍神にも似て、一度身を翻して中空高く舞い上がり、そして別れを惜しむかのようにゆっくりと暗いわだつみの彼方へ消えていった。

 思わず熱いものがこみ上げてくるのを禁じ得ない一瞬であった。かくて彼は見事に主役をこなしてくれた。しかも自らの文筆に対する矜持を捨ててのこの協力はなかなか出来る事ではないだけに、起案した泉の感激もさこそと推察し、あえて追記する次第である。

 もう一人解介したい御仁がいる。彼の名前は伊東宏氏、たまたま夫人介護の旅で同船した七十六期生である。三号の三号と自称し、慰霊祭のビデオ撮影その他乗船中を通じて並なみならぬ奉仕に預かった。謹んで謝意を表したい。ちなみに同氏は関西の海軍関係の集りでも、甲板士官として活躍中の由で、あるいはご存知の向きもあるかもしれない。

名村 英俊

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