早や9月になりましたが、猛暑相変らずで参っています。
上野三郎君から次のとおり「東京クラス会」をアレンジしたいとメール」がありました。
「次により東京クラス会を開催します。
1.日時 平成22年11月16日(火) 13:00〜
2.場所 アルカディア市ヶ谷
3.会費 6,000円+通信費、マイク代等500円
4.昨年の参加者+参加してもらえると思われる方に別途、案内の往復葉書を送ります。
昨年参加しなかった方で今年参加したい方はご連絡下さい。」
昨日、窪添龍輝君から3号でお願いした4号以降のなにわ会だよりの年会費の振込用紙のコピーを送ってもらいました。4号以降ご希望の方は忘れないうちに振り込んで下さい。
8月19日のブログで紹介した『軍艦「矢矧」海戦記(建築家・池田武邦の太平洋戦争) 井川 聡 著』が74期の談話室でも紹介されている。
9月2日
今日は特に情報はありません。ただ、昨日近所に住んでいる中山 皎君から久し振りで電話を貰いました。彼は数年前から余り体調が良くなく、外には出られなくなっていました。電話声は元気でしたが、杖を頼りに週2回リハビリに通っているそうです。耳が遠くて話が聞きにくいといっていました。
9月3日
水交22年9・10月号を受領した。その中の記事の紹介です。
1 矢田次夫君の投稿
「第1潜水隊 太平洋を行く」が前号に引き続いて掲載されている。
内容は「なにわ会ニュース92号 平成17年3月掲載」と同文であり、HPにも取り込んである。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-dai1sensuitai-yada1.html
2 第17回市来会の案内
a 日時 平成22年9月29日(金)1330〜1630
b 演題 「アメリカから見たマリアナ沖海戦
c 講師 左近允尚敏氏(兵72期)
d コメント 笹幸恵氏
9月4日
福岡の山本さんの「佐伯物語」のうち、なにわ会会員に関係のある記事をHPにとりこみました。なかなか上手にまとめておられます。
「第一章 文太郎の時代、第二章 頬垂れ、第三章 泣かぬ谷、第四章 無敵海軍」は除いて、「第五章 下駄履き
、第六章 蜜柑一枝、第七章 フトン舟、第八章 豊後水道海戦、第九章 三男太郎まで取り込みました。
9月5日
66年前の昭和19年9月5日、村上 達(大村空 戦闘機)が大村基地で訓練のため離陸直後失速し、墜落殉職している。(90機練)、
印刷屋コンタスからなにわ会だより第3号の請求書が来ました。
なにわ会だより第3号の印刷代269,100円、送付用封筒及び印刷代12,000、送料10,710円、計291,810円。
その他、編集にかかった経費等129,249 円でした。
山下八重子様(茂幸君の妻)から要旨次の手紙を頂きました。
「なにわ会だよりを次々にお送り頂き有り難うございます。主人が亡くなって早や1年半、このような立派な冊子を発行されるについては、ご苦労も多いことと思いながら仏前に供えてから拝読させて頂きました。
まず、生前主人が皆様にお世話になった事に遅ればせながら御礼申し上げます。一日も早く元気になってお集まりに出席出来るようにと治療、リハビリを受けていましたが、風邪から肺炎を起こして、持病の糖尿病と肝臓がんが急に悪化、3週間の入院で帰らぬ人となりました。」
9月6日
22年7月分及び8月分のブログを整理してHPに取り込んだ。
八雲行脚も取り込んだ。何れもブログ目次にリンクさせている。
中村慶典様(兵74期)から次の手紙を頂いた。
『貴会会報第3号が水交会経由転送されてまいりました。有り難く御礼申し上げます。
以降恵送は貴意を忖度して私には遠慮申し上げます。
第3号にもお世話になった諸先輩のお芳名を拝見します。順序不動ですが、敬称を省略して、伊中四郎、森田禎介(共に偵察の教官)、柴田英夫(海上自衛隊、P2V、ご冥福をお祈りします)、豊田芳夫(19分隊、ご冥福をお祈りします大槻伍長と告別式に列席)縁が深いので列挙させていただきました。』
