故井尻 文彦君 昭和20年1月20日受信、
母堂宛の最後の書簡
久しく御無沙汰致しました。皆様相変らず御奮斗の事と拝察致します。私はお蔭を以て病気一つせず毎日々々元気に飛んで居りますから他事乍ら御安心下さい。腕も大分上って来たようですがまだまだ安心は出来ません。之からが危ない時と思って慎重にやって居ります。私もいよいよ一人前の仕事を与へられ忙しいけれど、やり甲斐があると思って一生懸命にやって居ります。台湾に派遣されて非力乍ら作戦に参与して、弾丸の下をくぐり、割合に落付いて任務を果すことの出来たことをよろこんで下さい。けれど帰って来ぬ部下を思ふと今でも愉快にはなれません。只今12日附の手紙を受取りました、皆様元気に正月を迎へられた由安心致しました。私もどうやら年を取ることは出来ました。私は上の人から叱られる時もありますが、皆よい人ばかりで可愛がっていただいて居ります。叉部下からも慕はれて私となら死んでもよいと言うのが相当に居り助けてくれますので、大した間違いもせず勤務出来ると思って居ります。
私の何処がよいのかわかりませんが、ただ思いやりがあるからでしょう。私は何処へ行っても「メーター」を上げられて(海軍語で要するに惚れられて)若い娘さんから「マスコット」等貰います。時々アチコチ仕事の都合で行くことがあるのですが、毎度のことで貰っていいものやら迷うことが屡々です。初めての人に貰うのでクスグッタイ様な気がします。私は卒業してから大分人が変った様で、私の周りはいつも賑やかです。士官室の連中は私を「ヤンチャ坊主」と呼んでいます。朗らかなので可愛がられ、前記のようなことになるのでしょう。佐空の名物男と言はれて居ります。要するに初陣以来、引っ込み思案は止めて、自分の運命を切り開いて行くだけのことが出来るようになったと思ひます。ケップガンをやって居りますが、ガンルームの若い士官達は私を立ててしっかりやってくれます。学生出身で私より上ですが、良くついて来てくれます。いつのまに偉く?なったのか不思議です。此の様な調子ですから私に関しては一切心配無用です。それよりも弟達の教育が心配です。空襲下さぞ困るだろうと何処へ行っても気になるのは其のことばかりです。私より弟達が頭がよいと思うので伸ばしてやって下さい。
私の時計ですが又心棒を折りました。部分品がなくてこまっています。東京で修理出来るなら送ります。
今日も71期の関根大尉(生徒の時私と同じ29分隊)でしたが転勤なされました。
色々とお世話になっているだけに別れるのは辛いです。然しお上の要求ですから致し方ありません。忙しいので今日は之にて。いつまでもお元気でお暮し下さい。
ではさようなら
1月17日 文彦
(ニュース遺墨集)