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市吾の青春

片山 市吾

(編者まえがき)

「青年は意気であり、熱であり、顧みる時の微笑(ほほえみ)である」という言葉は、片山市吾のためにあるような気がする。

愛知県護国神社に保管されてある彼の自啓録ならびに御遺族が大切にしまっておられる彼の書翰の中から、その一部を披露してクラスの張切ボーイ片山、弟妹思いの大兄ちゃん、はにかみやの市吾の一面を偲ぼう。

1512         愛知県立熱田中学校五年から兵学校入学

18・9・1619・2・26 41期飛行学生(練習機教程を霞浦空で修業)

19・3・1〜7・29   同右戦斗機操縦学生

学生卒業後     302空(厚木基地)に配属され、雷電・零戦を駆使して
          帝都防空戦その他に従事
     
20
・4・12      沖縄攻略部隊遊撃第2制空隊として笠原基地発進、
          奄美大島上空で敵シコルスキー8機と交戦戦死

 

   17・5・22 家族あて書翰)

前略 吉報〃

総艇 50数艇中「第7位」。雪辱の日は遂に来ました。雪辱は成りました。此の前の近距離競技に於いて苦杯をなめて甘んじた50分隊、今は、凱旋将軍の如く意気衝天、私は「中オール」といって最も力を入れねばならぬ8番(左舷の真ん中)を漕ぎました。

本日の様子を御伝へ致します。湾内出発、10数分後に湾口通過、平常の訓練の甲斐あって10数分経過後尚呼吸一寸も乱れません。後より2分隊が迫って来る「何くそ!」 「負けてなるものか」互に争うこと10数分 遂に抜かれた。言ひ忘れましたが、出発は籤に依って定められ、50分隊は第六番に出発することになりました。前後の艇の間隔は約10秒。湾口を出て直ぐに第1番に出発した1分隊がへばり出した。全力を挙げて数分漕げば既に1カッターは後方へ、今度は2分隊(我を抜キタルモノ)だ。追跡すること20分、これもまた元気衰へたれば再び全力をあげて之を抜く。後方をみやれば我に迫り来るものなし、力漕1時間、漸く身体に疲労を覚ゆ、同乗の分隊監事、盛に艇員を激励さる。勇をふるつてまた力漕、此の頃口乾燥し呼吸乱れ勝ちとなる。然しまた先に進む40カッターに追いついた。そら抜け! 力漕、々々、々々 櫂も折れよ、腕も千切れよと引いた、漕いだ。然し此の頃疲労極に達し、気力に依って漕ぐ、元気がおとろへると互にどなり合って士気を昂揚する。こんなところでへこたれてどうなるか、平常の訓練を此処に適用せずして何処にか適用せん。艇員総べて火の丸となり進む。

丈夫中の大丈夫の集へる兵学校、真の男と男がぶつかって火を発する修養道場、世界一の兵学校の兵学校たる所以はこんな時に如実に現はれる。

40カッターと並んだ。40カッターを半艇身抜いた。

然し彼もまた強者、再び我を抜きかへす、互に抜きつ、抜かれつ、決勝点までせり合って入る。残念なことに40分隊に少し抜かれたが彼は早く出発している為順序は我が上であった。

ゴールに入って櫂を上げたとき流石の私も体がぐったりなってしまった。再び櫂をとって漕ぐ気は、しなかつた。手をみれば豆だらけ、然し競り合っていた時は少しも気につかなかった。

此の競技時間、1時間26分。第7位。鳴呼快哉。私達生徒は此の様な訓練に依って帝国海軍の伝統精神たる不屈不撓の精神を養成致して居ります。紅葉谷公園に於いて昼食、講評、訓示行はれ2時間ばかりの自由散歩も許されました。

此の競技は最もきついものの一つです。恐らくこれが一番身体に堪えるでしょう。抜いたものはありましたが、1隻たりとも我が50カッターの先に出ずるを許しませんでした。

先は本日の競技の様子右の如くでございます。

梅雨の候 皆様御自愛遊ばせ

 

分隊編制に際し所感

171118 自啓録に墨書)

