6月1日
昭和20年6月1日、海軍兵学校72期、海軍機関学校53期、海軍経理学校33期は卒業後僅か1年7カ月半で海軍大尉に進級した。(少尉候補生6月、少尉6月、中尉7月半)
昭和19年6月にはあ号作戦があり、その時の戦死者6名を加えて計14名が亡くなっている。
一方20年6月になると、もう戦局は、押されぱなしで動ける艦艇は殆どなく、生き残った僅かの艦艇も大半は最終場面に備えて、敵の空襲から避けるために偽装していた。動けるのは潜水艦だけ、あとは僅かな航空部隊だけ、艦艇要員の大部分は、潜水艦学生と回天、蛟竜、海竜、震洋等の特攻部隊に配員された。
20年6月の戦没者は艦艇2名、航空部隊5名、潜水艦2名、兵器1名の計10名であった。
6月4日の永代神楽祭の参加予定者のうち、猪口 勇氏(猪口 智君の弟)が所要発生の為参拝のみに変更。これで懇親会参加者は60名になった。
なお、永代神楽祭は、昨年は6月1日であったが、今年から6月4日(金)に変更されたので間違えないよう注意して下さい。また、時間等の問い合わせがよくある。
次の通りです。
期日6月4日(金) 集合時刻1330 参拝(永代神楽祭)1400 懇親会 神楽祭終了後靖國会館で。会費 参拝のみ 500円 懇親会まで参加 3000円
都竹卓郎君から先般の後藤英一郎君の告別式に谷内能孝君が来ていて、彼は府中市の養老院か老人ホーム 「キラメキ府中(電話0423-52-3781 ?)」に入ったと知らせてくれた。彼の住所ご存じの方教えて下さい。
6月の機関科の戦死(機・斎藤 義衛)
19年6月5月27日、米軍はビアクに上陸反攻が開始され、渾作戦発動。私(能代、二水戦)は6月10日大和・武蔵に随伴ビアク砲撃にタウイタウイを出撃するも、あ号作戦発動となり作戦中止反転してマリアナへ。然し戦闘は惨敗に終わりすごすご呉に帰投、お通夜のような呉在泊であった。
能代の甲板から遠望した翔鶴の最後の姿は今尚脳裏を去らない。この戦いで三田 道(翔鶴)、石間正次郎(瑞鶴)が戦死した。
20年6月13日には沖縄海軍部隊は玉砕し、戦況は日に日に悪化。
山崎 登(兵器) 比島タルラック西方山中にて戦死
坂梨 忠(足柄) バンカー海峡にて沈没戦死、機関長他は生還しており彼は何処の配置だったのだろうかと思いを馳せる。
当時私は能代より倉橋島の特潜基地に転じ整備士官の指導に当たっており比島、沖縄の死闘の詳細は詳しくなかつた。機関科の水上艦艇組の多くは特潜基地の整備長要員として陸に。(村山・野崎・阿部・詫摩・吉本・齋藤)
Comments(1) 伊藤 正敬
第三次渾作戦は指揮官、第一戦隊司令官、宇垣纏中将で、参加部隊は攻撃部隊として戦艦「大和」「武蔵」、重巡「妙高」「羽黒」、軽巡「能代」、駆逐艦「沖波」「島風」「朝雲」、輸送部隊として重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「満潮」「野分」「山雲」、敷設艦「厳島」「津軽」、第三六号駆潜艇、第127号輸送艦、補給部隊として油槽船第二永洋丸、第三七号駆潜艇、第三〇号哨戒艇が当たっていましたね。私は羽黒でこの作戦に参加していました。
6月2日
永代神楽祭について。
昨6月1日、1名のご遺族の方が間違えて靖國神社にお参りに行かれて、今日は海軍兵学校7T期の神楽祭の日ですが、72期は6月4日だと言われたそうです。
次に参加予定の寛応 房子様(機 隆君の妹)は所要発生、欠席に変更。
これで参加者数 93名、参拝のみ 33名(会員 5名 遺族28名)
懇親会まで参加 60名(会員31名 遺族29名)になりました。
5月のブログを整理してHPに取り込みました。
6月2日 渾作戦のため、マノクワリに向けダパオを出撃。
