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海上自衛隊幹部候補生学校庁舎
(海軍兵学校第2生徒館・
東生徒館
大改修物語

 

海兵75期 井ノ山 隆也

 

海軍兵学校東生徒館、通称赤レンガは、表題のように現在、海上自衛隊幹部候補生学校庁舎として使われています。

 

平成16年(2004年)6月、内外の大改修を終え、往時の格調ある風格と美観を備えた姿に復元されました。しかも、単に「歴史的建造物としての保存と外見の維持」だけ、というようなやり方でなく、今後も長く実用の建築物として使用して行く事を前提に、阪神大震災級の激震にも耐え得る充分な強度と機能を備えた建物として見事に復元されたのです。

  これからそのお話をしましょう。

 

1、歴史

「海軍兵学校沿革(中島親孝54期著)」によれば、明治19(1886)5月に、東京築地にあった海軍兵学校を江田島本浦に移転する計画が決定され、同年11月、新校舎建設工事が開始され、1年半後の明治21(18884月に物理、水雷、運用の3講堂と重砲台、官舎、文庫等が落成、同年81日をもって、海軍兵学校は江田島に移転された、と記述されています。その時点では、まだ生徒館が出来上がっていなかった為、表桟橋に繋留された「東京丸」を生徒学習船として、同月13日から開校されました。

 学習船は生徒館に代用されたもので、海岸と平行に四丁繋ぎ(船首尾の両側に錨を入れて固定すること)とし、陸上との交通は浮桟橋を使つたとあります。最上甲板の中央に生徒喫煙室と診察所、後部と上甲板後部に職員事務所、上中甲板の前部に兵員室を設け、その他は教室兼生徒温習室、食堂、洗面所、浴室とし、食堂とその直下のホールド(船倉)を生徒寝室として釣床用のフックを設けたのです。中部ホールドを23の教室に分けましたが、船底が腐蝕して常に海水が浸入し、各室は採光不良で白昼でも暗かつたと言われています。

明治21年8月13日の開校から、明治26年(1893) 6月15日に赤レンガ生徒館が落成して、学習船から陸上施設に移転するまでの4年10ケ月間の兵学校での生活は、上記のように想像しただけでも惨めとも言える誠に気の毒なものであったと言えます。では、明治19年の着工から赤レンガ落成まで、なぜ6年7ケ月もの歳月が掛かったのでしょうか?

  

 上の図と写真を見て下さい。図で判るのは、八方園神社の小丘は、元は北に稜線が延びていて、この稜線部分を削りとって官舎地区とし、この土で赤レンガ生徒館・練兵場部分を埋め立てた事が判ります。記録では、学校敷地を確保するため7万4千坪を埋め立てた、と書かれています。

 埋め立面積7万4千坪と言うのは、約24万4千u、今風のたとえでいうと東京ドームの敷地面積4万7千uの5倍余で、生徒館敷地を含み、練兵場の南端から海岸石垣で囲まれた区域及びその周辺に相当する広さです。現在の様な土木機械の無かった時代としては大工事でした。

明治19年11月に工事が始まり、同26年6月に生徒館が完成した、と記録にありますが、この間の6年7ケ月と云うのはどう考えても期間として長過ぎ、よく調べると、生徒館の着工は工事開始から約5年後の明治248月となっているのです。この理由は、埋め立てた地盤が安定するまで生徒館の建設を見合わせていた為と判りました。最初に、講堂・集会所・官舎など一応の施設が山側の敷地に完成した時点、即ち、明治21年に兵学校を移転し、埋立て地の安定と生徒館の完成を待ったのでしょう。後で触れますが、赤煉瓦生徒館の基礎工事のやり方を見ても、当時としては最高の考慮が払われていたことが分ります。それでも、明治38年の安芸灘地震では、同じ煉瓦造りでも山側に建てられた集会所に被害が無かったのに対し、この赤煉瓦生徒館には相当大きな被害が発生しているのです。

