TOPへ   ブログ目次    

なにわ会のブログ 22年10月


101

 今月はレイテ作戦で日本海軍が壊滅した月です。早速齋藤義衛君が回顧記事を投稿していただきました。

さて、昨日は故河合不死男君の残された写真集の写真をご遺族の加藤康人様から送って頂き、HPにとりこみました。説明書きもありましたが、これは後ほど書き込みます。

東京クラス会の出欠

 出席 新庄 浩 累計 28

 欠席 岸本一郎

佐伯物語第四章 無敵海軍 を取り込んだ。あと第1章から第3章まで取りこめば完成です。

 

102

昨日は齋藤義衛君が素晴らしい回顧記事を書き込んでくれて当時の事を思い出して、亡くなった戦友の事を思い冥福を祈った。

昨日取り込んだ回天関係の写真について分る範囲で説明を加えた。

東京クラス会の出欠

  出席 足立英夫 累計 29

 

日サイパンで戦死した今井義幸君の従兄弟の方から、なにわ会HPのおかげで今まで分らなかった従兄弟の今井義幸さんの事が分ったと次のようなお礼のメールを頂いた。

『私は、稲葉秀和と申し、故今井義幸さんとはいとこになります。今般長年の勤務を終えるにあたり、家系を調べていたところ、偶然貴会のホームページから、義幸さんのことを知り大変驚きました。子供の頃、母から、義幸さんは海軍兵学校に行っていたこと、夏休みには家(祖母と同居)に帰ってきていたこと、戦艦伊勢に乗艦していたこと等を聞いていました。遺骨(昭和二十年五月三十日戦死)が帰ってきたとき、祖母がすぐにお寺に納骨をし、その祖母も昭和二十一年十一月に死亡してしまったためお寺の場所、名前も分からないままになってしまいました。

十五年位前に、江田島の兵学校の資料館に見学に行ったときに、義幸さんは、昭和十九年七月八日サイパン島で戦死したとなっており、国から通知のあった戦死日と違っていることを知りびっくりしました。

今般、戦友の方々の「今井義幸の墓標について」、「今井義幸供養の記」を拝読し、お寺が分かり、また、初めて人柄等も知ることが出来ました。

早速本日(十月一日)墓参しましたが、すでにお墓は無く、お寺のご夫人も住職の代が替わっていて何も分からないとのこと、残念ながらお寺の無縁墓に供養してまいりました。

もっと早く知っておれば、との思いもありますが、何も分からないよりはよっぽどまし、本当に有難うございました。』

 

03日の戦没者 66年前 昭和19

武田昌男(302空 戦闘機) 神奈川県で飛行訓練中、機関故障降下中、高圧線に触れ墜落殉職(雷電)

内山敬三郎(戦309 戦闘機)バリックパパンで敵B−24の編隊に突入、3号爆弾で数機を撃墜後被弾し、敵機に突入戦死(零戦)

 

有志会員のAさんから上の写真つき、次のメールを頂いた。

「8月に鹿児島の阿久根市折口というところにある、戦闘407の林喜重大尉(69期)の慰霊碑にお参りに行ってきました。同じ場所に、戦闘407の戦没者の名前が刻まれた石碑も建立されていて、72期の川端さんや大塩さんのお名前もありました。
 慰霊碑は、浜のそばの藪の中のような場所にありましたが、新しいお花も供えられていて、手入れはきちんとされているようでした。」
川端 格君(戦407 戦闘機)は2054喜界島に向かう途中、南西諸島周辺F630機と交戦戦死(紫電)しており、大塩貞夫君(302空 戦闘機) 20812佐世保上空で本土来襲の敵機迎撃のため基地出撃、これと交戦被弾、墜落戦死(紫電)している。ご両人の冥福を祈る。

山本昭彦様の佐伯物語全文なにわ会HPに取り込みました。

そして山本様から書籍化した時の巻末に記載される御礼の言葉を送っていただきました。

次に転記します。

『 海軍兵学校七十二期と、同年次の海軍機関学校五十三期の皆様で結ばれている同期会「なにわ会」様からは、拙作の執筆にあたりましてまことに多大のご教示を頂戴いたしました。心から御礼申し上げます。

 都竹卓郎様、畠中和夫中尉お父君賢一郎様、またご寄稿の藤川正視様については、特にご尊名を作品中に引用させていただきました。謹んで御礼を申し上げます。

 伊藤正敬様 樋口直様 岡野武弘様には特に親しくご指導を賜りました。重ねて深くふかく感謝の意を捧げます。

 第一〇二号哨戒艇の項におきましては同艇乗務の近藤弘様から、貴重な資料のご提供と、懇ろなご教示を頂戴いたしました。あらためて篤く御礼申し上げます。

 佐伯市小野富酒造様には、「天下無敵」について書かせていただくにあたり、温かいご理解を賜り、またまさしく「蔵出し」のエピソードなどもお聞かせいただき、感謝に耐えません。

「天下無敵」は筆者生涯の愛飲銘柄とさせていただきます。これからも旨い焼酎づくりをよろしくお願い申し上げます。

 

104

 有志会員のAさんのブログを毎日見ているのですが、実によく書かれています。海軍航空にとても興味を持っておられて関連記事が随分あります。

 そしてなにわ会のHPやブログもよくお読みになっておられるようで、関連記事も随分あります。そのブログは20のカテゴリーに分けられていますが、一番多いのが日記、次が子供、3番目が海軍です。

先日ブログ内検索と言うのを設けられました。「なにわ会」を入れて検索したら59件でてきました。とても重宝ですので、なにわ会ブログでもブログ内検索を設置してみたいと思います。

『その中にあった私の85歳の誕生日に書かれた次の記事を転記します。

伊藤正敬(まさよし)大尉

階級は終戦時、写真は少尉時代 
大正12年(1923)広島生まれ。東京・攻玉社中学出身。海兵72期。 
海兵卒業後、戦艦「山城」(実習)、航空母艦「隼鷹」、重巡「羽黒」、駆逐艦「楓」、終戦。 
戦後、一時、海を離れられ悶々とされたようですが、お父さんもお兄さんも海軍士官、呉、佐世保、横須賀で育った伊藤さん。やはり生まれながらの海の男だったのでしょうか、奥様のご実家の清涼飲料水製造販売を手伝っておられたそうですが、どうしてももう一度海で働きたい気持ちに駆られ、家族の反対を押し切って海上自衛隊に入隊され、落ち着かれてから奥様を無事呼び寄せられたということです。 
防大教官、護衛艦艦長、司令などを歴任され、昭和53年(1978)海上自衛隊退職。
平成2年(1990)まで国士舘大学勤務。 
↑あれ? ママがめずらしく艦隊勤務の海軍さんのことを書いている、と思われる方もいるかもしれません。タイトルには終戦時の階級で書いていますが、時々コメントを下さる伊藤正敬さんのことです。
 上に経歴を簡単に紹介しましたが、伊藤さんの場合、現在の活動を紹介したくて書いているので、ずいぶん端折ってしまいました、失礼しました。
 伊藤さんは、海軍兵学校72期・海軍機関学校53期・海軍経理学校33期の同期の会「なにわ会」の会報の編集を担当されています。と同時に、なにわ会のホームページ、なにわ会のブログを開設し、若くして戦死した同期生たちの事蹟を語り継いでいくとともに会員の情報交換の場の維持に努められています。
 もちろん、そのどれも続けていくのは大変なことだと思うのですが、このなにわ会の活動、とってもすばらしいと思うのは、広く門戸を開放されていることです。
 同期生のための会なので、同期生以外は立ち入り禁止になっていても不思議ではないのですが、なにわ会の場合、会員以外でも(ママみたいなただの海軍好きの主婦でも)、問い合わせをすれば親切に回答してくださいます。
 現に、先日、「なにわ会のサイトに自分の戦死したお父さんのことが出ていた、その文章を書いた人と連絡を取りたい」という方からの問い合わせがあったそうです。残念ながら、その文章を書かれた方はもうお亡くなりになられていたそうなのですが、なにわ会のブログにそれが載ったところ、「その人のお父さん知っている」という会員の人たちから連絡が来て、直接その方と交流を持たれたということです。
 感動しました。戦後、ずっと分らなかったお父さんの戦死状況が、なにわ会のサイトの記事でわかったということ。同期生で戦記をまとめられたとしても、なかなかサイトで公開しているところまでないのではないでしょうか。
 そして、60数年間、同じ日本にいながらまったく別々の場所で暮らしていて何の縁もなかった人が自分のお父さんのことを知っていて、それを語ってくれたこと。―なにわ会のサイトが取り持った縁です。
 きっと日本にはたくさんそういう方たちがまだまだたくさんいるのだろうと思います。
 戦死した夫の、父の、兄弟の、最期を知りたい人―。戦友の最期をご遺族に伝えたい人―。でも、出会えないままになっている・・・・。
 伊藤さんが地道に続けられているHPやブログが、そのうちの一人の方の思いにこたえたのだと思うと、自分のことのように嬉しくなりました。
 伊藤さんがHPやブログのお世話をされていなかったら、この邂逅はありえなかったですね。
 伊藤さんはパソコンを嗜まれる以外にも、ゴルフ、スイミングも続けられています。

