八 雲 残 照 |
泉 五郎
「八雲」と聞いて今の若者は何を想像するだろうか? 小泉八雲。即ち明治の文豪ラフカディオハーン!?
そんなところが精一杯か?
その小泉八雲ですら今や、遠い遠い過去の人である。
「小泉八雲って小泉総理のご先祖様?」などと本気で問い返されるかも?
まさかこれが「軍艦・八雲」のことと思いつく人は、今の世の中では百万人に一人も居まい!
それほど遠い昔の代物、ところが奇跡的にも昭和18年にこの軍艦で実習や訓練を受けた候補生達にとって、甚だ貴重な当時の非公式文集「艦内新聞」が存在した。
これが「行脚」という当時の題名で復活、「なにわ会」のブログで日の目を見ることになった。
この行脚とはもともとは「あんぎゃ」と読むのが正しいが、海軍では艦艇の進行惰性のことを「ゆきあし」と称し、あわせて積極的な行動力をも意味した。
また、「なにわ会」と云うのは、元々は海軍兵学校72期会の別称であったが、戦後は同年に機関学校・経理学校に入校した三校の同期生 (Correspond Classmate) 略称コレスも合同しての親睦会である。
ところでこんな文書でも当時は、これを複数作るとなると中々の大仕事であった。勿論、現在のようなコピー機などは存在しない。
お粗末なザラ紙にガリ版刷りではあったが、恐らくごく少部数が艦内新聞として甲板士官事務室あたりで印刷されたものであろう。
勿論、艦長室、士官室、中少尉以下の士官次室等にも届けられていたことと思われるが、大袈裟に云えば当時の海軍には未だ言論の自由が多少でも残っていたのか?!
もつとも、最初のころの記事といえば兵学校生徒の「自啓録」の延長に近いものであった。
この自啓録と云うのは一応生徒の日記帳のようなもので、これは時々担任の教官が点検遊ばすこともあった。そうなると、些か本音ばかりであったとは言い難い。
ところがこの新聞は乗艦後3週間あたりから、なんと新米候補生の論調が次第にユーモラスに様変わりしてくる。
然し、この折角のユーモアも昔の海軍用語では一般人には判らない。そこで、部外者にも判りそうなところだけを抜粋、当時は「娑婆の人間」と称していた一般人向けにその一部を書き直してみた。
但し、残念ながらドンパチドンパチの勇ましい物語でもないので、果たして面白いと思ってくれる人がどれだけ居るか?
もつとも、世間には少数ながらも海軍マニアのいることも確かである。その彼らの眼にとまることがあれば望外の喜びというものである。
ところで、我々が海軍兵学校を卒業した昭和18年には戦局も既に傾き、祖国の前途多難は火を見るより明らかであった。
我々は初級士官増強のため卒業も2ヶ月前倒し、最後の頃は本当に朝から晩まで猛烈な詰め込み教育が行われた。
然し、それでも9月15日の卒業式には高松宮が天皇の名代として臨席、成績優秀者にはご褒美に短剣が授与された。所謂これが当時の我々には絶大な憧れの的「恩賜の短剣」である。
実は私も僅かのことで貰い損ねた! 僅かのこととは?・・それは云わぬが花の軍事機密に属するので残念ながら公表しかねる!
冗談はさておき、アメリカのアナポリス海軍兵学校では、卒業式が終わると生徒の軍帽を放り上げて一騒ぎするようだが、我々の時代の卒業式は厳粛そのものであった。
天皇の名代として卒業式に臨席の高松宮を表桟橋までお見送りしてから服装も候補生に変身という次第である。
変身といっても夏の白服の場合は錨マークの生徒の肩章が金筋一本に変るのと、足元が士官並みの白靴に変るだけ、これはいたって簡単であった。
もっとも頭には燦然と輝く桜と錨に抱茗荷の帽章!
所謂マドロス帽がなんとも格好よく思えたものである。
戦前の所謂「古きよき時代」なら、教官や家族の見送りを受けてこれからが遠洋航海の始まりであるが、残念ながら我々の時代は勿論夢のまた夢!