明治26(1893)615日に生徒館、事務所、兵舎等が落成して、学習船から陸上施設に移転しました。生徒館は赤煉瓦造り2階建洋館で、階上中央を監事部とし、その両側を生徒寝室にあて、西洋式寝台が備えられました。階上の一番東側に講堂、続いて生徒展覧所があり、階下中央に生徒応接所、診察所、使丁室、信号兵詰所、その東側に生徒温習所、西側に講堂が設けられたと記録されています。生徒館と並んでその裏側に建てられた別棟に食堂、喫煙所、洗面所、浴室、発電所などが設置されていました。

劣悪な学習船の生活環境から当時としては最も斬新・近代的な生徒館の完成によって陸上に移転したのです。この時の快適な状況を、兵学校の記録には、「・・・・空気ノ流通、光線ノ進入トモニ良好ニシテ、室内広闊、之ヲ学習船ノ昔ニ比スレバ、ホトンド茅屋ヨリ玉楼ニ転ジタル感アリ、生徒心神ノ蜴轄、蓋シ幾何ナルヲ知ラズ、帝国唯一ノ兵学校トシテ、大ニ其ノ体ヲ得タリ」と述べられています、喜び・感動の情景が見えるようですネ。

 江田島移転後最初に卒業したのは15期生(明治22年4月卒業、広瀬中佐のクラスの80名)であり、赤煉瓦の生徒館生活を経験した最初の卒業生は20期生(明治26年12月卒業31名)、入校時から赤煉瓦で生活したのは24期生(明治26年11月入校〜30年4月卒業18名)以降です。

ここで少々横道に逸れますが、ご容赦願います。

 

本記事を書くに当って、筆者は海軍兵学校の歴史資料に目を通してきました。それまで漠然と読んでいた歴史の時間的な関係と言うか、当時の時代の流れが具体的に脳裡に描き出されて来ると共に、新しい発見や疑問が生れる事にもなりました。歴史的事実として、「明治20年7月、海軍機関学校が廃止され、在校生95名が海軍兵学校に編入された」更に、「明治26年に再び海軍機関学校が独立」とあります。この事は、今書き進めつつある赤煉瓦の生徒館の建設の歴史と完全にダブっているのです。また、「明治26年11月、山本権兵衛(当時大佐)による海軍人事の大改革断行(従来の藩閥の弊害の残る人脈を廃し、新しい教育を受けた兵学校出身者を海軍の主流に据える人事への改革)」また、「機関学校の明治20年廃止〜明治26年再独立までは、兵学校教育は、生徒を将校科と機関科の2科並列で行われたこと」など海軍大激動の時代だった事の発見です。また、「多い人でも50〜60回と言われる古鷹登山を、広瀬中佐は在校中に100回も古鷹山へ駆け登った」との伝説がありますが、15期生の江田島在校期間が僅か8ヶ月間(明治21.8.13〜明治22.4.20)250日であることを思うと、凄いことと思いながらも、一方で首を傾げざるを得ないのです。

当時の国情は、明治24年夏に清国の新型戦艦「定遠」「鎮遠」(7000トン)が日本各地を歴訪してその威容を見せつけ、無言の圧力をかけており、遂に明治27年7月、日清戦争が勃発(兵学校1期〜21期の士官約700名が従軍、その内400名は尉官)している事でも想像出来るように、近代国家建設を志して一路邁進していた我が国にとって維新以来の苦難の時代だったと言えます。

 

話を戻します。

 

2、赤煉瓦生徒館はどのように建てられているのか?

 

赤煉瓦生徒館建設については次のように記録されています。

設計者  イギリスの建築家 J・ダイアック

   経歴には、「明治3年、工部省の招きで来日、鉄道建設、建築設計に従事、東京築地の

海軍兵学校の生徒館の設計者でもある」と書かれています。

施工者  関西工業組 

落札価額 6万9千円(当時の価格)現在の貨幣価値では約14億円〜18億円でしょうか?

