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都所静世の手紙

都所は海機53期、昭和20年1月12日回天特攻隊金剛隊

としてイ36潜から発進、ウルシー海域で戦死

義姉あて書簡(昭和1912月)
 姉上様、ご機嫌いかがですか。毎日いやな、うっとうしい天気が続きますね。そちらもやはり雨ですか。こちらは霧のような雨が、時々思い出したように降ります。そしていつも曇っております。しかしこの間など相当荒れて、みぞれがちらつきました。冬の用意など少しも致して来なかったものですから、寒くて困っております。
 今度2年ぶりで、冬を迎えるわけです。姉上様が編んで下さった靴下、とても役立って、足がほかほかと致しますので、衣の少なきを補って余りあるようです。やさしい姉上様の御心情、心より有難く思っております。先日兄上が来ましたが、訓練の都合で30分ぐらいしか話すことができませんでした。
 いろいろ送って頂いたならば便利と思うものもありますが、荷物は少ないほど都合がよいので、今のままで我慢します。トランク一個が今の私の家財道具全部ですが、あるよりもない方がかえって身の廻りが片づいてさっぱりしますから。たった一度でしたが、姉上様がおっしゃったように、やはりお会いすることができましたね。神様のお引き合わせです。ただ一度の話し合いでも、もう小さい時からの姉さんのような気が致しました。いまは徒然なるまま、下らぬことを書き連ねました。雨も小降りになってきました。ではお躯大切に、ご機嫌よろしく。    さようなら。

同上
 (昭和191224日)
 姉さん。もう一度お会いしたいと思います。未練なと、お笑い下さいますな。これがいまの私の、本当の心です。今日、出撃者の壮行会がありました。しかしあまり飲みたくもないので程よいところで引き上げて、今こうして机に向かっております。鞄から姉さんのお写真を出してじっと見つめておりますと、いろいろのことが思い出されます。姉さんに初めてお会いした時のこと、それが多分最後になるであろうとは想像していましたが、やはり左様でした。でも姉さん、貴女の面影は決して忘れは致しません。私の瞼の裏に、はっきりと焼きついております。姉さん、私は最後の瞬間に、きっと姉さんのお姿を、はっきり眼の前に見て死ぬことができると思います。「姉さん」と叫んで死にます。
 姉さんのお写真を持って行きたいのですけれど、せっかくのお写真なので、どうしようかと迷っています。姉さんがお側にいて下さらないと淋しいので、持って行くかも知れません。それから、あの蓄音機で、私の好きだった音楽をかける時は、思い出して下されば幸甚に存じます。アルバム整理、有難うございました。見たいですね。

 母の愛を知らぬ私は、中尉になっても、大尉になっても、子供です。姉さんに、もっと甘えたかった。では、やさしいお姉さん、さようなら。お先に参ります。
  姉さんのご幸福を心よりお祈り申し上げます。

同上
 (昭和191229日)
 姉上様、本日兄上が思いがけなくお出で下さいまして、本当に嬉しうございました。その折り姉上様の事、伺いました。25日の晩、寝ずに待って下さったのだそうですね。多分姉上様の事ですから、そんなこと遊ばすかも知れないと思い、お便りすること随分思いあぐんだのですが、結局嬉しさのあまり筆をとってしまったのです。今から考えると、浅はかでした。お許し下さい。そうなることは何か予感がしていたのですが、しかし取り止めとなった時は、正直なところ、こんなことをされて真に未練な、死ねるかなどと、みな憤慨しました。○○は無情な鬼だとみな口をそろえて非難しました。しかし、長いものには巻かれろの例、みな我慢しています。そんなわけですから、どうぞお許し下さい。
 やさしいお姉さんにご心配かけたことほんとうに済まないと思っています。姉さん (やはりこの方がいい。姉上様なんて堅くるしい) 遺品の中にきれいな座布団がある筈ですが、これは呉県一女の生徒方からいただいたそうです。南の方は暑いので下に敷く方だけ持って行きます。折りのある時よろしくお礼申して下さい。人形は私のクラスがとてもお世話になった呉二鶴旅館のメイドさんからいただいたのですがマスコットです。美いちゃんに似ているでしょう。石鹸、あまりましたから、お使い下さい。煙草は兄上のためにとっておいたのですけれど、少ししかありません。他品の整理、お姉さんならば凡帳面ですから、安心しておまかせできます。どうぞ、お願い致します。玲ちゃん、美いちゃん、とても可愛らしいでしょう。姉さんに、よくなついているそうですね。
 では姉さん、さようなら。いいお姉様でした。私はやはりほんとうに幸福でした。感謝して死にます。
よいお年をお迎え遊ばしますよう、祈りつつ。多忙のため乱筆失礼。

叔母あて書簡
 (昭和1912月)
 いろいろ有難うございました。では征きます。心気爽快、何一つ思い残すことはありません。あとのことはよろしくお願い致します。弟と同じ幸福感で一杯です。お母さんの処、清江(注 戦死した弟)の処へ行く日はあと12日、最後にぶっつかる時はお母さん″と叫んで死にたい。真のお母さんが欲しかった。先日 『母子草』 という小説を読みました。いいお母さん、しかし、その代わりやさしい姉さんを持ったことは、せめてもの幸いでした。
 叔母様の楽しみが一つ無くなっても欣んで下さい。最後に御健康と御多幸をお祈り申し上げます。御恩の万分の一も報い得ず死ぬのを済まなく想います。出撃前夜
 

