平成17年9月寄稿
海軍兵学校教育と五省
(『現代警察』88号、平成12年2月号に若干加筆した))
左近允尚敏
平成22年4月12日 校正すみ
兵学校の小史
明治新政府に兵部省が置かれた明治2年、東京の築地に海軍操練所が設けられて海軍士官の教育がスタートした。この年に入校した修業生(のち生徒)を1期と呼ぶが、翌明治3年に入校した2期に日本海軍の父といわれた山本権兵衛(大将、総理)がいる。海軍はこの明治3年に英国式を採用することを決め、また海軍操練所は海軍兵学寮に名称が変わった。
明治5年、兵部省は陸軍省と海軍省に分かれ、海軍兵学寮は海軍省の管轄となった。この年に外国語教育のため、オランダ、英国、米国から教師を招聘したが、この外国人教師の制度は太平洋戦争の2年前まで続いた。明治6年、英海軍のダグラス少佐以下34名の教師団が来日し、その勧告に基づいて教育内容は英国式に改められた。
明治8年11月から9年まで4期、5期、の生徒47名が軍艦・筑波で初めて長期の遠洋練習航海を実施したが、この制度は昭和12年卒業の64期まで続いた(67期までは期間と規模を縮小して実施した)。
明治19年、兵学校次長、伊地知弘一中佐は「兵学校を僻地に移転する理由」と題した1書を提出した。志操堅固な士官の養成には僻地がベターであると論じたもので、この提言によって築地から広島県の江田島への移転が決まり、明治21年校舎の一部ができて移転した。赤煉瓦と呼ばれる洋式2階建の生徒館が完成したのは明治26年である。
江田島の最初の卒業生は15期、80名で広瀬武夫、岡田啓介らがいた。明治27,28年の日清戦争には1-21期の約700名が参加したが、37,38年の日露戦争には37年11月卒業した32期の山本五十六を含む192名も少尉候補生として参戦している。
江田島
江田島は移転してしばらくは学校職員にも生徒にも不評だったようで、学校当局は明治33年に海軍省に、教授、教官が得にくい、外部からの交通、刺激が少なく、職員は土着的、家庭的風潮に陥り、進取活気の風を失って害を生徒に及ぼしていると陳情したが、却下されている。しかしその後の卒業生の大多数は、移転は英断であり、江田島はすばらしい教育環境を提供してくれたと考えている。
兵学校が消滅して半世紀が過ぎた現在、江田島には海上自衛隊の2つの学校(幹部候補生学校と第1術科学校)があるが、白砂青松の構内には、かってと同様にチリ一つ落ちていない最高の教育環境が維持されていることは、卒業生はもとより訪れる人々に強い印象を与えている。
教育期間と生徒数
教育期間はおおむね3年前後であったが、昭和5年卒業の58期から3年8ヶ月、昭和11年卒業の63期から4年、昭和13年卒業の66期から昭和17年卒業の71期までは3年半ないし3年、昭和18年卒業の72期は2年10ヶ月、昭和19年卒業の73期と昭和20年卒業の74期は2年4ヶ月に短縮された。
生徒の数はその当時の情勢を反映してかなり変動している。六六艦隊整備計画により明治28年入校の27期から100名を超えた。八八艦隊整備計画もかなりの生徒増をもたらした。すなわち大正6年、7年入校の48期、49期は200名、8−10年入校の50−52期は300名クラスとなった。しかしワシントン条約のために大正11、12年入校の53期、54期は50名に激減した。53期が入校したとき在校生だった51期、52期は休暇で出る際学校当局から自発的退校を望むと言われている(休暇中によく考えて決めろと言われたともいう)。
53期と54期が少なかったことは太平洋戦争中に中堅指揮官、上級幕僚の著しい不足をもたらした。昭和に入り、満州事変(昭和6年)、国際連盟脱退(8年)、ワシントン、ロンドン条約の失効(11年)、日独防共協定(11年)、盧溝橋事件(12年)、があり、生徒の採用人数は増えていったが、太平洋戦争になってさらに大幅増になった。開戦直前に入校の73期は904名、17年12月入校の74期は1028名、18年12月入校の75期は3486名、19年10月には年齢によって2つの期が入校したが、76期は3570名、77期は3771名だった。最後のクラスは20年4月入校の78期(中学2−4年修了者で1年間予科生徒の予定だった)は4048名だった。