工事期間 明治24年6月8日着工  明治26年3月○日落成(落成日の記録はない)

  

 上の写真は、明治26年竣工当時の赤レンガ生徒館の写真です。屋根の形の違いに注目して下さい。ドーマーウインドウがあります。そして寄せ棟でなく、「切妻造り」になっています。

 

上の写真は、明治38年6月の安芸灘地震で渡り廊下部分が崩落した中央渡り廊下屋根部分を中庭側から撮った写真です。

参考      

   

    

上の写真は、上記の明治38年6月の安芸灘地震後の改修を終えた生徒館の写真です。上の明治26年竣工当時の写真(黄色の線で囲んだ部分が相当)と比較して見て下さい。ドーマーウインドウが設けられていることは変わりませんが、屋根が「寄棟作り」に変わっています。
古い写真のため、細部まで見比べることは困難ですが、地震による被害復旧を含めて外見上明確に判るのは、屋根の形状と瓦葺がスレート葺きに変わっていることです。内部では部屋の中央に補強の柱が設けられたことです。この柱は時期不明ですが、後の改修時に撤去されています。

 筆者は大講堂の大改修についても書いていますが、その中で記述しているように、大講堂も同じ様な重要文化財に指定されている東京駅舎も日本橋の日銀本社社屋も「鉄骨煉瓦積み」構造です。しかし、赤煉瓦生徒館はこれより20年ほど時代が古いのです、鉄骨は使われていません。 レンガ造りの建築物はヨーロッパでは古代からあり、レンガの積み方も色々の工夫が凝らされています。レンガは1段ずつ上に積み上げていきますが、要点は外観を美しく、しかも上下の目地が一線に並ばないように積むことです、当時「イギリス積み」と、「フランス積み」があったと言われていますが、赤煉瓦生徒館は設計・監督がイギリス人ダイアックであったことから当然「イギリス積み」です。

 煉瓦は全てイギリス製で、1つの値段がいくらだったかの記録は見つけられませんでしたが、「米3升が買えた」と記録にあります。(当時の米の値段から、米3升は20銭程度と考えられます、当時の物価を考える場合の参考として、一人前の職人の日当は最低6銭、最高13銭と資料にあります)煉瓦は1つずつ油紙で包装されていました。建築に当って、「煉瓦の積み上げには生徒も手伝った」と記録にあります。 煉瓦は、軍艦でイギリスから神戸へ運ばれ、小船に積み替えられて江田島に運ばれました。煉瓦は金属の箱に入っていましたが、労働者がこの金属の空箱を欲しがり、英国人技師に頼んだが言葉が通じず、英国人技師は煉瓦即ち「ブリック」と言い、それを「ブリキ」と聞いて、薄い金属板を「ブリキ」と呼ぶようになったとか。

  

  

 上の写真は、中庭側から見た廊下の柱とアーチの立体的な構造を写していますが、その表面に現れた目地から内部の煉瓦組みを想像して見て下さい。又、その右の写真はローマの水道橋です。西洋では紀元前の昔から煉瓦や石組みの建築物が見られますが、我が国に煉瓦の建築法が伝わったのは、江戸時代に西洋文明が伝わってからと言われています。最初の煉瓦は瓦屋によって造られたと言われていますし、職人は左官が請け負ったようです。

筆者は建築については全くの素人です、しかし、素人だからこそ素人なりの見方で母校の歴史的建築物の大改修について調べて見たかったのです。

 

