7月1日
早や7月になった。67年前の昭和19年の7月はサイパンが玉砕、66年前の昭和20年の7月にはもう戦える戦力は殆どなく、僅か少数の潜水艦が行動していたに過ぎず、戦没者も僅か5名であった。
なにわ会だより第5号概ね纏って近く校正をお願いする。今回も36頁になってしまった。
戦没者・戦後物故者共になし。
7月2日
戦没者・戦後物故者共になし。
なにわ会だより第5号の原稿を印刷して校正担当に発送した。今回から深尾秀文君にもお願いすることにした。
7月3日
戦没者・戦後物故者共になし。
渡邉 望君から久米川英世君が7月2日、食道ガン
肺炎で逝去されたとメールをらった。
御通夜 平成23年7月3日(日) 1900〜、告別式 6月16日(水) 1200〜、斎場 クレリ芦屋ホールで行われる。細部別途メール、HPで流す。
謹んでご冥福を祈ります。
水交23年7・8月合併号を受領した。
呉水交会「海軍祭」「海軍の想い出」講師に元海軍大尉志満 巌会員と題した記事があった。
平成23年5月23日、会員63名が集まった会で上記講演が行われた。その中に、生徒の時、久邇宮徳彦殿下の剣道の練習相手をした話、生徒時代のクラブの話、1号の怖かった話、海兵団勤務中海軍省人事局に転勤を直訴して八雲に転勤した話等ユーモアとウィットにとんだ内容、飾らぬ態度は会員等から大拍手、大喝采を受けたとの記事があった。
7月27日第22回市来会で、講師左近允尚敏、演題「重巡洋艦熊野の奮闘とその最後」がある。
77期青木さんから先日の写真返送してもらった。
7月4日
戦没者なし。
戦後物故者
久武 博 昭和28年7月04日 逝去
昨日の訃報の告別式の月日を間違えて流しました。
上野君が間違いを指摘され訂正しました
1人の訃報があるとHPの次の所を追加し訂正しています。
1 亡くなった故人の訃報作成 2 23年訃報一覧
3 会員の現状 4 生存者名簿
5 物故者名簿 6 入学時の分隊別名簿と員数
7 TOP頁
そしてブロクに書きこみ、会員にメールで訃報を送っています。
いろいろあるのでチェック漏れが出てしまったので、これから充分気をつけます。
失礼しました。
7月5日
戦没者・戦後物故者共になし。
竹内あい子様(茂君の妻)から丁重なお手紙と多額のご寄付を頂いた。
5月の終りになにわ会のHPをみた台湾の方から次のメールを頂いた。
「初めまして。突然にご連絡申し上げる無礼をお許しください。
なにわ会のサイトを拝見し、伊藤先生にご教示願いたいたく、メールを差し上げました。私は台湾でドキュメンタリー影像の撮影・製作に従事する闢乳h萬と申します。現在、台湾の震洋特別攻撃隊に関するドキュメンタリーの撮影に向けた企画を進めております。
当地台湾では、台湾本島南部の屏東県恒春、西海上の澎湖島で数箇所の格納壕や兵営の遺跡が発見されたことで、ドキュメンタリーを撮影する方向で話が進んでおります。私たちとしましては、かつて台湾に駐在した震洋隊の隊員、および台湾の地元住民の証言を通じて、長年にわたって顧みられなかった歴史に光を当て、人々にそれら事実を知ってもらいたいと願い、準備を進めております。
これまでの台湾における初歩的な研究と調査を通じて、震洋隊の隊員であった人々が、台湾の屏東、高雄、澎湖などかつて駐在した場所を再訪したり、地元の人々と行き来や通信があったか否かなどの具体的な交流の記録が極めて乏しく、最近では日本で情報収集する必要性を痛感しております。
調査の過程において、なにわ会のホームページにある「震洋特別攻撃隊の概要」に行き当たり、サイト管理人であられる伊藤正敬先生に、震洋隊の隊員だった方たちとの連絡方法などでご教示、もしくはアドバイスを願うことはできないかと思い至り、失礼を省みずメールを差し上げた次第です。
私どもは、純然たるドキュメンタリーの撮影・製作を企画するもので、隊員各位の証言や記憶を、忠実に後世に伝えたいと願っております。ご助言、ご協力願えますれば幸甚です。
はなはだ突然な話で、驚いておられることと思います。失礼、不行き届きのところは、なにとぞご容赦くださいますようお願い申し上げます。」
これに対し、台湾のお震洋で終戦を迎えた会員に尋ねて本人の了解を貰い、和田恭三君と若松禄郎君を紹介した。