9月7日
7月23日に亡くなった清水君の奥様から、四十九日の法事が終わってやっと少し落着きました。清水君は自衛隊退職後長い間、透析生活を続けていたそうです。
66年前の9月5日、村上 達が殉職していたのを記入するのを忘れていたので、5日の日記に追加した。
昭和19年のこの頃までの戦没者は、航空職の殉職者がおおかった。
9月8日
台風9号が近づいていますね。これでこの猛暑吹き飛ばして貰いたいものです。
窪添龍輝君から今後のなにわ会だよりの年会費の振込用紙のコピーをいただきました。
未だ33名の方だけが振り込んでおられます。
4号以降もご希望の方で、まだ振り込んでいない方は、3号に同封した振込用紙で振り込んで下さい。
金額は、会員年2000円、ご遺族年1000円です。4号以降は振り込まれた方のみに送付致します。念のため。
9月9日
溝上正人君の弟 了様から次の手紙をいただきました。
なにわ会だより3号を送って頂き有り難うございました。長い間「なにわ会だより」を企画編集され、大変ご苦労さまです。感謝、感激して読んでおります。このなにわ会だよりを見て、兄を偲ぶただ一つの糧として、首を長くして待っております。大変だとは思いますが、今後も続けて下さる事をお願いします。
第3号では、小西愛明様が掲載して下さった「卒業直前のクラス会」を拝受し、卒業直前のあの優しかった兄の写真を見て「これが戦死前の最期の写真だなあ」と感涙いたしました。まだ18歳のあどけない少年(青年)の姿が脳裏に焼き付いて離れません。これを見てまた感激を新たにしました。
本当に貴重な写真を掲載して下さった小西様に深く御礼申し上げます。
兵74期訃報
勝俣 普次男 様(1学年2分隊) H22. 7. 9没
9月10日
泉五郎君から彼が書いたメレヨン島の記事はHPの何処にあるかと電話でと問い合わせがあった。
HPの物故者関連の中にあると教えた。このメレヨン島で44警備隊司令の副官をしていて生還した田中歳春君が平成4年亡くなった後で泉五郎君とパイロットで同島に不時着した予備学生13期の小森宮正悳氏が同島の事を書いている。
メレヨン島では隊員が飢餓との戦いで大変な苦労をし、多数の餓死戦死者を出している。今回パソコンでメレヨン島を検索していろんな記事を読んだ。
メレヨン島は、ヤップ島の東南東約600キロ、東京からほぼ南に2800キロに位置するヤップ州の離島のひとつだ。張り出したリーフも入れると東西約12キロ、南北約9キロになる大きな環礁で、そこに20の有人・無人島がある。しかし陸地総面積は2.5平方キロにも満たず、どの島もサンゴの瓦礫と砂でできていて海抜は2~3m、いまでも大きな台風が来るたびに島中が水浸しになる。
こんな場所に、1944年4月から5月にかけて日本の陸・海軍の将兵が6426人も上陸した。そのうち1945年9月の引き揚げ船で生還したのは、たったの1626人(25%)であった。4800人の死亡者のうち、戦死者は307人、93%にもなる残りの4493人は、飢えからくる衰弱や伝染病で死んだ。
その中に44警備隊司令の宮田嘉信大佐が昭和20年6月に書かれた次の文章あった。
『各隊とも食料状態、衛生状態が極めて悪い。一日平均20名近くが死ぬ。全部栄養失調からくる餓死である。兵による備蓄食料の盗難が多い。これに対しては番兵が射殺をして防いでいる。私刑(リンチ)が極めておおい。日本軍人が日本軍人を絶食させたり、つるし首にしたり、絞め殺したりといったリンチが平然と行われている。憂うべき状態である。』
この宮田司令は1946年7月18日、渦巻く非難の中で、割腹自殺された。
戦闘は全くない。米軍は島を素通りしている。これが「作戦ミス」などという軽い言葉で表現できることであろうか。「戦争指導責任者」の罪は、未来永劫にわたって消えはしない。