おりしも、本稿をほぼ書き上げた時、姉歯1級建築士によるマンション・ホテルの耐震強度偽装事件が発覚し世上を大混乱に陥れました。筆者は、この赤レンガ生徒館の大改修に注がれた耐震強度の補強の実際を自分が素人であるという理由で素通りしていましたが、この問題こそ素通りのままでは済まされないと悟り、全文を見直し、書き直しを決心しました。しかし、建造物の耐震強度に関する工学的な理論や地震に関わる地球物理学、更に歴史から得られる多くの経験則を論述している本など、その内容と量は膨大なものであり、その詳細はとても80才になろうとする素人の筆者が理解できるものでなく、使われている用語の定義一つにしても筆者の頭脳で消化できる許容を遥かに超えるものでした。以下の記述は、なかば諦め、なかば敢えて挑戦した結果であることをご理解頂き、間違っている点はご容赦願いたいと存じます。

赤レンガ生徒館の基礎はどうなっていたか? 

明治38年の安芸灘地震で生徒館が相当大きな被害を受けたことは少し記述しましたが、この時、物理学講堂や士官集会所は殆ど被害が無かったのは埋立地でない山手側に建てられたからだと考えられています。今後100年も使用していくことを前提とした大改修を行うに当って、基礎がどうなっているかは詳しく調査されました。赤レンガ東西両翼で基礎部分を各1箇所について2mばかり掘削してその状況が確認されました。掘削した上からの順序で言いますと、煉瓦基礎の下に、厚さ90cm程の石灰コンクリート基礎が施されてあり、その下に50cm程の栗石が敷かれていて、その下に直径16cm程の木杭が打ち込まれていました。木杭の長さは分っていませんが、100年以上の間 不同沈下をしていないことから充分その機能を果たしていると判断されたのです。

  

3、大改修

 

主題に入る前に我々の知っている赤煉瓦生徒館建設の歴史や、改修の説明を理解するために必要な元の姿について述べてきました。最初にも述べましたように、改修は、出来るだけ元の姿を忠実に復元し、しかも、今後100年実用の建築物として使用していくことが基本方針です。

以下の記述も元の姿と改修の実際を織り交ぜていくことになりますが、筆者がこの改修の経過を調べて特に強い印象を受けたのは、その時間的経過というか改修期間に関するものです。次の表を見て下さい。大改修は昭和63年(1988)から始まります。そして、平成16年(2004)6月に完了するまで16年間を要したことになっています。最初の2年を掛けて予備調査、本調査を現地で行って、劣化の状況を徹底的に調べて改修計画を立て、予算要求、成立を待って平成4年(1992)外部改修を行っています。

 

 

 

上の写真は外壁修理時の足場の状況を撮ったものです。江田島は広島県下で有名な観光名所になっていますから、修理中も東西どちらかを見学コースに組入れられるよう東側半分を完全に終ってから西側の改修に掛かるという計画で実施されました。

 修理前 修理後 アスファルトルーフィング スレート葺き

改修前後を比較する多くの写真があれば良いのですが、上の写真は外壁窓枠の部分です、撮影時期、アングル、距離が異なるため必ずしも完全な比較は無理ですが、改修の成果は理解されると思います。

赤レンガは表面が全面に風化が進んでおり、多くが白化・汚染していました。また、亀裂箇所や欠損箇所も多く見られたのです。先ず亀裂部分には目止めシールを充填し、欠落箇所はエポキシモルタル充填による補修をした後、洗剤を散布して表面をブラシとジェットによる洗浄を2回行いた。既存の目地は除去し、清掃をした後モルタルを充填し、最後に補修部を周囲の色に合わせて着色しました。

赤レンガを一層スッキリとした外観に見せているのは白い花崗岩の石材です。上の写真の窓枠部をはじめ、腰、付け柱、軒下、アーチなどの部分に多くの石材が使われています。石材にも全般に風化が見られ、多くの欠損、汚れがありました。石部も同様に洗剤を散布してブラシとジェットで2度洗いをし、ひび割れ部はエポキシ樹脂を充填し、欠損部はエポキシプライマーを塗布してエポキシモルタルを埋め込み、御影石の粉末を混ぜ込んだ骨材を摺り込んで整形しました。屋根は、既存の葺き材を撤去し、下地板の腐食部分を完全に補修した後、構造用合板とアスファルトルーフィングを張り、新しいスレートで葺きました。棟部には銅板が張られています。