その結果、先方から若松君にいろいろお願いしたいと要旨次の丁重な手紙が来た。
『 平成24年3月までに震洋特別攻撃隊に関するドキュメンタリフイルムを撮影する。
日本を訪れて若松先生に撮影計画を説明し、お考えを聞きたい
日本を訪問することに着いて若松先生のご都合を聞きたい。』
7月6日
戦没者なし
戦後物故者
大岡要四郎 平成01年7月06日 逝去
都竹 卓郎の「大岡要四郎君を偲ぶ・その戦歴と人生」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-oooka-tuduku1.html
冨田岩芳君のお別れの会が7月5日午前11時30分から東京・帝国ホテルで、
喪主は長女、林明子さんで行われ、左近允尚敏君が参加してくれました。
数百人の集まりで献花と遺族にご挨拶をしたそうです。
7月7日
戦没者
19.7.7
里村 保(玉波 駆逐艦) マニラ南方で船団護衛中、敵潜の雷撃を受け沈没戦死
桂 理平の「里村 保少尉の想い」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-satomura-katura1.html
70期 森田 禎介様の「里村章・保兄弟のこと」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-satomura-morita.html
鈴木 満男(薄雲 駆逐艦) オオツック海で船団護衛中、敵潜の雷撃を受け沈没戦死
戦後物故者
佐藤孝之助 平成02年7月07日 逝去
小沢 尚介の「佐藤孝之助君逝く」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-satoukounosuke-ozawa.html
なにわ会だより第5号の校正、窪添龍輝君から返却された。
7月8日
戦没者
19.7.8
今井 義幸・上原 庸佑 55警 警備隊 サイパン島 敵上陸部隊と交戦後玉砕
白根 行男の「今井義幸の墓標について」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-imai-sirane-osimoto.html
白根 行男の「今井義幸供養の記(久米川英世君に対する返信)」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-imai-sirane.html
故上原庸佑が「昭和19年南の孤島より父上へ送った最後の手紙」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/iboku-ueharayousuke1.html
横川 康春様の「サイパン島に兄を偲ぶ」の記事 ↓ がある。「
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-uehara-yokogawa-saipan.html
7月9日
戦没者
66年前の昭和20年7月9日
上嶋 逞志 戦407 戦闘機
大村湾 B−29迎撃のため出撃、敵機と交戦戦死(紫電)
戦後物故者なし
先月ブログに掲載した年賀画文集を上手に纏めてA4判に編集されて椎野廣君から頂いた。
とても綺麗に出来ていて椎野君から送付された方にも喜んで抱いているそうです。
HPのネットで見つけた会員の記事をチェックし、生存会員と戦没、物故会員に分けてつくりなおしました。案外知らない期友の事を発見しました。
7月10日
戦後物故者
松崎 修 平成03年7月10日 逝去
白根 行男の「松崎君に捧げる言葉」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-matuzaki-sirane1.html
田中 春雄の「松崎 修君を偲んで」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-matuzaki-tanaka1.html
小松崎正道 平成11年7月10日 逝去
伊藤 正敬の「小松崎正道君を偲ぶ」の記事 ↓ がある。