分校の設置
明治6年、海軍兵学寮に機関科が置かれ、翌7年横須賀に分校が設けられたが、明治9年の海軍兵学校への改称に伴い、兵学校付属機関学校となり、明治14年海軍機関学校として独立した。関東大震災(大正11年)により焼失したので江田島で臨時に教育を行っていたが、昭和5年に舞鶴に新校舎が完成してこれに移転した。<BR>
昭和17年、兵科士官と機関科士官の区別が廃止されて兵科士官に一本化されたので、昭和19年10月、機関学校は兵学校舞鶴分校になった。これより先の18年10月、兵学校生徒数の増大に伴い、岩国航空隊の中に兵学校岩国分校が置かれた。19年11月には江田島の大原に、20年4月には長崎県の針尾に分校が置かれたので、20年8月まで江田島の本校と岩国、舞鶴、大原、針尾の4つの分校があった。
分隊編成
兵学校教育の特色の一つに縦割りの分隊制度があった。学年ごとにいくつかの分隊に分ければ横割り、全学年を分ければ縦割りである。明治19年に横割りで始まり、23年に縦割りになったが、34年に横割りに戻り、36年にまた縦割りになって、昭和20年に兵学校が廃止されるまで続いた。この制度はきわめて良かったというのが、卒業生の大多数の見方であると思われる。
兵学校では最上級生を1号、以下2、3、(4)号(正確にはあとに生徒がつく)と呼んだ。私たち72期が昭和15年12月に入校したときには、分隊が48あり、1号(69期)約7名、2号(70期)約9名、3号(71期)約12名、4号(72期)約13−14名、計41−42名が1個分隊を編成し、自習室、寝室をともにした。
少佐、大尉、あるいは中尉の分隊幹事がいたが、1号が指導に当たる自治が重視された。最下級生である3(4)号は発声、服装、歩き方、階段の上り下り、寝具の整頓などあらゆる面で1号から徹底的に鍛えられ、息をつけるのは同期生(クラス)で授業を受け、あるいは訓練に従事するときと、夜ベッドに入ってからだけだった。
生徒は最初の1年はきついが、1つ下の期が入ってくると余裕が出てくる。そして1号になると張り切って3(4)号の指導に当たる。
私たち72期が入校して4ヵ月後の昭和16年3月、1号だった69期が卒業したが、まだ73期はこない。それまでおとなしかった70期は1号になったとたん張り切って私たちを「指導」し始め、72期は2つのクラスから鍛えられる不幸なクラスとなった。内心面白くなかったが、その70期は73期が入校した16年12月の前月に卒業したから、1号の存在を示す相手は72期しかいなかったのである。
鉄拳制裁
1号が指導するのは自分の分隊の生徒に限らない。相手は個人の場合と集団の場合とあるが、まずどこが悪かったか大声で叱る。これを「お達し」(達示)というが、たいていはそのあと鉄拳制裁になる。1発ではすまない場合もしばしばだった。夜の自習の中休みは、ちょっとおおげさに言えば恐怖の時間だった。
起床後は、ごく短時間のうちに数枚の毛布をきちんとたたみ、その上に枕をのせ、作業服を着て飛び出すが、その後で1号が寝室を見回り、少しでも毛布の端が揃っていなかったり、ふくらんでいたりすると、パッと崩していく。それがだれの毛布かチェックするわけではない。
自習中休みの前に「本日毛布を引っくり返された者はどこどこに集まれ」と拡声器がかかる。中休みになると該当した3(4)号は指定された場所に行って整列し、「お達し」を聞かされたあとポカリとやられる。ときには横にいた1号が「俺もそれを聞いて憤慨した」などと言って殴っていく。これは嫌われた。この寝具は一例であって、1号はさまざまな理由であちこち場所を指定してお達し”をやるから真面目な3(4)号はかけもちで殴られた。
以前校長が鉄拳制裁を禁止した時期があったと聞く。こうした行き過ぎから鉄拳制裁を批判する卒業生は少なくない。しかし見方によってはスカッとしていていい。私は肯定派の一人だが、禁止されて「腕立て伏せ50回!」などとやられるよりはずっとよかったと思っている。
鍛 錬