鎮魂、 機、齋藤
クラス最後の戦死者、菊池 滋(兵器)
菊池の比島に於ける転進作戦の苦闘は生き残った部下の記録に生々しい。凛とした部隊の掌握と陣頭指揮は我がクラスの誇りである。菊池とは4号同分隊の仲、14分隊は有名な猛烈分隊であった。なにわ会名簿では14分隊5名となっているか、当初は7名なれど2名が脱落した。
その5名の面々も井ノ山(熊野、19.11.25沈没戦死)、近藤(神風義烈隊、19.10.27比島レイテ沖)、福田(回天、19.11.20ウルシー泊地)と散華し残るは我独りとなる。
菊池は栃木の大田原中の出身、入校当夜の驚天動地の分隊姓名申告行事で訥々の栃木弁に猛烈な喝を受け奮闘せし光景を昨日のように思い出す。菊池とは3号の時も同分隊であった。当時の水泳訓練時の写真を開き往時を回想、改めて菊池の冥福を祈る。
9月11日 東京クラス会案内発送
戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年9月11日
菊池 滋(偵301 兵器) 北部ルソン方面テタイでマラリヤに罷り戦病死。
山本様の佐伯物語
第十章 第一〇二号哨戒艇が次のHPに掲載された。
http://p.booklog.jp/book/9082
この要点をなにわ会HPに取り込んだ。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-saiki-10.html
東京クラス会
9月1日のブログに書いた東京クラス会の案内の往復葉書を次の会員あて昨日投函した。
『昨年の東京クラス会参加者と欠席者のうち次回以降の案内を希望された方 53名』
上記以外の方で案内希望の方は伊藤正敬に連絡されたし。
9月12日
戦没者
66年前 昭和19年
方岡 勇、川原茂彦(敷波 駆逐艦)
南支那海で船団護衛中、敵潜の雷撃を受け沈没戦死
昨日は齋藤義衛君が菊地君のことについて書いて呉れたし、その前にはメレヨン島の記事に関連して自称特四号の田島明朗氏がコメントを書いて頂いた。このようにリアクションがあるととても嬉しいし、やる気が出てくる。
このブログの閲覧数は46,683で毎日平均58名ぐらいの方が見ておられる。最近で多かったのは9月1日の70名、7日の67名である。
方岡 勇君 堀 剣二郎
昭和19年9月12日 駆逐艦敷波は仏印(ベトナム)近くの海面で船団護衛中、潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、乗り組みの方岡君は戦死した。敷波はシンガポールを基地として船団護衛,陸兵輸送等の任務行動中であったが、内地修理のためシンガポールを出港、内地に向かう途次であった。その出港の前日、彼はシンガポール島の南岸に居た敷波から内火艇で6マイル(12キロメートル)を航行し北岸のセレタ軍港に在拍中の同型艦浦波に来て私を訪れた。
彼は同年4月までは浦波乗り組みであり、出身が私と同じ呉であつたので、明日は別れかと思うと話は尽きず、一泊して話し込んだ。翌朝迎えの内火艇で帰っていったが、内火艇が遠く離れていっても、ハウスの中に入らず帽を振っていたのが思い出される。戦記によれば敷波300名の乗り組み中、沈没による戦死者は200名を超えた。被害の大きさが想像される。ご冥福を祈ります。
9月13日
海軍機関学校同窓会会長 西島安則氏 逝去
9月3日午後虚血性心不全のため自宅で逝去された。
西島氏は「機56期」で1985年から1991年まで京都大学長を務め、その後、1998から2004年まで京都市立芸術大学長を務め、さらに今年4月、再び京都市立芸術大学長に就任されていた。
「旅順口閉塞」
海軍兵学校76期(機)の岸 尚氏の「旅順口閉塞」がHP「追憶・海軍機関学校」に掲載された。http://tng.sub.jp/zok_ryojyun/ryojyun_a.htm