3日 敵機の接触を受け、ビアク奇襲の見込みがなくなり引き返した。
7日 再びダパオ発。ハルマへラに進出。
9日
バチャン着。
11日 バチャン発、サンハギ着。
13日 夜10時過、ア号作戦が発動され、直ちに中部太平洋に向け出撃。羽黒は旗艦の航空母艦大鳳の直衛として行動。
19日 午前8時頃、大鳳は潜水艦の攻撃を受けて右舷前方に魚雷が一本命中。応急修理のうえ、戦闘航海を継続中、逐次被害増大し、14時30分頃遂に沈没。高木滋男、田 功(兵)戦死。
午前11時20分頃、翔鶴に米潜水艦からの魚雷3本が命中、同艦は午後2時10分爆発沈没。小尾清彰、野村 繁(兵)、三田 進(機)、森 茂樹(主)戦死。
20日 空襲により石間正次郎(機)瑞鶴で戦死
羽黒は、大鳳沈没後一時機動部隊の旗艦となった。
20年6,7月の呉軍港 機、斎藤 義衛
宵月は20年の1月末に浦賀ドックにて竣工、2月末に呉に回航。以後11水戦に編入され戦隊訓練に入った。そして呉在泊中最初の空襲に遭遇。4月6日天1号作戦発動され宵月も参加予定であつたが「錬度不足」として除外され、以後呉に在って数度の空襲に最後迄勇戦奮闘した。
3月19日の空襲
米58機動部隊1000機の在泊艦船への空襲
日向、大淀、利根、竜鳳、葛城被爆。宵月には至近弾。他に大和、伊勢、榛名、天城など在泊。宵月は川原石の近くに係留していた。横須賀の時もそうであったが係留されたままの対空戦闘程嫌なものはない。艦は出船の形で係留されており、敵機は北(背後)からの攻撃で高射砲の応戦は不自由な戦闘であった。空襲記録によればこの日の戦死者は日向37名、竜鳳34名、葛城11名となっているが大淀では艦長戦死の他多数の戦死者、又利根にも戦死者があったようである。
私はその後5月15日付で対岸の倉橋島の大浦突撃隊に転じたが、以降の空襲を基地に於いて凝視していた。
6月22日の空襲
B29、200機呉工廠爆撃、1トン爆弾336発投下、当時各艦船は瀬戸内海の各地に分散係留されており呉在泊艦は少なかった。宵月は修理の為工廠岸壁にあり、危機一髪の事態であった。
この日の爆撃で呉工廠は壊滅した。工廠の死者325名、女子挺身隊の犠牲者多数と聞く。
7月1日の空襲
B29、80機呉市空襲、焼夷弾8万発、全市火に包まれ死者1812人と言う。呉は焼尽と化し我々の憩いの二つのレスも消える。
7月24日の空襲
米第58機動部隊戦爆連合870機、呉及び付近の艦艇を銃爆撃。私は基地の小山より眼下を敵機が突っ込んで行くのを直視する。
7月25日の空襲
米艦載機25機広島・呉近辺の艦船を銃爆撃
7月28日の空襲
米艦載機戦爆連合950機B29. 110機呉付近艦艇銃爆撃
戦後この24.28日の戦闘を「呉沖海戦」と呼称しているようである。この海戦で日向、伊勢、榛名、竜鳳、天城、葛城、青葉、大淀、利根、北上、出雲他の多くがかく座或いは横転。
(後記)
宵月は被害少なく終戦を迎え、その後復員船として最後のご奉公の後賠償艦として中国に。
6月3日
6月4日の永代神楽祭について。
窪添龍輝君から参加可能になったと電話をもらった。
これで参加者数 94名、参拝のみ 33名(会員 5名 遺族28名)
懇親会まで参加 61名(会員32名 遺族29名)になりました。
この員数で当日配布の名簿印刷しました。
昨日鳩山首相ついに総理辞職を決意しました。次は誰が総理になるのでしょう。こうも総理が頻繁に交替していては国民たまりませんね。まともな政治が出来る訳がない。
訂正
5月18日の衣笠君の次の記事を削除しました。
『戦没者 66年前 昭和19年
衣笠幸夫(追 風駆逐艦) トラック島沖で
阿賀野乗員を収容帰投中、敵機の雷撃を受け沈没戦死』
衣笠君は昭和19年2月18日に戦死していました。私のケアレスミスでした。