卒業と同時に約半数は練習航空隊へ、残り半数が海上部隊等への配属となった。そして新候補生は校長以下、教官や下級生達の見送りを受け、公式には兵学校の正面玄関にあたる表桟橋から内火艇などに分乗、それぞれの配属先へと巣立って行った。
因みに表桟橋と反対側の陸上の入り口には勝海舟の筆になる『海軍兵学校』の表札が掲げられ、衛兵所もあって一般的にはこちらが正門として扱われている。
その海上部隊への配属は戦艦「伊勢」「山城」に軽巡洋艦「龍田」が第一線部隊で、実戦即実習訓練の場。そして残り約90名が我が軍艦「八雲」乗組みを命じられた。
この軍艦「八雲」は日露戦争にも参加したと云う骨董品であったが、当時は未だ敵の空襲もなく安全な瀬戸内海での新米候補生の練習艦として配備されていた。
最早実戦の役には立たたず、いわば教育訓練のための教材として余命を保っていたが、幸運にも私はその八雲乗組みの一員に選ばれた。
訓練は相当厳しかつたが今から考えると、この八雲での二ヶ月は我が海軍生活を通じ最も楽しかった時代であった。
そして、その当時の艦内生活の様子を記録した珍文書が最近日の目をみることになった。
それが前述のガリ版刷り、八雲の艦内新聞「行脚」である。
軍艦八雲で始めて本格的な海上生活を経験することになった我々にとって、この新聞は甚だ懐かしい。
創設以来、我が海軍はイギリスからそのユーモア精神を学んだとされているが、文中には当時の海軍俗語や略語が多用されている。
これを標準語になおすと折角の面白さも半減するので別注を入れた。
それにしてもこの話、今の人に理解して貰えるかどうか?些か心もとない。
・・艦内新聞の記事から・・
前置きはさておき、我々が兵学校を卒業したのは前述の如く昭和18年9月15日である。当時は最近ほど気温が高くないとはいえ、9月半ばではやはり残暑も厳しい。
私が乗組を命じられた軍艦八雲はいささか実戦には耐えられない老朽艦とはいえ、本来は鉄の塊だから海上で直射日光を浴びると誠に暖かい!
畏れ多くも忝くも、舳先に菊のご紋章を頂く軍艦に乗せて頂きながら暑いなどとは不敬千万!・・・誠に昔は我々も辛抱強かつたものである。
とはいうものの汗だくの艦内生活には大いに閉口、新米候補生は今更ながら江田島での生活を懐かしく思い返していた。
ところで、この軍艦八雲はなんと汽車ポッポと同じ石炭を焚く蒸気機関が動力源である。
既に、ディーゼルエンジンが主力のこの時代、流石、この骨董品的存在の八雲には機関科候補生は配属されなかつた。
然し、東京は築地の経理学校からは主計科の候補生も、この残暑厳しき中を遥々東海道線、山陽線、呉線と乗り継ぎ、翌日の16日八雲に着任した。
もっとも当時20歳そこそこの候補生でもマアマアそこそこの待遇であるとはいうものの、実は当時「牛馬・兵隊・候補生」という言葉もあった。
決して楽ばかりではなかったが、愈々我々の遠洋ならぬ「瀬戸内練習航海」での青春物語の始まり々々!
とは云ってもこの手の話は概ね当事者以外には面白くも可笑しくもない。面白がつて居るのは筆者のこの私だけかも知れない。
自慢じゃないが我輩が「天上天下唯我独善大居士」と自称する所以でもある。
椿事第一号は、候補生ハンモックからの転落事件! 本当のことを云うとこの事件は、艦内新聞にも取り上げられなかつた何ともシマラナイ話であった。
某候補生(本人の名誉のため敢て匿名)がハンモックから転落、眼を回したという一件、私の隣でおきた事件だけに記憶に生々しい。 候補生の面目丸つぶれという体たらくで、あまり下士官兵には知られたくない話であった。
今の人がハンモックといえば、誰しもネットに編んだ軽やかな夏の寝具を想像するであろうが、当時それは釣床と称された分厚いキャンバス製で、毛布をかぶって寝たものである。今時のネット製の軽やかな寝具とは訳が違う。
そして毛布を芯に硬く縛りあげられ、いざと云うときには艦橋など艦内要所の防弾具や防水用具に転用された代物、もとよりあまり眠り心地のよい代物ではない。
昔々、日露戦争は日本海海戦で旗艦三笠の艦橋に悠然と聨合艦隊司令長官東郷元帥が佇立している絵は有名である。そしてその艦橋の周囲にはこのハンモックが防弾具として装着されている。
艦内での下士官兵の寝具は概ねこれであったが、当時候補生の分際ではこのハンモックが青春の夢をまどろむ寝具であった。
ヘマをやるとこのハンモックを担いで「甲板一周」なんて不名誉なお仕置きをうけることにもなった。
堅くて太い丸太ん棒のように縛りあげてないと、バナナのようにグニャットと曲がってくる。そうなると候補生の面目は更に丸つぶれ!
この落下事件はあまりにも馬鹿げた原因による大失態で、流石本人の名誉のため艦内新聞にも掲載されなかった。
今となっては颯爽たる筈の候補生、一生一代のシマラヌ笑い話であったか?
ところで此の艦内新聞、当時誰が編集したのかそれも判らない。然しガリ版刷りは字の上手な兵員が書いたことだけは間違いない。恐らく甲板士官事務室あたりと思われる。
後にはこの紙面で散々槍玉に挙げられた指導官付の航海士や甲板士官は勿論、艦長以下諸々先輩指導官の目にもとまっている筈だが、未だ当時は誠におおらかなものであった。
然し、その最初の頃の内容には正直、我々も昔はこんなに真面目で純真であったのかと感心させられる。コレ、ホント!
