江田島通信
高崎 孝−
昭和十五年十一月二十三日(第一信)。
母上様、ただ今広島着、安藤兄弟と駅前旅館に落ち着きました。明日、呉より江田島に向います。
(注、安藤兄弟とは修猷館中学同級の安藤昌彦とその付添の兄さん)
十一月二十四日(第二信)。
母上様、今日午後一時五十三分兵学校着、直ちに倶楽部に入りました。明日は校服試着、二十六日は体力検定及びレントゲン検査、二十七日は体格検査となっています。及落は二十八日にわかります。落ちる者は滅多に居ないそうです。お身体をお大事に。
十一月二十八日(第三信)。
ただ今ご祝電を有難く受領致しました。今日はゆっくり体格検査の状況や倶楽部の有様、兵学校の様子をお知らせ致します。まず二十三日の午後四時三十分広島着、安藤兄弟と共に一流旅館土屋に泊りました。翌二十四日午前九時半旅館を出て十時三十三分呉に向いました。午後一時五十三分兵学校着、それより直ちに倶楽部に入りました。小生等の倶楽部は全部で二十一名で、北は北海道から南は沖縄まで集まり、就中、東京の奴らが一番多く、朝早くから晩までしゃべりまくって耳障りで仕方がありません。
二十五日は午前九時校門に集合、直ちに被服試着をやりました。小生の服もちゃんと折りたたまれ、これを着たときは何とも言えませんでした。
二十六日は午前八時よりレントゲン写真、午後より体力検定、勿論合格です。
二十七日は第一次体検、検尿、検便、血沈検査です。小生は検尿で、少し蛋白が出ましたが、まけてもらって無事合格。午後からは靴の試着です。なんと一人あて三足(短靴、編上靴、運動靴)用意してあり、何もかも官費で気持が悪い様です。
二十八日はいよいよ総合的本検査。いろいろ厳重な検査が行われ、小生の最も心配な視力においても無事一・〇あって合格。かくして遂に入校確定となりました。これ全く母上をはじめ皆様の祈りを通しての神の恵だと深く感謝しています。入校式は十二月一日午後○時四十五分からです。勿論その日から、あの凛々しい短剣姿となります。近い内に写真を撮ってお送り致します。なお今度の採用人員は六百五十人でした。全くよく通ったものです。
兵学校の美しいことは、ヴァチカン宮殿のようです。来春あたり一度面会に来て下さい。この頃は毎晩、軍服姿で帰郷した夢ばかり見ます。早く夏休みになればよいと待ち遠しくてなりません。
十二月八日(第四信)。
母上、兄上、姉上にはその後お変りはございませんか。私もこの頃はすっかり兵学校生活に慣れ、夜も熟睡し、朝も規則的に便通があり、大元気大はりきりでやっていますから御安心下さい。
今日は日曜日で、一学年全部登山の予定でしたが、昨日チプスの予防注射で発熱した者が多く中止となり、午前九時より夕食まで身廻り整頓、家庭通信の時間となっていますので、暇つぶしに手紙を書きました。手紙書きは、土曜日の午後八時から九時半までと日曜日に決められて、他のことはやらぬことになっています。今日は兵学校の様子を詳しくお知らせします。
まず、小生の分隊は非常なはりきり分隊で、四十八ケ分隊中何をやっても優勝するという上級生ばかりです。第九分隊の先輩には南郷少佐をはじめ、幾多の名士が多く、特に航空方面に関係があり、私がこの分隊に配置されたのも何かの因縁かと思っています。第九分隊の寝室、自習室は新生徒館で、寝室には各一人あて木製ベッド、毛布六枚、金属タンス一ケ、その中にはまず短剣、剣帯、事業服二者、第一種(冬服)一着、手袋二、靴下二十足、棒倒し服一着、ふんどし二着等々、いろいろなものがあり、非常な優遇振りです。自習室には各人あて机があり、その中に教科書をはじめ学用品がちゃんと入っています。机の配置は、後部には上級生、前部は下級生で、凡て成績順に並べてあり、私は前より第二列日の左より三番目で、ちょうど中位の成績でありました。やっぱり数学、物理化学が出来ていたからでしょう。自習時間中にも姿勢が悪かったり、ヘマなことをやりますと、上級生が後方から怒鳴り、運が悪ければ鉄拳を喰います。食事は、朝食はパン半斤に味噌汁、昼食が一番御馳走です。火曜日と水曜日の夕食には、洒保(果物、菓子、羊羹)がつき糖分を補ってくれます。その他、夕食終了後六時二十五分までの問には毎日洒保に行って飲食してもよいことになっていますが、来春の一月七日までの入校教育が終らないと洒保には行けませんし、日曜日には外出もできません。