岸氏は機53期の岸 昭(昭20.4.24 比島クラーク地区で戦死)君の弟さんです。
9月14日
66年前の昭和19年9月14日は卒業後丁度1ヶ年経った日でした。
この1年間に戦死、殉職で亡くなった期友は次のとおりでした。
兵 47名(7.5%)、機 5名(4.5%)、主 9名(17.6%)
計 61名であった。
そのうち航空職域での戦没者は10名でほとんどが訓練中の事故による殉職であった。
右近恒二君転居
北海道の右近恒二君が転居された。会員にはメールで新住所をお知らせした。
9月15日
今日は67年前の昭和18年、我々なにわ会会員787名が卒業し、少尉候補生になった日である。海軍機関学校53期はこの日を機53期の永代神楽祭の日と定めて毎年靖國神社に参拝している。
11月の東京クラス会の返事第1号を頂いた。出席予定者を適宜発表します。
9月16日
昨日は海軍兵学校(海軍機関学校)(海軍経理学校)を卒業した日で、機関科は第5回永代神楽祭を行った。詳細に就いて齋藤義衛君が書いてくれた。
昨日は東京クラス会参加の返事を10通頂きました。
今までの集計です。
出席は相澤善三郎、旭 輝雄、上野三郎、左近允尚敏、樋口 直、松下太郎、齋藤義衛、村山 隆、室井 正、窪添龍輝、伊藤正敬の11名で、欠席は足立喜次1名です。
『最後の海空戦』という本が有志会員の片岡紀明氏により光人社から出版されている。
その中に次の10個の記事が掲載されている。
1 エンガノ岬沖の死闘 槇航海長 後藤英一郎
2 不沈艦艦橋での通信情報戦 大和通信士 都竹 卓郎
3 海軍兵学校の四季 901空大艇艇長 伴 弘次
4 武勲艦、東支那海に沈む 金剛艦長付き 長山 兼敏
5 沖縄水上特攻に潰ゆ 矢矧測的長 池田 武邦
6 頭上の敵、眼下の敵 イ53航海長 山田 穣
7 インディアナポリスの火災 イ58航海長 田中 宏謨
8 人間魚雷搭乗員の生と死 回天隊隊長 小灘 利春
9 われ特攻に死すとも 航空隊特攻隊長 平野 律郎
10 機関科魂は)消えず 能代機関科分隊士 齋藤 義衛
殆どの記事の内容はなにわ会HPに取り込んである。
機関科第五回永代神楽祭
神慮と言おうか昨日迄の酷暑と一転し秋の気配の中第五回の神楽祭を挙行。
毎回ながら神楽舞の調べを聞きつつ生徒時代の亡き友の在りし日を偲ぶ。
出席
遺族 井の山舎弟夫妻、川崎舎弟夫妻、金枝夫人(旧姓森) 5名
生存者 加藤種男、小田正三(大阪より)、村山 隆、室井 正、金枝健三、三沢 禎
野崎貞雄、齋藤義衛 8名
同伴者 村山・野崎・室井夫人 3名
9月17日
昨日ネットで次のものを見つけました。
「海軍機関学校第53期卒業記念写真帖」
1943年に作成されたものです。次の説明がありました。
昭和18年卒業の期で海兵72期のコレスです。卒業写真や、海兵団・軍艦のアルバムは昭和16年まではよく出版されていて、17年はいくつかある程度、18年になるとほとんどないといった状況です。いろいろな資源の関係でしょうか?海兵72期も戦後です。(一部は終戦前にも印刷されたようですが、戦後増刷してくばったようです)その意味ではこの53期のものはこの時期によく作ったといえるでしょうか?手に入れたものは表紙がすでにはがれたものですが紙質もわるくありません。
「第53期卒業記念」
内容としては校長平岡中将・鍋島中将の写真、監事長、生徒隊監事の写真があります。そして在校中の生活の写真があります。後半は生徒2人で1頁の割合で、顔写真、生年月日、卒業中学、一言が載せられています。機関学校の卒業アルバムでよくみられる形式で、伝統的な形式なんであろうと思われます。機関学校53期は卒業者111人で首席は青木光雄大尉で新潟県の方です。残念ながらクラーク防衛戦にまきこまれ、4月24日戦死と認定されています。4月24日は戦没状況不明の方の戦死認定日ですから、人知れず戦死されたのでしょう。111人中56人(実際は57名)が戦死ないし殉職されており、半数を超えてしまっています。特攻も10名を数えます。うち4人(実際は5名)が回天での戦死です。寺岡謹平中将の長男がこの期になります。