軍の学校だから身体は随分と鍛えられた。まずカッター訓練があり、しりの皮がむけるまでになるが、コツを覚えればそう辛い思いはしないで12本のオールがピッタリ揃い、カッターは海面をすべるように進む。朝起きぬけに“総短艇“の号令がかかったら海岸に走り、ダビットからカッターを下ろして乗り込み、沖のブイを回ってくる。真冬でも「厳冬訓練」があって漕いだ。年中行事の遠漕競技では1本のオールに2人がついて宮島まで10マイルを漕いだ。
水泳では8マイルの遠泳があった。江田島湾の入り口で向かい潮になって長いこと一向に進まなかった思い出がある。柔剣道、相撲、銃剣術、体操、広島県の原村に合宿しての陸戦訓練。年中行事である宮島の弥山登山。これも分隊対抗であるから一人の落伍者を出すわけにはいかない。学年には関係なく分隊一丸になって、どの競技においても優勝を目指したものだった。
土曜日の午後は江田島名物の棒倒しで、けが人も出たが、このときだけは上級生を殴ってよかった。
兵学校教育批判
卒業生の多くは最高の環境の中で学び、かつ鍛えられたことはすばらしかったと思っているが、もちろん批判、反発もある。たとえば米内海相の下で終戦工作に努めた高木惣吉少将(43期)は自伝の中で述べている。
「1学年生の間に総員制裁をはじめ数え切れぬ暴力制裁を受けたが、心から納得できた受難はただの一度もなかった。制裁も正当な理由がある過失ならともかく、敬礼が悪いとか、駆け足が遅いとか、掃除用の雑巾を物干し場に干したのを取り入れの時間に遅れたとか・・・いっては張り飛ばされた。雑巾の取入れなど当番だけではなく、連帯責任とやらで分隊の3号全部がビンタを食うのだからたまらぬ」
高木少将は「(自分は)ヤソかぶれの気味はあったが、思想面では少しマセていたのであろう」と断っているが、教育についても「教科書や学校配布の参考書以外の何も読ませないという硬直した教育、“勅諭の栞と銘打った神儒仏思想の不消化な教訓、文句の羅列、教頭や教官たちの思想、教養の単純さに呆れたのである」と手厳しく批判している。
校長の方針
校長によっては特色ある方針を打ち出した。戦後有名になった校長に井上成美中将(のち大将)がいるが、池田 清、青山学院大学教授(73期)は絶賛している。
「彼の存在を抜きにして江田島教育の本質は語れないであろう。・・・昭和17年、第40代校長として赴任したが、教育漫語と題する教官への講話集を部内に発表している。
この漫語を一貫する教育理念は50年後の今日の学校教育についても、なお貴重な指針を与えるであろう。(中略)優れた軍政家、井上は教育者としてもずば抜けた存在であった」
しかしジャーナリストの前田昌宏氏は人間魚雷、回天で戦死した仁科関夫少佐(71期)についての著書「回天の思想」の中で井上校長を酷評している。
「彼が短い期間に教官に与えた海兵教育方針なるものを瞥見すると、やはり適所を誤っていたと断言できる。(中略)彼は方針の中で言う。(中略)なんという消極的な、画一的で魅力に欠けた発想であろう。これでは美点よりも欠点のない”無難”な人物を作れ、と命じているようなものではないか。相手は女学生ではなく、明日は苛烈な戦場へ向かう海兵生徒たちなのだ」
これほど評価の分かれるケースも珍しい。井上中将は私たち72期の卒業前1年足らず校長だったが印象が薄く、また第1線から赴任してきた教官の間では評判が悪かった。72期にとって「われらが校長」は井上校長の前任者で性格が対照的な草鹿任一校長であるが、73−75期は井上校長に対して深い敬慕の念を抱いている。
成績主義
成績は学業、訓練、人物を総合評価して決められたが、学業の比重がかなり大きかったようである。自習室、教室で座る位置は前年度(1学年については入学試験)の成績順(うしろから前に順次)である。卒業証書を渡されるのも成績順であり、ハンモックナンバーと呼ばれて海軍にいる間ついてまわった。つまり士官になってからの勤務成績によってこのナンバーが大きく変わったことはあまりなかったようで、これは少なからず弊害をもたらしたと言われている。
むろん海軍士官全部の名簿もあって、人事はこの名簿のナンバーを重視しながら行われた。米海軍のように優秀とみたら何十人も飛び越させるような高級人事はなく、きわめて硬直した人事だった。
「5分前」と「言い訳するな」
