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寺岡 恭平の父への手紙

(注 伊45潜水艦乗組 比島東方にて戦死)

 

拝啓 向暑の候 父上様には其の后如何に渉らせられますかお伺ひ申し上げます。下って私は相変らず丈夫にて生徒生活に邁進して居りますから御安心下さい。

私事、本校に入校致してより2年有半は夢の如くに過ぎ、第一線に御奉公出来る日も程遠からぬ内となりましたが、此の間「まだ先は長い、努力するのは之からだ」等と云ふ気で遂に自ら満足し得る様な努力も致さず今日に到って了ひました。今に到って誠に慙愧に耐えぬ次第であります。

扱、先日学年監事より「将来に対する各自の希望を決めて置く様に」とのお達しがございましたので、現在私が考へて居ります処を述べて、父上様の御教示を戴き度く存じます。もとより如何なる配置を与へらるるともその配置に就いた以上は其の配置に対して只管御奉公致す覚悟では居りますが、出来得る事なら自分の好く配置に於て、充分の御奉公を致したく思って居ります。端的に申しますれば、私は潜水艦を希望致したいのであります。

戦争の将来は航空並に潜水艦の実力如何に依って左右されるもののやうに思はれます。

水上艦艇は不必要と迄は行かなくとも、少くとも過去の海戦に於けるが如く重要なる役割は失われつつあるものの如くに思って居ります。これからの海軍軍人の御奉公は航空と潜水艦であると私は信じます。私は航空や潜水艦の受ける名誉を望むのではありません。華々しい戦果に対する世の嘆美を夢みるのではありません。唯水上艦艇に於ての御奉公よりは、より地味な、より苦労の多い、そうして真に大君の御為に身命を捧げ得る機会の多い配置に就く事を私は望むのであります。私の潜水艦に対して志望せんとする理由は之だけであります。尚航空に対しては、私は幼時より現在に到る迄大した関心も興味も持って居らず、特に志望致したいと云ふ気持も持って居りません。潜水艦乗りの機関科将校として是非必要な内火機関及び電機方面が決して得意ではないのでありますと申しましても、別に取り分け不得意と云ふ訳ではありません。

此の点に於て自ら進んで潜水艦の配置を志望するのがよいかどうか、私には不明なのであります。自分から特に志望して行った配置に於て、充分なる御奉公が出来なかった場合は、其の責任は実に大なるものとなると考へます。父上様の御教示を戴き度く思ふ所以であります。尚体力の方は、私は決して他人に劣る事はないと確信致します。

前にも申し述べた如く、如何なる配置に就かせらるるとも、一端その配置に就いた以上は喜んで御奉公致す覚悟で居ります。

御多忙中失礼とは存じますが、成るべく速かに御返書戴き度く存じます。

父上様の御武運の長久を祈り擱筆致します

頓 首

 

昭和18620

恭 平

 

父上様


母上宛の手紙(昭和18年9月15日卒業式当日)

どうにかこうにか卒業させて戴く事になりました。生来不肖なる私が「兎にも角にも今日迄大した事故もなくやってくる事が出来ましたのも、一重に父上様、母上様の20数年間の並々ならぬ御慈青と学年監事、分隊監事始め本校教官、監事の方々の御指導御叱咤の賜であると深く感謝して居る次第であります。これからも私の生きて居ります限り、御両親様始め親類の方々、或は海軍部内、部外の方々に随分御迷惑をおかけする事と、甚だ恐縮に耐えぬ処でありますが、兎に角今日からは単に人様の御世話になるだけではなく、微力では御座いますが、君国の為に私の全力を奮って御奉公致す事の出来る身となりました事を感謝して居ります。生来愚鈍、呑気な私では御座いますが、大義に殉ずる御奉公の精神だけは決して他に遅れを取らぬ積りであります。

私の機関学校3ヶ年で得ました人生観或は死生観の結論は、「我等皇国臣民たる者は、只管、皇国臣民たるの大義に生き、大義に死するのみ」と云ふ信仰であります。生を捨て、死も忘れ、凡ゆる欲望執着を離れて、我が大君の御為に、皇国の大理想顕現の為に己が全身全霊を捧げ切る事、之が我等皇国臣民たるの大義であります。この大義こそ我が皇国をして万邦に類無からしむる所以であります。

然してこの大義こそ、3千年の古より、皇国臣民の死活は勿論、凡ゆる生活行動の些事の末に到る迄を規定した一大生活根本原理であったのであります。古来我国に自己一身の安心立命を求めるが如き宗教の存じなかった理由も之に依って明かであります。宗教も不要、哲学も不要、我等皇国臣民は、只管皇国の大義に徹しさへすれば、生も死も凡百の煩悩も自ら超越されるものであります。そうあるのが古来皇国臣民の当然過ぎる程当然のことであったのであります。されば私が戦場に臨むに当りましても、勿論華かなる戦功を望んではほ居りません。名誉の戦死を求めては居りません。御奉公は縁の下の力持で結構であります。仮令無駄奉公と云はれようと可であります。名誉の戦死を遂げる必要はありません。犬死で結構であります。ノタレ死でも結構であります。勿論靖国神社の栄誉を願ふものでもありません。自分が如何なる御奉公をしたか、自分か如何なる死に方をしたか、等と云ふ事を敢て他人に知ってもらふ必要はないのであります。身は太平洋の藻屑と消え、名は永遠の暗黒裏に葬り去られて了っても、何等厭うべき処ではありません。死生の間に立ち到り、如何なる場合に死ぬべきか、如何なる場合に生くべきかを決定するにも、一つに大義の一語であります。

修養の到らぬ私のこと故、真に皇国臣民たるの大義に徹し切るには、この先何年 何十年掛るか分りません。孔子様でさえ 「己の欲する処に従って則を超えざる境地」に到るには何十年の長時日を費して居られるのです。まして凡夫たる私にとっては大義に徹する修業は死ぬ迄かかっても完全ではないでしょう。唯々修業に修業を重ねるのみであります。そうして何時死ぬにしても、「皇国臣民としての大義に殉ずるのだ。決して義に叛く死に方ではない」と云ふ自己内心の満足だけは充分味わって死にたいと考へて居る次第であります。

でありますから、自己の不注意に依って死んだり、自分一個の名誉感の満足の為に死んだり或は苦痛を逃れんが為に死んだりする事は、断じて望まぬ処であるのは云ふ迄もありません。

以上簡単ながら卒業に際しまして私の考の一端を述べた次第であります。之から先再びお会ひ出来る機会があるかどうか予測の限りではありませんが、仮令このまま死んでも、右以外お話することは御座いません。益々御健勝ならん事を切にお祈り致します。

私も全力を尽して命のある限り御奉公致します。

昭和18年9月15日

 

    母 上 様

(編注 53期の生存者の追憶によれば、寺岡は山奥の中学からきたと思っていた。
ガニ股、真面目、コセコセしない大人の風格、洗濯が大の苦手、
一本気の男である。

なお、昔の仮名使いのまま収録した。)

(なにわ会ニュース21号30頁 昭和42年5月掲載)

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