今日、8月29日は伊藤さんの85歳の誕生日です。おめでとうございます。
これからもなにわ会の活動、陰ながら応援しています。』

 

105

東京クラス会の出欠

 出席 原田種睦 累計 30

 

有志会員Aさんのブログから

伊藤叡中尉と伊藤整一中将

大和と共に出撃し艦と運命を共にした第2艦隊司令長官・伊藤整一中将の遺書。

『此期に臨み 顧みると吾等二人の過去は幸福に満てるものにて 亦私は武人として重大なる覚悟を為さんとする時 親愛なる御前様に後事を托して何等の憂なきは此上もなき仕合と衷心より感謝致居候

御前様は私の今の心境をよく御了解なるべく 私は最後迄喜んで居たと思はれなば御前様の余生の淋しさを幾分にもやはらげる事と存候

心から御前様の幸福を祈りつついとしき最愛のちとせどの

                         整一 』

 

『私は今 可愛い貴方達の事を思って居ります。

そうして貴女達のお父さんは御国の為に 立派な働きをしたと云はれるようになり度いと考へて居ります。もう手紙も書けないかもしれませんが

大きくなつたらお母さんの様な婦人におなりなさいと云ふのが私の最後の教訓です

御身大切に

               父より 』

『色々考へたが貴女達には特に訓ふる必要もないから今迄通り仲善く幸福の生活を営む事を祈って居ります

                父より 』

 

      (半藤一利『戦士の遺書』文春文庫)

日付はすべて20年4月5日。大和が沈む2日前です。 最初の手紙は奥様へ、2通目は次女と三女の方へ、3通目はすでに嫁がれていた長女の方へ・・・・です。

伊藤中将にはもうお一人、お子さんがおれました。 男の子です。

1990年のテレビドラマ『戦艦大和』で、4月5日の夜、長官室で遺書を書く伊藤中将が描かれています。奥様と次女三女への遺書をしたためられているところに有賀艦長が訪ねてきます。2人の会話の中で、この長男のことに触れて、

「息子には改めて書く必要はないだろう、息子も私と同じ思いだろう」

と言われる長官。

有賀艦長がこう言います。

「ご子息は特攻隊員として鹿屋航空基地にいらっしゃるのでは」

シーンは進んで、鹿屋基地。

宇垣長官が特攻隊員たちに、 「明7日、沖縄へ」 と命令を下します。

隊員たちは敬礼のあと解散、帰ろうとするひとりの隊員を宇垣長官が引き留めます。

「おい、伊藤中尉」

そうです。伊藤長官のご子息、伊藤中尉です。

宇垣長官、

「途中で沖縄へ向かう大和の上空を通過するだろう。大和をよく見てゆけ」

そして7日朝、沖縄へ向かっている大和の上空に零戦の編隊が現れます。伊藤中尉率いる鹿屋の特攻隊です。低空を飛行しながら大和に敬礼する伊藤中尉。長官も艦橋から特攻隊に向かって敬礼。特攻隊はそのまま沖縄目指して飛び去っていきました。・・・・。

わたしはこのドラマを見たとき、これが史実だと思いこんでしまいました。 伊藤長官には特攻隊のご子息がいて、長官と同じ日に特攻戦死されたと。すっかりだまされていました。

伊藤叡(あきら)中尉

東京府立6中出身。海兵72期。41期飛行学生・戦闘機。

修了後、筑波空の教官。戦死するまで筑波空におられたようです。

大和が沈んだとき、どこでどのようにその報に接したのかわかりません。

家にある本やネットで、4月7日の大和の上空直衛戦闘機のこともちょっと調べてみたのですが、直衛隊の詳細は不明でした。この中に伊藤中尉が含まれていて大和の出撃を見送ったのかどうか、また当日特攻編成されて大和の上空を通過し沖縄に向かったのに、途中で何かの事情で引返したのか、それもわかりませんでした。

4月の下旬は谷田部空・筑波空の混成隊の行動調書が残っています。

何度か鹿児島の出水基地からB29邀撃に上がっています。

4月21日 B29邀撃 発動機に被弾

4月26日 B29邀撃 敵を見ず

4月27日 B29邀撃 B29に黒煙を吐かせるも油漏れ 目達原に不時着

4月28日 1530 沖縄伊江島付近哨戒中敵F4U約16機と交戦 未帰還

つまり、伊藤中尉は特攻ではなく、戦闘機乗りとして敵機と戦って戦死された、ということです。

妹さんの回想によると(なにわ会戦記 長女の純子さん)、伊藤中尉は子供の頃はよく妹をいじめる兄だったそうです。

そのいじめ具合が少し変わっていて、兄妹だけの時はとっても優しい面倒見のいい兄であるのに、母親の前では意地悪をするお兄さんだったそうです。

そんなお兄さんも、兵学校に入ってからはただただ優しいだけのお兄さんに。妹さんが女学校5年の時のこと・・・・。勤労奉仕の帰り道、兵学校の休暇で家に戻っていたお兄さんが、駅まで迎えに来てくれていたそうです。そのとき、畑の中の道を歩きながら、

「両親を大事にしてくれ」

と妹さんに頼まれたのだとか。

「俺はいないのだ」と・・・・。

妹さんが最後にお兄さんに会われたのは19年の夏。

その頃すでに嫁がれていて、旦那様の出張に伴い上京、当時、筑波空で教官をされていた伊藤少尉を訪ねられたそうです。そのとき伊藤少尉は夏の賞与200円をそっくりそのまますべて妹さんに渡されたそうです。

「おれは使うことはないからな、お前使えよな」

そして、20年4月28日、伊藤叡中尉戦死。

同じ日に、伊藤長官戦死の報が伊藤家に届いたということです。

106

229月のブログを整理してHPに取り込んだ。

左近允尚敏君から次のメールを貰った。

「9月23日の呉海軍墓地合同慰霊祭に参列し、そのあとの呉水交会懇親会で志摩君と一緒になりました。元気でした。」

有志会員Aさんのブログから

柿崎 実中尉

大正11年8月3日生まれ、山形県酒田中学出身。 海軍兵学校72期。
昭和18年9月、兵学校卒業と同時に「瑞鶴」乗り組み。1年後の19年9月、人間魚雷「回天」の搭乗員として大津島へ。
19年12月21日 金剛隊として出撃   突入の機会なく帰還
20年 3月 2日 神武隊として出撃   作戦変更により帰還 
20年 3月28日 多々良隊として出撃  敵の攻撃により損傷、帰還
20年 5月 2日 天武隊として出撃   沖縄東方海域で突入戦死 
 柿崎中尉の人柄や出撃前の様子など、詳細はなにわ会のHPに譲りますが・・・・。22歳の若者が、どうしてこうも過酷な運命を背負ってしまったのか。一人の人間に4度も特攻に行かせるその神経とはいったいどんなものなのでしょうか。19年9月に回天搭乗が決まってから、20年5月に散華するまでの8ヶ月間、かれに心の休まる時間はあったのだろうかと、胸が痛みます。
「敵に勝つには、自分に勝たなければいけない」―こんなことばを残して行った特攻隊員がいたそうですが、柿崎中尉の8ヶ月を見ていると、この言葉が切実に胸に迫ってきます。
 彼は兵学校2学年時、37分隊で第9銀河隊の深井良中尉と同じ分隊でした。
深井中尉のことを調べているときに、同分隊だった方たちの経歴も調べました。その過程で、この柿崎中尉の壮絶な特攻体験を知ったのです。
(上の写真は深井中尉の甥ごさんの深井紳一さんに提供していただいたものです。)
特攻待機している間、かれに、少しでも心休まる時間はあったのか・・・・。そのことが引っかかっていました。
 たまたま本屋で立ち読みした『回天の群像』という本に、柿崎中尉の名前が出ていました。
 鹿児島知覧の陸軍航空特攻の隊員たちのお世話をした鳥浜トメさんという有名な方がいます。「特攻の母」として映画にもなっているのでご存じの方も多いと思います。
 海軍の回天基地の近くにも、トメさんのような女性がいました。士官用の高級割烹料亭「松政」で働いていた倉重アサコさん。おシゲさんと呼ばれていました。当時、30代後半。隊員たちからお母さんのように慕われていました。 
 本によると、最後の出撃の前、柿崎中尉は部下の横田寛一飛曹をつれて「松政」にやってきました。そこで柿崎中尉は横田兵曹をこう紹介しました。
「母ちゃん、この男はね、今度、おれと一緒に行くことになったやんちゃ坊主だ。小さい時、おふくろが死んでね。だから、母ちゃん、今日一日でいいから、こいつのおふくろになってやってくれんかな」 
おシゲさんは、「はいはい」と返事をし、そのあと、3人で酒を飲んだそうです。しばらく飲むうちに柿崎中尉が酔って、おシゲさんの膝枕でうたた寝を始めてしまったとか。
「みんな、かわいいのよ。柿崎さんはいつもこうなの。いい人でしょう」 
おシゲさんはそう言いながら、柿崎中尉の軍服と靴下を脱がせ、雑巾で足を丁寧に拭き始めた・・・・その様子に胸を突かれた―と生き残った横田兵曹が回想しているそうです。
「こいつのおふくろになってやってくれんかな」
と言いながら、自分が甘えてしまっている柿崎中尉。
なんだか、もう、心中、想像しただけで涙が出てきてしまいます。
 柿崎中尉がおシゲさんに残した遺書―。 
「おしげさん、母のような気がしてなりません。抱いて下さったときは感無量でした。誰にも負けず、しっかりやります。子供共も一騎当千のつわものぞろいです。私は幸福者です」
参考:なにわ会HP、宮本雅史『回天の群像』角川学芸出版