日曜日、祭日には朝八時から午後五時まで外出許可で、ただし、江田島だけに限られています。なお木曜日には夕食後ニュースが上映されます。
今日は校庭で写真屋が来て、私らは個人的に写真許可を受け、軍服姿で撮りました。できたらすぐ送ります。
私らは、毎日陸戦教練二時間、短艇(カッター)教練が二時間ずつあり、その他モールス信号、手旗信号、軍歌練習等が行われます。中でも短艇教練は初めてで、オールの重いのには閉口しています。左手の苦痛もだんだんとれていますから御安心下さい。 夜になると、さすがに家のことが胸一杯思い出され、帰りたくて仕方がないようになります。それでも来年の夏休みまではどうしても頑張らなければなりません。上級生の冬休みが羨ましくてなりません。飲食物の小包は絶対に送らぬようにして下さい。面会に来られた場合でも校内持込みは許可されません。
十二月二十五日 (第六信)。
今日は初外出で、皆と倶楽部に出かけ、まずすきやきを平らげ、生菓子、かき、みかんと次々に腹一杯食べられ、ほんとうに楽しくありました。今度の外出目には倶楽部のおばさんにぜんざいを沢山予約してあります。今日またひとついかめしいところを写真にとりました。来春の十日頃出来るそうです。
中堀教官への面会手続きを七十二期指導官に申し出ましたところ、急用ではない限り失礼にあたるから、冬休暇終了後にせよと言われ、がっかりしました。軍隊というところは礼儀がやかましいです。
十二月三十一日 (第七信)。
新年おめでとうございます。母上様には次から次へと祝儀が続き、さぞ、忙しいことでしょう。小生らは今日、午前中大掃除を終え、午後から越年準備に大童です。明日は三時半より起きて、古鷹山登山ですが、小生三、四日前より左膝を痛め、残念ながら登山できません。大したことはありませんから御心配ならぬよう。明日は兵学校でも、雑煮をはじめ、いろいろの御馳走が出るンそうで、又五時半から映画があります。
昭和十六年一月三日 (第八信)。
皆様お元気ですか。小生も足の痛みも全治、今日は呉軍港見学に参りました。昼からは外出が許され、倶楽部で甘いもの(しるこ、菓子、羊羹)をうんと食い、腹が張って仕方がありません。夕方は映画(民族の祭典、大楠公、ニュース)があり、なかなか楽しい日が続きます。兵学校もやはり今日までは雑煮でした。家のそれに較べますと、大変まずくて、家の雑煮が天下一品なることがはっきりとわかりました。
澄子柿ちゃん、大晦日から正月までのそちらの様子はどんなでしたか。早く知らせて下さい。毎日手紙の来るのを待っています。軍隊に居ますと、やはり故郷の便りが一番楽しいです。明日は陸戦、短艇、体操検定があり、ちょっとつらいですが、五日は金ピカの服を着て広島市見学です。七日からは上級生が帰校し、いささか気がもめるのです。
一月十二日 (第九信)。
さて江田島ではいよいよ本格的な厳冬が訪れて、夜は非常な冷えかたです。朝は五時半よりはね起き、六時四十五分まで所謂厳冬訓練があります。(短艇、武道、銃剣術で一月九日より一月二十三日まで)。この訓練が終ると、乗艦実習が約一週問つづき、練習巡洋艦八雲、鬼怒に乗組むのです。そして広島での演習が終ると、四月末から定期考査があり、五月三十一日に愈々二学年に進級することになります。
母上様にはこの度大分御疲労された御様子。何卒御無理のないよう御自愛下さい。小生も祈って居ります。
一月二十五日(第十信)。
御手紙毎度有難うございます。私儀もいよいよ厳冬訓練も終了致し、今日は朝早くから本州の宮島駅附近の山で兎狩りをやり、さき程帰って入浴を終ったばかりのところです。まずその模様をお知らせしましょう。