昭和18年度第19分隊第3学年生徒卜為ル。分隊監事ハ兵学校一ノ張切り親父・海軍大尉 石川  蓋シ吾人ノ如ク親父に恵マレタル生徒ハ兵学校生徒ノ中果シテ幾何ゾ、然レドモ暫ク之ヲ止メヨ。

 

兵学校の分隊生活、これ真の家庭生活にして監事は親父として分隊員の指導に当られ、分隊員の中には各々兄貴に弟有り、苛も兵学校生徒たる者、如何で此の分隊生活を喜ばざるべき、余が最初に述べたる果して幾何ぞ、此の事は実は大なる誤にして経験深き先輩たる親父の如何で良し悪しの言を以て判じ得べき。

余は意気衝天の思いにて第19分隊に来る。兵学校最後の1ケ年間最も有意義に過し以て有終の美を済すと共に将来兵科将校として護国の大任を負い皇軍の根幹たるべき者能くその基礎確立に邁進すべきなり。

又余が最後と選ばれし第19分隊こそあの「ハワイ」攻撃に於いて一億同胞の両頬を、思はず血涙を流さしめたる軍神岩佐中佐を育み育てしめたる古今に類なき光栄に輝く分隊なり。彼の軍神とても此の生徒の道は今の余と同じく歩まれたのは誰しも之を知る処、知多の一角より遥と来りて此処に研讃之道にいそしめる吾人何たる過報者ぞ。此の儀にして何も為す処なくして卒業しなは果して軍神は吾等後輩を如何と判ぜらるるや。余は自ら己を大丈夫と信ず。然れば大丈夫たる者宜しく其の一挙一動正しく大丈夫たるべし。言葉のみの大丈夫にては何の用に供し得ず。余が心は現在新鋭の意気に燃え、光輝ある伝統と栄光に輝く世界第一等の江田島海軍兵学校の最上級生徒なり。此の光栄、此の感激、之こそ真に大丈夫の感激に非ずして何ぞや。然して此の感激たる唯一時の興奮と理性の変換のみにては不可と考うるなり。連綿不断の努力により且又最上級生徒たるの自覚に目覚めて之が承継然も絶対に不連続になる事なく維持続行せしめんとす。

期会に於いては種々細目に至る迄定めたるも一々之を記憶して実行するは難し。然るよりは前校長草鹿中将の教へられし如く「我等は兵学校生徒なり。我等は陛下の股肱なり」

と深く肝に銘じて日夜魂の練成に精進すると共に又吾人は兵学校の最上級生徒なりの自覚を新にし、生徒館生活に邁進し、伝統の継承弊風の打破に邁進(まいしん)すべし。

 

三号修正に関し所感

171212 自啓録)

抑々鉄拳修正ナル物ハ我ガ皇軍存立ノ上ニ於イテハ存在スルコトハ忌ムベキ事也 何故ナレバ鉄拳ニ依リテ修正スルハ、即チ、上、下ニ対シテ強制ニ出ズル事ニシテ、軍紀厳正ナル軍隊ニ於イテハ上級者ノ命令ハ直ニ上御一人ノ命令ナレバナリ 換言セバ我国ノ軍隊ニ於イテハ、一旦命令サルレバ直ニ之ニ服従スベキモノニシテ、下級者ニシテ之ヲ云々スベキ筋合ノモノニ非ルナリ。然レドモ翻ツテ生徒館ノ内ヲ視察探究セン。

生徒ノ中ニ於イテハ、年長カ否カノ点ニ相違ヲ見ルノミニシテ、階級ハ総テ之レ同等ナリ。然シテ全国ヨリ集ヒタル数千ノ大丈夫ハ茲ノ地ニ於イテ心魂ヲ錬成セント努メ、努メテ、又努メ居ルナリ。故ニ此処ニ於テハ切磋琢磨ハ存スベク、日夜之ニ依リテ、生徒ノ資質ハ向上シ行クモノナリ、故ニ兵学校ニ於ケル鉄拳ハ強制ヲ意味スルノ鉄拳ニ非ズシテ、兄、其ノ弟ヲ厳酷ナル修正ニ依リ弟ノ過ヲ矯メ其ノ向フ処ヲ正シクスルニ等シ。