有志会員Aさんのブログから
柿崎 実中尉(その2)
回天戦用意!
 5月1日の夕方、あまりに会敵しないのでいったん退いていた伊47潜は、再び米艦船の補給路に戻ってきました。 浮上して1時間ほど経った時、突然敵を発見します。「魚雷戦用意!」 の命令が下りました。 
 夜間には、よほどのことがない限り回天戦はやらないと言われていたので、回天搭乗員たちはいちおうの準備をしながら魚雷戦を見守るだけにとどまりました。このときは魚雷3本が命中したとのことです。 
 そして、翌2日朝 0930、敵艦船の気配を察知したのか「総員配置」の号令がかかります。 「いよいよだな」 
横田兵曹は、潜水艦の乗組員たちに立派な最期をみせたい、と思ったそうです。 悠々と落ち着き払って、鉢巻をしめ直し、冗談のひとつも飛ばして、堂々たる態度で乗艇しよう―。 
『「隊長! はじまりそうですね」 「ようし、いっちょうやるか」 
 ニタッと白い歯を見せて笑う柿崎中尉のそばでは、前田中尉が、さあ、いつでもこい、といった態度で、はち巻きをしめ直している。不思議にみんな落ち着き払っている。死を直前にひかえているなどとは、とても思えない。まったくふしぎだと思う。』 
そのとき、いきなり、 「回天戦、用意!」 「搭乗員、乗艇!」 矢継ぎ早やに号令がかかりました。   横田兵曹は一秒たりとも無駄にするかと自分の回天に駈け出して行きました。訓練のときと同じように。 ほかの搭乗員もみな同じです。 
 回天まですぐそこ、というラッタルをのぼりきったところで、時間が惜しいと思いながらも横田兵曹は、 
「みなさん、いろいろありがとうございました。元気でゆきます。伊47潜、バンザーイ!」 
と怒鳴り、下に居並ぶ乗員たちに向って無理に笑って見せておいてから、回天と潜水艦をつないでいる交通筒に滑り込んでいきました。
 横田兵曹が回天に乗り込んだ後、整備員によって外からハッチを閉じられました。そして、すぐに電話で乗艇完了を伝えます。 発進の準備も整い、あとは命令を待つだけ。そのあと、司令塔との交信で、敵が「大型輸送船1隻、駆逐艦1隻」であることを知ります。発進準備をしている回天は6基・・・・。 
 折田艦長は決断しました。 
「1号艇(柿崎中尉)と4号艇(山口兵曹)を出す。他の艇は待機」 横田兵曹は、「なにい! 3号艇は出さんのか!」 と思わず怒鳴り返してしまいました。おそらく、待機を命じられたほかの3人も同じような反応をしたことでしょう。しかし、横田兵曹はここで押し問答をしていたら司令塔に迷惑をかけると思いとどまりました。 

柿崎中尉の最期
 5月2日の朝、伊47潜の機関長附であった佐丸幹男中尉は非番になり、士官室の長椅子で仮眠を取っていました。 そこに突然の「敵発見」「艦内哨戒第一配備」の号令が響き渡りました。 
佐丸中尉が起き上がると、ちょうどT字の位置に当たるベッドで横になっていた柿崎中尉も起き上がったところでした。 『お互いに顔を見合せて思わずニッと微笑を交わした』 
そして「回天戦用意」「搭乗員乗艇」の号令。 
『間もなく1号艇の柿崎中尉が駈けつけてきた。見ればシャツ、作業服ズボン、長半靴という服装に携帯電灯、秒時計を持ったいつもの身軽な訓練姿だ。ただ、キリッとしめた鉢巻が云わず語らずに決意の強さを示している。
「敵は大型輸送船1隻、護衛駆逐艦2隻」と報じられる。「搭乗員乗艇急げ」がくる。交通筒下部ハッチをあげると丸い孔がぽっかりと口を開く。中は暗い。移動灯で照らしてやる。 
 柿崎中尉が兵員ベッドを足場にして今正に入り込まんとしている。大義に殉ずべく、我が死に超然たり得る姿を今眼前に見せつけられようとするのである。思わずこの眼が涙ぐんでくるのをどうすることもできない。感極まっていうべき言葉もないのであるが、漸くのことで「オイシッカリ頼むぞ」と軽く肩を叩いてやった。交通筒に入り込んだところで彼はちょっと振り返りニッコリ笑うと共に軽く右手を挙げ「さよなら」とただ一言を残して平然として回天下部ハッチを開き中に没し去った』 
「1号艇(柿崎中尉)、発動」 という、連絡の音声が、すでに回天の操縦席に乗り込んでいる横田兵曹の電話にかすかに入ってきました。 
『思わず特眼鏡をあげて、接眼部にぴたりと目をつける。 海の中は青空のように、コバルト色に澄みきっていた。そのなかで、約十メートルぐらいはなれた前方の一号艇が、突如、ガガガ・・・・ガガと軽快な熱走音を出し、スクリューが猛烈な勢いで回転をはじめた。まっ白い気泡が、煙のように見える。唇をかみしめながら、なおも見ていると、ガタンガタンと音がして、ワイヤーバンドがはずれ、甲板にくずれ落ちた。と思うまもなく、ガーッと熱走音の余韻を残して、見るまに遠ざかっていった。「隊長!」 心の中で呼びとめる』 

5月2日の回天の戦果。 
大型輸送船1隻 、駆逐艦2隻 (柿崎中尉、山口兵曹発進後、古川兵曹の回天も発進) 
参考:佐丸幹男『柿崎中尉の思い出』なにわ会戦記 
横田寛『あゝ回天特攻隊』光人社NF文庫 
※佐丸さんと横田さんの手記で敵艦数に違いがありますが、そのまま書きました。

108

先日から掲載している柿崎中尉に関連し、Aさんが読んで参考とされた横田寛『あゝ回天特攻隊』について次のようなメールを田島明朗氏から頂いた。

「大津島の回天慰霊祭は、故小灘利春氏と10年位ご一緒出来ましたが、氏は「私が<回天の正確な記録を残さなくては>と思ったのは、横田一人が生き残って全く出鱈目な本を出した所為だ。他に書く者が居ないから、あの本で回天特攻が歪められた、メイキングばかりだ」と何回も聞かされました。」

この件、Aさんには転送しましたが、読者の方も上記お含みの上、お読みください。

Aさんのブログから

猪口武蔵艦長と猪口智中尉

杉野計雄さんは大正10年生まれの戦闘機乗りで、丙3期出身。

杉野さんの手記の中に「猪口智中尉」という人が出てきます。

お父さんも海軍、おじさんも海軍、自身も兵学校の72期を卒業した戦闘機乗りです。

杉野さんは634空時代、フィリピンで猪口中尉と一緒でした。

昭和19年10月24日、杉野さんは空戦が終わって引き上げる時、傷ついた戦艦武蔵を上空から見かけます。杉野さんが見かけたときは異様な航跡ながらも、まだ単艦で航行していたということですが、ご存知のように敵の集中攻撃を一手に引き受けた武蔵はこのあとシブヤン海の海底深くに沈んでしまいました。

大和と違い、あまり武蔵のことは話題になりませんが、この武蔵の猪口敏平艦長が猪口智中尉のお父さんなのです。猪口艦長もこのとき、艦と運命を共にしました。

武蔵の傷ついた姿を目撃した杉野さんは帰投してからそのことを報告したらしいのですが、そのときはまだ猪口中尉は出撃から帰っておらず、そのことを知らせずに済んだのが何よりの救いであったと杉野さんは回想しています。でも、そんなこと、いつまでも隠し通せるものではありません。

11月2日。

杉野さんは出撃したものの被弾し、クラークまで帰れないと判断してセブに緊急着陸しました。

指揮所で報告し、汗を拭いていたら、ひょっこりと猪口中尉が現れ、 「先任搭乗員!」と声をかけてきたそうです。

「ああ、セブに降りていたのですか」

猪口中尉も、攻撃に出て被弾し、セブに降りていて、たまたま一緒になったようです。

しばらくして、そこに猪口力平航空参謀が姿を現わしました。この人は猪口艦長の弟、つまり、智中尉のおじさんです。神風特攻隊にも深くかかわった人です。 杉野さんを手招きし、二人で外に出ました。