兵学校で身についたものに、「5分前の精神」と「言い訳するな」がある。前者は読んで字の如し、で決められた時間、約束した時間にはその場にいるということである。後者についてはいささか問題がある。正当な理由があるから叱責は不当だと思って説明しようとすると「言い訳するな!」と一喝される。私は海上自衛隊に勤務したが、どうもこの「言い訳するな」にかなり影響されていたように思う。
これと多少関係があるかもしれないが、サイレントネイビーという言葉があった。いま仲間うちで話題になると、あれはよくなかった、陸軍のように海軍も主張すべきことは声を大にして主張すべきだった、という結論になる。
兵学校と皇族
明治天皇は明治6年、皇族は陸海軍に従事すべしと指示された。兵学校を卒業された皇族は次の通りである。以下、括弧内の数字は卒業期を示す。
北白川輝久王(37)、伏見宮博義王(45)、山階宮武彦王(48)、伏見宮博忠王(49)、久邇宮朝融王(49)、高松宮宣仁親王(52)、伏見宮博信王(53)、山階宮萩麻呂王(54)、伏見宮博英王(62)、朝香宮正彦王(62)、久邇宮徳彦王(71)
著名な卒業生
比較的、名前が知られている卒業生を何人か次に示すが、必ずしも立派だった卒業生というわけではない。数字は卒業期を示す。
山本権兵衛(2)、上村彦之丞(4)、斎藤 実(6)、八代六郎(8)、加藤友三郎(7)、山下源太郎(10)、佐藤鉄太郎(14)、鈴木貫太郎(14)、岡田啓介(15)、
財部 彪(15)、竹下 勇(15)、広瀬武夫(15)、加藤寛治(18)、谷口尚真(19)、大角岑生(24)、山梨勝之進(25)、野村吉三郎(26)、末次信正(27)、永野修身(28)、佐久間勉(29)、米内光政(29)、及川古志郎(31)、長谷川清(31)、嶋田繁太郎(32)、山本五十六(32)、吉田善吾(32)、豊田副武(33)、豊田貞次郎(33)、古賀峯一(34)、近藤信竹(35)、南雲忠一(36)、新見政一(36)、井上成美(37)、小沢治三郎(37)、栗田健男(38)、伊藤整一(39)、角田覚治(39)、宇垣 纏(40)、大西滝治郎(40)、山口多聞(40)、大田 実(41)、木村昌福(41)、草鹿龍之介(41)、高木惣吉(43)、黒島亀人(44)、小園安名(51)、淵田美津雄(51)、源田 実(51)、橋本以行(59)
五省とは
昭和7年、松下 元校長(31)は夜の自習(6時半から9時まで)が終わる5分前のラッパの合図で姿勢を正し、当番の生徒が(軍人勅諭5か条と)次の五省を読み上げるのを聞くように定めた。<BR>
1、 至誠に悖るなかりしか<BR>
1、 言行に恥ずるなかりしか<BR>
1、 気力に欠くるなかりしか<BR>
1、 努力に憾みなかりしか
1、 不精に亘るなかりしか
各自習室の前面の壁には東郷元帥の筆になる五省の写しが掲げられていた。目をつぶり当番の生徒が読み上げるのを聞きながら、一日を反省、自戒する。<BR>
「至誠に悖るなかりしか」
一人前の士官になるべく努めていた生徒であるから、まずこの項で反省は必要としなかったと思われる。
「言行に恥ずるなかりしか」
ウソ、ゴマカシは最も恥ずべきこととされた。先に述べたように1号が見ていようがいまいが、自分が該当したらいさぎよく叱責、制裁を受ける。
兵学校には日用品の売店があったが、現金は使わず備え付けの伝票に品名と名前を書いて置いておく。無人の新聞や野菜のスタンドと似ているが、1銭もちがったことはないと言われ、事実そのとおりだった。
「気力に欠くるなかりしか」
「不精に亙るなかりしか」
この2つも最下級生のときは反省の対象にはならない。気力に欠けたり、不精をしていたら、たちまち1号の雷が落ちる。反省が必要だとすれば、2号、1号になってからである。
五省が生徒の人格の形成にどれだけプラスになったか、なんとも言えないが、人それぞれであったろう。私自身は多少マンネリになっていたように思う。
五省と米海軍
昭和45年ごろ江田島を見学した米第7艦隊司令官、ウィリアム・マック中将(のち海軍兵学校長)は五省に感銘を受けて英訳を募集した。そして松井康矩氏(76)の英訳が当選し、賞金1000ドルとともにアナポリスの訓育の資とするという知らせがあったという。
至誠:Hast
thou not gone against sincerity?