其ノ修正タルヤ、沙婆ニ於イテ見ラルル如キ生半可ナルモノニテハ不可、修正スル上級者ハ己ノ熱意ヲ、其ノ真心ヲ相対スル者ニ、一発ニシテ良ク通ゼシメ、以テ其ノ非ヲ悟ラシムルト共ニ、爾後絶対ニ斯カル間違イヲ為サザル如キ心境ニ到達セシムルコトヲ最モ理想トス。

然レ共、誰モ彼モ亦人ナレバ過無キニ非ズ

「過而改ムルニ憚ルコト勿レ」苟モ過マタバ修正ニ依リテ直ニ改ム、若シ之ヲ改ムルコト修正ヲ用ヒザリシ時ヨリ早クシテ、再ビ之ヲ為スコト用ヒザル時ヨリ遅カラバ即チ之ノ効果ハ充分ニ発揮サレシモノト認ム。

 

厳冬訓練終了に際し所感

181121 自啓録)

昭和十八年一月二十一日冬季休暇中の全精力は今厳冬訓練を無事終了せんとする時、殆んど全部訓練に費いされたり。

然れども余は、終始元気一杯、生徒たるの自覚の下、厳冬訓練に生徒館の先導者として日々精進し続け得たるは実に欣快此れに過ぐるものなし。

古人曰く「青年は意気であり熱であり顧みる時の微笑なり」余正に今此の境地に在り。

 

弟妹に対して所信を述ぶ

18・2・21 家族あて書翰)

其の後も御達者の事と思ひます。市吾至極壮健御心配には及びません。

待っていた写真、出来たのだけお送りしましょう。失敗したのが少々あったけれど、弘ちゃんも武ちゃんも洋ちゃんもみんな可愛いいこと。三人組と名前をつけようか、大兄さんの机の蓋の裏に一枚はつて置いてあるよ。机を開くと三人一緒に「大兄ちゃんバアー」と言う、だから大兄も「洋ちゃん武ちゃん弘ちゃんバアー」と言う、そうすると三人組はニコニコ笑っている。「仲よしこよしだね」というと「ウフン」といって返事をしない。「お口をなくしたの」というと「洋ちゃんは人指でお口をおさえている」 「アーアルアル 誰にもらった」 「オカーチャン」。

賀乃子ももう直ぐ本考査だね。しっかりやりなさいよ。体操も出来なければだめだよ。

身体の丈夫な人は自分の知っている知識を全部実際に表すことが出来るが、身体の弱い者は、仮令沢山立派なことを知っていても充分表はし得ない。そして実際には身体の強い人の方が役に立つ。お国の為に尽せる。大兄の事を考へてみれば一番よくわかるだろう。

いくら頭がよくて如何したら大砲を命中させることが出来るか、どうしたら敵の艦隊を撃滅することが出来るか、といふことを百も二百も合点していても、いざ其の場になって私は身体が弱いから今度は御免かうむる、これでは済まない。それよりか如何な場合でも下士官、兵を指揮して実際に陣頭に立って敵を撃滅する人の方が、たとえ少しは其の方法が下手でも、ずっと御役に立つ人だ。然も此の下手、上手はいくらでも訓練と研究と努力とに依って思う様になる。

勿論今の大兄の最大の忠は、課業訓練に邁進して之を充分体得することだ。俺は訓練なら誰にだって負けない。神にかけても断言する。然し勉強の方は一寸問屋が卸さない。勿論勉強も大切だ。それはよくわかっている。でも課業中しっかりやっていれば、人後に落ちない自信はある。日曜日迄もかかって勉強も考へものだ。或は、これは不忠の臣かも知れぬ、然し俺の信念はもう走っている。やる時は猛烈にやる。休むときは、何もかも忘れて休む、俺はアツサリしたこと、竹を割った様に、そして何時迄も幼児の様に純真でありたい。不正なことはやりたくない。嘘もつきたくない。もう二十一だが、心だけは大人の心になりたくない。