「智が『武蔵』の沈没を知り、興奮している。昨夜話し合ったが、先任、よろしく頼む」 と猪口参謀に言われたそうです。

実は杉野さんにとって猪口中尉はただ単に隊の上官、というだけの人ではなかったのです。

まだ内地にいる頃の話ですが、9月に戦闘機教程を卒業して実施部隊に配属されてきた猪口中尉(もう一人、同期の赤井賢行中尉)に空戦指導をしたのが先任搭乗員だった杉野さんだったのです。

「この二人は、私を見ると、遠慮がちに、空戦に射撃に『お願いします』といっては訓練に励み、ますます技倆は向上していった」と当時のことを回想しています。 ですから、上官であるとともに教え子でもあり、特に気にかかる存在であったのでしょう。

猪口参謀が杉野さんに何を「頼んだ」のか、この手記からは具体的にはわからないのですが、猪口中尉が暴走しないように見ておいてくれ、と頼んだのか、武蔵の最後を話してやってほしいと頼んだのか・・・・。

でも杉野さんは武蔵の最後の姿を見ていながら、猪口中尉の苦悶する姿に、どうしても話してやれなかったそうです。

そして翌日、11月3日。 杉野さんは出撃する機を見送るために指揮所に向かって歩いている時、傘帯をつけた中尉が列線に走って行く後ろ姿を見つけます。見覚えのある後ろ姿は、猪口中尉でした。

この日、猪口中尉に出撃の予定はなかったようです。杉野さんが何事だろうと思って見ていると、エンジンもかかっている準備済みの零戦に駆け寄り、すでに搭乗している搭乗員を降ろして乗り込んでしまいました。猪口中尉に下ろされた搭乗員は指揮所に戻ってきて、中尉の人に降りろと命じられたと報告したそうです。

猪口中尉はそのまま出撃し、戻ってきませんでした。

 

109

一昨日鹿児島の野村治男君が亡くなった。野村治男君は戦艦武蔵の甲板士官で運よく生き残り、駆逐艦柳航海長となり、終戦時横鎮付きとなり、米艦隊の東京湾入港の水先案内を務めた。

彼は今年の初めから脳梗塞のため寝たきりとなり、療養に勤めていたが107日逝去されたと次男の方から電話を頂いた。そこでHP、ブロぐ、メールで会員に知らせた。慎んでご冥福を祈ります。

Aさんのブログから

折田善次艦長と川久保輝夫中尉

折田善次氏は多々良隊、天武隊の柿崎隊長以下6人を戦場まで運ぶ役目を担った伊47潜の艦長です。鹿児島出身、海兵59期出身。このとき30代半ばぐらいではないかと思われます。

伊47潜はこれ以前、菊水隊の回天とも行動を共にしています(19年11月8日出撃)。仁科関夫中尉(兵71期)、佐藤章少尉(九大)、渡辺幸三少尉(慶大)、福田斉中尉(機53期)の4人です。

 折田艦長にとって、これが初めての回天搭載だったのでしょうか。乗組員には、「回天搭乗員の前では決して”明日”の話はするな。日本へ帰ったらどうするか、とか、うまいものを食いに行くとか、そういう話は一切してはならぬ」と厳命しました。

折田艦長も潜水艦乗組員もそうやって気を遣っていたのですが、回天搭乗員たちはふだんとまるで変わらず、測的の訓練や海図の研究に没頭しており、暇があると手空きの者と将棋やトランプに打ち興じていたそうです。

折田艦長は日に日に食欲がなくなっていきますが、回天搭乗員たちは元気で、食欲も旺盛、平素と全く変わらなかったと。 「彼らはすでに生きながらにして神様だ、神様でなければとてもあんなにはできない」と思ったそうです。

そして、目的地ウルシーに到着。いよいよ回天発進の時がやってきます。折田艦長がそれを命じたのです。4人の搭乗員たちはそれぞれ頬を紅潮させ、背をまっすぐに伸ばし、「お世話になりました、征きます」と元気のよい声で挙手の礼をして回天に乗り込んでいったそうです。

19年12月25日、伊47潜にとって2度目の回天作戦のための出撃です。

連れて行ったのは金剛隊の4人です。川久保輝夫中尉(兵72期)、原敦郎中尉(早稲田)、村松実上曹(14志)、佐藤勝美一曹(14志)。

艦長は特に川久保中尉とは深い縁でした。川久保中尉も鹿児島の出身で、輝夫中尉のお兄さん(次男・尚忠。輝夫中尉は五男)が折田艦長と兵学校同期生で仲良しでした。当然、輝夫中尉のことも幼少のころから知っている、という仲でした。

折田艦長は二人きりになった時に、心の中で泣きながら話しかけます。

「お前、大きくなったなあ。昔、遊びに行ったときは、ものもようしゃべらんガキじゃったが、いまはこうして回天搭乗員になろうとはなあ。お前のお父さんにお前のことを話してやるから、何か伝えたいことがあったら言え」

川久保中尉は静かに答えました。

「おじさんがご覧になったとおりのことを親父に言ってください」

敵地に向かう途中の12月30日、伊47潜は思わぬものを発見します。玉砕したグアム島から脱出した海軍陸戦隊の8名が乗った漂流中のいかだです。わずかな食糧で1か月近くも漂流していたのです。しかし、折田艦長はここでかれらを救助するべきかどうか迷いました。いまから回天を発進させるために死地に赴かねばらないのです。せっかくここまで生き延びてきたかれらを艦に収容してしまうと結局殺すことになるかもしれない・・・・酷かもしれないが、飲み水と食べ物を与え、一番近い島の方角を教えて突き放した方がいいのではないか・・・・。

艦長が迷っていると川久保中尉が言いました。

「8名を助けてやってください。われわれ4名はも間もなく死にますが、4人のかわりに8人の海軍がかわって生還するということはめでたいことです。着るものはわれわれのものがいらなくなるから、それをやってください」

このひとことで、折田艦長は8名を救助する決心がつきました。

20年1月12日、伊47潜は目的地のホーランジアに到達。金剛隊の4人は菊水隊の4人と同じように折り目正しく艦長や乗組員に、「お世話になりました、では征きます」と挨拶をして回天の人となったのです。

折田艦長は結局、伊47潜の艦長として12名の回天搭乗員の発進命令を下したことになりました。

上記8名と、天武隊の柿崎中尉、前田中尉、古川上曹、山口一曹です。

参考:岩崎剛二『指揮官最後の決断』光人社NF文庫

また、なにわ会のHPに折田善次艦長の戦後の回想が掲載されているので、詳細はそちらでどうぞ。(トップの「戦没者」→「川久保輝夫」)

1010

昨日辻満寿夫君の娘さんから同君の訃報を頂いて、メール等で会員に知らせた。

彼は平成22 921日(月)肺炎で逝去、ご親族で葬儀は行われた。

1年ほど前から体調を壊し、入退院を繰り返していたが、1月ほど前から肺炎になり入院、療養に努めていたが薬石効無く逝去された。謹んでご冥福を祈ります。

 

有志会員Aさんのブログから

瑞鶴のご真影

感動した話がたくさんあって、そのうちの一つに、若い二人の青年士官が、天皇陛下のお写真を沈没しかかっている瑞鶴から運び出す話があったのです。

あの当時の軍人さんや国民にとって、天皇陛下のお写真がどれほど大事なものだったのか、戦後生まれのわたしなんかにはたぶん想像しようにも想像できないことなのでしょうが、二人は自分の命も顧みず、お写真を運び出そうとします。 
 沈みかかっている瑞鶴から運び出し、沈没後はお写真をかついで海を泳いだのです。 
 お写真を無事に運び出した責任感の強さに感動したのではないのです。このお写真を大事に抱えている方が死ぬ確率が高いのに(戦闘後、疲労困憊のまま戦場の海を漂っているわけですから)、「自分が持つ」と、お互いその危険な任務を自らが引き受けようとする姿に感動しました。 
結局、お二人とお写真は無事ほかの船に救助されました。・・・・という話だったと思うのです。 


今日、図書館に行って神野正美さんの『空母瑞鶴』を借りてきました。瑞鶴のご真影運び出しの詳しい状況がわかりました。

総員上甲板の命令が出てから、副長からご真影の運び出し命令を受けたのは庶務主任の大畠永弘さんです(当時、少尉か?)。戦闘開始前に最下甲板の高角砲発令所に移してあったお写真を、艦橋から取りに戻ろうとしたけれど、下から上がってくる機関科員、応急員のために難儀していたところ、一人の兵隊が箱入りのお写真を持って上がってきてくれたそうです。

副長附甲板士官だった足立喜次中尉(兵72期)も貝塚艦長から「お写真を上げろ」と命令され、甲板下へ向かったそうですが、下から上がってきた兵員に、「お写真は上に上がった」と教えられ、下には行かなかったようです。