宮田實君ご指摘有り難うございました。
6月4日 永代神楽祭
今日は6月4日、靖國神社で行われる永代神楽祭の日です。念のため本日の予定を書いておきます。
集合時刻 13:30
神楽祭開始 14:00
懇親会 靖國会館で神楽祭終了後16:30まで
会費 参拝のみ 500円
懇親会参加 3000円
参加予定者 93名(会員37名 遺族56名)
うち懇親会参加 61名(会員32名 遺族29名)
参加者名簿 当日会場で配布
藤井武弘君の奥様 和子様が体調不良で今日の永代神楽祭欠席との連絡がありました。なお寸志として多額のお金が同封されていました。深く感謝します。
竹内 茂君の奥様 あい子様からお手紙頂き、今年の永代神楽祭残念ながら出席出来ません。 そして、ご丁寧に多額のお金が同封されていました。深く感謝します。
6月5日 永代神楽祭
6月5日の戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年
渡邊 清實(332空 戦闘機) 兵庫県上空で
本土に来襲のB−29を迎撃、これと交戦戦死(雷電)
昨4日は靖國神社で永代神楽祭が行われた。
今年の永代神楽祭は昨年の実績にかんがみ、期日を6月1日から6月4日に変更して実施された。5月のおかしな天気からは考えられないほどの良い天気で、むしろ暑過ぎる感じの1日であった。
今回はなにわ会以外の参拝者は僅かに1組のみで、全員本殿で拝礼することが出来た。参拝者は次頁のとおりで、会員38名(うち懇親会まで32名)、遺族56名(うち懇親会まで29名)計94名であった。
懇親会は靖國会館において村山 隆君の司会で行はれた。
最初に、今回全般の面倒を見てくれた上野三郎君の挨拶、
次いで遺族を代表して伴 辰三様のお言葉があった後、同氏の音頭で献杯、
伊藤正敬から今後のなにわ会だよりについての説明があり懇談に入った。懇談半ばで井尻文彦君の弟、岡野武弘様のお話があり、
最期に相澤善三郎君の音頭で声高々に軍歌を歌い、解散した。
今年は昨年の反省から日にちを変更し、懇親会場を広い部屋に変えたので概ねうまくいったが、ただ二日を間違えて6月1日に参拝された方があったり、日時が分らず問い合わせが随分沢山あった。
今年の返信葉書に来年以降の案内の要非を書いてもらったので、来年からは本日参加された方と返事必要と書かれた次に方(計134名)だけに往復はがきで案内を出すだす事にしたい。
今回欠席の方で案内を出す方は次のとおり。
(兵会員)、右近恒二、岸本一郎、久米川英世、豊田芳夫、中山 皎、樋口 直、平野律郎、堀剣二郎、堀田正元、宮田 実、矢田次夫、
(機会員)上野三郎、野崎貞雄、
(主会員)阿部克巳、亀谷敏明、冨田岩芳、山之内素明
(会友)、岩松重裕、後藤 寛
(兵遺族)秋田 道宏(秋田 稔の弟)、生田 信子(生田善治郎の義姉)、竹内 紀子(石原 輝雄の妹)、横川 康春(上原 庸佑の弟)、小河 伸子(小河美津彦の妻)、藤本 和久(岡田 次夫の弟)、春日 尚子(春日 仁の妻)、
方岡 静子(方岡 勇の義姉)、北村 千代(北村 一三の姉)、後藤 四郎(後藤 一郎の弟)、桐本 香里(篠田 知武の娘)、白井 豊児(白井 利徳の弟)、
田辺 眞次(田辺 光男の弟)、角田 葉子(角田 慶輝の妻)、長尾 達子(長尾栄二郎の妹)、長澤志津子(長澤熊太郎の妹)、溝上 了(溝上 正人の弟)、大場 幸子(宮林 久夫の姉)、森 喜美子(森 一義の妹)、森園 和子(森園 良巳の妻)、古賀 博道(山口 勝己の弟)、山田 一夫(山田 三郎の兄)
66年前 昭和19年
中沢達推(水無月 駆逐艦) タラカン沖で
船団護衛中、敵潜の雷撃を受け沈没戦死
65年前 昭和20年