先ずはその頃の記事によれば乗艦5日目、風速20Mの台風接近。避難のため大黒神島付近に転錨することになった。
折りしも、当番のKW候補生は艦橋で目を皿にしての見張最中・・航海長より
「M.候補生、位置を入れよ!」と命じられた。
「位置を入れよ!」とは海図上に航海中の本艦の現在位置を記入せよということである。
位置を入れるには島影や灯台など目標の方位を計測しなければならない!
天候不良でご本人のM.候補生には何も見えなかったのに、艦長や航海長は既に島影を発見! 己の未熟さに恐れ入ったと告白している。
ところが半月も経つとポツポツ面白い話も紙面に登場する。
先ずは主計科候補生が自分の腕時計をデッキウォッチの時刻に合わせようとして盛んに首をひねっていたという話から。
同じく「位置を入れよ」といつても陸地の見えない場合にはどうするか?
これこそが兵科候補生の習得すべき最も重要な技術であった。
星や太陽の水平線からの仰角とその計測時刻から海図上に自艦の位置を算出する技法、これを天文航法という。
天体の仰角を測る道具が六分儀、その計測時刻を測るのが「甲板時計、或いはデッキウォッチ」とよばれ極めて精巧な時計で、羅針盤と同じように転輪装置でいつも水平に保たれていた。
ただしこの時計の表示は必ずしも正確な現在時刻ではない。正確な時刻は別に毎日計測される時報との誤差を加減して算出する。
毎日合せていては時計の精度が落ちるからである。当然兵科の候補生達は腫れ物を触るように大事に扱っていた。
この主計科の候補生にしてみれば、
『ナンじゃこの訳の判らぬこの時計は ? 』と大いに面食らったであろう。
昨今はどんな小さな漁船でもレーダーで楽々航海できるが、当時はこの天測技術こそが兵科候補生の習得すべき最大の課題であった。
こんな話は事情が判らぬと大して面白くも可笑しくもないか?
他にも新米士官らしい純真で真面目な反省文も多いが、戦死、さらに特攻出撃した仲間の投稿には心が痛む。概して悪い奴ほど生き延びたかも知れない。早々と戦死したHT候補生の一文、当時二十歳そこそこ!
動顛せぬとは物事に留まらぬことに候。例えば一本の木に向かいてその中の赤き葉一つをみておれば残りの葉は見えぬなり。葉一つに目をつけずして一本の木に何心なく打ち向かえ候えば、数多くの葉残らず目に見え候。葉一つに心をとられ候えば、残りの葉はみえず、一つに心を止めねば百千の葉皆見え候。
之を得心したる人は即ち千手千眼の観音にて候。
お堅い話はさておき、新米候補生はつらいネ!
10月3日
呉在泊中のこの日曜日には候補生にも初の半舷上陸が許された。半舷上陸とは、任務に差し支えないよう乗員の半数宛ではあるが、皆からは「ボウちゃん」とよばれていた某候補生にとつても初めての上陸である。
然し、残念ながら行くアテもない。
そこで先ずは古巣の江田島へとお出まし。当然ながら今更こんなところ出掛けても面白くもなければ可笑しくもなかったらしい。
そこで今度は呉の水交社へ。ここでもキョロキョロ、ウロウロしているのは八雲の候補生ばかり。
これが一年後の潜水学校学生ともなると、昼間からでも海軍隠語で「ロック」や「ラウンド」と呼ばれた料亭にしけこんだであろうに! 当時は「某チャン」本名ボウチャンもまだまだ純真そのものであった。
話変って一大事件発生!
我輩はその日その時、まさに見張り当番として 艦橋の大型望遠鏡を覗き込んでいた。オヤ?と思ったその視野に異常な光景!
海面に奇妙な三角形のような物が突き出している。どう見ても潜水艦の艦首らしい!
これは大変!吾輩は大声で叫んだ・・
「艦長!左70度700!潜水艦が沈没!」
「何ィ! 潜航しているのじゃないか?」
「いいえ!艦首が水面に突出しています!」
首からぶら下げた双眼鏡で確認した艦長は大慌て、大声で号令をかけた!
「取り舵一杯!両舷前進原速、黒3!」
一路西航、遭難潜水艦救援に赴く、進路250度 速力48ノット!