軒の蛇腹部は、既存の塗膜を剥離し、木部の腐食部を補修整形して下塗り・上塗りをして仕上げています。

窓枠は、既存の木製窓枠・額縁を全て撤去し、煉瓦壁に樹脂アンカーを埋め込んでアルミサッシを取り付けました。窓ガラスは、現在の板ガラス製法によったものでなく、明治時代前期の貴重なものであり、思い出の詰まったものでもあることから可能な限り再利用されました。窓枠にパテ止めされていたガラスを破らずに取り外す作業は予想外の難工事であったと聞いています。

外部の改修は、前述のように工期を大きく東西に2区分し、更に工事区域と期間を区切って順次行われました。これは、建物を使用しながら工事を進めるための苦肉の策であった訳です。

 

 上の写真は海上自衛隊幹部候補生学校の俯瞰写真ですが、黄色の線で囲ったくの字型の建物が新学生館です。この新学生館が完成したのは平成9年9月末で、内部改修は、この新学生館で学生が生活できるようになって始めて着手可能となりました。更に、これと併行して大講堂の大改修も行われており、第1術科学校学生館(旧西生徒館)の建替え工事も平成9年から始まり、江田島は正に工事ラッシュの状態であったのです。少し遡って、内部改修計画を実行に移すべく準備が進められていた時、阪神大震災が発生しました。

ここで我が国の「建築基準法」について少し触れますと、昭和25年(1950)に制定されて以来、多くの改正が行われていますが、大地震に関連した重要改正は、昭和46年(1971)改正、これは、1968年の十勝沖地震の教訓から、鉄筋コンクリート造りの柱のせん断補強規定を強化するものです。昭和56年(1981)改正、これは、1978年宮城沖地震の教訓から耐震設計基準の大改正です。

平成7年(1995)1月の阪神大震災を受けて、「耐震改修促進法」が公布されました。これは、前述の 56改正以前の基準で建てられた建物の耐震診断を義務化するものです。

建物の耐震性を論ずる場合、先ず問題になるのは地震波の強さと振動周期です。次にこの地震波によって建物が揺さぶられ、どのような揺さぶられ方をするかに関連する地震波に応答するその建物の固有振動周期が問題になります。地震波の伝わる振動周期に、建物の何処かの部分が共振を起こす場合、そこに強い応力が働き、建物のその部分の構造上の耐力を上回ると、破壊や倒壊が起ると言う訳です。鉄筋コンクリート造りの建物の耐震性については、現在は経験と理論から実用計算式が幾つか発表されていますが、江田島の古い赤レンガ造りの建物にこうしたコンクリート造りの手法が適用出来るかどうか明らかではありませんでした。

ここで、前述したように筆者が地震と建物の耐震性について素人なりに勉強して分った事の中で、特に意外だった事実を申上げますと、世界で発生する地震の十分の一は日本とその近海であるといわれる地震国でありながら、地震と建物の耐震強度の綜合した研究が最近まで学問上無かったという事実です。地震は地球物理学という自然科学の範疇の学問であり、建物の耐震性は建築・土木という工学の範疇の学問であって、共に深く高度の研究が進んでいるにも拘らず、二つが学問上の大系と大学での学科が別なためでしょうか。心ある人が熱心に働きかけて、最近になってようやく総合的な研究会などが持たれるようになりました。

学問的には隔絶していますが、実用上は相互に深く関連していますので、多くの資料や参考書が出回っています。筆者の理解不足の言い訳になりますが、綜合して理解するには多くの時間を要しました。

 