泉五郎君から三好文彦君企画の九州旅行会があったが、その記事ニュースで捜したいが分らないかと電話をもらった。
なにわ会HPには索引目次がある。(ニュース目次その1とその2が目次の所にある。)
その1を見たらクラス会の(16)なにわ会旅行の「島原 長崎 佐世保の旅」という題で三好文彦君と山元 奮君が書いた記事が出ていた。早速ニュース60号で見たらその記事が出て来た。
105部にもなる会報から捜すのは大変である。この「なにわ会HPの索引目次」昔の記事を捜すのに活用して欲しい。
ネットで見つけた会員の記事からその幾つかを抜粋していきます。
最初に新庄 浩君が桜木町事故で助かったことです。
「昭和26年4月24日、横浜市の国鉄桜木町駅で、電車車両の火災が起き、たくさんの人が亡くなるという大惨事が起きました。いわゆる「桜木町事故」です。
この日、新庄浩さんは、事故直前一両目車両の吊皮につかまりながら前日の寝不足でうつらうつらしていました。突然パンタグラフから火の玉が落ち始め、車両の木製天井が燃えだしました。みんな争って2両目に逃げようと、扉に殺到します。新庄さんはとっさに吊皮につかまったまま、器械体操の選手のように体を振幅させ、目の前の窓ガラスを両足で蹴破り窓枠から脱出し地面に飛び降りて助かりました。
詳しくはhttp://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/7562f58cef663c445b4b9b24dc9cf1ffを見て下さい。
7月11日
戦没者・戦後物故者共になし
安藤 昌彦君について
修猷館中学から高崎孝一君と共に72期に入学した安藤君。卒業後、飛行学生(41期)となり、水上機搭乗を希望、昭和19年7月、飛行学生を卒業。第453海軍航空隊に配属、後に第936海軍航空隊に統合され、海上護衛総司令部の隷下として終戦まで水上偵察機専門の部隊で偵察、対潜哨戒、船団護衛等の任務を全うする。とりわけ零式三座水偵の搭乗員として、当時、最新であった磁器探知機を装備した機材で、対潜攻撃を専門とする。主な作戦地域としては、台湾、香港、海南島三亜、カムラン、サイゴン、ペナン、マラッカ、ルムト、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤ、パリカンゲアン等。広大な地域を飛行したので、『JALパック』であったと自称する。昭和20年2月、仏印(現ベトナム)カムラン湾にて敵B−24爆撃機に撃墜されるも、泳いで島へたどりつき生還。
スラバヤに於いて終戦を迎えた後、レンバン島捕虜収容所の連絡将校として任務にあたり復員。
2010年09月26日、安藤君が行った講演に次の内容の記事があった。
『今の日本をどのように思われますか?」との問いに、安藤さん「平和に暮らすために『平和、平和』って言っているけど、丸腰でそんな事言ったってしょうがないでしょう。それを言うならもっと守りを固めなきゃね。」。更に続けて、「当時は一回の飛行でも、それこそ死を覚悟で戦闘飛行なされたと存じますが、正直、軍の中でも逃げ出したり、またその様にあまり前向きではない方とかも実際はいらっしゃったという意見も一部ではある様なのですが、その辺りはいかがでしたでしょうか?」安藤さん「そんなのいる訳ないじゃない。戦争しに来てい」るんだから。一人もいませんよ。みんな国の事を考えてましたよ。」事実を事実のまま伝えていく事が大切ですね。』
次の記事もあった。
『水上偵察機は磁力を元に潜水艦などを探すとのことで、水蒸機内には金属は持ち込めないとの事でした。任務で一番の苦しみは、拳銃を持ち込めなかったということです。この拳銃は、敵を撃つためのものではありません。万が一、敵の捕虜になった際、自害するためのものだということです。捕虜になって拷問される苦しみ、国家を危険に陥れるくらいならば、自害を選ぶというのが当時の当たり前の感覚だったということが分かりました。
この拳銃を持ち込めないので、上官にお願いし青酸カリを持たせてくれとお願いしたらしいのですが、上官は必ず手渡しで戻しに来いということを条件で渡したとのことです。
7月12日
戦没者なし
戦後物故者
鈴木 脩 平成18年7月12日 逝去