と言いたいが何しろ1900年ドイツ生まれ。一万トン近い巨体がもくもくと黒煙を吐いて進む姿は誠に勇壮ながら、舵もすぐには効いてこない。
速力四十八節! といえば格好いいが、残念ながら「始終8ノット」という次第。
艦長が羅針盤両側の修正用鉄球をつかんで、まるで「艦よ早く回れ」と云わんばかりに力んでいた姿が今も脳裏に鮮やかである。
この八雲は昔々のその昔、日露戦争では日本海海戦にも活躍した主力艦の一隻であった。
戦前の平和な時代には候補生の練習艦として度々遠洋航海、海外諸国を歴訪した由緒ある名艦でもある。
他の候補生はいきなり第一線部隊に飛ばされたが、八雲配属の候補生はクラスでも成績優秀、品行方正、将来が期待される俊秀ばかりが温存された。
という話には全く根拠ないが、いずれにせよこのような遭難現場に遭遇した事はなにより大変な経験でもある。
異変発見から現場までは8ノットそこそこでも左程時間はかからなかった。場所は我々が生徒時代に短艇遠槽や宮島遠泳でなじみの海面、正確には安渡島の東北東約2キロの海域であった。
付近に到着後間もなく潜水艦の前部発射管門扉が開いて一人の人間が現れた。艦首発射管部分だけが漸く三角形の格好で海面に姿を現していた。
全く不幸中の幸いと云うかで、僅かに艦首発射管が水面上に出ていたお蔭で乗員が脱出、潜水艦の沈没事故の割には人的被害が艦尾に閉じ込められた16名と比較的少数であった。
後に私も潜水艦勤務となったが、この事故はまことに印象深い。
なお、この伊183潜遭難の詳細は戦後の昭和54年刊行された「日本海軍潜水艦史」に詳しい。実際の事故は10月6日1040に発生。
話を戻して同日の艦内新聞、別の記事。
「候補生室の天井は青色に塗りたきもの哉」とある。 いつも教官の口癖は
・・「候補生は青天井!」・・
つまり部屋で休むなどは以ての外!としごかれるので、これは泣き言、少々情けない!
「青天井」と言えば「候補生のマスト登り」の記事。平素、おとぼけ顔の砲術長がマスト登りの早業をご披露。「喝」を入れられた候補生共、改めて砲術長に畏敬の念一入!人気益々上昇!
その当時は10才も違えば大変なお年寄りに見えたが、我々が今の齢になってみると少々ひねた孫くらいの年頃であったか。
10月10日
T.T.候補生・天測結果報告に参上
「航海士!」・・「うーん」
「これがアトラス、これがリーゲル、シリウス の線」 「この三角形が・・・」
ご返事ないのでよく見ると流石は「八雲」の航海士!コクリコクリと白河夜船の船頭さん!
そこへ偶然現われたる通信士、腹を抱えて大笑い!
「起すな、起すな、 証拠写真じゃ!」と大はしゃぎ。
それでもT.T.候補生、親愛なる航海士の名誉のためと一段声高に
「この三角形の中心を取りました!」
残念ながら反応なく心残して退散!
通信士の証拠写真が残存すれば歴史的一大スクープになるのだが?
同日別の記事、T.F.候補生の嘆き!
「およそこの世に俺ほど鈍いものは居るまい! 天測の計算はいつもビリだし、短艇達着では特別訓練!」
ところが、その彼がこの日の航海中、当直将校として八雲を操艦する破目と相成った。
なんと第一回目の変針では面舵と取舵を取り違え!・・つまり右と左を間違うとは信じられぬ 大へま である
2回目は変針点を過ぎてもコンパスにかじりつき、気がついたら又もや同じ舵の取り違え!
こりゃ大分喝をいれられたろうが、本人のしょげようも一方ならず!
「気取らず、焦らず、怖気ざる」といつても相当こたえたか?
同日、I.M.候補生の一句
秋の暮れ 淋しき雲の 影みせて
戦友の悲しく ゆきにけり
この戦友とは中学時代の友人のことでもあろうか?この時点では我々同期生には未だ戦死者はいない。何となく悲しげな歌である。
このI.M.候補生、大手建設会社にいたが故郷の市長に乞われて助役に就任、活躍を期待されながらも早世。
10月24日
昔、軍艦にはカッターと称する手漕ぎの大型ボートの他、内火艇と称するエンジン付き小形交通艇も搭載されていた。いわば海上の自家用バスのようなものであった。
軍港などに停泊中は定期的に桟橋と往復したり、臨時に艦長などを送迎することもある。
今時の漁船や民間の小形舟艇ではこんなものは一人で何役もこなす。
ところが、昔の日本海軍では操舵を担当するベテラン下士官の艇長。更にその上に「艇指揮」という役柄があった。
この艇指揮こそ先ずは我々少尉候補生がこなさなければならないお役目であった。
将来大型艦艇を操艦する為の重要な基礎演習でもあり、大袈裟な言い方をすれば海軍将校としての適性が問われる役目でもある。
この日のKO候補生の反省!ではない艦内新聞への投稿。
本日、彼は艦長お迎えの内火艇指揮を仰せつかって大張り切り、その彼の迷指揮振りをご覧あれ!
舷梯を離れた内火艇は港内のブイ群を斜めにまっしぐら。
オット危ない!左舷がブイにすれすれ!
「少し取り舵のところ宜候!」・・「ようそろ」とはその進路で宜しいという
日本古来の舟乗り用語がそのまま海軍用語に踏襲されたもの、因みに取舵は左、
面舵は右に舵をとること。他にも多々・・
艇首見張員又もや・・「前方にブイ!」
艇指揮K.O.候補生・・次の号令がピント来ない。
慌てて「取舵!」・・
オット危ない!慌てて
「戻せ!面舵一杯!」
とわめいても後の祭り!
