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元海軍大尉 小河美津彦 2022/5/20 なにわ会幹事 小河昌彦

「12月となる。45年前の輝ける日、昭和15年12月1日日曜日であった。」
昭和60年12月1日の亡き父小河美津彦元海軍大尉の日記である。45年前の輝ける日とは「なにわ会」の人たちには申すまでもない海軍兵学校72期入校日だ。生涯、江田島育ちの海軍士官であった誇り、亡き戦友たちへの「自分は生き残ってしまった」との負い目を胸に抱き戦後を生き抜いた父は昭和18年9月15日、兵学校卒業後戦艦「山城」乗組み訓練の後、宇品から内南洋トラックへ陸軍部隊輸送作戦参加、同年11月重巡洋艦「足柄」乗組みを命ぜられる。翌19年「足柄」高角砲指揮官を命ぜられ比島沖海戦、スリガオ海峡夜戦に参加。同年ミンドロ島サンホセ米軍基地突入作戦参加、これは礼号作戦と呼ばれ戦争末期に於いて一応の成功を収めた数少ない海上作戦だった。

昭和20年6月8日、陸軍部隊輸送作戦途中、「足柄」乗組の将兵たちは敵潜水艦に対し絶対と言っていいほどの自信を持っていたのだがスマトラとバンカ島に挟まれたバンカ海峡にさしかかったとき英潜水艦「トレンチャント」の雷撃を受け「足柄」は沈没してしまう。随伴の駆逐艦「神風」に救助された生存者で陸戦隊と特別攻撃隊が結成され父小河大尉は陸戦隊中隊長を命ぜられたのだが「陸戦隊で戦車の下敷きになって死ぬために海軍に入ったのではない」との思いから上官に特攻隊への配置転換を申し出た。戦局重大の際、自分の配置に文句をつけるのは我がままだと自省もあったが出来ることなら海で戦って死にたいと考えていたのである。上官も渋々特攻隊への配置転換を認め爆装震洋艇50隻を率いる隊長を命じた。昭和20年6月15日のことであった。

のちに特攻隊は「若桜隊」と司令長官福留繁海軍中将によって名づけられシンガポール島ローヤンにて特別訓練を積み重ね戦える態勢が整い同年8月18日「若桜隊」出撃と命ぜられたのである。だが8月15日日本は降伏。若桜隊編成以来、一か月余、隊員たちの外出を一切禁止して日夜猛訓練に励んだのでないか。誤報ではないかと敗戦が信じられぬ思いだったという。

当時、終戦の報により各部隊とも相当混乱した様子であり各種デマも乱れ飛び脱走者が続出していたが「若桜隊」のみ隊員たちは冷静で一名の脱走者もいなかったとのことである。第十方面艦隊から、部隊の規律と結束の良さを認めてもらったものの「とうとう生き残ってしまったのか」と、隊長としての任務を遂行できなかった無念の思いの方が心を覆っていたのであった。

12月、英軍の要請によりシンガポール島ローヤン作業隊指揮官を命ぜられ「若桜隊」解散。このとき父が隊員に送った歌がある。

「事しあらば また咲き出でむ若桜 散るべきいのち ながらへし身は」

いつかまた、海に戻れる日が来ることを願いローヤンでの作業隊指揮官を務め昭和21年6月復員。そのとき海外から戻ってきた将兵たちを待っていたものは社会の価値観の180度転換や公職追放令といった有形無形の圧迫、思想行動の制限だった。この世に絶対的な価値観など存在せずと悟ったとき「自ら命を投げ出し戦った日々は何だったのか」と憤りを覚えながら心折れることがなかったのは、今後は国や故郷の再興に自分なりに最善を尽くしてゆくことが亡き戦友たちへ果たす責任であるとの思いを抱いていたからであり、昭和27年発足した海軍三校、兵学校72期・機関学校53期・経理学校33期による合同クラス会「なにわ会」が父の思いをより強固なものへしていったのである。