水谷 潤(戦303 戦闘機) 鹿児島上空で
本土に来襲のP−47を迎撃、これと交戦戦死(零戦)
小林 晃(戦405 戦闘機)宮崎県上空で
本土に来襲のP−47を迎撃、これと交戦戦死(紫電)
奥山寿一君から電話で靖國神社の案内必要との連絡あり。
機関科同窓会のHPを機55期の大久保君が引き継いで、所要の修正を行っている。リンクしてあるので見て下さい。
2010年度永代神楽 深井紳一
なにわ会永代神楽祭に参加してきました。艦爆の東條さんにお目にかかれなかったのが残念ですが、同分隊の旭さん、足立さん、艦爆の山田さん、B-29撃墜の相澤さん、左近充さん、伊藤さんの元気なお姿を拝見でき、また41期飛行学生から大村空へ行かれた村上達氏の弟さん、佐世保空へ行かれた井尻文彦さんの弟さん、634空へ行かれた猪口智さんの妹さんにお目にかかれました。霞空での訓練中に亡くなられた伴弘次さんの弟さんが仰っておられましたが、国防というひとつの目的のための僅か三年の兵学校の生活で、65年経っても強い絆で皆結ばれている事に改めてすごいと思い、またうらやましい気持ちを持ちました。来年も元気にお会いしたいものです。本殿へ行く時はいつも晴れるのは不思議な感じでした。
6月8日
6月8日の戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年 坂梨 忠(足柄
巡洋艦) バンカ海峡で
陸軍部隊輸送のためジャカルタ発シンガポールに向け航行中、敵潜の攻撃を受け被雷沈没戦死
この足柄が太平洋戦争における海上戦闘の最後の沈没艦であった。
この足柄については、故小河美津彦君の『挽歌の海』↓に詳しい。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-bankanoumi-ogawa1.html
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by naniwa-navy | 2010-06-08 07:01 | 日記 | Comments(1)
6月7日
6月7日の戦没者
66年前 昭和19年
西田和夫(早波 駆逐艦) タウイタウイ沖で
敵潜掃討中、敵潜の雷撃を受け沈没戦死
65年前 昭和20年
山崎 登(戦701 兵器) 比島タルラック西方で
比島タルラック西方の山中行動中、土民軍の狙撃を受け戦死6月7日の戦没者
先日の永代神楽祭の懇親会の時献杯の音頭をとって頂いた伴 辰三氏が冒頭に述べられた伴 弘次君の生徒の時の日記全文が「なにわ会ニュース37号」に掲載されている。これはまだHPに取り込んで無かったので取り込み中である。なお、この生徒の時の日記の一部は別途綺麗な字で清書されて実家に送られていた。それを先日持参された伴氏から拝借し感激して拝見している。
同時に、片岡紀明氏の書かれた「生きている海軍士官が語る太平洋戦争/伴 弘次中尉」のコピーも頂いたので後日HPに取り込みたい。
昭和20年6月の思い出 機、齋藤
昭和20年6月 私は宵月より大浦突撃隊の分隊長兼教官に転じ、整備士官(機55期と予備学少尉の二クラス)の指導官として倉橋島の本部基地に在った。某日その後15突に転じた阿部達君と視察で大津島を訪れている。詳細は失せてしまったが既に散ったクラスの5人(都所・川崎・福田・豊住・村上)を偲ぶ訪問でもあった。特に私は福田とは4号豊住とは2号都所とは1号時代同分隊であり65年経った今も昨日の事のように去来する。そんな思いから戦後「回天の島、大津島」なる作品を新庄君のお世話で遊就館に寄贈させて戴いた。4日の永代神楽祭当日久しぶりに訪れ静寂なひと時を過ごした。
6月9日