「ドカン!」
とブイにキスとはお見事、お見事!
夜の茶話会で指導官からお言葉頂戴・・
「貴様、もう少しシッカリぶつけて艦長に鼻水垂らさせたら、俺がほめてやったのにナア」・・とはホントにホントかいな?
10月28日 I.M.候補生の嘆き・・
小春日和の瀬戸内に一隻の重巡、その勇姿に砲術長のご質問。
「あの煙突は何故1本になっているか?」「判るか?」・・・「?・・」
「判かんないの?!・・室内の面積を広くしてあるんだよ」・・「?・・」
「ネェ、ネェ!そうじゃないかネェ!」
I.M.候補生黙して答えず!
「な!そうだろう、M候補生」
やむを得ず「はッ はい」・・内心テヘッ!(内心テヘッ!つてどういう意味?)
11月10日 K.N.候補生
「行脚のない奴は駄目!」
とは教官先輩方いつもの口癖、お説教!
この日の内火艇達着訓練での風景。
教官の問覚上人はお年でもないのに例の如くキャビンの上で長い杖を構えて、
「N候補生!八雲の左舷梯に着ける!」とノタマウ!
舷梯とは入港時に舷側に設けられる梯子段のことである。
「ハッ」・・ N候補生元気よく・・
「舷梯宜候!」
教官・・「舷梯ではない。それより一寸前のところだ!」
ところが如何せん、平素から行脚!!と叩き込まれている所為か
舷梯めがけて行脚好調!「チンチン・・チン」ガシャン
「馬鹿!」杖でポカン!
問覚上人の講評
「貴様達の達着は行脚が大きすぎる、もう少し小さくしろ!」
「その代り勉強にはあの行脚で行け、よいか!」
仰せのとおりで行脚のない人間は駄目!
N候補生よ!「肝に銘じて勉むべし!」
この頃になると記事の内容も益々図々しくなる。航海士(略して×コシ×)を槍玉に何ともケシカラヌ手旗信号のやり取りまで登場。
「×コシ×ケンザイナリヤ」
「タダイマカイズシツニテイネムリチュウ」
「イマダサメズヤ」
「ハナカラチョウチン」
今から思うと航海士の岩淵中尉が一人で約90名近くの候補生の面倒をみるのはナントモ大変な仕事であったろうと思う。
この記事の投稿者も実は同情半分、 冷かし半分!なかなかユーモラスな記事ではないか?
彼の有名な「×チン×タツ×サセ×ニコイ」ノ信号に肩をならべる名文か?
これは新婚早々の青年士官が留守宅の新妻の宛てた電文である。
×チン×は戦前要港部だった朝鮮の鎮海、×サセ×は軍港佐世保のことである。
「鎮海を出立するから佐世保に来い」という内容で、文言の前後にある××は略語の始めと終わりの記号。
それにしても×コシ×つまり航海士は候補生の人気の的か!それとも怨嗟の的か?
T.T.候補生の投稿文
今日も×コシ×の昼寝かな
海図室 航海士どもの 夢の跡
「誰のこつじゃこん歌は? こりゃなになんじゃ?」
「さっぱり判らん、貴様らはどもならん!」
T.T.候補生苦心の投稿だが読む方もさっぱり判らん!どもならん!
更に某日T.M.候補生の投稿文。
針路240度
快速を誇る我が帝国最新鋭の軍艦八雲、白波蹴立てて瀬戸内を行く!折りしも当直将校は我が親愛なる問覚上人。
舵を操るは桃から生まれた桃太郎も斯くやと思われる新米候補生!
秋天晴朗、正に雲一つなき日本晴れ!
操舵室には風もなくぽかぽかと正に天国。
両舷の通信器当番もコクリコクリと舟を漕ぐ。
お蔭で軍艦八雲は「原速四十八ノット」
うねり一つだになく鏡の如き大海原を白波けたてて驀進中。
突如艦橋より大声・・「取舵に振らすナ!」
ハットして逆に抗舵をとつた心算がまだ取舵に振れている!
艦橋より大声・・「操舵室どうした!」
・
・シモーツ!・・「舵を反対に取りました!」
艦橋声なし、前代未聞と呆れ返ったか?
やがて八雲も重い艦首の振りを止め静かに戻し始めた。寝ぼけ眼の操舵員又もや無我の境地に入るか?
かもめがさっと艦首を横ぎる、陸地も近いナ!
・・・ナンとも詩的な文章のことヨ!・・
候補生も楽じゃない!
某日内火艇訓練あり。行脚過大なもの、失敗した者は上甲板一周!
つまりドカンとぶつけたり、行過ぎたりした者は哀れにも上甲板一周の憂き目!
情けナや某候補生、堂々1着と云う 「貴様!短絡したんじゃなかろうな!」とはいよいよ以ってケシカラン!(短絡とは内緒で近道すること)
・・陰の声・・くよくよするなよ、タダ冷かされただけの話サ!