泉 五郎の「鈴木 脩君への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-suzuki-izumi1.html
鈴木 脩さんを悼む
山田 穣の「鈴木 脩さんを悼む」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-suzuki-yamada1.html
山田 良彦の「脩 さん へ」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-suzuki-yamadayosihiko1.html
都竹 卓郎の「真にネイビーらしい男との永別」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-suzuki-tuduku1.html
HPで見つけて会員の記事に次の池田 武邦君の記事がある。
1 池田武邦君の慰霊祭追悼文があった。
2 池田武邦君の年譜
3 長崎総合科学大学工学部建築学科主催の池田武邦君の最終講義
4 千葉商大の池田武邦君の講演「超高層ビルの光と影
5 JIAの建築家達 池田武邦
6 環境問題を柔らかく考えるという池田武邦を紹介
7 「池田武邦の戦後」に
8 日本初の超高層 霞ヶ関ビル設計についての池田武邦氏の講演会
9 巡洋艦"矢矧"の青春」と題した建築家
池田武邦さんのお話
以上多数の記事がネットにあった。
7月13日
戦没者・戦後物故者共になし
深尾 秀文君から5号の校正が返送されて来た。
HPで見つけて会員の記事に次の大槻敏直君と国本鎮雄君の記事がある。
大槻敏直君の紹介として「大槻材木店の紹介」がある。
国本 鎮雄君の次の記事がある。
1 戦艦大和の生存者
2 米軍の水先案内の記事
3 大和出撃の本
4 国本耳鼻咽喉科の紹介
7月14日
戦没者なし
戦後物故者
伊藤 孝一 平成19年7月14日 逝去
佐々木哲男の「伊藤 孝一君を偲んで」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-itou-sasaki1.html
HPで見つけて会員の記事に次の小西愛明君の記事がある。
3度沈没した潜水艦 伊33潜
伊号第33潜水艦の番号は不吉な数字3の重なった艦である。伊号33潜は昭和17年(1942年)神戸三菱造船所で完成した巡潜乙型である。全長108.7メートル最大幅9.3メートル、基準排水量3654トン、水上速力23.6ノット、水中速力8ノット安全潜航深度100メートル、水上航続距離は16ノットで14,000海里、航空機1機を搭載する新鋭潜水艦であった。
同艦は竣工後直ちに呉鎮守府籍となり第六艦隊第一潜水隊第十五潜水隊司令潜水艦としてガタルカナル作戦にも参加後、トラックに入港したが途中リーフに衝突したためトラック環礁内で特設工作船浦上丸に横付け修理中のところ、係留索が切断して艦尾ハッチから浸水して船尾トリム30度の仰角の状態で深さ36メートルの海底に沈没し航海長以下33人が殉職した。これが第一回の沈没事故である。
同艦は来援した横須賀海軍工廠の救難隊が浮上作業を行ったのであるが、排水作業で艦の前部が水面に出たころ艦橋のハッチ蓋が吹き飛び再び浸水し再度沈没したのである。(第2回沈没)
その後空気排水によってようやく浮上に成功し呉海軍工廠に曳航され昭和19年5月修理工事が完了した。同艦は和田睦雄少佐が艦長として他103人と乗り組み伊予灘で訓練を始めた。
翌6月1日第六艦隊第十一潜水隊に編入され、同月13日午前7時、愛媛県郡中港沖合いを抜錨し訓練海域の伊予灘由利島、青島間に向かったのである。08時40分ころ和田艦長は急速潜航訓練を行うことを乗組員に告げ、水雷長平沢大尉が哨戒長となって指揮した。 艦橋からの同大尉の「両舷停止、潜航急げ」の号令で艦橋の哨戒員たちはラッタルを伝わって滑り降りてゆく。最も機敏さが求められる艦内突入訓練である。各ハッチの受け持ち部員は閉鎖にかかり直ちに排水筒、吸気筒の全部が閉まった青ランプが点灯したことを確認した和田艦長は「ベント(空気抜き)開け」の号令を発した。艦が20から30メートル潜航したころ、機関室から「吸気筒より浸水!」の悲痛な声が伝わった。およそ3,4人がかりで閉じたが浸水は止まなかった。 このとき司令室では一時機関室隔壁を閉鎖して浸水を防ぎ浮上しようかという措置もとりかけたが機関室には乗組員の半数が居る。これを見殺しにすることができないとしたことが最悪の事態となったようである。浮上に必要な空気はなくなり、艦は艦首を上方にして45度くらいの仰角で沈下し、深度計は60メートルを指して艦は水平となった。着底したのである。しばらく後、艦はゆらぎ、メインタンクのブローが効いたのか