総員退艦のときになって、左舷甲板上にいた大畠さんと足立中尉は一緒に海に入ります。足立中尉も艦長にお写真のことを命じられていたことから、お写真を背負っていた大畠さんと一緒にお写真を守ろうと思われたのではないでしょうか。

重油の海を泳いでいると、『初月』が救助にきました。しかし、お写真を背負っている大畠さんや足立中尉には気づかずに、泳いでいる人間の三分の一ほどを救助して去っていったそうです。

このとき取り残された人たちはどんなにがっかりし、絶望したことかと思います。そのまま二時間ほど、うねりに身を任せて材木につかまっていると今度は『若月』がやってきました。

大畠さんは、今度こそ乗らねば、と思ったそうです。

「足立中尉、泳ぎましょう」

「よし泳ごう。お写真は大丈夫か。おれが持って行こうか」

「大丈夫です」

このとき大畠さんは、どうせお守りして泳ぐならば最後まで自分で持って泳ぎたい。人に渡すのは残念だ、という気持ちで足立中尉の申し出を断ったということでした。

ところが、やはりお写真を持って泳いでいると、どうしても遅れがちになり、だんだん足立中尉に離されてしまいます。

「おーい! 庶務主任早く来いよ」

待っていてくれたので泳ぎつきます。

「おれが持って行ってやろう」

ここでやっと大畠さんも意地を張っていられないとお写真を足立中尉にゆだねます。

100メートルほど泳いで、やっと『若月』に救助されました。

 

これが、平和な海水浴場での話なら、「ああ、微笑ましい男の友情」で済むのでしょうが、二人が泳いでいるのは戦場の海。しかも、目の前の『若月』に拾い上げてもらわなければ、永遠にそこに取り残されてしまう可能性があるのです。

自分だけ助かりたければ、戦友を置いてさっさと泳いで行ってしまうとか、お写真を放り出してしまうとか、他にも道はあったのかもしれませんが、二人は助け合いながら、お写真も守り通しました。わたしはそのことにすごく感動しました。

余談ですが、二人が最初にすくってもらえなかった『初月』は、救助した瑞鶴の乗員を乗せたまま、その日の夜戦で米水雷戦隊と果敢に戦い沈めらレイテしまいました。

参考:神野正美『空母瑞鶴』光人社

 

1011

HPに掲載してある佐伯物語の作者山本様から次のメールを頂いた。

「ブログのほうも連日拝読させていただいておりますが、10月8日のブログを読ませていただき、ドキリといたしました。それは「T氏」と表記さレイテいる方のメールの中にある、お言葉です。他人事ではなく思えます。

まさしく「佐伯物語」には多くの「メイキング」が盛らレイテおります。

むろん私の責任におきまして発表したものではございますが、私のメイキングが読者様に「これが事実」という誤解を与えるとしたら、これは軽からぬ罪だと申せます。

つきましては、佐伯物語はあくまでも事実を基に創作した小説である旨の一文を作成いたしました。添付致します。まことに恐れ入りますがご一読いただき下さいますようお願い申し上げます。」

添付された「お断り」を佐伯物語の目次冒頭に「お断り」として掲載した。

 

Aさんのブログから

片山中尉と塚田中尉(と橋本中尉)

片山市吾中尉  愛知県熱田中学出身。

塚田浩中尉(終戦時大尉)  長野県松本中学出身。

ともに海兵72期出身の戦闘機乗り、厚木302空雷電隊。

塚田中尉によると、兵学校時代の片山中尉は余りにもわがままで高慢ちきに見えるような人だったとか。 兵学校時代、「相当な猛者」(←「酒や女」方面ではないはずなので、「威勢がいい」という意味だと思われる)であり、飛行学生時代も、頭髪を伸ばして飛行長の怒りを買ったり、教員(下士官の操縦教員)を殴って問題になったり、いろいろと困ったことをしでかす人だったと回想しています。

エスプレイをしても、派手に踊りまわってエスを怖がらせてしまうような人だったらしいです。

しかし塚田中尉は厚木で一緒に生活するようになってから、彼の理解者になっていきます。 「片山という男は実にさっぱりした、いいやつだった」

日付は不明なのですが、片山中尉は邀撃戦に上がった際、不時着してしまい、負傷入院してしまいます。 どれほど戦列を離レイテいたかも不明ですが、かれを焦らせるには十分なほど、入院していたようです。退院後、張り切りボーイ・片山中尉は戦果を上げようと頑張りますが、なかなか思うような戦果は得られませんでした。

そんなとき。20年4月。

厚木の302空も、沖縄戦への加勢のため、鹿児島・笠原に進出することが決まりました。 全員ではありません。12名が選ばれて行くことになりました。分隊長の寺村大尉は上から「連れて行く72期は1人」という条件をつけられ、塚田中尉を選抜しました。

塚田中尉はこのことを「得意げに」片山中尉に話してしまいました。(おそらく笠原進出前夜のこと)すると、片山中尉は分隊長のところへ押しかけて行き、自分を連れて行ってくれと直談判します。寺村分隊長は片山中尉の熱意にほだされて、とうとう2人を交代させることにしました。今度は、戻ってきた片山中尉からそのことを聞かされた塚田中尉が承知するはずがありません。言い合いをした挙句、2人そろって飛行隊長、分隊長のところへ駆け込みます。

「鹿児島には自分を連れて行ってほしい」 と。

寺村分隊長の回想。

『今度は2人でわたしの部屋に来た。両名とも頑として譲らないのでいっこうに話が決まらない。わたしが決めればよいのだが、海軍は沖縄戦に全力を尽くし最後の決戦のつもりであり、大和まで特攻出撃するというぐらいだから、おそらく笠原に行けば生きては帰れないだろう。わたしも決めかねて、最後は、2人はじゃんけんをして勝ったほうがいくこととなった。そして片山中尉が勝ったときのうれしそうな顔がいまでも目に浮かぶような気がする』

塚田中尉の回想ではちょっと違います。

飛行隊長に「2人でよく相談せよ」と諭され、2人は部屋に戻ります。

『わたしは部屋に帰ってかれと激しく論争した。そのときかれは涙を流さんばかりにして小生に言った。貴様はいままでに相当な戦果を挙げているが、おれはまだそれらしい奉公は出来ていない。今度行けば必ずやってみせるから、今回ばかりは我慢しておれにやらせてくれ』

それでも塚田中尉は首を縦に振りませんでした。塚田中尉とて、最後のご奉公と覚悟を決めていたのです。「それでは明朝、籤で決めよう」

翌朝、笠原への出発準備が整った飛行場へ2人とも軍刀を手に、「行くつもり」で出てきました。そこでまた「笠原行き」の奪い合いをした結果、片山中尉が行くことになりました。

『おれは負けた。いや負けてやった。そしてかれに行ってもらった』

1012日。

山崎惣男(攻703 偵察)

台湾東方海面哨戒の為基地発進後、消息を絶つ(一式陸攻)

伊藤 保(高雄空 戦闘機)・山口勝己(戦401 戦闘機)

台南上空で敵機動部隊戦闘機を迎撃、これと交戦戦死(零戦)

木原 建(台南空 戦闘機)

敵機動部隊の戦爆連合大編隊を迎撃、これと交戦戦死(零戦)

 昨日齋藤義衛君が復員船長鯨の事をかいてくれた。私も2年間復員輸送等に従事したので、その概要をかいてみます。

復員輸送・引き渡し

広島湾倉橋島在伯の駆逐艦変え打で終戦を迎えた私は、呉に回航、乗員の復員や残務整理にあたっていた。

すると10月に入ると、外地で終戦を迎えた軍人等の帰国のための輸送任務が課せられた。

1026日に復員輸送開始。最初は呉発→母島→浦賀着。(115日)

1116日 浦賀発→石垣島→呉帰投(23日)。

123日 呉発→石垣島→呉帰投(11日)

1216日 呉発→宮古島→呉帰投(24日)

1226日〜24日  修理のため因島に回航。入渠修理。

昭和21225日  補海第150号航海長。

227日  楓退艦。笠戸造船所で海150に着任。

31日  笠戸→呉

35日  呉→鹿児島→基隆→鹿児島(14日)。月14日 帰投。

318日 鹿児島→基隆。主機械故障修理。

331日 基隆→花蓮港→鹿児島(48日)

415日 鹿児島→ 呉着(16日)修理。

56日  呉発→鹿児島→上海着→鹿児島着(16日)

520日 鹿児島発→上海→鹿児島着。

発疹チブス発生のため610日まで隔離。

613日 鹿児島発→上海→鹿児島着(18日)。

711日 鹿児島→コロ島→博多(722日)
718日 缶管破裂。1号缶使用不能。726日 佐世保に於いて保管と決定。)

81日 博多→佐世保 以後佐世保で保管任務。

この間、母島、石垣島(2回)、宮古島,基隆(2階)花蓮港、上海(3回),コロ島から引き揚げ者の輸送を実施した。

108日 海第132号航海長兼務発令。
12
10日 免兼職。

1947年(昭和22年)