江戸の仇は長崎でもあるまいが、某候補生の筆鋒も相当なもの!
某候補生、四苦八苦してとは大袈裟な
がら、ようやく計算し終った天測結果を報告に参上して見ればこれ如何に!
我が八雲の航海士は白河夜船の高鼾。涎を垂らし鼻提灯の停泊士とは情けナや!
「航海士!航海士!」と呼べど、応えず、そのまま轟沈。天下泰平!
元は云えば鬼の一号! 三角定規でコツンとやられるくらい目くじら立てるほどのことでもない。
タツタ一人で90名の候補生の面倒みるのは並大抵の事じゃないどナ、もし!
負けじとR.Y.候補生
スタンドで 居眠り顔を みな隠し、ああ眠し ×コシ×が舟漕ぐ 海図室
当直は 問覚×コシ×の 絞めコンビ
釣床や 今日も枕の 諸例則
この諸例則とは海軍万般の規則を定めたもので、いわば海軍の六法全書のようなもの。
結構、海軍も規則々々で大変な一面もあった。
同じくK.A.候補生
諸例則 首をつっこみ 酒保を食う
高等官の 候補生
甲板士官事務室にて
頃は某日八ッ下がり、甲板事務室にて大小厚薄種々雑多の書類を次から次へと見せつけられ、甲板士官とはかかる仕事もやらねばならぬのかと些かウンザリ。
ぽいと外へ出た途端、一水兵美味そうな酒保とラムネを持参、
「甲板士官!点検お願いします!」・・
「甲板士官はだなア、兵の慰安についても充分に考えねばならぬ!
健康についても同様である!それで新しい酒保はこうやって一々点検するのである」
「その心算で皆充分噛みしめて味わって見ろ。カカレ!」
嗚呼!その時のラムネの美味かったこと!
そこでこっそりその兵に聞いてみた。「ラムネはどうしてこんなに冷やして持ってくるのか?」
兵答えて曰く
「甲板士官は何時も冷やして持って来いと云われますので、長官食器室で冷やしてくるのであります」
・・・甲板士官とはなんとも結構なお役目で御座りますナ!
自称「鬼竜」候補生
「軍艦八雲に過ぎたるもの三つ」
(1)写真に絶対の自信をお持ちの迷甲板、私は何時も引き立て役。奇妙なことにどの写真も横に侍っています。
(2)航海中も停泊中の如く、いとも安らけき眠りにおつきあそばす迷航海士。
最初宣言された如く一航海でコツンとやられた奴は一〇〇、つまり兵科候補生全員というわけ。
ちなみに海軍では一は「ヒト」○は「マル」と呼称していた。
(3)諸例則に通じられざる迷補佐官!
円滑性があるようでないような一挙手一投足、酔ってないのに酔った振りをするのは誠にお苦しかつたことと拝察申上候。
十一月になると投稿内容も更に過激になる。「無題」と題しているが、成程なんと題してよいのかご本人ならずとも悩ましい問答の様子。
砲術長・・
「主任指導官!私は月足らずでしたが今ではこんなに大きくなりました」
主任指導官・・「そうか!これは私の私見だが、禁酒禁煙で酒保さへ食って居れば大きくなるよネ。
そうだろう○○候補生、ネ!」・・・なんとお答申し上げればよいのやらネ?
問覚上人・・
「色眼鏡はだネ、相手からは見えなくて自分には見えるから・・・」
「それにしては色が少し濃いようですね」
「馬鹿いえ,総ては戦斗即応じゃ」
無題と題して十一月三日 S.I.候補生
この日は目出度き明治節。夜ともなれば「酒保開け!」の令一下、艦内無礼講の酒盛りが始まる。
上人私室で既に甚だご機嫌!
「エーカ!俺の言わんとする所はだネ!」
「七生報国、ソレダケダ!」
口を拭って
「へっへっへ!マタハリーのツンダラカグシャマよ!」
「チンチンチン!」・・宇佐の神鈴の音
・
他にも・・およそ我々実習の清涼剤は士官室の奇材、運用長の中尾大尉である。
そのユーモラスな言葉を聞こうではないか!・・・
パイプをキリリと首に巻き潮焼けした顔を綻ばせてのたまわく
「練習艦隊運用参謀中尾音吉ドウじゃ!エヘッヘヘヘ!」
一杯加減で軍装の上着を頭に巻いて、
「北方へ行けばこうして勤務するぞ! 候補生どうじゃ!エヘヘヘ!」
又、一杯きこしめして兵員事業服を身にまとい、「ハンケチ頭にドウじゃ!
バーモウ長官によく似とらんか!」
なんとも愉快なお方でござった。
八雲の生活も残り少なくなってくると
「乗る前はオンボロと悲観したが、我々八雲組は最高だった!」と
感謝賛美の記録も散見される。
おそらくこれは八雲候補生全員同じ気持ちではなかったろうか!