72期卒業時作成した写真集
卒業時写した写真を白根君の尽力で戦後作成されたものです。その中の主なものを取り込んだ頁を見つけたのでなにわ会のHPに転載しました。
4号時45分隊で一緒だった山元 奮君から年会費2000円を現金書留で送って頂いたので、電話して彼と話ができた。45分隊の生き残りは彼と私の2人だけ、彼は体調を壊しているが何とか久し振りで声を聞くことが出来、懐かしかった。
昨日は東京クラス会の返事を5通(出席 泉、都竹、後藤寛、欠席 宮田、安藤 満)頂いた。
9月18日
東京クラス会の出欠
出席 池田武邦、深尾秀文 欠席 小林 勝、中井末一、堀剣二郎
九州の山本さんの佐伯物語第11章父と子とが掲載された。これで佐伯物語は完結です。早速なにわ会HPに取り込みました。
この中には、井尻文彦君、伊藤 叡君、畠中和夫君の事が詳しく書かれている。
追憶海軍機関学校にあった『海軍機関学校の沿革(上田 敦)』をなにわ会HPに取り込んだ。これは昭和48年の水交に3ヶ月に分けて掲載されたものである。
機55期のHP『たんご55」に次の記事があった。参考に転載する。
ある会員の記事
『実は小生、たんご55について、娘にちょっと話したのですが、本人が暫くしてから私につぎのように話しました。
「HPを開いてみてなんと85前後の言ってみれば隠居の身のお爺さん達がよく色々な記事や写真を、しかもパソコンを使って投書している、もう500件近くにもなる。元気があり見直した。」と言うことです。
今までは私なんかは娘たちと家内のグループの、蚊帳の外に放り出されていたのですが、私の拙文などを見て、何か私に対する感じが変わったように思われます。
投稿者が今までに概ね限定し、準会員の方々の投稿が殆ど無いのは残念と思います。』
これに対し、)管理人の言葉。
「たんご(横須賀)55」開設直後は、珍しさもあってか、記事への所見、関連情報の投稿などが少しあったようですが、その後、少なくなりました。投稿記事を見られての所見、関連事項の投稿をいただくことは投稿当事者にとって、大変有難く、やる気を倍増させるものです。なしのつぶては淋しいものです。たんご55」への訪問者は2007年の開設当時から比べると、随分多くなっています。所見その他投稿お願いします。
これを見て、私も管理人として全く同感です。なにわ会ブログにも、所見その他投稿お願いします。
9月19日
東京クラス会の出欠
出席 門松安彦、平川 進、野崎貞雄、高田俊彦。今日までの集計20名。
欠席 なし
17日に深井紳一様がブログに書きこまれた深井良君の最期が分る記事をHPに取り込んだ。
一昨日の閲覧数74件、今迄の最高だった。最近閲覧者が増えていて嬉しい。
HPの閲覧数は16万を突破した。
次は他のクラスの閲覧数(参考まで)
(71期38,554件、73期45,178件、76期24,988件、機55期10,405件、経36期28,742件)
9月20日
今日は敬老の日です。私の住んでいる横浜市港北区綱島では78歳以上の老人を集めて敬老会が行われ懇談会と会食が行われ、記念品が配られます。
参会者のうち90歳以上は名前を呼ばれ紹介されますが、今年は43名(うち男性は12名)いましたが出席は5名のみでした。やはり90超えてこのような会合に参加出来る人はかぎられてきますね。なにわ会会員も殆ど米寿、体調不良で会合に出られない人が増えて来ましたね。
9月21日の戦没者 66年前 昭和19年
岡田 次夫(攻105 艦爆操)比島マニラで飛行訓練中、地面に接触、右大腿部、右前頭部等負傷。第103海軍病院に入院加療中死亡殉職(彗星)