2月1日 横須賀管船部勤務。226日 倉橋航海長兼屋代航海長に転勤。

3月4日 海150退艦。

3月8日 倉橋兼屋代航海長として横須賀で着任。保管任務。

8月5日 屋代艦長発令。8月8日 出動訓練

8月12日 横須賀→佐世保

8月25日 佐世保→青島(27日)
    (同航の艦は若鷹、宵月、花月、海81、海40、海104、海107、輸16

8月30日 引き渡し完了。2100若鷹で青島発→佐世保(91日)。

9月15日 輸110航海長

9月20日 横須賀→佐世保(23日)

(輸147、神島、波風、駆潜4723、石崎同航)

9月28日 佐世保→アモイ→香港→シンガポール

1017日 引き渡し完了。荒崎に移乗。シンガポール→佐世保(1026日)

1220日 復員事務官を退職。 


10
13

川端 博和(偵3 艦爆操)敵機動部隊索敵のため基地発進後台湾沖で消息を絶つ(彗星)

Aさんのブログから

深井中尉と長尾中尉

最近、この「海軍」カテゴリーに入れている話の中でも特に「これ、誰やねん?」が(勝手に)シリーズ化してしまっていますが、最終的に結論の出ていない、私の妄想話ばかりです。

でも、私、

「前列左から○○少尉、××中尉、ひとりおいて△△中尉・・・・」

の「ひとりおいて」というのがどうも気になってしょうがないタチなんです。

「この人にもちゃんとした氏名階級があるはず!! あなた、誰ですかっ!!」

と、猛烈に知りたくなります。

結局、追究するための資料不足で、わからない私、想像しているだけというのが多いんですけどね。

でも、結論の出た話!

↑深井中尉(右)の横の搭乗員、誰やねん?

最初にこの写真を深井さんに見せていただいたときは、深井さんもこの方のことを探究中でした。

この写真一枚からはほとんど判別不能な話で。

この写真から言えることは、「かれは搭乗員だろう」。

ということだけです。

偵察か操縦かすら分らない。

場所も時期も不明。せめて袖の階級章でも写っていれば、深井中尉の72期の進級時期と照合して「○年○月○日〜○月○日の間」までは特定できるのですけどねー。

深井さんからいただいた他の写真の中に、この人、写っていないかなあ??と思って探したところ、「同期生の葬儀に参列」という集合写真と、どこかの神社の鳥居の前で撮った、一種軍装に身を包んだ5人の海軍士官の集合写真に深井中尉と一緒に写っていました。

「同期生の葬儀に・・・・」ということなので、この人は72期の人だろう、ということが推定できました。

鳥居の写真、着ている一種軍装の襟に少尉の階級章がついています。

ということは、この人は深井中尉と少尉時代に一緒だったといえます。

深井中尉の少尉時代のほとんどは百里原の艦爆操縦の訓練時代です。

じゃあ、この人は「72期」の「艦爆操縦」の人かなあ?

というとこまでは想像がつきました。

でも、そこで頓挫してしまいました。

深井さんから41期飛行学生(72期主体)艦爆操縦の集合写真をいただいていたので、そこでこの人を探したのですが、私には見つけられなかったんですよねー。

たぶん、72期の艦爆操縦だろうなあ・・・・と思いつつ、その私になっていました。

ある日、突然、話が進みました。

伊藤さんが送って下さったなにわ会の戦記の中に「長尾利男」中尉の亡くなったときの様子が書かレイテいて、私はそれを読んで感じるところがあったので、なにわ会HPの「長尾利男」中尉の写真を見に行きました。

「へえ・・・・こんな人だったのだぁ・・・・」

と見ていたら、そのとなり、「長尾栄二郎」という方が↑の写真の左の人と同じ顔をしている・・・・。

深井さんが、72期の艦爆の方とお話をする機会があったので、そのときに聞いてもらったら、やっぱり↑の方は「長尾栄二郎」中尉で間違いないということでした。

長尾栄二郎中尉。

天城中出身、艦爆操縦、攻撃第3飛行隊、19年11月1日、比島レイテ方面にて戦死。

わたしの手元にある情報はこれだけです。あと、深井さんにいただいた数枚の写真。

19年11月頃の攻撃第3飛行隊(K3)の様子を調べようと思ったのですが、よくわからないのですよね・・・・。

『八機の機関科パイロット』(碇義朗)に、小川武大尉(機50期)という方が取り上げられています。K3の分隊長ですから、11月頃の比島戦の様子が書かれているかなあ、と思ったのですが、詳しいことはなし。

『空母艦爆隊』の山川新作さんも当時K3所属だったので、手記に何か書かれていないか見てみたのですが、やっぱり、11月1日のことは全く触れられておらず。

長尾中尉の戦死状況はわかりません。

一緒に写っている写真が数枚あるので、おそらく深井中尉と長尾中尉は仲がよかったのだろうなあ、と想像できます。

7月、百里を出て、深井中尉は教官勤務になって宇佐空へ。長尾中尉はそのままK3に着任して、訓練を経て戦地に行かれたのでしょうか。

宇佐には同期生もいるし、艦爆隊の情報もそれなりに入ってくるのでは。深井中尉もきっとどこかの段階で長尾中尉の戦死の報に接したのではないかと思います。きっと心穏やかではなかったはず。なんだかなあ・・・・。 

1014

台湾沖航空戦(19441012 - 1016日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)における戦闘のひとつ。レイテ島の戦いに先立って台湾から沖縄にかけての航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊を、日本軍の基地航空部隊が迎撃した。アメリカ軍の損害は軽微であったが、日本軍は戦果を誤認したまま大本営発表を行い、続いて生起したレイテ沖海戦に重大な影響を与えた。

これからクラスの戦没者が激増していく。

山根 光(302空 戦闘機) 厚木基地で試験飛行中5000米付近で失速、殉職(雷電)

浅野 勲(攻252 艦攻操)台湾東方海面の敵機動部隊に突入戦死

武原鐵平(攻252 偵察) 同上

山崎正男(攻405 偵察) 台湾東方海面の哨戒に向かい、消息を絶つ(銀河)

鈴木忠雄(攻 5 艦爆操) 敵機動部隊の攻撃に発進、沖縄南方にて戦死(彗星)

黒田二郎(戦316 戦闘機) 台湾東方海面で敵機と交戦戦死(零戦)

金原 薫(偵 4 艦爆操)台湾沖洋上の敵機動部隊の索敵のため、基地発進後、消息を絶つ(彗星)

東京クラス会  宝納徳一追加参加の葉書受信、参加予定32

1015

山下 宏(攻3 偵察) 台湾沖海面で敵機動部隊を攻撃中、戦死(彗星)

土井 渉(801空 偵察) 台湾東方洋上で哨戒中、敵機の攻撃を受け戦死(二式大艇)

田辺光男(戦302 戦闘機) 台湾東方洋上で敵機動部隊来襲時、敵機約50機と交戦戦死(零戦)

水野英明(偵3 偵察)沖縄方面洋上で敵機動部隊索敵攻撃のため基地発進後、消息を絶つ(彗星)

1016日の戦没者

小林 優(攻256 偵察)台湾沖航空戦に参加、敵機と交戦後消息を絶つ(天山)

 泉 五郎君から次の2つの資料を頂いた。

1 思い出の宗谷海峡65年目の再訪

   泉 五郎君は終戦後、海防艦屋代航海長として各地の掃海作業に従事したが、印象深い宗谷海峡方面の事を懐かしく、奥様と再訪された。

 この屋代、実は小生が228月同艦艦長として青島まで回航して中国に引き渡した懐かしい艦である。当時の日記から。

(8月5日 屋代艦長発令。  8月12日 1300横須賀出港。
8月15日 1600佐世保入港。  8月25日 青島に向け佐世保発。

8月27日 青島入港。  8月30日 引き渡し完了。2100若鷹で青島発。

9月1日 1100佐世保入港。)

2 先般逝去された冨士夫人の写真

  2001年(平成13年)324の芸予地震の時、田島明朗さんが冨士夫人からお見舞いを頂いた時同封されていた写真である。

その時、お手紙には「喜寿を迎えた記念にダンスの発表会を行った。私が死ぬまで誰にも見せず、死んだら「なにわ会ニュース」に載せて頂けるようにして下さい。」と書いてあった。

 なにわ会ニュースが終りになったので、なにわ会ブログに掲載します。

 また、なにわ会の奥様方の写真もありましたので、なにわ会の良き全盛時代を偲ぶ資料として掲載します。

 

1017日の戦没者

住田冨士男(戦316 戦闘機) 台湾方面で来襲の敵B−29を迎撃、これと交戦戦死(零戦)

 

なにわ会だより第3号4頁に次のように書いた。

4号以降は樋口 直君提案の情報を簡単なプリントで希望者のみに配布する。情報配布希望者は同封の振込用紙で年会費として、毎年、会員(有志会員も同じ)2000円、遺族会員1000円を振り込んで下さい。