言行:Hast
thou not felt ashamed of thy words and deeds?
気力:Hast
thou not lacked vigor?
努力:Hast
thou exerted all possible efforts?
不精:Hast
thou not become slothful?
昭和60年前後と思われるが、ある米海軍士官が江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を見学して米海軍協会の「プロシーディングス」誌に寄稿したが、その中で五省に言及している。
「幹部候補生の訓練の激しさと規律の厳格さに強い印象を受けた。・・・この規律の根源は、五省を中心とする過去の豊かな遺産である。・・・腰の短剣は姿を消し制服も完全に西欧風であるが、日常生活は海軍兵学校生徒が鍛錬を積んだ40年前ときわめてよく似ている。わずか2ヶ月前にはカナヅチだった候補生が夏の終わりには8マイルの遠泳ができるようになる」
そして五省の英訳を添えているが、上記の英訳の存在を知らなかったのかもしれない。もっともこの英訳の方が分かりやすい。
至誠:Have
I been sincere?<BR>
言行:Have
I been fair in my words and behavior?
気力:Have
I been enthusiastic?
努力:Have
I been energetic?
無精:Have
I been industorious?
五省のパロディ<BR>
卒業生である医師が作った老人向け五省
1、 姿勢に曲がるなかりしか
T、言語にもつれなかりしか
T、栄養に欠くるなかりしか
1、 歩行に憾みなかりしか
1、 頑固に亙るなかりしか
五省の現代的意義
当時の「至誠」は国家に対する無私の奉仕の精神を意味したと思われるが、現代においては自分の仕事と人に対する誠意、誠実さを意味していると考えたい。とりわけ人に誠実であることはきわめて大切であって、裏切るようなことは論外と言わなければならない。
言うまでもなく、「言行」は人間として常に自戒すべきことである。近年、官界、経済界、メディア、新興宗教などさまざまな分野でのスキャンダルをいやというほど耳にするが、恥じない言行をしていれば起こり得ないことばかりである。もし恥ずべきことをしている当人が恥じるという心を失っているとすれば、人間として失格であろう。
苦境にあるときはだれしも「気力」がなえがちであり、「努力」を重ねても重ねても成果が出ないと、ムダなことをしているのではないかという気持ちに陥りやすい。いわば人生の岐路にあるときに、いっそう気力を奮い立たせることができるか、さらに努力を重ねることができるかが分かれ目である。
「不精」は「至誠」などの項目にくらべれば随分と次元が低い感じを受けるが、私には一番身近な反省すべきことである。狭い書斎は乱雑を極め、何か探そうとするたびに一苦労する。もらったり自分で撮ったりした写真は2,3年分たまっており、そのうち整理しようと思いながらずるずると延ばしている。
ただ人から手紙や資料をもらったり、何かを頼まれたりしたときは、なるべく早く返事を出し、あるいは処理するようにしているつもりである。人に対して誠実であるためには当然なことと思っている。
五省は現代人にとって反省、自戒する上で貴重な示唆を与えていると言うことができよう。