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故山崎州夫君の昭和18年8月18日所感

自啓録より(注、卒業18年9月15日)

夏季休暇前ヨリ懸案タリシ父面会ノ件、正ニ意ヲ決シ出書セリ。(注、父上との面会を謝絶する旨の書簡を出した意味なるか?)

即チ、時局下、輸送力強化ヲ必要トスルノ機、亦、父多忙ヲ極メ、一日家ヲ休ミテ憩フ暇モ少キ有様ナルニ拘ラズ、父ニ面会ヲ求ムルハ不必要ナル事ナリ。勿論卒業ヲ月足ラズニ控エ、後ハ行方モ知ラズ、何時ノ命ヤモ判ラヌ時、会ヒタキハ親子ノ心情トシテ常ナラン。サレド之ヲ拒ム。心ニ未練ナク立タン為ナリ

(母堂注、私共の住いは上海で本人は海外への帰家許可なきため、一家の皆と会いたかったのでしょう。父は多忙で、私と弟2人本籍地に帰り面会いたしました。)

 

昭和18年9月15日卒業ニ当リ所感

 

昭和1512月1日、生徒ヲ命ゼラレテヨリココニ、2年10ケ月、今ヤ螢雪ノ功ナリ、名遂ゲ、海軍兵学校ヲ卒業セントス。

(中略)

決意愈々堅ク、分隊監事卜盡キセヌ名残ヲ惜シム。終リテ共ニ過セシ在校生徒ニ別レヲ告グ。懐シキ生徒館、又在校生徒、御世話ニナッタト御礼詞カワシ、正々トシテ送ラレ各教官ニ御礼言上、短艇ニテ遂ニ兵学校ヲ征チ立ツ。イザ征カン、雲染ム屍ト、霞ケ浦海軍航空隊へ。今ココニ至リテ偲バル両親ノ恩。必ズ見セタカッタ卒業式ニ参列ハ出来ザリシモ今ハ家ニテ、ササヤカナ御祝ヲサレテ居ル事卜偲バル。父母ノ御恩ニハ必ズ報ズベシ。霞ケ浦へ 霞ケ浦へ

 

空征かは雲染む屍 海征かは水漬く屍

大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ

(ニュース遺墨集 昭和40年2月掲載)

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