筆者なりの理解を整理して説明すると次のようになります。

 

a、震源で起きた地震は地殻を伝わって建物の下の地盤に到達しますが、地盤の柔らかい処では長い周期の地震波が、地盤の固い処では短い周期の地震波が、伝わり易いことをまず理解しておく必要があります。実際の地盤で言いますと、岩盤では周期は短く、砂地・埋立地などでは周期が長いということです。そして、地震波の伝わるスピードは、岩盤では速く、砂地では遅くなります。

b、建物には固有の振動周期があります。しかも、構造上の各部分で固有振動周期が異なり、地震波に応答する大きさ(共振の度合い)が部分によって異なるということです。

    

c、地震の規模の大きさを「マグニチュード」で、それぞれの位置での揺れの大きさを「震度」で表しています、我が国では気象庁が全国600の地点に震度計を設置して、水平の東西・南北の2方向と垂直方向の3方向の振動を自動的に計測し、これをデジタル処理して、その計測震度を0から7(5,6は強・弱に別け)の10段階の階級で速報しています。この10段階の震度表示は平成8年4月から適用されていますが、平成7年1月に阪神大震災があり、地震被害は必ずしも揺れの大きさに比例していないと、過去の経験から言われていたことが一層際立ったため、震度と実際の被害の大きさが、なるべく比例するよう修正されたものです。即ち、被害の大きさに関係する地震動の周期と持続時間をデジタル処理する計算式に取り入れ、より実際被害に整合するように修正されたのです。    
計測震度計

 江田島の赤レンガの改修に当っては、先ず基礎調査として常時微動測定をすることから始められました。地盤と建物の数箇所に微振動に感応するセンサーを設置して、常時伝わってくる微かな振動を測定し、これを解析して、地盤に伝わる地震動の周期的特長と、建物の各測定点の固有振動周期が算出されました。この結果、赤レンガの地盤に卓越する地震波は、固有周期にして 20.54秒であり、建物の固有周期は平均値で水平方向の値が0.107 秒、垂直方向の値が 0.10 秒であることが分ったのです。

さて、この数字ですが、実際の大地震の数字と比較して分かり易く申しますと、阪神淡路大地震

(M7.3 、最大震度7)で神戸の震災地に卓越した地震波の周期は0.30.6秒と観測されています。又、実際に多くの被害を出した5階〜10階の鉄筋コンクリートの建物の固有周期も0.30.6秒ですから、強い共振を起こしたことが理解されます。このことから考えて、赤レンガの建物の固有周期は0.1秒と短く、地盤に卓越する地震波の5分の1〜20分の1である事が分かったわけで、地震波に共振する度合いは予想より小さいことが判明したことを意味します。

 

以上の調査結果に基いてレンガ造りの内部に適当な鉄骨を入れて補強し、予想される最大の地震にも耐えうる強度のある建物への改造が進められました。しかも、レンガ積みの外装を崩すことなく完成した智慧は、筆者として読者諸賢に紹介したい最重要事項です。

床板を剥がした下部の基礎レンガ積み 内装を剥がされた中央階段2階部
         

先ず、内部の、白壁、壁板、間仕切り、天井、床板などの全てを剥がし、レンガの内側までと、床下の基礎部分までの全てを露出させ、レンガ積み内部のひび割れや床下の基礎の不具合箇所を詳細に検査確認して修繕しました。 裸にして計測したところでは、レンガ壁の厚さは1階部が56センチ、2階部は44.5センチありました



2階部分のレンガ壁の厚さは 44.5 cm








1階部分のレンガ壁の厚さは 56 cm

 

上の図は詳細図の一部です。大きい図を縮小しましたので細部が見難くなっていますが、全体の構造は理解出来ると思います。

床部の基礎はレンガ組みの柱群でこの上に頑丈な根太が載せられ、上に床板が張られていました。この床は、IT機器の自由な使用を考慮し、全床下に自由配線が可能な空間を持つOAフロアに改造されました。