昨日の斎藤義衛君のコメントを読んで、ブログに関心ある言葉を聞いて嬉しくなった。斎藤君がよく書いて呉れるようにHPは携帯電話でも読めるのでモット沢山の方に見て頂きたい。そしてコメントを頂けば、最高、コメントでなくても電話やメールでも感想や関連事項を頂ければ何よりと思う。
先日から片岡紀明氏の(ネービーブルーの残影[伴 弘次中尉])をパソコンに取り込んでいる。間もなくHPに掲載出来ると思う。
6月10日
6月10日の戦没者
66年前 昭和19年
真崎三郎(谷風 駆逐艦) タウイタウイ沖で
敵潜掃討中、敵潜の雷撃を受け沈没、その際重傷を負い収容後戦死
65年前 昭和20年
熊川 博(熊野 巡洋艦) 比島で
熊野で敵潜の攻撃を受け沈没、救助されて比島に上陸後横鎮付となり、その後 マラリヤに罷り戦病死
森実貞雄(伊122 潜水艦) 石川県緑剛岬の120度6浬で
20.4.10穴水に向け舞鶴発回航中消息を絶つ(戦死認定)
(米潜水艦スケートの雷撃により20.4.10沈没:米軍資料)
6月11日
6月11日の戦没者
66年前 昭和19年
伴 弘次(901空 大艇操) 台湾で
船団護衛の為離水直後、墜落殉職(九七大艇)
伴 弘次君の戦没情況についてはなにわ会ニュース37号51頁に前編集長故押本直正君が書いている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-bann-osimoto1.html
65年前 昭和20年 なし
昨日多胡光雄君の逝去を多胡夫人からFAXで知らせていただいた。
電話したが留守番電話で奥様と連絡がとれず、お悔やみをFAXで送った。
多胡君は平成18年ごろから体調を壊していたようであった。ご冥福をお祈りします。
多胡光雄君逝去
多胡 光雄 君(名簿18P)
平成22年5月29日(土)午後 逝去
喪主 妻 多胡ウメノ 様
(奥様から伊藤正敬宛の次のFAXを頂いた。)
『夫多胡光雄が5月29日午後死去したのでお知らせいたします。本人の生前の希望により「お別れの会」の後に、東邦医大へ献体しました。長い間、お世話になり有り難うございました。』
6月12日
6月12日の戦没者
66年前 昭和19年
菊地 修(鴻水雷艇)サイパン沖で
船団護衛中、敵機動部隊の空襲を受け沈没戦死
65年前 昭和20年 なし
片岡紀明氏が書かれた「ネイビーブルーの残影(伴
弘次中尉)」を先日からHPに取り組んでましたが完了しました。当時の我々の気持がよく分ると思います。是非読んで下さい。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-bann-neibi-1.html
6月13日
平成22年の永代神楽祭の時、頂いた出欠葉書を整理して、23年度以降、永代神楽祭の案内状を送る宛先124名の一覧を作り、メールに添付して会員、遺族会員に送った。ご覧になって、このほかに案内状を必要とされる方はお知らせ下さい。追加致します。
23年からは、この名簿の方だけに往復葉書で案内状を送りたいと思っている。
7T期のHPから
1 細谷孝至君主催の71会の集いが22. 4.14 銀座・並木通りの三笠会館本店で実施され、期友20名、付き添い、ご遺族を合わせて40余名集まった。このような会を年2回実施するのがが適当で、次回は10月実施の予定。
2 靖國神社における第1回永代神樂祭が22. 6. 1 実施され。期友20名が参加。直会の昼食会にはご遺族を含め39名が参加した。
回想のネイビーブル−
海軍兵学校連合クラス会編集の「回想のネービーブルー」を購入した。連合クラス会の記念誌を纏めたものである。定価2500円+税。発行元就出版社
6月14日
兵・故河合不死男君の姉孫である加藤康人様から次のメールを頂いた。