なにわ会HPにある『HPで見つけた会員の記事』の中にリンク切れの者があったので、整理した。
9月21日の戦没者 66年前 昭和19年
岡田 次夫(攻105 艦爆操)比島マニラで飛行訓練中、地面に接触、右大腿部、右前頭部等負傷。第103海軍病院に入院加療中死亡殉職(彗星)
なにわ会HPにある『HPで見つけた会員の記事』の中にリンク切れのものがあったので、整理した。
9月22日
東京クラス会の出欠返事
出席 大槻敏直、佐藤 静、平野律郎の3名
欠席 亀谷敏明
9月23日
今日は秋分の日です。暑さ、寒さも彼岸までと言われますが、今年の猛暑も昨日で最後になりそうですね。
今年の猛暑、老人には堪えましたね。
昨日の東京クラス会の出欠葉書は欠席の1枚だけでした。
先日からHPを見直しています。リンク切れや写真ガ出ないものが数件ありました。逐次修正しています。
ついでに、投稿者の写真や記事の関連写真を追加しています。自分の記事を見て写真が気に入らない方、希望の写真をメール添付で送ってください。入れ替えます。
9月24日
この前HPに取り込んだ『海軍兵学校72期が昭和18年9月15日卒業してから2月間
艦務実習した時実習幹部が書いた記事 行脚』について、泉 五郎君が解説を加えてくれた。
『八雲残照』の題名でHPに取り込んだ。
昨日自称特四号の田島明朗氏から呉で行われている秋分の日の慰霊祭について、コメント頂いた。とても嬉しかった。
このブログにコメント頂く人は極めて少数でとても寂しい。
記事の右下のcommentsをクリックすると書きこむ空白が出てくるので、そこに書いて頂ければいいので是非多数の方のコメントを頂きたい。ただ、時々悪戯コメントが書かれるのでコメントは管理人である私が承認するまでは掲載されない。テストでもいいから一度書きこんで頂きたい。書き間違いや具合の悪いコメントは私が適宜削除したり、訂正したりするので遠慮なく書きこんで頂きたい。宜しくお願いします。
9月25日
東京クラス会の出欠返事
出席 和田恭三の1名、累計24名
欠席 浦本 生、渋谷信也、
窪添龍輝君から23年年会費の振込用紙のコピーを頂いた。
23年度以降の会員だより希望者(現在までにNRん会費を振り込まれた方)は会員30名、戦後物故者遺族22名、戦没者遺族25名、有志会員1名合計、78名であり、会員の振込が少な過ぎる気がする。会員2000円、ご遺族1000円です。なにわ会だより第3号8頁を見て忘れないうちに処理されたい。振込の無い方には4号以降は送付されない。
9月26日
東京クラス会の出欠返事
出席 山田良彦、若松禄郎、金枝健三の3名、累計27名
欠席 幸田正仁、林 藤太
限りなき挑戦―伴辰三とその時代
昭和19年6月11日、台湾で九七大艇に搭乗、船団護衛の為離水した直後、墜落して亡くなった故伴弘次君の弟、伴辰三氏から上記の本を頂いた。
伴氏は平成20年2月4日、満80歳となり、現役から退任された。昭和、平成という時代背景の中で生き、人間としてどのような考え方で行動してきたか、それを回顧録で残しておきたいと考えいろいろ資料を集めてこられた。そして平田超人さんと言う方に書いて頂くことを考え、ご承諾頂き、ここに完成した本を送って頂いた。
無論、伴氏ご自身の事が中心で書かれているが、一番上の兄伴源市氏(海軍技術士官となった後、昭和19年1月、25歳で肺炎になり亡くなった)と次兄伴弘次君のことも書かれている。
弘次君については、約20頁にわたって書かれている。
そして、辰三氏も予科練に入隊されていた。
その後、現在までの同氏の行動、足跡が綴られている。
東日新聞の↓記事がHPに会ったので参考にされたい。
http://www.tonichi.net/news.php?mode=view&categoryid=1&date=2010/08/03
9月27日