ところでこれ迄の記事は前述のとおり、我々が乗組んでいた当時の八雲の艦内聞の中から真面目な記事は概ねボツ。
面白そうなネタばかりをピックアップしたが、たまたまインターネットで驚くべき発見をした。
ナント!なんと!
「軍艦八雲艦内新聞1〜132号まで戦前・昭和初」がオークションで落札されたばかりとは!誠に残念無念、
昔の新聞と比較できたら興味も倍増したであろうに!
然し、楽あれば苦もあるのが人生。
八雲の候補生もいいことばかりではない。
それは先人の労苦が偲ばれる石炭搭載!
伊達や酔狂で煙は吐かぬ、これぞ軍艦八雲の真骨頂というべきか?
能書きばかりは如何様にも格好付けられるが本音は一度で沢山!
頭のてっぺんから足の先まで,鼻の中まで真っ黒けのけ!
勿論肺の中にも微細な石炭の粉塵が侵入したであろうことは間違いない。
多分、呉軍港の岸壁ではなかつたろうかと思うが大きな団平船に満載の石炭を仮設階段を組んで艦内に積み込む作業である。
石炭といってもバラではない。大きさは丁度厚めのコンクリートブロック程度に成型したもので、これを人間コンベアで手送りするのである。
機関部までの狭い艦内は特に大変であった。私は団平船に近い場所での作業だったので比較的楽なほうだった。それにしても石炭搭載だけはまっぴら御免、二度とはしたくない!
・・・以上は艦内新聞から抜粋・・・
「楽は苦の種、苦は楽の種」
石炭搭載が楽の種になったという訳でもないが、ことのついでに八雲の瀬戸内巡航の思い出を綴ってみよう。
とは云うものの往時茫々、僅かに残る記念写真とスナップ写真だけが頼りの綱である。
しかも、大戦の最中そして日本海軍崩壊の今日、当時八雲候補生の受けた処遇は誠に些か身に余る経験であった。
この点、航空隊や他の艦へ配属された連中に比べ、どれだけ祖国日本にお返しできたかと更に忸怩たるものがあるが、総ては運命の悪戯か。
かしこまった言い訳はその位にして、
親方日の丸の瀬戸内巡り
先ずは大三島の大山祇神社と参ろうか。
古来、大山祇神社は戦の神様として昔から海軍の信奉を受け、全国山祇神社、三島神社の総本山である。
国宝,重要文化財多数を擁し海軍との因縁も深い。
山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。
平安時代には朝廷から日本総鎮守の称を賜つたらしいが、海軍鎮守府の名称もここに由来するのであろうか。我々に対する神社の応対も大変懇切であった。
戦後も半世紀ほど経ってから女房殿のお供で再びこの大三島を訪れた。
すでに本四架橋も開通していたが素晴らしい景観を楽しむ暇もなく、尾道からもあっという間の便利さ。お陰で海軍時代の昔話を自慢する暇もなかつた。
世の様の移ろい、今やこの大山祇神社も平山美術館や耕三寺にお株を奪われた感が強いのは残念の一言!
さて私の手元に当時のスナップ写真がある。十数枚、サイズも小さく画質もピンボケ、多分誰かが撮影したものを貰つたのであろう。それでもこの記録をしたためる貴重な資料となった。
大三島の南にある彼の有名な来島海峡ではないかと思われるが、安芸灘と燧灘の干満の差によって生じる津波のような段差に候補生たちが見入っている様子が写っている。
当時は危険を避けて潮待ちする船が多くみられたが、海上交通が錯綜する昨今はどうしているのだろうか?
また四国丸亀の沖合では醤油の空樽にお賽銭や供物お手紙などをいれ、軍艦八雲の小旗をたてて海に流している写真もある。
この手の醤油樽はこの辺りで操業する漁船が拾い上げ、金毘羅さんに届けてくれるという風習であった。
戦後、といつても随分経つてから金毘羅さんにお参りしたとき探してみたが、流石に当時のそれらしき痕跡は見当たらなかつた。
八雲はさらに東は高松まで、屋島壇ノ浦の古戦場では源平の栄枯盛衰に思いを馳せながら、高松市内では高松城や名勝栗林公園など見物。
四枚ばかり小さな素人のスナップ写真が手許に残っているが概ねピンボケ、余程安物カメラで撮つたものらしく、そのうちの二枚だけでようやく自分らしい姿が識別できる程度である。
それでも今となっては昔の思い出を辿る貴重な証拠写真である。
軍艦八雲はこの辺りで針路を反転、途中呉に寄港したかどうかは定かでないが、別府に寄港したことは間違いない。
別府は私が中学三年生の頃修学旅行で見物したことがあり、湯の町別府の名所巡りも左程感激はなかつたが、その後、短時間ながら候補生にも自由時間が与えられたように記憶する。
もっとも自由時間といっても候補生には精々水交社程度か土産物屋をのぞき見する程度で、別府の街にも次第に戦時色が濃くなり始めていた。
次に訪ねたのは国東半島を挟んで別府の反対側,神功皇后ゆかりの宇佐八幡宮であった。鹿島、香取などと並んで海軍の崇拝する神社である。この宇佐には海軍航空隊もあり戦争末期には多くの特攻隊が出撃した。
この宇佐を最後に八雲は呉に帰港。
伊勢、山城、龍田組と合流、特別列車が仕立てられ上京することとなった。
途中の主要駅では内緒で面会の為に長時間待っていた家族もいたようである。
今の人には信じられないかもしれないが軍人の行動は全て軍事機密という時代であった。
本人よりも父母兄弟のほうが切ない気持であったかも知れない。
私は前述の如く中学時代修学旅行で福岡、島原、阿蘇、別府など北九州は旅したが、上京は初めてのことであった。
東海道は箱根の関を過ぎ湘南地方の光景にはいささか驚いた。沿線には見慣れた関西方面に比べて瓦屋根の
家が少なく、トタン屋根が目立ちなんとなく貧相に見えた。おそらく関東大震災の痕跡が色濃く残っていたのであろうか?