四時十五分総員起床。直ちに事業服に身をかため、紺色脚絆をまき、洗面用便をすまし、四時半朝食です。五時十分総員生徒館前に集合し、数十隻の水雷艇及びカッターに乗艇し、宮島へと発進しました。途中、上級生はいろいろの話や、短艇巡航の有様を語られ、常々の三角眼も今日は非常に上機嫌です。やがて七時二十分宮島桟橋着。直ちに現場へと向いました。
兎狩り要領は、まず山の麓を一列横隊で取囲み、頂上あたりに網が張ってあり、パイプ一声と同時に「ホーイホーイ」と交互に叫び、次第に頂上へとせんじつめ、網前十米附近から突撃を敢行し、兎を捕獲するのです。私達は初めてで、一度に数十匹は捕れるだろうと期待していましたが、なんと、五回やって兎一匹と雉一羽(猟士がうち落したものらしい)で、全校生徒のを合せて、兎四匹、雉一羽、亀二匹という成績でした。しかも私は、なんと先の兎一匹と雉一羽を持たされ閉口しました。十二時に駅附近の古川 別荘にいたり、豚汁、みかん、せんべい、まんじゅうに舌づつみをうち、一時帰校しました。その間、久し振りに汽車を眺め、一時猛烈なホームシックにかかりました。
明日はまた楽しい日曜です。うんと喰う覚悟です。ただし月曜カタル(兵学校では日曜に倶楽部で食いすぎて腹を損ない、月曜の朝はどうしても診察をうけざるを得ないという困った病気がありますが、これにかかると次の日曜は外出禁止とのことです。)には絶対にかからぬよう注意しますから御安心下さい。
私達の分隊の一学年は皆、喰意地が張っていて、日曜日など腹一杯喰い、さらにつめこんで二、三回嘔吐し、また腹が減ったと言って喰う恐ろしい奴がいます。それでも腹を損さぬのが不思議な位です。
なお「主の祈り」は朝晩必ずやっていますから御安心下さい。私も日に日に元気になり、これひとえに母上様のお祈りのおかげだと感謝にたえません。
二月二日(第十一信)。
小生は相変らず元気ですが、二、三日前から右足にちょっとした腫物ができて乗艦実習を直前に控えていることとて、早くウミが出てくれればよいがとあせっています。家に居れば母上様の手で直ぐすむのですが、それで靴が履けず、明日の日曜はおじゃんになりました。しかし洒保には行けます。
今度、母上と伯母上様が来られたら、私らの寝室、自習室、食堂などを案内し、それから外出して倶楽部に行き、タタミの上でゆっくり休息したいと思っています。
二月十六日(第十三信)。
皆様その後如何お暮しですか。私もいよいよ乗艦実習も終了致し、今日帰校しました。さて、軍艦生活は兵学校のそれに較べますと非常に愉快で、兵学校に帰るのが辛くなったくらいです。
まず起床は六時、伝令の「生徒起し」 一声とともに、ハンモックより飛び降り、二十分位してやっと包み、それより直ちに甲板洗です。要領は、刷毛で猛烈に摩擦し、その後を雑巾で撫でて行きます。私達はまだ馴れないので、非常な時間を要しますが、水兵等はちょうどネズミが走って行くようで、その速いことに驚きました。七時十五分朝食です。食卓当番が凡て準備して各人に配食します。飯の量は学校での二倍位で腹一杯食べました。
次に課業始めで午前中の教務に移ります。艦内旅行その他いろいろの教練を終り、十一時四十五分昼食、午後からは又艦内説明や衛兵の教務、即ち、実際に水兵がやるように部署についてみるのです。三時四十五分夕食後短艇訓練、砲の操法などをやり、六時半から愈々待望の洒保開きです。一人当りせんべい五銭、生菓子五銭、キャラメル一箱を大事に手箱に入れ、巡検 (八時)までちびりちびりと食べ、中にはハンモックの中で食う者も居ました。初め艦内で一番困ったのは便所です。座ってやるので力が入らず弱りました。次はハッモックで、第一日目、夜三時頃夢を見ていい気になって居りますと、突然足を打たれたような気がしましたのでふと目を覚しますと、なんと毛布と一緒に床の上に座っているではありませんか。上を見ますとハンモックが小気味よく揺れています。これには、私も腹が立って仕方がありませんでしたが、頭から落ちないで助かりました。翌朝調べてみましたら、私と同類項が三、四人居りました。 この次の土曜から日曜にかけて、私達の分隊だけで短艇巡航に出かけ、宮島に一泊し、分隊会(四学年生徒送別会)の予定だそうです。その時一学年に何か余興をやらせるとのことで、私は例の「森の石松」をやろうかと、思っています。