壁にエポキシモルタルを注入

基礎の緩みはモルタルで固める

         

 レンガ積みは接着が悪くなると強度が落ちます。 上の写真は強度の劣化した壁にエポキシモルタルを注入して強化している作業状態です。支柱は一部モルタルで積み直しています。

鉄筋による補強

紙風船に後から骨を入れて提灯を作るような、この工事のやり方に筆者は強い関心が有りました。

窓から鉄骨を運び
入れるための足場
鉄骨の運び込み 壁に穴をあけアンカーボルトを埋め込む  鉄骨をアンカー
ボルトに取付け

先ず、鉄骨は設計どおり外部で作られ、パーツ毎に窓から内部に運び入れられました。内部では、レンガ壁に穴をあけアンカーボルトが埋め込まれます。このアンカーボルトに鉄骨をボルト留めし、壁と鉄骨の間に無収縮のコンクリートを流し込んでレンガ壁と鉄骨を一体化します。こうしてレンガ壁と一体化された鉄骨を基礎に次々と内部鉄骨が組み上げられました。

1階と2階の各天井部の水平ブレース 

水平ブレース構造図の一部

 1階の天井部と2階の天井部には水平ブレース(スジカイ、斜材)が組み上げられました。レンガ積み建築物は、一般的に上からの圧力には強く、横(水平方向)からの圧力には脆弱性があると言われています。このことは素人でも想像出来ることで、「地震の時ブロック塀の傍に近づくな」などと言われるとおり、レンガやブロックを積み上げた構造は横揺れに弱いのです。耐震強度を問題にする時、「水平耐力」という言葉がよく使われますが、この水平ブレースは2階建てレンガ壁の弱点である水平方向からの揺れと圧力に対して強力な耐力を付加するものです。

 上の図は2階天井部の水平ブレース構造の東側部の 平面図の一部です。この鉄骨ブレースによって四方のレンガの壁が、強固な箱型に一体化されたことが理解出来ると思います。図の左側に鉛直ブレースが示されていますが、東西両翼の中央に間仕切り壁に隠された形で鉛直の
ブレースが設けられました。

工事中の鉄骨垂直ブレース  大地震の都度被害のあった翼端部


 上は、鉛直ブレースによる補強工事の作業中の写真です。一部分しか見えませんが、前述のように窓から運び込んだ鉄骨を内部で組み立て、基礎コンクリートから立ち上げた鉄筋と、写真には写っていませんが次に入れられる鉄コイルの骨組を隙間に入れ、そこに無収縮のモルタルを流し込んで一体化します。レンガで囲まれた細長い空間の中央に頑丈な鉄骨ブレースが組み込まれたことで耐震強度は完全に強化されました。これらの水平・垂直のブレースは天井裏と部屋の仕切り壁の中にあるため工事完了後の現在、外見上見ることは出来ません。外見上に何の変化を見せず、予想し得る最大の地震にも耐え得る実質的な耐震強度を確保したことこそ、この改修の真髄と言い得るのではないでしょうか。右の写真は改修を終った赤レンガ南西端の佇まいです。

 実は、筆者がこの赤レンガ翼部にこだわるのは、明治38年の安芸灘地震の際も、耐震補強工事に着手する直前の平成13年3月の芸予地震の際も、この両翼部の煉瓦積み一部に崩壊や壁の亀裂などの被害が発生しているからです。ご存知のように、赤レンガ生徒館は南を正面に、東西に長く、その両翼にT字型の構造を設けています。構造上からの色々の推測がされていますが、理由はともかく、現実に大きな地震の都度この両翼部に被害が発生している事実は、今回の大改修の結果の成果を確認する上で今後の注目点であろうと思うからです。

 