再び艦首が浮き上がったアップの状態となったが深度計は12メートルを指して止まってしまった。司令塔下部の発令所にも浸水し、司令塔内の気圧は目玉が飛出すほどに上昇した。電源を失い艦内照明は消え、艦内の連絡も杜絶えてしまったのである。
和田艦長は指令搭員だけでも助けようと「ここにいても死ぬだけだ。ハッチを開けて脱出すれば万一助かるかもしれぬ。死ぬつもりで外にでよ。もし一人でも助かったなら、遭難の状況と原因を報告してくれ」と脱出の順番を告げた。第一番は信号長の横井徳義兵曹で脱出装置から艦長を除く司令室の全員が次々に脱出した。 浮き上がった者たちは泳ぎ始めた。しかしそのうち一人、二人と波間に消え、3,4時間後、由利島に向かって泳いでいた小西愛明少尉、岡田健市一等兵曹、鬼頭二等兵曹の三人だけが付近を通りかかった西条の漁船に救助された。
(以下略)
7月15日
戦没者・戦後物故者共になし
重巡矢矧艦長原為一氏の「帝国海軍の最後」が復刊され、出版社の牧元様から寄贈された。
豊廣 稔君の証言記録 「兵士たちの戦争]“ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜の記事(録音) ↓ がある。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100579_00000
7月16日
戦没者なし。
戦後物故者
佐原 進 平成01年7月16日 逝去
日野原幹吾の「佐原 進君への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sahara-hinohara1.html
山田 穣君の証言記録「証言記録 兵士たちの戦争]人間魚雷 悲劇の作戦 〜回天特別攻撃隊の記事(録音)がある。直接出てこないので、NHK ONLINEの上の方の検索の所に「戦争証言 山田 穣」といれて下さい。
7月17日
戦没者
19.7.17
平田 義光 神ノ池空 戦闘機 神ノ池 高高度飛行訓練中、酸素吸入器故障失神し、墜落殉職(零戦)
戦後物故者
柴田 英夫 平成22年7月17日 逝去
栃木の防衛協会定期総会に会長の和田恭三君の記事 ↓ がある。
http://www.boueinews.com/news/2004/20040715_7.html
都竹卓郎君から校正が返送されてきた。これでなにわ会だより第5号の原稿が全部纏った。これから最後のチェックをして印刷し、印刷屋に発注する。
7月18日
戦没者・戦後物故者共になし
兵76期の会報(H23. 7. 1発行)生徒館 第133号を頂いた。その中の記事から。
1 23年度東京台場全国総会・懇親会 23年10月4日
2 24年度 総会・懇親会 24年10月17日 於いて名古屋
3 25年度 総会・懇親会 未定 於いて東京
4 期会の終結 26年6月30日
5 会 報 年2回発行 26年3月最終号となる。
6 会員の最終名簿 26年3月末発行予定
7 会員の現状(H23.5.30)
卒業生3,578名 死亡者1,598名生存者1,980名 生存率55.3%
会費納入正会員1007名
7月19日
戦没者・戦後物故者共になし
なにわ会だより第5号の原稿を送り印刷屋に発注した。
7月20日
戦後物故者
冨士 栄一 昭和60年7月20日 逝去
冨士 榮一については、相澤善三郎、山田 穣、中川 好成、小灘 利春、三笠 清治、大谷 友之、山根眞樹生、和田 恭三、澤本 倫生、白根 行男、押本 直正、田中 春雄、畊野 篤郎、若松 禄郎、加藤 孝二の15名の記事がある
大山 裕正 平成20年7月20日 逝去