三月二日(第十五信)。
私は相変らず益々好調子ですから御安心下さい。さてこの前の分隊巡航の有様をお知らせしましょう。 土曜日の午後四時までに各自、毛布四枚、外套などをまとめ、水雷艇、カッターに積み込み、又食糧晶(パン、ハービスカタパン、牛肉、米)を満載して一路宮島へと向いました。宮島桟橋についたのが夜七時頃です。それより荷物を厳島小学校に運び、裁縫室に毛布を敷き並べ、八時分隊会が始められました。私は「森の石松」を変更して詩吟「川中島」をやりました。分隊監事を始め、上級生、下級生相和して予想外に楽しい時を過し、十一時半頃、菓子、羊羹、いも、みかん、紅葉まんじゅう(宮島名産)なども全部食べつくし、腹一杯となり、十二時終り、その日は裁縫室でゴロ寝して、翌日曜日は六時起床、二学年、三学年生徒の一部が朝食烹炊で小学校に残り、あとは厳島神社参拝、次いで八時三十分まで自由行動、宮島の町を闊歩しましたときは、もしこれが博多の町だったらと幾度か思いました。厳島神社はちょうど水宮のようで、殊に水鳥居や鹿と対照して一段と美観を呈し、日本三景の一つであるのもむべなる哉と思いました。次いで小学校に帰り、朝食に舌鼓をうち、九時半乗艦し、帰路四学年生よりいろいろ航海巡航などに関する話を聞き、十一時帰還致しました。
今日は土曜日です。昨日は大掃除で、雑巾ぬぐいで上級生から鍛われ、心身綿のように疲れ、明日は倶楽部で大いに疲労を回復致します。本当に倶楽部は私共のパラダイスであります。
三月四日 (第十六信)。
御元気ですか。私達は今日から明日にかけて演習があり、今夜は不眠で夜戦決行、敵前上陸訓練などがあり、明日の午前は観兵式となっています。大いに張りきってやる積りです。
三月十三日(第十人信)。
さて今日は旅館の案内を致します。まず小用桟橋に着きましたらすぐバスが通っています。それに乗って矢野旅館前で降してくれと言えば十分位で着くと思います。旅館は学校の直前で、江田島では上等の方であります。 兵学校では毎日午後四時半から六時二十分までが自由時間で面会も許可されます。校門を入って右側に門衛が居ますから、ちょっと尋ねて、それからどんどん奥の方に入って行けば、まず右に大講堂、次に赤煉瓦の生徒館、その次に三階建の大生徒館が見えます。当館の中央が大玄関で、そこを入って右手が受付です。そこで「九分隊の高崎を呼んでくれ」と言えばすぐわかります。
三月二十九日(第二十二信)。
御変更の件承知しました。実は二、三日前よりまた急に寒くなり、時折粉雪さえ交え厳冬に立返った感じで、アーマー(フランネルシャツ)二枚増加するという始末、今日来られないので私も安心しました。実に江田島は気候の変化が激しいので閉口します。今、桜は三、四分咲きで今度の日曜あたりはちょうど満開の見込です。
さて、今日は卒業式の様子をお知らせしましょう。三月二十五日五時半起床。朝食をすませ礼装に着替え、八時軍艦旗掲揚、次いで九時十五分海岸線に整列、御召艦鬼怒を奉迎することになりました。この度は久邇宮朝融王殿下であらせられ、殿下には御上陸後しずしずと大講堂に向わせられました。十時頃より第六十九期優等生(六名)に御下賜品(短剣)授与式が行われ、優等生一名、一名に対して、海軍軍楽隊の「誉の曲」が奏せられ、私も之を聞いて感奮興起の念に打たれました。
式終了後、新候補生は新調の衣服に着替え、全校生徒、殿下送迎の位置に整列、各軍艦からは一斉に礼砲が轟き、殿下は再び鬼怒に御乗艦、正午出港されました。
次いで直ちに昼食、候補生は父兄、/教官と共に茶菓場で食事、一時頃候補生は各分隊に来られて別離を惜しみ、中でも一番私達をなぐった人は泣いて別れの言葉を述べられました。三時、候補生は愈々遠洋航海の途につくことになり、私達は分隊のカッターで湾口まで見送り、実に感慨無量でありました。