なお、年齢から考えて何時まで続けられるか分らないので年会費とした。」

現在まで振り込まれた方は、会員40名、戦後物故者遺族25名、戦没者遺族30名、合計95名である。会員のうちまだ振りこんで頂けない方が109名も居られる。この109名の名前を見ると、振り込まれて当然と思われる方が随分居られるようである。最近振り込まれて、会計担当の窪添龍輝君からまだ連絡を頂いていない方もあると思われるが、まだ、振り込んでいない方は至急振り込んで頂きたい。振込用紙が見当たらない方はご連絡頂けば送付します。

ついでの時でも各員の連絡網の連絡先の会員にも一言連絡いただければ゙有り難い。

4号以降のなにわ会だよりは納入された方だけに送りますので、印刷部数決定の為にも早く概数を知りたいので、ご協力宜しくお願いします。
 

1018

66年前の昭和19年のこの日、栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊(戦艦7隻基幹、通称栗田艦隊)はリンガ泊地を出撃、ブルネイに向った。

昨日のブログで生存者が少なくなって淋しいと書いた。

そこで海軍兵学校72期について戦後物故者の推移を調べて見た。

昭和が終わる65歳までの戦後約43年間に亡くなったものは38名で、1年平均0.8人であった。

平成に入ってから平成14年の79歳になるまでに亡くなったものは、1年平均4.5人、

80歳から85歳までに亡くなったものは、1年平均7人であった。

そして、昨年86歳では1年間に亡くなったものが、一気に17名と急増した。

87歳の今年は10月の今までに9名亡くなっており、昨年よりは少ないがやはり増加している。

これから年と共に亡くなる員数は当然増加していくと予想されるが、お互い健康に気をつけて長生きしましょう。果たして何名の会員が100歳の峠を超えられるか?

各年の物故者数は次の表のとおりである。

1019

昭和19年のこの日、小沢中将指揮の日本軍第三艦隊(空母4隻《瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳》・戦艦2隻《伊勢、日向》基幹、巡洋艦3隻《多摩、五十鈴、大淀》駆逐艦8隻《槇、杉、桐、桑、初月、若月、秋月、霜月》)が瀬戸内海を出撃した。

18日リンガを出撃した第一遊撃部隊(戦艦7隻《大和、武蔵、長門、金剛、榛名、山城、扶桑)、巡洋艦13隻《愛宕、高雄、摩耶、鳥海、妙高、羽黒、能代、鈴谷、熊野、利根、筑摩、矢矧、最上》駆逐艦19隻《早霜、秋霜、岸波、沖波、朝霜、長波、浜波、藤波、島風、浦風、磯風、雪風、浜風、清霜、野分、山雲、満潮、朝雲、時雨》はブルネイに向け航行中であった。

1020

この日、米軍レイテ上陸。

午前10時、アメリカ側は第10軍団の第24師団と第1騎兵師団がレイテ島東岸のタクロバンに、続いてその南方約27キロのドラッグに第24軍団の第7師団と第96師団が上陸を開始した。レイテ島南端のパナオン島地区にも第24師団の第21歩兵連隊戦闘団が上陸した。

日本の第16師団は約2万名の兵力を擁していたが、わずか1時間の戦闘で奥地のジャングルへ後退した。これはサイパン島の戦いのような「水際死守」で多くの兵士を緒戦で失った苦い戦訓から、後方のジャングルでの抵抗線形成が日本軍の作戦となっていたからである。第16師団の他の日本軍部隊は、内陸のブラウエン飛行場周辺やダガミなどに主防衛線を展開した。これによりタクロバンなどの海岸地帯の飛行場の多くはアメリカ軍占領下となった。アメリカ軍もほとんど水際での抵抗を受けなかったと記録されている。しかし、米国の第24師団に対してだけは激しい水際反撃があった。

日本軍歩兵第33連隊は第一波の上陸は無視して、第二波を引きつけた時点で猛烈な射撃を開始し、戦車揚陸艦4隻に砲弾を命中させ、うち1隻を炎上させた。これにより師団司令部が多くの死傷者を出した。第7師団なども、ジャングルに橋頭堡を拡大しようとすると抵抗を受けはじめた。

午後3時、南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マッカーサー大将は第3次上陸部隊とともに膝まで水に浸かりながら、タクロバン海岸に上陸した。それはマッカーサーがコレヒドール島を脱出してから27ヵ月後のことであった。夕刻までにアメリカ軍は兵員6万名と10万トンの車両、物資をレイテ島に揚陸した。アメリカ軍の初日の損害は死傷250人であった。

11時、第一遊撃部隊はブルネイに入泊開始。直ちに給油する予定だったが、油槽船の到着が一日遅れたため、以後の行動予定に大きく影響した。

1021

日本軍第二遊撃部隊(巡洋艦3隻基幹、通称志摩艦隊)が馬公を出撃。フィリピン、ルソン島マニラへ向かう。

この日の朝、海軍の神風特別攻撃隊は各地から出撃したが、天候不良などで会敵出来ず。

10月22日

第1遊撃部隊

   0800 栗田艦隊 ブルネイを抜錨 夜半パラワン水道の南口に到着

 1530 西村艦隊 ブルネイ抜錨、出撃

池上 勝也(佐伯空 偵察)九州南方海面で索敵中敵機の攻撃を受け戦死

東京クラス会    参加 安藤昌彦(累計33名)

10月23日

第1遊撃部隊(栗田艦隊)

0632 「愛宕」に魚雷4命中、0653沈没。(重森光明 戦死)

栗田長官「大和」に移乗 旗艦変更

 0633 「高雄」に魚雷2命中 大破。駆逐艦「朝霜」と「長波」水雷艇「鵯」に護衛されブルネイに後退。

 0657 「摩耶」に魚雷4命中、0708 沈没(東郷良一 戦死)

志摩艦隊コロン湾着。油槽船を発見できず、巡洋艦から駆逐艦に燃料を給油。

      
 市川  繁(攻5 偵察)比島沖で敵機動部隊に突入戦死(彗星)

1024

第1遊撃部隊(栗田艦隊)

  1026 第1次対空戦闘 「武蔵」に魚雷1命中。妙高に魚雷1命中戦列離脱

 1206 第2次対空戦闘 「武蔵」に魚雷3、爆弾4命中。

 1330 第3次対空戦闘 「武蔵」に魚雷5、爆弾4命中。

 1430 第4次対空戦闘 「武蔵」に魚雷5、爆弾4命中。

 1459 第5次対空戦闘 武蔵」に魚雷11、爆弾10命中。

  1530 西方に反転 一時空襲を避ける

  1714 東方に再反転

  1935 「武蔵」魚雷、爆弾、至近弾多数を受けて遂に沈没 

志摩艦隊

 コロン湾出撃

西村艦隊

  米艦上機27機来襲、

  栗田艦隊に、25日0400突入の予定と打電

 「時雨」魚雷艇3隻発見 同時に射撃開始

小沢艦隊

  0600 予定地点に到達 索敵機10機発進

  1145 攻撃隊76機(実動58機)発進

  1305 「瑞鳳」「千歳」「千代田」攻撃隊、グラマン戦闘機と空戦

       攻撃隊は敵空母発見できず3機のみ帰投

  1350 「瑞鶴」攻撃隊敵空母発見、正規空母と軽空母各1隻に命中弾

(実際は米空母に損害なし)

  1515 航空戦艦「日向」「伊勢」以下は主隊から分離、南下して牽制行動開始

 

10月24日の戦没者

西岡 弘(攻5 偵察)比島沖で敵機動部隊に突入戦死(彗星)

森多久二(901空 艦攻操)比島沖夜間索敵中、敵機と交戦戦死(九七大艇)

吉富 清(戦317 戦闘機)敵機勤部隊を攻撃した後、消息を絶つ(零戦)

相沢 昇(戦804 偵察)敵機動部隊と交戦戦死

小岩井博(豊橋空 陸攻操)豊橋空より比島作戦に参加、交戦戦死(一式陸攻)

幡井重丈(攻702 偵察)     比島アゴーで敵機と交戦戦死(一式陸攻)

 左近允尚敏君が中央公論新社から「捷号作戦はなぜ失敗したのか」
 「レイテ沖海戦の教訓」という本を発刊された。
 この本は、「レイテ海戦は大日本帝国の“鳥羽伏見”とも言うべき大決戦だった。充分な準備にも関わらず日本はなぜ負けたのか。海戦に参戦した著者がその真因と全貌を描き、失敗の意義を問う」と紹介されている。
 初版発行日2010/10/25  判型四六判  ページ数440ページ 
 定価3360円(本体3200円)

10月25日 

 第1遊撃部隊

  0030 栗田艦隊 サンベルナルジノ海峡通過

  0220 栗田長官 西村艦隊のレイテ突入電受信

  0522 西村艦隊全滅の報 志摩艦隊から入電

  0659 「大和」前部主砲発射 続いて「長門」「榛名」砲撃開始

 空母群と水上艦隊との砲撃戦は空前絶後のことであった。

  0730 「鈴谷」 被爆し落伍

  0802 「金剛」追撃中の空母に射撃開始、「筑摩」「利根」続いて攻撃

  0853 「筑摩」魚雷1命中 0902反転落伍沈没(精島勝義、高橋英敏、服部健三 戦死)