9月24日のブログに書いた次の記事を読んだ有志会員の方が、HPの『八雲残照』を読んで、前に読んだ「八雲行脚」では意味が分らなかった事が良く分ったとメールを頂いた。
早速そのメールを泉 五郎君に転送した。
『この前HPに取り込んだ『海軍兵学校72期が昭和18年9月15日卒業してから2月間、艦務実習した時実習幹部が書いた記事 行脚』について、泉 五郎君が解説を加えてくれた。『八雲残照』の題名でHPに取り込んだ。』
9月3日に亡くなられた海軍機関学校同窓会会長西島 安則様の「酉島会長を偲ぶ会」が次の通り企画されている。
記
開催日時:平成22年11月8日(月) 13:00〜15:00
場 所:京都大学楽友会館(案内図参照)
京都市左京区吾田町近衛通東大路東入ル
TEL:075−753−7603
会 費:¥3,000.(受付時 拝受)
9月28日の戦没者 66年前 昭和19年
中川 毅(横須賀空・二座水偵操)横須賀沖にて操縦訓練の着水時、接触殉職
村松 義隆(攻708・偵察) 台湾東方洋上で敵機動部隊を索敵攻撃後、消息を絶つ(一式陸攻)
東京クラス会の出欠返事
出席 なし
欠席 阿久根正、横田敏之
未定 高松道雄(10月末までに決定)
海軍兵学校72期の終戦時生存者のうち、管理人の手元にある写真をHPに取り込んだ。
海軍兵学校78期会から事務所移転の手紙を頂いた。
78期は平成22年10月以降、78期事務所を水交会内に移し、郵便物の受領、保管、期会名簿の訂正作業、事務局業務の一部を委託された。そして、今後は期会活動を縮小して、支部活動、分隊活動に軸足を移すことになった。
9月29日
田島明朗氏から繁沢敦子さんが書かれた『原爆と検閲』と言う小冊子を送って頂いた。
この繁沢さんは昨年12月なにわ会HPを見て、広島に投下された原爆事件についてお尋ねの次のメールを頂き、田島明朗氏を紹介したことがあった。
『はじめまして!なにわ会のホームページ見てメールさせていただいております。広島市立大学大学院博士後期課程に在学しております繁沢と申します。専門は検閲・メディア史で、今は終戦直後に被爆地入りした連合軍側ジャーナリストの足跡やその報道のあり方、またその影響について調査・分析をしております。実はその関係で、当時元大日本帝国海軍の中尉でいらっしゃったある方を探しております。名前が分からないのですが、次のような方を海軍兵学校の卒業生の中でご存じないでしょうか?
終戦時22歳、階級:中尉(lieutenant) サクラメント生まれの日系二世。10歳の時に母親と来日。英語が得意であったことから、1945年9月3日に米軍陸軍航空隊の従軍記者団が広島入りする際に通訳を務めた。』
頂いた本は素晴らしい読み物で、原爆投下から65年、随分昔の事で、あの1発の原爆、どれだけの被害だったのかよく分る。本当によく纏められている。あの当時の事を実際に体験した人は毎年減少しているので、この本は、戦争を知らない世代の人に、戦争の実態を少しでも分って頂けると思う。
海軍機関学校53期、海軍経理学校33期及び会友の終戦時の生存者の写真も私の手元に在る写真をHPに取り込んだ。未掲載の写真が沢山あるので、資料お持ちの方、その写真のコピー頂けると助かります。
東京クラス会の出欠返事の締め切りは9月30日です。今までに頂いた返事は出席27名、欠席14名、未定1名でまだ11名の方から返事を頂いていません。
9月30日
東京クラス会の出欠返事
欠席 市瀬文人、岩松重裕
はや今月も最後の30日になった。今年の夏は以上の猛暑で我々高齢者にはとても答えたが、秋分の日からやっと涼しくなったとおもったら、今度は雨続き、本当に可笑しな天気が続いている。
さて、66年前の昭和19年9月までは、我々なにわ会会員の戦没者は64名とまだ1割未満だったが、次の10月に入ると1ケ月間で68名と急増している。それだけ10月の比島作戦から戦争は厳しくなったのである。