五月四日(第二十九信)。
五時起床、六時半軍艦阿多田に乗艦し一路岩国に向け出発しました。この頃より天候非常に悪しくなり、海は視界狭小、稍々うねりがあり少しく水を冠りました。八時半阿多田島着、ここで第六潜水艇遭難の現状を偲び、感慨ひとしおでありました。岩国上陸後、航空隊にて小休止、そこより雨中を錦帯橋に向け二里の行軍。脚絆は雨のため、びしょ濡れとなり、昨日までの晴天とうって変った今日の天候を恨まずにはおれませんでした。十二時錦帯橋着、岩国中学校で昼食をとり、附近を散歩、合羽を着ていたために、短剣姿もダイナシでありました。ここで絵葉書を求め、間もなく整列、新湊に向け二里の行軍、雨は依然として降り、折角の移動訓育も残念この上なしでした。新湊より再び海の人となり、五時半帰校しました。
今日は日曜、朝よりからりと晴れ、おかげでカッターの有志訓練もあり、もりもり漕ぎました。
昭和十六年五月十七日(第三十一信)。
短艇週間もあと一週間、私も毎日元気で頑張っています。さて五月三十一日二学年に進級の予定でありましたが変更されて十一月中旬となりました。
今日は短艇訓練の模様をお知らせしましょう。まず五時半起床、五時四十五分より一時間あの鏡の様な江田内で橈漕が始まります。出発の練習、回頭の練習、各分隊何れも競技に必勝を期して猛練習を行っています。次は課業も終了し自選時間になりますと、上級生指導のもとに短艇の有志練習があります。各分隊ともに零細な時間を割いてカッター訓練に夢中であります。自習始め五分前になりますと分隊員全部手を前に出して、指の屈伸、これは握力を増加させるためにやるのです。実際に五分間やってみますと、相当にくたびれます。自習終了後巡検用意までがまた一苦労で、ベッドの上に尻と足を掛け、カッターを漕ぐつもりで、寝方の練習、突き出しの練習、これをやりますと腹力が相当強くなります。初めの二、三日は腹の皮が痛くて弱りましたが、この頃では馴れていつも霊座法のつもりでやっています。九時二十五分巡検ラッパと共にベッドに潜り込むのが唯一の楽しみです。
休暇まであと七十日ばかり、そろそろ休暇計画もたて始めています。六月からいよいよ真自の夏服となります。では母上様始め皆様、何卒御身体を大事にして下さい。私も毎日ベッドの中や、八方園で神様にお祈りしています。
六月一日 (第三十四信)。
待望の休暇も来月に迫り、この頃は日の過ぎるのが非常に長く感ぜられます。休暇までの行事としては、相撲競技、射撃、遠泳などがあります。この間の短艇競技は、私は見学しましたが、九分隊は四十八ケ分隊中第二十四位で、あまり芳しい方ではありません。
昨日より毎週土曜、日曜にかけて、一学年全部、上級生と共に有志短艇巡航が許可されました。それで昨日総員訓練終了後、夕食弁当、パン、ハービス (乾パン)、羊羹、かんづめなどを満載し、毛布を積んで、午後四時半表桟橋から出発しました。あのカッターに帆をあげて風をふくんで走る時の心持はまた格別であります。江田内を出ていよいよ日もとっぷり暮れ、酒保を食いながら娑婆気満々の話に夜通し打ち興じ、時には怪談をやって眠気を覚ましたり非常に愉快でした。
六月七日 (第三十五信)。
休暇もあと五十日となり、あれこれと休暇計画をたてています。この頃巡検用意後巡検終りまでの間、上級生が私達に休暇教育をやります。それは例えば、汽車から帽子をとばしたり、短剣を折った時の処置などいろいろ愉快なことを教えてくれます。
六月になってから、あの鋼柱四本立て蚊帳を吊るようになりました。毎晩蚊帳の中に入りますと、家の二階で蚊帳を吊って勉強したり、電気をつけ放して寝てしまったり、よく蚊帳の天井を足で蹴ったりしていたことを想い出します。
六月十四日からは水泳が始まります。得意の技量を大いに発揮し、十四日の技量査定には好成績を得る覚悟であります。