  0855 駆逐艦(ホーエル)撃沈

  0907 空母(ガンビアベイ)火災爆発 沈没

  0911 追激戦闘中止 北方集結を指示

  1005 駆逐艦(ロバーツ)撃沈

  1010 駆逐艦(ジョンストン)撃沈

  1045 陣形を立て直す

  1105 空母(セントロー) 特攻機によって沈没

  1120 栗田長官 『レイテ突入』を豊田聯合艦隊長官に打電

  1226 北方反転を下令 レイテ突入断念を決意

  1230 「鈴谷」 沈没。(吉岡慶治 戦死)

  1236 栗田長官 聯合艦隊司令部に『レイテ泊地突入を止め、敵機動部隊を求め決戦』を打電

  1257 「大和」 航路0度(真北)に変針 反転

  1313 第1次空襲70機(通算第9次) 以下1706の通算第11次空襲まで連続

  1817 日没 空襲終了

「野分」 筑摩乗員を救助、帰投中、比島東方海面(サンベルナジノ海峡東沖)で敵艦隊と交戦、沈没(小林正一 戦死)

第1遊撃部隊支隊と第2遊撃部隊  

 「扶桑」雷撃を受け速力低下、航行不能となり大爆発、船体は2つに折れ炎上、沈没。

  (後藤一郎、林 和男 戦死)

 「山雲」魚雷命中轟沈、(若林立夫戦死)

 「満潮」航行不能、

 「朝雲」艦首切断、

 「山城」左舷後部に命中、速力低下、その後左舷中部に魚雷命中 艦内通信不能、やがて転覆し艦尾から沈没。(江本義一、藤井 勉 戦死)

 「阿武隈」 左舷前部に魚雷命中 

 「満潮」沈没

 「最上」艦橋と防空指揮所に3発直撃 艦長、副長、航海長、水雷長ほかほとんど戦死、 砲術長 砲撃指揮所から指揮をとり、南方に離脱を決意。その後、米雷撃機17機の攻撃受け直撃弾2、自沈(僚艦「曙」の雷撃による)(鷲野幹男 戦死)   

  志摩長官 戦況不明のため反転の命令

 「時雨」 単独南下、戦線を離脱

 「朝雲」沈没

 

  西村艦隊は「時雨」1艦を除いて全滅し、志摩艦隊は米艦隊に一撃を加えることもなく反転した。

小沢艦隊

  0815 第1次空襲170機 

「瑞鳳」直撃弾2、至近弾6、「瑞鶴」魚雷1、直撃弾3 通信不能

  0856 「秋月」沈没。

  0937 「千歳」沈没。(柄沢節夫、未岡信彦 戦死)

  0958  第2次空襲36機 「伊勢」直撃弾1、至近弾8

  1016 「千代田」航行不能。

  1054  小沢長官 「大淀」に旗艦変更。

  1306  第3次空襲200機 「瑞鶴」魚雷7、直撃弾4命中

  1414 「瑞鶴」沈没。(都野隆司、佐野 寛 戦死)

  1655 米巡洋艦の攻撃を受け、「千代田」沈没。(稲葉 博、甲賀公夫、西 尚男 戦死)

  1722 第4次空襲85機。

     「伊勢」至近弾34、

「日向」至近弾7、

「大淀」至近弾4。

  2059 「初月」沈没 単艦で敵艦13隻と交戦沈没。(島本紀久一 戦死)

  2300 「多摩」沈没 敵潜攻撃による。(増田 弘 戦死)

  2345  夜戦を断念、北上して離脱

  この日の米軍延べ総攻撃機数は527機にのぼり、 空襲によって空母4、駆逐艦1が撃沈された(他に2隻が沈没)。しかし、戦艦2、軽巡2、駆逐6の生存艦を擁して帰還できたことは「戦術的成功」であったともいえよう。

小嶋辰雄(攻3 艦爆操)・仮崖久雄(攻3 偵察)捷一号作戦:レガスピー東方海面を索敵攻撃に発進後、消息を絶つ(彗星)

レイテ突入の日で、1日で22名という多数の戦没者を出した。

10月26日

 機52期訃報

 関 陽三 様 22.10.23 没

関さんとはアドミラル会で長いことゴルフを一緒に楽しんでいた。今年の5月の最期のアドミラル会にも元気で参加されていたのに、急逝された。慎んでご冥福を祈る。

 0834 「大和」対空射撃開始

以後1212まで、B24陸上機を含む連続した空襲を受ける

0850 「能代」魚雷1、直撃弾1 この日の被害担当艦となる

1113 「能代」沈没

 25日の戦闘で負傷した伊藤比良雄(矢矧 巡洋艦)遂に息を引き取った。

1027

74期訃報

 吉田 秋義 様(1学年 35分隊) 221026 没

  謹んでご冥福をお祈りいたします。

66年前の27日の戦没者

 西  金蔵(鳥海   巡洋艦) 敵機動部隊と交戦、比島サマール島沖で沈没、藤波に救助された後、同艦沈没の際戦死

 伊藤 利治(鳥海   巡洋艦) 同上

 實吉 安志(藤波   駆逐艦) 鳥海の乗員を救助、帰投中、敵機の爆撃を受け沈没戦死

 沼田 寛三(不知火 駆逐艦)比島ミンドロ沖で敵艦上機の攻撃を受け沈没戦死

 比古田宏進(戦317 戦闘機)比島方面航空戦でレガスピー付近にて墜落戦死(零戦)

 近藤 寿男(攻5 艦爆操) 神風特別攻撃隊義烈隊として、レイテ在泊敵艦に突入戦死(彗星)

 高野末五郎(901空 陸攻操)南西太平洋で船団護衛中、敵機の攻撃を受け墜落戦死(一式陸攻)

 片岡 政士(攻702 偵察) 比島沖海戦に於いて、敵空襲部隊と交戦戦死(一式陸攻)

東京クラス会出欠返事

 溝井 清 欠席

1028

 寺岡 恭平(伊45 潜水艦)191013比島東方海面に向け呉出撃、敵機勤部隊を攻撃後、消息を絶つ(191121戦死認定)(米潜シーデェビットの雷撃により191028沈没:米軍資料)

2150 栗田艦隊主隊 ブルネイ帰港

 

1029

 藤井 弘元(那智 巡洋艦)マニラ湾で敵大編隊の攻撃を受け被弾戦死

 風見 芳郎(254空 戦闘機)比島クラーク アンへレス南飛行場付近で敵機を迎撃、交戦戦死(零戦)

 安保 寿夫(戦315 戦闘機)比島タクロバン攻撃中戦死(零戦)

 

1030

 東京クラス会出欠返事   足立之義 欠席


先日紹介した左近允尚敏君の「捷号作戦はなぜ失敗したのか」を初めから順に精読している。

なかなかよく勉強されていてその詳しいことに驚きで一杯である。まだ初めの方を読んだだけだが。

ここでその目次を紹介する。

序 章  重巡洋艦・熊野の戦闘

第1章  マリアナ戦後の米軍

第2章  マリアナ戦後の日本

第3章  米軍、レイテ上陸

第4章  レイテ上陸と日本軍

第5章  パラワン水道

第6章  シブヤン海

第7章  ハルゼイの北上

第8章  スリガオ海峡

第9章  サマール沖 その1

10章  サマール沖 その2

11章  サマール沖 その3

12章  神風攻撃、エンガノ岬沖

13章  1026日以後

終 章 総括 所感/論評

1031日の戦没者

 66年前の昭和19

 羽原  寛(伊364 潜水艦) ウエーク島への緊急作戦輸送のため19914横須賀出撃以後消息を絶つ(戦死認定)

(房総半島東方250浬で米潜シ―デェビットの雷撃により19915沈没:米軍資料)

 出雲 凡夫(801空 大艇操)本邦南方洋上哨戒のため発進、300浬地点進出報告後消息を絶つ(二式大艇) 

 東浦登代治(大湊空 偵察)索敵の為基地発進後、台湾沖で消息を絶つ

先に羽黒砲術長の書かれた記事をHPにとりこんだが、羽黒の高角砲員で海軍1等兵曹だった石丸法明氏の書かれた「海の勇者の終焉 ペナン沖に消えた羽黒」があったので、HPに取り込んだ。

この資料は石丸氏から左近允尚敏君に送られたもので、私は左近允尚敏君から受取った。

羽黒には、小松崎正通、斎藤五郎、小島丈夫、伊藤正敬、土屋賢一()5名がいたが、レイテ作戦時には、小島と土屋の2人が残っており、両名は205月羽黒沈没時戦死した。

 砲術長は204月転勤したので、羽黒の最期には立ちあっていない。

この記述にはレイテ戦以後沈没迄の事が詳しく書かれているので転載することにした。

TOPへ   ブログ目次