ブログの訃報で流したように三好 文彦君が亡くなった。心からお悔やみ申し上げます。
この件について泉 五郎君から次のメールを頂いた。
『三好文彦君追悼
奥方から三好君の容態が余り芳しくないとの知らせがあつたのは、7月8日の昼前である。お互い年齢のことを考えると何があっても可笑しくない年頃である。然し今までもちょくちょくご本人とは電話でおしゃべりしていただけに、覚悟はしていても矢張りこんな便りは嬉しくない。
嬉しくないのは自分自身も五十歩百歩、このところ一日の三分の二は概ね寝ている有様で、此の梅雨時は特に持病のリュウマチが悩みの種である。尤もこちらは何とか減らず口だけは叩いているが、そろそろお手上げが近いことは間違いない。クラスの訃報も益々増える一方ではあるが、それも年齢を考えれば当然のこと。とは云うものの特に親しかつた友の訃報は誠に嬉しくない。考えて見れば三好君とは潜校以来の交友で、潜校学生時代の思い出は特に懐かしい。休日には大竹潜水学校のから遥々呉まで遠征したものである。休日には大竹から呉まで大型の連絡艇が用意されたが、都合で出ないときには宮島から広島経由で呉まで満員列車で往復した。
在校中は堅物小心の元一号の指導官付には目の仇されたが、呉のレスでは大いに「芋を掘つて」鬱憤晴らしをしたことなど、今更当時のご乱行振りを思い出すと懐かしいやら恥ずかしいやら。
もっとも三好君は当時から悠揚迫らず、流石教育者の家庭に育つただけあって品行方正、しかも我々と違って文人墨客、大人の風格があつた。
ところで元々私は兵庫県三田の出身であつたが、終戦後早々と東京・千葉へと居を移した。逆に三好君は九州朝日放送に入社、そしてある時期関西勤務で尼崎に居住していた。当時はゴルフブームの真っ最中で私なども関西まで遠征、私の兄なども一緒にゴルフのお供をしたが三好君のゴルフは誠に大人君子の風格があつた。
そのうちゴルフの他にもクラスの旅行会も始まった。昭和63年秋クラスの大勢が奥方同伴で参加した九州旅行は、三好君ご夫婦の素晴らしい企画に誰もが楽しい思い出となったに違いない。
なにわ会ニュース60号には三好、山本奮両幹事名で旅行記も掲載されているが、私にとって本当に思い出深い旅行になった。
実は小生海軍に入りながら、現役時代には佐世保に入港したことがなかつた。ところが最後の乗艦伊369潜とその前の乗艦呂59潜は共に、終戦後米軍の命令で佐世保に回航、その両艦が同じ桟橋に並んで繋留されている写真が最近刊行された「写真集・日本の軍艦」に掲載されている。
そしてその後佐世保沖で撃沈処分された。懐かしいというより情けない気もするがその話はさておいて、三好君のお陰で由緒ある昔の海軍料亭「山水楼」にも宿泊することが出来た。その他中学時代の修学旅行で訪れた霧の雲仙岳の風景など思い出は尽きない。然し今、改めて当時の写真を引っ張り出してみると余りにも幽冥境を異にした友の多いことに愕然とする。「人生七十古来稀なり」とう言葉は既に死語同然とは言いながら、流石に米寿ともなると矍鑠たる「同期の桜」は数少ない。お元気そうなのは奥方ばかりである。どうも男は空威張りばかりで生物としては女が主役のようである。他人様のことを言えた義理ではないが、三好君も良妻賢母の見本のような好伴侶にめぐまれ、悠々自適幸福な人生の後半生であつたことに間違いない。
然しこれで結構々々! 三好君も同感に違いない。
ところで甚だ私事にわたるが、なんといつても三好君とのご縁は私の長男がキリンシーグラムに入社、福岡に勤務していたころ、三好君ご夫妻のお世話で結婚話が纏まったことです。お陰でその後格別のお付き合いをさせて頂くこととなった。三好君ご夫妻と両家の親たち等総勢7名でトルコへ旅行、そのときの楽しい思いでなど、ついこの間のように思われるが、その初孫もすでに社会人!こんな家族ぐるみの三好家とのお付き合いも既に1/4世紀に及ぼうとしている。それだけに三好君の逝去はなんとも残念の一言、今はただ衷心より故人のご冥福をお祈りするばかりである。 平成23年7月19日』
7月21日
戦没者・戦後物故者共になし
7月22日
戦没者・戦後物故者共になし
