昭和45年2月寄稿
「なにわ会」の由来について
澤本 倫生
なにわ会ニュース18号の押本狂授の意見は面白かったが、一寸飛躍が過ぎると思う。しかしながら、お互いに人間の記憶とは実に情けないものだと感じた。誰も覚えてないのだな。
四十四年八月二十七日、銀座梅林での討議に参加できなかったのははなはだ残念である。
当日、足立英夫狂授提出の文献の、なには会(なにわ会でない)名簿は、「なにわ会」の名の元をなすものであるが、「なにわ会」そのものではない。小生が「大阪地方におけるクラス会の一部の名称が、その基になった。」といぅ、その基、叉は元であろう。
終戦直後、級会全体の名簿を作るべく、ご遺族を含めて、級友全員に名簿原稿送付を求めたのは小生である。当時、軍令部のなれのはてである海軍調査室(名は不確実、ここにも人間記憶のなさけなさを感ずる)が、旧海軍大学内にあり、私も九月末まで勤務していた。其処で八月末に、七十二期級会世話人の名で、ワラ半紙の右半分に通信、左半分に名簿原稿をつけて六百通(生存者とご遺族とは、文も名簿の形式も一寸違えたつもり)発信した。二週間以内に回答があったのは二割もなく、はなはだ淋しい思いがした。中には「折角、静かに暮しているのに、騒がないでくれ」といって来た奴もいた。もっとも、当時はまだ、米軍の占領政策が判らず、「兵学校出は海外に連れ去られるとか、去勢されるとか、あるいは一騒動起すとか」いろいろの噂が流れていた時だから地方にいる者としてはやむを得なかったであろう。U閑話休題U
とに角九月末までに、約半数の回答をもらい、樋口にバトンタッチしてしまった。これを参考にして戦後の全員名簿第一号を樋口が出してくれたのだと思う。
世の中が安定して来るにつれ、クラス会の要望が高まり、樋口、渋谷が中心になって、関東地区の級会を開いたが、それが何年であったか覚えていない。しかし、その時以前に大阪で「なには」会が催されたと聞いた。
第四回目だったか、五回目だったか、『その前に20年9月に横須賀の小松(パイン)に集まったことがある。幹事は粟屋だった。その後、郡が幹事で浦賀の復員省運航部で、二十年十一月か十二月頃と、その後二度位クラス会があった。ビールが飲めるようになったのが二十五年だったからな、その後の級会である』
「関東なには会」(於梅林)と呼んでいたのを思い出す。(当時は追放令で、われわれの集会は公的には許されなかったので、この名称を用いた)。その時「大阪の意味を持つ『なには』を関東で使うのは変ではないか?」と意義が出た。これに対し樋口が「なには」会の名は既に、うちのクラスの名称のようになりつつある。原田教官の「なにくそ」といわれたこともあり、七十二にも関連があるのだから「なには」会でよいではないか」と提案があり、全員一致で会の名としたのだ。
「なには」の語源を求めれば、押本狂授の論文中にある、田中宏訣狂祖の説の通りであろう。(訓育の影響の大きさを改めて認識する。