七月になれば午後の授業はなくなり、訓練は殆んど水泳ばかりとなります。巡検用意後一時間納涼が許可されることになっています。
さて、御送金の件でありますが、現在四拾四円の貯金があり、多すぎて困っている位です。休暇にはこれを引出して持って帰るのですから、七月分の送金額は家で貯金して下さい。休暇で帰っても、副食物はうんと食うかも知れませんが、米はあまり食べませんからそのつもりでいて下さい。なお米の代りに菓子類をうんと用意していて下さい。
今日は土曜で便所の大掃除をやりました。どんな汚い所でも、手を廷して便器などピカピカに磨くのであります。今度帰ったら一つ、大掃除の模範を示し、迅速確実なところを御覧に入れ、皆をあっと言わせるつもりです。あまり手紙を書く暇がありませんから、謙三兄さんや、白石先生によろしくお伝え下さい。
六月十四日(第三十六信)。
私も日ましに元気で感謝の他ありません。今日は水泳の査定が行われ、私は特に飛込みで万丈の気を吐きました。こちらでは只今二十一日の短艇点検、三十日の小銃射撃競技等をひかえ、暇さふぁればいつも有志練習があったり、短艇整備に大童です。七月に入れば少しゆっくりになる筈です。明日からの外出にはいよいよ純白の麻の夏服であります。明日は写真を撮り、このまえ撮った父上との写真を一緒にお送りします。
六月二十一日(第三十七信)。
ただ今やっと短艇点検が終了し、急に楽になりました。顧みますと、この一週間程忙しいときはありませんでした。暇という暇にはカッターにとんで行き、ペンキ塗りや整備に大童で、食事もゆっくり出来ず、バスに入るにも暇がなく、梅雨に濡れ、海水を冠り、汗にまみれて整備をやったものでした。それでも身体をこわすこともなく、至極順調で感謝にたえません。これも母上様はじめ皆様のお祈りのおかげです。
さて休暇もあと一カ月に迫り、休暇計画も終りました。謙三兄上は七月に帰って来られますか、はっきりお知らせ願います、なお、兵学校の休暇は非常に少なく、休暇に帰って、あちこち旅行するのは私としては非常に心苦しく、出来るだけ母上のお許で、もっぱら孝養を旨とし過したく思います。ここに休暇の眞意義があると思うのであります。
今日は午後六時半から、日活製作の「潜水艦第一号」という映画がありました。これを見て海軍士官の生活が如何にも派手な様に見受けられますが、実際はそんなものではないと思います。又士官らしくないところも相当見受けられます。しかし勇壮な光景が大分ありますから、一度見られるとよいと思います。
来る七月十二日の二時頃から松山市に分隊巡航に行きます。松山で翌日曜の朝七時から十二時頃まで自由行動が許可されますから、花山さんの家が若し市の近くでしたらお伺いしてみようかとも思っていますが、何しろ時間が少ないのではっきり決めてはいません。
写真が出来ましたから送ります。そちらで適当に配って下さい。なお軍艦の写真も送ります。匠ちゃんにあげて下さい。
七月六日 (第三十八信)。
休暇の件でありますが、都合により十日間に短縮されました。従って博多駅着は七月三十日午後四時半頃と思います。
昨日は小那沙美でクラス会が行われ、私達七十二期は大いに団結を固くしました。
七月十三日 (第三十九信)。
皆様いよいよ御元気のことと思います。私も相変らず元気一杯に頑張っています。さて休暇の汽車もいよいよ決定し、そちらには三十日午後四時三十七分に着く予定です。なお今日は松山巡航の筈でしたが上級生の都合により休暇まで当分廃止となりました。
七月十六日(第四十信)。
今日は江田内で、世界一流選手の葉室、毛利諸選手の泳法を見学、大いに得るところがありました。さて休暇もあと二週間となり、諸準備に大童であります。謙三兄上の写真機を家に用意しておいて下さい。帰省してから記念のため沢山撮るつもりです。
七月二十日 (第四十一信)。
私も相変らず、水泳の猛訓練で鍛われています。昨日は大掃除終了後日曜朝までセイリングをやり、上級生と共に非常に面白く過しました。休暇も目前に迫っていますが、平常考査などで非常に忙しいです。