7月14日にブログに書いた『3度沈没した潜水艦 伊33潜』の記事を山本省吾君が印刷して小西愛明君に送ってくれた。それを見た小西君が電話を呉れたので、HPにあった全文を印刷して小西君に送った。それを見て彼からお礼の電話をもらった。
7月23日
戦没者なし
戦後物故者
清水 尚 平成22年7月23日 逝去
7月24日
戦没者
19.7.24
児玉 巌 鬼 怒 巡洋艦 マレー半島 デング熱発病、第101海軍病院に入院加療中尿毒症併発、戦病死
戦後物故者なし
左近允尚敏君が新人物往来社から『ミッドウェー海戦「運命の5分間」の真実』を出版した。
目次は次のとおりで、定価 本体1800円+税 295頁の本である。
第1章 開戦までの日米関係
第2章 開戦から珊瑚海海戦まで
第3章 会敵まで
第4章 戦闘開始
第5章 三空母炎上
第6章 「飛龍」の戦闘と作戦の中止
第7章 「三隈」の沈没
第8章 アメリカの戦史家の評論
第9章 ミッドウェー海戦を考える
この本について次の書評があったので紹介する。
『 細かいことを言い出せば、あれこれ突っ込みどころはあるものの、変にマニアックな記述ではないので、本海戦に関して限られた知識しかない人でも読み進められるだろう。特に第1章「開戦までの日米関係」は飛ばして第2章や第3章から読みだしてもよいと思う。
特に作戦準備、会敵、戦闘、その後、などについてそれぞれ日米の行動の時系列の対比表や図が付けられているのは初心者だけでなく、マニアにとっても便利で親切な気配りだ。
本書の仮題が「アメリカから見たミッドウェー海戦」であったように、多くの米側の資料を使っていることは、読者に新しい視点を提供するものだろう。ただ不満なのは、米側の研究や資料などが2000年ごろまでのものに限られていることだ。唯一、ダラス・アイソム(著者はイゾムと表記)の「ミッドウェーの審判」(2007年)が挙げられているが、これも元々は「米海軍戦争大学紀要」2000年夏号に掲載されたものと違わない。)その後何冊もの「重要な書籍」が出版されている。また「運命の五分間」の真実と表題にあるにもかかわらず、この点につて掘り下げが簡便に過ぎている。(旧海軍「海兵72期卒」の著者にとっては難しいところなのだろう。)』
7月25日
戦没者 66年前の昭和20年7月25日
甲斐田信之(2哨戒艇 哨戒艇)
ジャワ島東方海面 敵潜と交戦、被雷して沈没戦死。
戦後物故者なし
なにわ会だより第5号の校正、印刷屋から送って来た。随分原稿読み返したけど、まだミスがあった。今度は少し早く完成するかも。
74期訃報
田中 寿 様 (1学年 44分隊)
平成23年7月21日逝去
7月26日
戦没者 66年前の昭和20年7月26日
岩村 舒夫(霞ケ浦空 艦爆操)
千歳から美幌に彗星空輸中、エンジン故障第二千歳基地に不時着、殉職(彗星)
戦後物故者
松原 義人 平成01年7月26日 逝去
中村 元一の「松原義人君への弔辞」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-matubara-nakamura1.html
横田 敏之の「松原 義人君の死を悼む」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-matubara-yokota1.html
新刊紹介
先日このブログで紹介した左近允尚敏君著作の『ミッドウェー海戦』が昨日送って来た海上自衛隊新聞(7月22日発行)に紹介されていた。その記事は次のとおりである。
敗因立体的に分析 ミッドウェー海戦「運命の5分間」の真実
左近允尚敏・著 新人物往来社・発行
ミッドウエー海戦における大敗が、その後の太平洋戦争の日米海軍の攻守を逆転させ、その後の消耗戦に耐えられず、帝国海軍は壊滅への道に陥った。その大きな要因は「運命の五分間」だと広く信じられている。ミッドウエー島攻撃用の爆弾から空母発見に伴う対艦攻撃用魚雷への換装が間に合わず、敵空母艦載機の攻撃で大被害を受けたが、あと五分あれば全機発進して敵空母群に攻撃を加え、形勢は大きく異なったものになったであろう、というものだ。しかし、本書ではそれは事実と異なることを双方の証言等を基に検討する。