    静世

  叔母上様


兄あて書簡
 (昭和1912月)
 幼い時からのことが走馬燈の如く脳裡を走り過ぎます。兄さん。21年の間、ほんとうに有難う。嬉しいにつけ悲しいにつけ、思い出されるのはやはり血肉を分けた兄でした。弟でした。清江も逝き、いま私もお先に征きます。姉さんによろしく。
ご幸福をお祈り致します。

   1230                     
 
静世

     兄上様


出撃中の潜水艦内にて義姉あて遺書(昭和20年1月6日)

 蒸し風呂のなかにいるようで、何をするのもおっくうなのですけれど、やさしい姉上様のお姿を偲びつつ、最後にもう一度筆を執ります。
 今日で1月も6日目、30日の出撃の時は防寒服でも身を切るほど冷たかったのに、一日一日とあたかも真冬から真夏に変わるほどの急激な変化で、一日ごとに皮をはいで行くような気持ちでした。そして今では躰(からだ)の皮をはいでもまだ足りないくらいです。今まで9カ月も陸上勤務をしていたので、すっかり潮気が抜け切って、出撃後最初の数日は半病人みたいでした。しかし闘志満々、御安心下さい。
 30日の1700、豊後水道通過、迫り来る暮色に消えゆく故国の山々へ最後の訣別をした時、真に感慨無量でした。日本の国というものが、これほど神々しく見えたことはありません。
 神国、断じて護らざるべからずの感を深くしました。姉上様の面影がちらっと脳裡をかすめ、もう一度お会いしたかったと心のどこかで思いましたが、いやこれも私心、大義の前の小さな私事、必ず思うまいと心に決心しました。人と生まれ、誰か家郷を想わず、私事、私慾にとらわれぬ者がありましょう。しかし、それら諸々の私欲煩悩を超えて厳然とそびゆるもの、悠久の大義に生きることこそ、最も大いなる私を顕現することなの「家を忘れよ。親を忘れよ。子を忘れよ。すべての私事から脱却し得るものこそ真の忠臣であり、それがひっきょう真に親を思い、子を思う所以です」と、このようなことが艦のなかで見た書物に書いてありましたが、全くそうだと存じます。母親もなく、帰るべき家もなく、もちろん子もなき私には、改めて決心などせずとも、大君のためにはよろこんで、真っ先に死ねる人間ですが、姉上様はこの短い私の生涯に母の如く、また真の姉の如く、大きな光明を与えて下さいました。いつも心のどこか、うつろな心持ちでいた私が、姉上様があると知った時のよろこび、今にしてはっきり申します。姉上様、それがどんなに嬉しいものであったか、ご想像もつきますまい。おそらく弟も、私と同じ気持ちで死んで行ったに相違ありません。幸福という青い鳥は、決して他にいるのではありません。自分の家の木の枝におりました。真の幸福は他より釆たらず、自己の心に見ゆるなりとか、今その鳥を見つけました。これで姉上様に赤ちゃんがあるのでしたら、もう何も申し上げることはないのですが。こんなじじくさいことをいう私の気持ちも、いまにお分かりのことと存じます。

 艦内で作戦電報を読むにつけても、この先はまだまだ容易のことではないように思われます。若い者が、まだどしどし死ななければ、完遂も遠いことでしょう。それにつけても、いたいけな子供等を護らねばなりません。私は玲ちゃんや美いちゃんを見るたびに、いつも思いました。こんな可愛い純真無垢な子供を洋鬼から絶対に守らねばならない。自分は国のためというより、むしろこの可憐な子供たちのために死のう。自由主義はなやかなりし頃に育ち、この国をあげての大戦争の真っ只中、自分のことしか考えない30過ぎの男や女なんかくそ食らえだと。
 この大戦争の遂行に最も阻害となっているのは、実は日本のお母さんであると申します。自分の子が軍籍に入ることをきらう。殊に危険な飛行機、潜水艦方面に行くことを止める。挺身隊に出ることは、躾がくずれるように思っていやがる。そのくせ自分のこと、殊に衣食となると、ヤミもあえて辞さないという。こんなことで戦争に勝てるでしょうか。口でばかり偉そうなことを言って、実際見聞きするにたえないようないまわしいことが、いかに多いことでしょうか。

 先日最後の休暇で帰省した時、省線列車の中にリュックサックを背負っている人々のいかに多かったことか。叔母様に伺うと大分減ったということでしたが、何んという情けない現状であろうかと、つくずく情けなくなりました。こんな奴のために死ぬのかと (その時はすでに、現在あることは分かっていましたから)思うと、くやしくもありました。もちろん30過ぎても偉い、ほんとうに戦争一本となってやっている人もありましょう。

 
しかし、こんなことにこだわるのは、まだ小さいのです。実際今では、そんな気持ちは少しもありません。生意気のようですが無に近い境地です。攻撃決行の日は日一日と迫って参りますが、別に急ぐでもなく、日々平常です。日 (太陽) に当たらないのでだんだん食欲もなくなり、やせて肌が白くなって来ましたが、日々訓練、整備のかたわらトランプをやったり、蓄音機に暇をつぶしております。
 今6日0245なのですが、一体午前の2時45分やら、午後の2時45分やら、とにかく、時の観念はなくなります。
 姉上様、もうお休みのことでしょうね。いま「総員配置につけ」 がありました。では、これでさようならします。軍機にふれることは一切書かなかったつもりですが、何か知り得たようなことがありましたら、ご他言下さいませんように。なお、その際は、焼却方お願いします。姉上様の、末長くご幸福でありますよう、南海のかなかよりお祈り申し上げます。

  1月6日

 静世

姉上様

(ネットから)

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