昭和23年、セメントの原料である石灰石を水晶山と地元で呼ばれていた鉱山で採掘する採石会社に労務係及び火薬類取り扱主任者として勤務するようになり公職追放令も解除されたが、肺結核を患い昭和28年から3年間の療養生活を余儀なくされてしまう。回復後、昭和29年に結成された海上自衛隊への入隊を「海に戻りたい」との一心から志すも肺活量減少といった結核の後遺症のため体力面で不合格とされてしまう。それでもナニクソと。

その後は鉱山開発計画に全力を傾けるようになるが業務は多忙であり昭和40年から50年代は東京・東北方面への出張、平日は毎朝7時前に出勤し残業や日曜出勤も多く帰宅は夜10時過ぎというのがほとんどだった。心身共に疲労が蓄積されていたのであろうがそれを口外することはなかった。職場では元海軍士官であった父とは価値観の違いから煙たがる人もおり、堅物のイメージを持たれていたようであった。

家庭に於いては父は私にとって掴みどころがなく同級生や近所のお父さんとはどこか雰囲気が違う人というイメージがあった。小学生・中学生の頃、算数・数学の宿題が出されると父も夕刻までに帰宅出来た日は晩酌もせず勉強を観てくれたが、問題を解くのにもたつくと苛立ち計算ミスをすれば私の頭を平手でピシャリと一発。そのとき小学生の頃は涙を浮かべていたが中学生ともなると叩かれた直後に睨みつけるようになり「睨むんじゃないっ!」と父も声を上げ、その場はピリピリしていたものであった。

正直言って父との勉強時間は緊張感があり好きではなかったが勉強を離れると別の顔を見せていた。私が小学四年生の頃、毎年夏と秋の地元の八幡様の祭りに連れてゆき菓子やたこ焼きなど買ってくれた。昭和48年11月のある日曜日、大分のデパートへ出かけた折、おもちゃ売り場で数あるプラモデルの中から「山城」のプラモですを見るや「俺が昔、持っていた軍艦や」と感無量といった顔で私に買ってくれ自宅で一緒に組み立ててくれた時などの姿は、どこにでもいそうなお父さんであった。ただ、夏祭りの夜、父ひとり祭りにはつきものの花火を見ることがなかった。「花火を打ち上げるときのドーンという音が大砲の音そっくり」と言うのである。亡き戦友たちの姿が瞼に浮かび、祭りの中でもこのときばかりは父は笑顔を見せることもなかった。受験戦争などと物事を戦争に譬えてしまう戦後の風潮にも「戦闘体験者として俺は軽々しく戦争という言葉を使わないことにしている。」と語っていた父に私も年齢が上がるにつれ、一貫した信念の持ち主である本当は心根が優しいんだなと父を見る目もしだいに変わっていったのである。

いまも自分のリビングルームに父の手によって額に収め掲げられた重巡洋艦「足柄」の写真がある。生前、業務や職場での人間関係で苦境に立たされたとき「足柄」を見つめ、あの過酷な戦場に比べれば、それこそ「なにわ会」の語源である”ナニクソ”と自らを奮い立たせていたらしい。

昭和60年5月、37年間にわたる石山勤務を終え時間にゆとりも生まれ「なにわ会」、昭和46年に発足の「軍艦足柄会」にて英霊の慰霊、兵学校のクラスメイト、足柄の元上官や部下だった方たちとの交流に勤しむようになり、また旧制臼杵中学の同窓会にて毎年正月明けには旧交を温めるのも楽しみだったようだ。定年退職の翌年昭和61年「軍艦足柄会」会長に就任。元部下であった方々からは「小河大尉」とかつての階級で呼ばれることも多く、どうやらかなり慕われていたようだった。