普通の大人には、普通の大人は余りに見栄坊だ。社交術にたけている。嘘が上手だ。然し此れが沙婆の社会の空気かも知れない。だから俺が大きくなって(今よりも)若し俺を騙そうと思う人は俺を自由勝手にだますことが出来よう、俺もまたそれと知つても其の為すがままに、ならう。

軍人は、馬鹿正直で良いのだ。其の馬鹿正直であってこそ喜んで愛機もろとも敵艦と運を共にすることが出来る。そして、若しもその人、俺をだました人が少しでも人間らしさを有しているならば、必ず其の人は顔に出さないでも良心にとがめられよう。

俺の親父は・・・俺をこんなことを考えたくないが、もっともっと立派な人間らしさのある人だらうと信じている。俺は馬鹿正直だからなあ。進吾は何時頃出発するのか

今度は貴様も褌を緊めて掛らないと駄目だぞ。海軍という世界は、貴様の想像する様ななまやさしい世界ではない。然も今は大戦争の其最中だ。士気は極度昂揚(こうよう)して居る。なまけたら駄目だぞ。身体も大きのだから決して人に負ける様なことがあってはならぬ。

よく俺の手紙を読め、初の方を。

つまらん事を思いつくままに書き連ねたが、これも俺の練習だと思うな。此の三月岩国の航空隊で二週間飛行機の構造、組立て、操縦を習って来る。面白いとの話だから、元気でやって来ようと今から期待している。

 

航空実習を報ず

18・3・13 家族あて書翰)

皆様ご機嫌様 市吾は元気でハチキレル程です。遠い本州の岩国から御便り致します。

市吾も生れて始めて本当の飛行機に乗りました。今迄で空に上ったのは、箱根の山上か新舞子の飛行塔の回転式の飛行機位のもの。

3月9日 曇天 風は殆どなし少し寒い。同乗飛行の最初、中尉の地上指揮官に「428号 片山生徒 同乗出発します」と威勢の好い声で報告してから飛行機の側に行く、ヒラリと機体の中に入って、落下傘や安全帯(空中に放り出されない様に座席と自体とを固縛するもの)伝声管(口と耳だけではエンヂンの爆音で声が伝はらないから声を伝へるために耳と口につけるもの)等をつける。勿論身体には、飛行服、飛行帽、飛行靴、飛行眼鏡等全部つけている。

今迄支へてあった「車輪止」を取る。プロペラは勢よく回転を上げる。地上滑走が始まる。地面からうける衝撃が機体から身体に伝はつて来る。百米も走ると身体が「フワリ」とした感じをうける。離陸! ああ高くなる、高くなる、ぐんぐん高くなる、みるみるうちに地上のものは小さくなる。眼下に見える地球の総べては、オモチヤの箱庭の様だ。山も海も見えるが、みんな見下さなければ見えない。

「危ない」という様な感じは少しも受けない。

地上のものはみんな俗塵だ。禅宗の坊主が悟りを開いたよりもつと超然とした、しかもゆっくりした気持。軽く飛行機は空気の中を泳いでゆく。「右旋回」右に機が傾いてずっと円を描いて回る。左の地平線がぐっと上ってくる。右の地平線は下ってみえる。「戻せ」、水平飛行だ。初めて水平線がもと通り、水平になった。ああ愉快々々、座席の中で小躍りして喜んでいる大兄の姿を想像してください。

「降下」此の時はプロペラをあまり回さないでも重力で自然に飛行機は下りてくる。

地面がみるまに近づいて、小さな蟻の様に見えた人間が、もと通りの大きな形にみえる。と思ったときゴロゴロ、再び地球の上に足がついた。このゴロゴロという音は実に嫌だ。また俗塵の中に入って来たのかと思うと清澄な青空の中がなつかしい。

よく言はれている様に、熊襲(くまそ)を討たんとすれば、新羅(しらぎ)を討たねはだめだ。大東亜を日本を盟主とする理想的なものにする為には、米英をうたねならぬ。支部を討ってばかりるのは熊襲を討ってるに等し。そして、制海権を得んが為には制空権を得なければならな。これが戦に勝つ唯一無二の必勝条件だ。

8日から14日迄の1週間は、飛行作業で空をとんでいる。午前も午後も……そして来週1週間は、機体の構造を研究する。あの複雑な発動機、1分間に2千回転もするような発動機を分解したり組立てたりもする。

お父さんやお母さんは、飛行機を危ないと思う?