内部改修

 改修スケジュール表と上記の耐震補強で論述してきましたように、平成14年から16年にかけての2年半をかけて耐震補強と内部の改修が徹底して行われました。赤レンガの内部は前述のように全てを裸にして一切を造り直すかたちで改修が進められました。外部の改修は、建設時の状態に復元することが主たる目標ですが、内部の改修は今後100年を近代的建築物として使って行くことを目標にしたものですから自ずから方法も全く違ったものになります。

改修後の廊下        エントランスホールと千代田甲板

 

 廊下は内装と外装の接点です。左の写真でも分かるように、摺り減って凸凹の激しかった廊下の御影石は平面に削り直し、天井も塗り替え、照明設備も赤レンガに調和した新しいものに取替えられました。各室への出入り口、窓は外観は昔の面影を残し、内部は近代事務室のデザインに合わせて一新されています。

 中央階段下のエントランス・ホールも右の写真のように、柱も天井も全て塗り直され、照明も新しくしながら、由緒ある千代田甲板は昔の風格を残すため、従来の甲板材は使える部分をそのままに削り直してワックスで磨き上げられました。

近代化された事務室 内装を終えた校長室

 1階の自習室、2階の寝室は、近代的な事務室として、教官室、講堂としても使用できるように昔の高い天井は、少し低めにして建築基準に合う照明と換気空調装置が取り付けられました。また、床は前述のようにOAフローアとして自由なIT機器の設備に対応出来る構造に造り替えられています。

中央2階部分(エントランス・ホールの上)は昔、幹事室、幹事寝室だったところですが、海上自衛隊が幹部候補生学校を創設した際から校長室・副校長室・応接室として使われて来ました。以来50年近く少しは手を加えられて来ていますが、今回の大改修で全面改修されました。窓、カーテン、壁、天井、腰板、床、絨毯、照明に至るまで校長室に相応しい姿に新しく造り替えられています。同様に隣室の副校長室、応接室も学校の顔に相応しい重厚さと格式を備えた姿に改修されています。

上右の写真は、新しい校長室の様子です。

4、終わりに

 赤レンガ生徒館の大改修の歴史的・技術的な記述はほぼ終りました。あと、締めくくりの項を書き上げれば完了しますが、帝国海軍以来 海上自衛隊に脈々と受け継がれた伝統精神をどう伝えるか、筆者は精神という目に見えないものを、見える形で理解出来るものの具体的な事実として、海軍以来の由緒ある建築物の改修と保存がどのように行われたか、その為にどのような熱意・努力が払われたかを読者諸賢に伝えたかったに外なりません。 筆者は海上自衛官として、通算4年の江田島での勤務を経験しています。また、生徒時代3号の10ケ月を赤レンガで送りました。「赤いレンガにゃよォー 鬼が住むヨ」と唄われ、「兵学校の七不思議」には赤レンガに関するものが二つもあります。この改修物語を書き進めるのに赤レンガに対する思い入れが多すぎて、巧く整理出来なかったことを反省しています。見事に昔の容(かたち)を残して改修されましたが、中味は全く新しい海上自衛隊の建築物である事を承知・納得して頂きたいものです。因みに、海上自衛隊では継続して魅力化施策には努力していますが、特に、平成3年から隊員の生活関連施設(隊舎、食厨、浴場など)の整備基準の見直しが行われ、寝室は海曹1人15u、海士1人10uとしました。候補生も1人15u、4人部屋で隊舎を基準に整備されたのです。      

赤レンガ平成大改修要目

建築面積    2,139.32u

延床面積    4,318.65u

  構  造     レンガ造り 2階建て

      
最高高さ     16.65m          

            改修期間     昭和63年(1988年)4月〜       
               平成16年(2004年)6月
   

      工  費    外部改修  4億6千万円

            内部改修 12億4千万円(耐震改修費を含む)

 前述しましたが、本稿は、平成17年夏にほぼ脱稿していたものです。耐震強度の改修に関して素人なりの考察を書き加えたために発表の時期が遅れました。

平成19年8月 筆者 井ノ山 隆也 記

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