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会誌一号を校正して

加藤 孝二

 

会誌一号の校正を押本から抑せつかった。机底から変色した藁半紙に謄写版刷りの会誌を引っぱり出したが、34年前の期会誌に懐旧の念が先に立って校正は後廻しとなった。

昭和27年、パージが解けると同時に、生存者の大半が靖国神社で慰霊祭をと思ったことであった。敗戦后の七年間のクラスの鬱積が、吹き出す時に慰霊祭に集約されたのであろう。当時の会誌や日誌、写真をみると、20才台後半で、まだネービーの潮気が強烈に匂っている。

510日 保安庁に手空きの期友集合、慰霊祭の件につき検討。713日の期会で正式に 発動した。1012日に慰霊祭と、泥縄式と云うべき忙しさである。その頼りとするものは、樋口・水野等が厚生省で調べた不完全な名簿と、残存している期友の潮気、樋口のリーダーシップであった。

89日保安庁で会合、松元、佐藤秀一、渋谷、大谷、泉、山田良、小島、樋口、加藤、出席、募金一口参百円と壱千円の案が出て、参百円に決定(ケンケンガクガク)。

820日 樋口より速達、募金係を頼まれる。

827日 松元、渋谷合作の募金用紙受領。

831日 対クラス通知発送。

928日(日) 於梅林 樋口、渋谷、松元、泉、富士、後藤英一郎、小島と打合せ、慰霊祭当日出席の近隣在住クラスから、別途当日会費を徴収する等、予算の大枠が出た。カメラ店をやっている小生の店に、戦時中所有のカメラを売却し募金に充当してくれとのクラスも数人あった。

遺族の方々も戦後七年間、生存者と個々の交流はあったにせよ、期会としての連絡は初めてで、御案内に対する反響は予想以上で、地方よりの御出席遺族多く、一日でお帰り願うに忍びず、地方よりの方の為に東京観光と歌舞伎観劇も加えられたが、予算の追加に心の弾む思いをしたものである。恥しい話だが最終的予算の見通しがついたのは109日の会合であった。その間の樋口のリーダー振りと、クラスメートの協力振りは私もその末端にいたが、戦後七年間ブランクだった帝国海軍の潮気を充分楽しく味わせてくれた。

1013日 歌舞伎の切符不足とのこと、急ぎ当日売りを購入したら今度は余りが出て、勿体ないと小島がダフ屋に売却、高く売れた一幕もあった。

当日参加の東京近隣のクラスに対する募金用のチラシの一部が遺族の方に渡って了い権代の父君が遺族の方々に、拠金の相談をされているときき、歌舞伎座の二階ロビーで樋口と「今回だけは私共の好きな様にさせて下さい」と止めて戴いた事がある。その夜は柴田と二人で宿の当直だったが、権代の父君がダウンする午前四時迄おつきあいした。

私は自営であるので、出勤にやり繰りが出来たのでいつも宿泊係を受持った。二回目の慰霊祭の朝、兵・機・経三校の宿泊係が一斉に新しいFu(樺)にとりかえ乍ら、思わず顔を見合わせてニヤッとした思い出がある(海軍では儀式には下着を代える躾がある)。

はとバスに乗る時、飯島のお母さんが昨夜の夕食時のビールを、重いのに大事に手提龍に入れて持って居られた。「これはね、エへへ、家へ持ってって仏壇の倅に飲ませてやるんですよ」何とも嬉しそうに云われた時は、お母さんの真情に打たれて一瞬言葉が出なかった。お母さんにとって我々が差し上げたビールは、市販のビールではなかったのである。

23回忌の慰霊祭が終ってから、上田の提案で以后毎年参拝期会が出来る様になった。なにわ会の毎年の法事、反省会の様なものである。御両親の参加は段々少なくなるのは寂しいが、御兄弟、生存者の数は年々増えている。

今年、岩波の長兄、正幸氏が遺族を代表されて挨拶された。「毎年参拝期会に参加しているが、昭和27年の第一回の慰霊祭が一番印象に残っている。そしてその気持を何時迄も持って、毎年参拝している」と云われた。嬉しかった。当時は我々も戦没したクラスと外見は左程異っていなかった故もあっただろうが、あの時、書生論法、猪突猛進、お粗末だらけ乍らやっていて良かったと思った。

会誌に投稿された教官、遺族の方、期友も鬼籍に入られた方が多く今昔の感一入である。駿河台ホテルで、遺族の御両親が一様に云われたのは「息子の面影を胸に抱いて進まん、亡き子の遺志をつがれたし」 であった。

戦後の価値感が如何になろうとも、参拝期会の最大公約数は「クラスの澄んだ瞳に心の中でまみえて、現在の自分自身をみつめる為に……」であろう。

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