海兵受験当時の日記(昭和15年)
故 森山修一郎
8月10日(土曜日)
夕食後、高橋(注 中学同級、故高橋義郎のこと)と金比羅様へ御参りに行く。金比羅様は海の神様だとの事、何卒大願成就の程を祈願した。
8月11日(日曜日)
理、化学の復習を終る。果して如何なる問題が出るか。歴史、美術、工芸を一応見る。最後の国民思想は毎年のこと、今年も多分出題。
8月13日(火曜日)
愈々明日より試験だ。18日まで。今までの知識を総動員すべき時だ。明日は上らずに平素の通りに問題に当ろう。普段の通りにやったらたいして恐れるに足らない。平素の通りに等と考えながら早く眠りに落ちた。
8月14日(水曜日)
朝起きれば快晴。それに応じて気拝もよい。矢張り晴れた方がよい。8時、高橋と金比羅様に御参りして試験場へ向う。試験場は旧貴族院であるから家からは5分と掛らない。少し早目であると思ったが皆もう已に集合している。受験者1,000人少し、何れも自信たっぷりの様な顔をしている。全部13教室に分れる。試験前、試験委員長の訓辞及び試験中の注意があってのち愈々試験場に向う。席の上に問題と写真とが置かれている。「坐レ」 「掛レ」の号令で問題に掛る。これより2時間半、皆懸命だ、問題は意外に容易、全部出来たと考へる。然し6時半からの発表によると100人余り落ちた。
8月15日(木曜日)
試験2日目、今日も快晴。昨日が容易しいので今日は難問ではなかろうか。然し今日初め5題全部を終へたが、1題余りにも簡単なので却って時間終了直前に書き換えて間違へる。残念〃‥油断した故か? 否、未だ自信を充分持てなかった故だ。
午後英語。3時間の時間は、出来ても出来なくても相当の退屈だ? 英訳、文法は大概出来た心算だが、英作は少し不安だ。問題は、日記の英訳だ「ラヂオ体操」等と珍しい(英作には)言葉が出て? 英作の難しさを感ずる。今日も200人足らずの受験者が落ちる。
8月16日(金曜日)
試験3日目、今日は物理、化学、国漢。 物理、化学は午前中夫々1時間ずつ、然し問題は平易だ。国漢は午後より2時間半行なわれた。今日発表をみると自分の前後夫々3人が落ちて宛も孤城落月の感。
8月17日(土曜日)
試験4日目、今日は歴史、作文。試験場は毎日受験者を落して行くので毎日替る。僕の前後はいずれも初め知らないものばかりである。歴史は@番「神武天皇ノ御東征ノ順路ニ就キ論述スベシ」という問題で面くらう。作文は文体随意で時限1時間、「任務」という題であった。試験終了後、明日の口頭試験の為、「家族、家庭の状態、学校軍属関係(家族の)崇拝する人物、住居、受験の動機等々の欄」に書き込んだ。之で東京だけでの試験は通ったわけで最後の決定は11月3日電報を以て知らされる。
最初東京で1,600名余の受験者があったがそれが体格検査で凡そ500名、筆記試験で凡そ500名落ちて現在は東京だけで500名少し残っている。全国では2,000人、3,000人位らしい。採用する人員は秘密だが、去年と同様600人とするとまだ大部落される。果して電報が来るか?11月3日までは相当の期間がある。
8月18日(日曜日)
今日は口頭試問、各控室で待つ間、洋服及び靴の寸法を計る。口頭試問は大概昨日書き込んだのを尋ねられるのであって簡単であった。一中の生徒は5年生11人が通っている。
8月19日(月曜目)
長い間勉強し心配もした試験を終えて何かしら大きな仕事を終へた安堵感でいっぺんにだらける。然し今までは試験という一つの目標に対して努力し、暇なときにも或いは準備をするという様なことで時間を費やせたが、試験を終った今日では確実に当落の決定する日までは何を目標にして勉強をしてよいか。目標を失って、時間が非常に長く感ぜられ、何をして過すべきかに迷う。
(森山は高橋と親友で、4年受験の時白紙提出し、5年で高橋と一緒に受験した。)
(なにわ会ニュース18号41頁 平成44年9月掲載)