「先日は永代神楽祭を主催して頂き、誠に有難う御座いました。来年もご案内を頂ければ、参加させて頂きたく思っております。
日々インターネット上で残されるなにわ会の資料(伊藤様、皆様のご尽力)が、広く後世に影響を与え、受け継がれてまいりますことを心より願っております。そのために、こうして頂いたご縁から、自分の出来ることを考え、果たしていきたいと思います。
最近は、もしかしたら「目に見えない力」というものがあって、60数年前に起こったその力が、それぞれまったく違った人生を歩んだ一人一人を何処かでつなげているのだろうか・・、というふうに考えております。人の命には限りがありますが、魂はこの世に残り受け継がれてまいります。自分はその魂を考えていきたいと思っています。」
加藤様は回天に関する立派なHPを立ちあげられておられる。
(http://www2s.biglobe.ne.jp/~k_yasuto/album.htm)
2月下旬にお会いした山本様から、お書きになっている記事の訂正、追加文を送って頂いた。よく勉強されていて驚くばかりで、その中に佐伯で亡くなった72期の期友の次の記事があった。
『 矢尾正衛君 4月14日未帰還。豊後水道を哨戒、米潜水艦と交戦中、B29に攻撃され被弾し海上に不時着。矢尾は米潜に救助され捕虜になるのを拒み所持していた拳銃で自決した。
竹崎慶一君 5月5日戦死。佐伯空の水偵隊は鹿児島の指宿基地に進出。竹崎もこれに加わっていたが、B29の指宿基地の猛爆を受け、地上で戦死。
和田 智君 5月28日 訓練中事故死、殉職。夜間飛行中に接水し、翼をとられて海面に激突。』
斎藤 義衛
加藤康人氏のHPを開く!貴重な労作。機関科からの回天烈士の内福田・豊住・都所とは生徒時代同分隊。加藤康人さん深謝申し上げます。早速携帯お気に入りに登録、鎮魂を祈りつつ拝読します。
加藤康人
伊藤様、齋藤様、HPをご紹介頂き、誠に有難う御座いました。
なにわ会永代神楽祭があった週の月曜5月31日、ちょうど父母(河合の姪)が親戚の結婚式(同大甥)のため上京し、故小灘会長を偲ぶ会の懇親会があった東京駅前オアゾビル・和食えんで昼食をとったりしました。いろいろあって実に10年ぶりに会う両親は、二人とも元気でしたがずい分と小さくなっておりました。
神楽祭は、受付で同じく回天隊所属の上野様(後で知りました)に声を掛けて頂きました。他に知る方もなく、おとなしく周りを見渡しておりましたが(当方、泉五郎様の姿を右やや後方で確認致しました)、皆さんご高齢であるにもかかわらず、大変元気で昔を懐かしんでいらっしゃるのが印象的でした。
当日は初夏を思わせる晴天で、亡くなった戦友の方々も皆様のお元気な姿をさぞ誇らしく、喜んでいることであろうと思いました。
訃報 高杉敏夫君
高杉 敏夫 君(主計科)(名簿46P)
平成22年6月13日(日)朝 急性心不全で逝去
喪主 次男 高杉 展 様
御通夜 平成22年6月15日(火) 1800〜
葬儀ミサ 6月16日(水) 1230〜
斎場 カトリック豊島教会
住所 〒171-0051 東京都豊島区長崎1―28―22
電話:03-3957-2540
交通 西武池袋線椎名町駅と営団地下鉄有楽町線要町駅のほぼ中間、山手通りの西側に位置し、どちらの駅からも歩いて約5分。
(高田 俊彦君から頂いたメールで知った。高杉敏夫君は8日から検査入院していたが急に状態が悪化して急逝されたとのことである。
彼とは駆逐艦楓で昭和19年10月艤装の時から20年6月彼が転勤するまで一緒に戦った親友であった。 伊藤正敬)
6月15日
昨日ブログに書いたように、高杉敏夫君が急逝された。