若しそんな考えを御持ちになっていたらあっさり捨てて下さい。飛行機の事故と自動車の事故とどちらが多いか知っていますか。自動車の方がずっと多い。航空知識の無い者達程危ないと言います。

21日には兵学校に帰りますが、其の頃はもう桜がきれいな蕾をふくらませているでしょう。

兵学校の桜は、3月の終りから4月の始め迄10日間、ゆっくり花見の出来ないのが残念です。

気候も次第に良くなりますが、充分御注意してください。

この手紙の返事は学校へは出してくださいますな。この手紙に関した返事を出すならば倶楽部の方へ、兵学校からは葉書だけしか出せませんから。

 

結婚について

19・9・17 母上あて書翰)

皆様其の後も御達者に御過しの事と存じます。市吾も元気一杯やつて居りますから御安心下さい。そして、此の15日には中尉に進級して張り切って居ります。

天候不良の為しばらく飛行機に乗らなかったため、私の体も少しふやけた様な気がします。飛行作業が身について来ると私達は2、3日とばないでも何か物足りなさを感じ、身体の肉が伸び切った様な気持がするのです。

今日はよいお天気、真っ白な雲が紺色の青空に餅の様な美しい模様をつくって居ります。

あの日、家に帰るとき汽車の都合がよくて名古屋からずっと席がありましたので、あまり苦痛ではありませんでした。いろいろな事も話したいのだけれど、余り暇がなかったのでそれも出来ずに終った様な次第です。それで此の手紙で足りないところを補う様なわけです。

○瀬○エのことなのですが、お母さんから直接○○寺へ行ってもらって彼女の父母に此方の意志のあることを伝へて頂きたいのですが、此の前順平叔父さんが来られたときに伝へてもらった手紙に大体のことを書いて居きましたが、私は彼女をあまり知らないものとして、其の相談をしてもらいたいのです。勿論婚前交際をするという様な程度の話でよいのですが、私としてもまだそう早く事をかたづけたくないのです。それは第一に青年士官の伝統という様なものもありますし、第二には転勤の繁しい (多いときは1年に3回位)生活です。第三には結婚すると矢張り若さを失うのが定則らしいですから。第四には、今の時勢から推して此の1・2年は見通しのつかない状態にありますから、私の身命も何処で消えるかわからない様なわけですし、若し、今から1年も後に結婚したとしても直ぐ其の後で私が死んだなら、彼女一人でなくてみんながあまりにも不幸になる様な気がしますから、いろいろなことを考へてみると、大体私が24か5になったころと思っていますが、24ならあと1年と数ヶ月、5ならば2年と数ヶ月!此の間の出来事を予め知ることの出来る人は神以外にはないでしょう。

大体気の短い性分の私がこんな2年も前の事を言ったら、さぞ鬼が笑うかも知れませんが、よくよく考えた末のことですからまず間違いはないと思います。

○エは多分挺身隊でどこかに勤めているでしょう。だから、若し行くとしたら、夕方か夜がよいでしょう。はっきりは分りませんが。

霞空以来何の便りも交へて居りませんからこんなことを言ひ出したなんて驚いたでしょう。然し矢張り親の傍に居なくても子供は育つものですね。此の相談は、なるべく来月中にはしてください。父には決して相談などしない様に、私の信用がないから。何故これを順平叔父に頼み、次に母に頼んだのかはよくわかってくれると思いますが、結婚しない中に世間の評がたつと、もし私が死んだとき一番こまるのは彼女でしょうから。こんな迷惑をかけたくないから、この様な方法でやってもらいたいのです。よく私の心を汲んで事を運んで下さい。

(なにわ会ニュース37号62頁 昭和52年9月掲載)

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