久住 宏の思い出
河合不死夫の遺品から
・・対潜学校で私と同期の渡部清は、中学では私より2年上、久住中尉と同級生だった。最近の彼の手紙には、「(久住は)冗談一つ言わない長身で色白の温和しい生徒でした。川越中学から3年の時転校してきて 一言で言えば文人型で武人型ではありませんでしたから、彼が海軍兵学校に入学したのは実に意外なものを感じました。しかし積極的に自己主張するタイプではなかったのですが、心中では海兵志願が相当強かったものと想像できます」
東京府立九中7回生の「七生会会報」には田中一郎氏が次のように書いている。
「温和でねばり強い性格で,たちまちクラスにとけこみ、誰からも親しまれて全く違和感は感じさせなかった」
大津島にいたとき、予備学生を殴ろうとする上級者(海兵71期)の前に立ちふさがり「待ってくれ」と制止したため、彼自身がめちゃくちゃに殴られ、ついに殴り倒された話は、下士官搭乗員の中で語りぐさになっている。
だが、ここに久住中尉のために一文を捧げるのは、先輩に対する礼儀でも、われわれをかばってくれたことに対するお礼の心からでもない。彼の死があまりに悲壮だったからだ。
・・彼の乗った回天は潜水艦を離れてまもなく、気筒爆発を起こして動かなくなってしまった。潜水艦内部から潜望鏡で回天の発進状況を見まもっていた潜水艦長の言によれば、突如、目の前が真っ赤にかがやいたという。潜水艦から至近距離での事故だった。久住艇は一度浮上したのち、海中深く沈んでいった。
気筒爆発を起こした回天は、多くは自然に浮上する。沈下したのは久住中尉自身の操作によるものである。彼は「このまま浮上すれば、敵に潜水艦の所在を教えることになる。自沈するほかない」と考え、ハッチを開け、艇内に海水を入れて、生きながら海底深く沈んでいったのだ。
苦しい訓練を続け、いよいよ敵を眼前にしながら、ついに壮図はならなかった。この悲劇になんたる沈着、なんたる自己犠牲。・・自爆してひとおもいに死ぬことすら許されず、生きながら沈んでいった久住中尉の死は、彼の崇高な精神を物語るものとして、長く記録にとどめておきたい・・。
久住 宏の遺書
大正11年4月1日生。
(回天特攻・金剛隊、昭和20年1月12日、パラオ・コッソル水道海域にて戦死。23才)
有史以来最大の危機に当り微力乍ら皇国守護の一礎石として帰らぬ数に入る.
20余年御高恩に報ゆるに此の一筋道を以てするを人の子として深く御詫び申し上げ候。
皇国の存亡を決する大決戦に当り一塊の肉弾幸に敵艦を斃すを得ば、先立つ罪は許され度、此の度の挙もとより使命の重大なる比するに類無く、単なる一壮挙には決して無之、生死を越えて固く成功を期し居り候。
兄上には相馬ヶ原にて別れていらい2年有余なるも、魂は何時も通じ、隔つといえども何の不安も無之候。
御両親様には私の早く逝きたるに就ては、呉々も御落胆ある事無く、私は無上の喜びに燃えて心中一点の雲り無く征きたるなれば、何卒幸福なる子と思し召され度。
祖母上様と共にいよいよ御健やかに御暮し下さるよう祈り上げ。
歿後の処理に就ては別紙に認めたれば、然るべく、次に2,3御願い、聞き置かれ度、第一に万ケ一此の度の挙が公にされ、私の事が表に出る如き事あらば、努めて固辞して決して世人の目に触れせしめず、騒がるる事無きよう、葬儀其の他の行事も努めて内輪にさるる様右固くお願い申上げ候。
又訪問者あるも進んで私の事に就いて話さるるようなる事の決して無きよう。
願わくば君が代守る無名の防人として南冥の海深く安らかに眠り度存じ居り候。
昭和十九年十二月
御両親様 宏
もろもろの まとひは断たん 君がため
南溟ふかく 濤分くる身は
命より なお断ちがたき ますらおの
名をも水泡と いまはすてゆく
ネットより)