昭和19年10月1日付で巡洋艦羽黒から駆逐艦楓艤装員を命ぜられた私が、横須賀工廠で艤装中の楓に着任したのが10月20日だった。その時既に着任していた主計長予定者が高杉敏夫君で、それから翌20年6月、彼が33潜水隊に転勤するまで7カ月、同じ楓士官室で生活を共にした。
この間、20年1月31日には、「楓」は「梅」と「汐風」の3隻でフィリピンからの搭乗員救出(パトリナオ輸送作戦)ため、台湾の高雄からルソン島最北端のアパリへ向け出港した。
8時、アパリ防衛のため高雄陸戦隊を乗せ、アパリ近郊のパトリナオ村を目指して24ktで南下した。
10時、バシー海峡で米軍哨戒機に発見され、15時頃、台湾最南端ガランピ岬の南方約35kmで米陸軍第14航空軍所属のP38戦闘機に護衛された第38爆撃航空団所属のB25爆撃機12機と第35戦闘航空団所属のP47戦闘機4機が襲来し、まず先頭にいた旗艦「梅」が左舷側から集中攻撃を受け、主砲指揮所と前部砲塔と艦橋間の甲板など3発被弾、機械室を破壊されて航行不能になり、「楓」は艦首に被弾し、前部砲塔全壊、前甲板、艦橋付近に火災が発生。「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下した
18時過ぎ、「梅」は「汐風」の砲撃により自沈処分した。。吉田司令など生存者「は」に救助され、作戦中止、台湾の高雄へ引き返した。「梅」は約80名、「楓」は便乗者を含め54名が戦死。、
そんな命を掛けた作戦を共にした仲であった。
戦後、楓乗員は楓会を作り、彼はその中心になって楓会を盛り上げていた。先任将校が亡くなられてからは楓会会長として活躍していた。
また、なにわ会発足から昭和51年までと、昭和61年、平成2年となにわ会幹事を務めてくれ活躍してくれた。その後、昨年も今年も永代神楽祭の時の会計を引き受けてくれた。
つい先日の6月4日の永代神楽祭の時は全く元気だったのに、8日に検査入院されたのはどこか体調が悪かったのか。先程電話でお悔やみを申し上げたが、肺がおかしくて検査の為入院していたとのことである。
今回の訃報は高田俊彦君からメールで知らせて頂き、会員、遺族会員にメールとブログ、HPで流した。今回は斎藤義衛君、堀剣二郎君からメール、山田良彦君、上野三郎君から電話を頂いた。訃報のメールは流しはなしになりがちだが、一言でも関連事項や感想を頂くと流した本人は嬉しくなります。
堀剣二郎君が流した右近恒二君は多摩で高杉敏夫君と一緒だったとメールに書いてあった。山田良彦君は高杉敏夫君と一時仕事の付き合いがあったそうである。
何れにしても、本当の急逝で驚くばかり、心からご冥福を祈る。
74期訃報
中村 外雄様(1学年22分隊) H22. 6.13 没
6月16日
6月16日の戦没者 66年前 昭和19年 山本幸一(輸128 輸送艦) ニューギニア北西でソロンに向け航行中、敵機の攻撃を受け沈没戦死
65年前 昭和20年 なし
海軍機関学校55期のHPに機53期関係の次の記事があった。何れも見事に纏められている。是非見て頂きたい。
海軍機関学校53期 1号時代(昭和17.11.28〜18.9.15) 分隊表
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tangoy/frm3a.html
海
軍 機 関 学 校 第53期 戦 没 者記録
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tangoy/frm3a.html
海軍機関学校53期 戦後死亡者
6月17日
昨16日、先日亡くなった高杉敏夫君の葬儀に行ってきました。彼はキリストの信者で葬儀はカ「トリック豊島教会で行われました。信者と思われる方が多数参列されていました。