さて、11月中旬、我々候補生は兵科、機関科、主計科、そして艦隊、航空隊を問わず全員が東京へ参集し、皇居二重橋を渡って参内、宮中三殿参拝、天皇陛下に拝謁の栄を賜つたのである。全員畏まって低頭するなか天皇が壇上に出御、何かお言葉でもあるのかと期待していたが、ただそれだけの話。
なにしろ当時天皇は現人神、お年寄などは直接見れば目がつぶれるなどと云っていた時代である。
更に表参道を経て明治神宮、東郷神社にも参拝した。現在は信じられないほどのファッションの街に変貌をとげてしまつたが、当時は閑静な住宅地で道路北側の三階建?同潤会アパートが超モダンと聞かされた。
その間の移動はどうしたのか?クラスの面々に訊いてみても中々正確な辺答えがかえつてこない。
候補生全員約800名弱、隊伍を組んで行進したとすれば相当な距離である。
更に手許には伏見宮元帥を真中に嶋田海軍大臣、永野軍令部総長などの海軍首脳を囲んで記念写真がある。 恐らくお偉さんはそのまま、候補生は三度に分けて撮影されたのではないかと推察されるが、場所は芝の水交社前庭である。いずれにせよ水交社での祝宴前のものであろう。
全員解散は皇居前の広場で、その後夫々の任地に赴いた。舞鶴で入渠修理中の軍艦木曽乗組を命じられた私は、好都合にも途中で福知山線三田に立ち寄ることができた。
父と兄は仕亊で満州にいた為不在、僅かな時間ではあったが兄嫁と家を守っていた母の許で過ごせたのは幸いであった。
勿論母は大変な喜びよう、御馳走は言うまでもなく三田牛のステーキであった。
戦時下ながら当時は未だ多少の余裕があった。
三田からは教えられていた通り二等車に乗り込んだ。見送りに来てくれた母や姉達はどのように感じたであろうか?
田舎路線で一輌を半分に仕切って仕立てた二等車だったが、車内には中年の紳士が一人だけ、なんとなく居心地がよくなかつた。
舞鶴は雪であった。兵科5名、機関科主計科各1名計7名、水交社で待ち合わせ木曽に着任。
木曽では既に新任の候補生共、水交社でカレーを2杯平らげたという噂が広がっていたのには閉口!
本文終わり
この記録はクラス会のホームページで、たまたま私の書いた別稿「田中歳春君 とメレヨン島」の中のわずかな記述を岩淵さんの甥御さんがご覧になったのが機縁である。
改めて昔の写真を引っ張りだして見ると、八雲候補生が宇佐神宮に参拝した際、たまたま私は最前列で航海士岩淵中尉の右隣に写っている。
私が戦争末期、伊369号潜水艦航海長として無事その責務を果たすことができたのも、実は八雲時代に岩淵中尉にみっちり天測を仕込まれたからだとも考えている。
岩淵少佐(没後)は駆逐艦曙の航海長としてマニラ湾で米空軍機と激闘、名誉の戦死!
実は八雲退艦後、私が乗組みを命じられた軍艦木曽も同じくマニラ湾で最期を遂げた。
しかし、私はその少し前、潜水学校普通科学生に転出していたお陰で命を永らえた。
すべては運命とはいうものの今となっては空しい限りである。
改めて岩淵少佐のご冥福をお祈りする次第である。
又問覚大尉にはその後私が潜水学校普通科学生の頃、兵学校教官をしておられるときいて或る日曜日江田島に訪ねた。
御殿山の将校倶楽部でチョンガー住まいのところ、厚かましくも昼飯を御馳走に相成った覚えがある
最近亡くなられたと伺いまことに残念至極!
村井喜一主任指導官は戦後も長らく水交会の事務局長としてお世話になったが、現在白寿で御存命とは慶賀の至り!
衷心より益々のご長寿をお祈り申し上げます。