他のクラスはどうなのか分からないが、父に限らず昭和15年入校の海軍三校「なにわ会」クラスの海軍士官たちは部下たちからの評判もよく慕われていたようだ。父が昭和50年から足掛け5年かけて執筆した重巡洋艦足柄海戦記「挽歌の海」を贈られて初めて知ったことだが「なにわ会」の海軍三校生徒は卒業前、教官からの「部下を持ったとき絶対に部下に威張るな、プライベートな用事を押し付けるようなことをするな」との教えを卒業後、各部隊に配置されたのち遵守していたというのである。

「軍艦足柄会」会長就任と時を同じくして地元の中学生を対象とした英語・数学の学習塾にて英語講師を勤めるようにもなった。江田島で培った英語を故郷の子供たちに伝授したいと熱心だった。一学年十人ばかりの小世帯だったが毎年四月、新入生が入る何日も前から先ず生徒一人ひとりの氏名と特徴をきちんと把握し授業に臨み、授業中の私語については毅然と口頭注意をしていたという。父は歯に衣着せずもの言うたいぷだったため煙たがられることもあったようだが、生徒たちをリラックスさせるべく常に分け隔てなく接する姿がスマートに見えることもあったのか女子生徒から修学旅行の土産を贈られたこともあり、その気持ちが嬉しいと父も喜びその土産はいまもリビングルームに飾っている。

晩年の父の家庭での息抜きは演芸のテレビ番組で若いころから好きだったという落語を聴いたり、我が家に迷い込みいつの間にやら家族の一員になった猫を可愛がることだった。そばに寄ってくる猫に「ヨオッ」と目を細め乍ら声をかけていた父の姿は何ともいえぬほほえましさがあったものだ。昭和から平成へと時代が変わっても毎年「なにわ会」から送られてくる「なにわ会ニュース」を心待ちにしていた父は「戦争の愚かさ・悲惨さについては既に十二分に語られ知られているが大部分の平凡な我々軍人、好むと好まざるとに拘わらず国家民族のためと信じて命をかけて戦った人々、そして命を落とした人々の真摯な体験が語られることは少ないようです。我々が語り継ぐべき戦争体験は実はこっらの人々のことであります」と平成4年1月3日に記している。この日記に記してあるような活動に意欲があったのだが病に冒され同年5月、地元の病院に手術入院。「なにわ会」や「足柄会」の方々と会えないことを大変残念がっていた。7月には退院出来、学習塾に復帰、「なにわ会ニュース」への寄稿も考えていたものの同年11月末再入院。治療を続けても回復も思うようにゆかず、父は先が長くないと感じていたようだったが、それでも取り乱すことなどまったくなく常に平静にしていた為、医師や看護師から「小河さんは他の患者さんとは違う」と驚かれていた。そんな父に家族は病室では明るく接するように心がけていたのであった。

平成5年2月21日の日曜日の午后、父と小学校の同級生で、ずっと親しくしてくれていた男性が一人で見舞いに訪れた。その人は父を「みっちゃん」と愛称で呼び、お互いに子供の頃を懐かしんでいた。「みっちゃんは精神力が強いけんなあ」と言われれば、ベッドに横になったまま父は笑い乍ら応えていた。「わしは、そんな精神力なんか無いんで。やっぱり痛みが起きるんは好かんわ」と。辛い本音を語るときにも笑顔を見せられるなど私にはとうていまねなど出来ない。この様子なら、まだしばらく父といろんな話も出来るのではと思ったのだが、翌2月22日、夜明け前から容体急変、朝7時10分をまわった頃、家族に看取られ乍ら永眠。 享年69。

生前、60の還暦を迎えたとき、「俺はこの歳になるまでいきられるとは思いもよらんかった」と若くして亡くなった戦友たちを常に忘れることのかなかった父、小河美津彦。海上自衛官として海に戻りたいとの願い叶わず一民間人として戦後を生き抜いたが、その精神は終生江田島育ちの海軍士官であった。



 

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