(休暇日誌)
七月三十日。
六時五十七分宮島発、夕刻帰省す。半歳振りに父母兄弟に見え、余の歓喜筆舌に尽し難し、ただ有難さにて万感胸に満つ。二十時三十分就寝。
七月三十一日。
六時起床する。午前隣人と挨拶を交わす。なお旧師保証人を訪問す。種々有益な薫陶を受け、生徒の本分に愈々邁進せむの覚悟を固む。十一時中学時代の旧友にして一年有半転地療養中の鬼山生徒を訪問す。同生徒の心中を察し同情に堪えず、慰問すべき言葉を知らざりき。健康第一なるを愈々痛感す。官幣小社住吉神社参拝後帰宅す。
夕食後、家族一同の者に兵学校生活の模様を話す。二十二時就寝す。
八月一日。
五時三十分起床。直ちに墓参準備を終了し、七時十八分家族打揃いて博多駅発、故郷に向う。十時十五分尾崎着。直ちに墓参をなす。二歳振りにて郷土の地を踏み、余の感激また一入なり。十四時帰路につき、夕刻帰福す。疲労のため二十一時就寝す。
八月二日。
六時起床。八時健康診断のため病院に赴く。咽喉やや発赤、微熱ある外に異常なし。ついで歯科治療をなし正午帰宅す。午後映画鑑賞。二十二時就寝。
八月三日。
六時起床。八時より九時三十分まで精神修養のため読書す。蓋し、余等の日常なす行為にして、ふ仰天地に恥じずという確固たる自覚心を持つためには、無論絶えざる修養努力、研鐸これ必要なれども、余等はまず、道徳的自覚に於いて善悪の明白なる観念と、正義のためには如何なる困難をも克服するという接ゆまざる勇猛心を涵養せぎるべからず。これ士官たる人格を築き上ぐる根底をなすものなりと信ず。
十時より歯科治療のため病院に赴く。十四時より保証人宅の家族とともに、百道海水浴場にて遊泳飛込みの練習を行う。十八時一同と余の家に帰り、皆と晩餐を共にし、二十一時まで団欒の時を過す。二十二時三十分就寝す。
八月四日。
六時三十分起床。午前中、読書及び歯科治療。十三時より箱崎神宮に参拝す。元寇当時の状況を偲び、且つ上皇の御身を以て国難に代らんとせられし御叡慮の程を拝察し奉る時、ただ有難さにて感激の外なし。十八時より映画鑑賞。二十二時就寝。
八月五日。
五時三十分起床。午前中読書及び歯科治療。本日読書にて敏捷果断の項目を考究し感ずるところあり。そもそも余の最大欠点となすところは、之に欠くるにあり。之を滴養せんが為には、平常よりの注意力と学術の運用に習熟し、以て咄嗟の事故に即時機宜の処置をとる修養を怠るべからず。
午後、兄と共に百道海水浴場にて遊泳飛込みの練習を行う。十八時三十分より近隣の兵学校熱望の中学生宅に招聘され、受験参考となる点を談話す。二十二時就寝。
八月六日。
六時起床。午前読書、歯科治療。午後六木松陸軍墓地参拝、護国の英霊に感謝の黙祷を捧ぐ。十八時三十分より音楽聴取。二十一時就寝。
八月七日。
五時三十分起床。散歩。歯も神経を脱取し、義歯充填。本日を以て治療終了す。午後身廻り整頓、帰校準備をなす。夕食後家族と最後の団欒をなす。二十二時就寝。
八月八日。
再び健康診断のため病院に赴く。疲労いまだ少しく回復の域に達せざるも、身体の調子極めて良好なりとの評なり。午後、夜の汽車に備うるため午睡す。二十時三十分旧友家族に送られ博多発、帰校の途につく。
八月九日。
十時三十分兵学校着。十二時帰校点検。
(休暇を顧みての所感)
イ、監事長訓示の如く、一般社会の物質欠乏にも拘わらず、一般国民はよく困苦欠乏に 堪え居れり。最も心強く感ず。
ロ、努めて良書精読に意を用いたるも、なお 時間不足を覚えたり。
ハ、本休暇に於いて身体の不具合なる箇所を徹底的に治療するを得たり。
二、休暇中、病気をせざりしは余の最も欣快とするところなり。
ホ、之を要するに、本休暇にて培養したる新たなる鋭気を以て、爾後の学習訓練に邁進 せむの覚悟を固む。
(以上、第一学年夏休暇日誌より)
八月九日(第四十二信)。