本書で著者は、同海戦の敗因をより広<、より大きく捉えている。それは、ロジスティックスの不備であり、通信情報の解読能力の差であり、大艦巨砲主義への固執、情勢把撞の共有、さらに人事管理・配置の合理性など、これまでも指摘されることの多い帝国海軍の病理が複合的に作用した結果と分析している。
「開戦までの日米関係」から書き起こし、七章に分けて彼我の文献を照合しつつ、各局面を分析、主要局面では日米の動きを時系列で対照できる表や対勢図などを駆使し、分かりやすく解説している。
著者の結論は、ミッドウエー海戦は「負けるべくして負ける海戦」ではなく、これら要因のいずれかが逆になっていたら状況は大きく変わったものになり、主要指揮官の判断と決断が適切であれば勝利できた海戦だった、とする。(四六判・二百九十五頁、定価・千八百円=税別)
7月27日
戦没者なし
戦後物故者
入江 久憲 平成06年7月27日 逝去
三好 文彦の「入江 久憲君を偲んで」の記事 ↓ がある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-irie-miyosi.html
石黒 広 平成13年7月27日 逝去
70期の森田禎介様からお手紙と写真を頂いた。森田先輩はもう卆寿を迎えられたのにお元気で名古屋でいろんな会に参加されている。お手紙によれば、今年の6月17日のゴルフ大会でグロス93、HD28、ネット65で優勝されています。私などもう100は切らなくなっていますのでグロス93は素晴らしいと驚いています。お手紙の中からいくつか紹介させて貰います。
1 会社関係や特に海軍の若いクラスの方々との交流が生きる支え、生きるちからとなっています。いろんなグループからお声がかかり、懇親会、ゴルフ会、囲碁会、飲み会等々にいそいそと出席しています。
昨日の海の日には当地の予科練甲飛13期会に呼んで頂きました。その時の写真です。
この帽子は加藤孝二君愛用のものです。
3 毎朝{なにわ会ニュース}と74期の「江鷹会の談話室」見るのが楽しみです。
4 信州の諏訪温泉や中山道のなら丼の宿や故郷筑後柳川を訪ねました。そして海軍記念日には博多の祝賀会に参加、20名の大盛会でした。
以上一部抜粋して紹介しました。
7月28日
戦没者なし
戦後物故者
角田武之助 昭和53年7月28日 逝去
和歌山県のMさん(44歳)の方からメールを頂いた。
Mさんは『伊号第401潜水艦』の模型を製作して居られます。次の様な大きな模型です。
なにわ会のHPを見て、401潜に関する情報を欲しくて頂いたメールです。
この型の潜水艦には、伊400潜には名村英俊が通信長、吉峰徹(平成17年逝去)が飛行長として乗艦していました。
伊401潜には矢田次夫が砲術長として乗艦いました。
伊400潜と同型に伊13、伊14があります。
伊13潜には鈴木脩が乗艦していましたが途中で転勤して終戦時は同艦に乗艦していませんでした。伊14潜には高松 道雄が乗艦していました。
Mさんのメールを高松道雄君に転送して、彼の返事を待っています。
7月29日
戦没者 66年前の昭和20年7月29日
伊藤 国輔 伊165 潜水艦
サイパン東方海面 20.6.15回天特別攻撃隊轟隊の一艦としてマリアナ方面に向け光基地出撃以後消息を絶つ(戦死認定)
(基地哨戒機の攻撃により20.6.27沈没:米軍資料)
戦後物故者なし
なにわ会だより第5号の再校受領。これで印刷される。
池田武邦君から電話あり。今年逝去したものを知らせた。
27日のブログに書いた森田先輩から次のメールを頂いた。
『なにわ会ブログに掲載していただき汗顔の至りですが 有難うございました。なお、博多での海軍記念日の祝賀会 講師は池田武邦さんで約一時間、とても好いお話をされました。三好文彦氏も出席されていましたよ。池田さんの音楽家のご令息が隣の席で、いろんな話で盛り上がり楽しい会合でありました。』
7月30日
戦没者なし
戦後物故者
西山 興作 昭和26年7月30日 逝去
7月31日
戦没者 66年前の昭和20年7月31日
片山 務 伊351 潜水艦
ボルネオ沖 20.7.11内地への作戦輸送のためシンガポール発、以後消息を絶つ(戦死認定)
(浮上航行中米潜水艦ブルーフィッシュの雷撃により 20.7.14沈没;米軍資料)
戦後物故者なし