本日午後十一時無事帰校しました。今日の大掃除でまず裟婆気分を抜かれ、再び張切って生徒館生活が始められました。二、三日は苦しいと思いますが、頑張りズムで押し通します。帰省中はいろいろと御歓待に預かり私も充分英気を養うことが出来、心から御礼申し上げます。なお、また駅まで御見送りをうけ誠に有難うございました。明日は倶楽部で充分休養をとり、月曜より元気で学業訓練に邁進致す覚悟であります。
八月十六日 (第四十三信)。
私も何ら疲労も出ることなく、毎日元気でやっておりますから御安心下さい。帰るときも非常に楽で、宮島には朝の五時に着き十一時帰校しました。しかし何となく憂鬱で三日位は家のこと許り考え、飯もうまくなく非常に弱ってしまいました。一昨日頃からは友人たちも、どうやら馴れて来たらしく、私も前の兵学校生活の型にすっかり入り、再び元気で本分に邁進しています。
休暇のことを回顧しますと、夢の国をさすらい歩いたような感じで、家に帰ったのがウソのようであります。ときどき例の写真を出して想いを馳せております。今度の休暇ほど親の恩の有難さを痛切に感じたことはありません。この御恩に報ゆるべく、身体第一をもって一生懸命頑張り無事卒業致す覚悟であります。今度は冬休暇を楽しみに待っています。
澄ちゃん、家の門で一人で写った私の写真を三浦さんに送りましたから、あとで焼増しておいて下さい。
八月二十二日 (第四十四信)。
休暇も終って二週間を経過しましたが、二、三ケ月も過した様な気がします。今日は千米自由形競泳が行われ、私はその第十回に出場し、タイム二十四分で百二十人名中の第八位の好成績でありました。来る二十八日 (木) には短距離競技が行われる筈で、私はそのとき九分隊から一名飛込選手として選ばれ、七米台からダイヴィングをすることになっています。選手なんぞは好みませんが、出場のやむなきにいたり弱っています。しかし決して無理なことはやっていません。九月未には期末考査があり、そろそろ忙しくなってきました。
八月三十日(第四十五信)。
私も非常に元気でやっています。最近はすっかり秋季を帯び、水泳訓練も寒すぎる位です。さて、兄上様が参謀本部の露語の翻訳をされる予定のこと誠に喜ばしく思います。
十月十八日 (第四十九信)。
母上肋膜とのこと誠に驚き入りました。しかし漸次恢方に向われ何より安心致しております。何卒御無理をなされぬようにお願い申し上げます。私は相変らず元気です。明日の日曜日は上級生と、最後の分隊会が催され、余興に苦心しています。
十月二十三日 (第五十信)。
一昨日、ちょっと物を左足指の上に落して挫き、野外演習も月曜日から一週間あることだし、それまで早く治ればよいがと案じております。 今日は國神社例祭で暇ですから、先日送っていただいた書物を読むつもりでおります。さて、防空演習も終了し、早十月下旬となり、入校式もあと一ヶ月です。去年の今頃を想い出して感慨無量です。冬休暇は十二月二十八日から十日間の予定でありますが、今のところどうなるかはっきり判りません。
十月二十五日(第五十一信)。
足も殆んど快癒し、明日より演習に参加出来愉快にたえません。野外演習のニュースなどは帰校後お知らせします。
十一月二日(第五十二信)。
昨日、原村より帰校しました。自習室に入った途端に、机の上に母上の手紙を見、とびついて拝見しました。大分快方に向われた御様子何より感謝にたえません。しかし、まだ手紙や読書などなされぬようにして下さい。 原村演習で私の最も印象に残ったのは、演習最後の日に私が斥候に出された時、友軍に協力中の飛行機一機が急降下のまま墜落、大破、搭乗員は人型なく、これを目のあたりした私はしばし気も遠くならんばかりの心持でした。
さて、明日は明治節で、七十三期の発表日です。冬休暇はありそうです。今度帰省しても相変らず食いますよ。
十一月五日 (第五十三信)。
本日をもって弥山登山競技も無事終了し、あとは学年進級。卒業式、分隊編成替を待つばかりです。登山の成績は遺憾ながら中位です。やはり皆心臓の強い奴ばかりだなと驚きました。
(なにわ会ニュース第69・70・71号 35・29・36頁)