雨を心配しましたが、出掛けた10時半過ぎには雨はやみ、太陽が出て物凄く暑くなり参りました。でも無事帰ってきました。15日のお通夜には神林 勗、窪添龍輝、高田俊彦、冨田岩芳、深尾秀文、左近允尚敏、都竹卓郎の諸兄、16日の告別式には足立暢也,亀谷敏明、神林 勗、北川博幸、高田俊彦、吉江正信、阿部夫人、山田良彦、都竹卓郎、若松禄郎、伊藤正敬が参加していました。改めて高杉敏夫君のご冥福を祈ります。
6月18日 歩こう会
昨17日なにわ会の6月歩こう会が開催された。
行き先 神奈川県立四季の森公園(花しょうぶ観賞)
11:00 横浜線中山駅集合、15:00 同駅にて解散
参加者:男性 幸田、浦本、深尾、上野 4名
女性 小松崎、藤井、加藤、深尾、伊藤、品川各夫人 6名
概要:
丁度入梅間がない天候不順の時期だったが、晴天に恵まれ最高気温も30℃近くにまで上昇した。
中山駅から1,200mのなだらかな坂を上ったところに、忽然と自然を生かした公園が現われた。
公園を入ると「かわせみ」の現われるのをカメラに収めようと、気長く待っているカメラの放列に出会う。(世の中には気の長い人もいるものだ)
少し歩くとしょうぶ園120種、6,000株のしょうぶが見事。カメラに絵にと熱心に収めている人たちが多い。
休憩所で女性軍の差し入れの冷凍柑橘類で暫しのビタミンを補給、あし原湿原を回り出発点に戻る。この間約1時間。
中山駅前でパスタを食べながら団欒(此れが最近の歩こう会の目的だ)を楽しみ、9月の再会を約束しあった。あまり歩行数は伸びないと思っていたが、家に帰ると9,895歩と、びっくりした。(以上上野三郎君から)
久し振りで杉田繁春君から手紙を貰った。内容はHPの生存者名簿の最後の生存者数の次に生存率を加えたらどうかという事である。生存率は会員の現状には入れてあるが、提案があったので生存率と復員者生存率を加えることにし、訂正した。
6月19日
昭和19年6月19日は太平洋戦争の時、あ号作戦で日本海軍の空母部隊が壊滅した日である。この作戦で航空母艦 大鳳、翔鶴、飛鷹を失って作戦は失敗した。
この日の戦没者 66年前 昭和19年 高木滋男、田 功(大鳳 空母)マリアナ西方で あ号作戦:第1次攻撃隊発進後、敵潜の雷撃を艦首に受けたが戦闘航海に支障なく航行中、原因不明の大爆発が起こり沈没戦死
小尾清彰、野村 繁、三田 進、森 茂樹(翔鶴 空母)マリアナ西方で あ号作戦:11時20分頃敵潜の雷撃を受けたが応急修理のうえ、戦闘航海を継続中、逐次被害増大し、14時30分頃遂に沈没戦死
65年前 昭和20年
兵77期会報91号を頂いた。このクラスは平成25年(会員が85歳)に組織的活動を終結することになっていて、逐次地区的活動が多くなっている。
この会報の内容も、地区期会便りが、近畿地区、九州総会、東海地区、新潟県クラス会、神奈川県会等の報告記事、今後の地区活動について、更に22年度下半期の行事予定(北海道地区、東北地区、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県、東海地区、近畿地区、中国地区、九州地区、四国地区、舞鶴会)が述べられていた。
そして「俺も77期」と題して6名の投稿記事があった。
その他、77期の1号生徒に当たる75期の元最高裁判所長官の三好 達氏の「日本再生の道」と題した講演の要旨と靖國神社の基礎知識が掲載されていた。
また、このクラス自慢のパソコン勉強会(OKJ)の中締め感想文(約22名)が掲載されていた。このクラスはパソコンの立派な指導者がいて羨ましい。
6月20日
6月20日の戦没者 66年前 昭和19年
石間正次郎(瑞鶴 空母)マリアナ西方で あ号作戦:敵機動部隊と交戦中、被弾戦死
65年前 昭和20年 なし
なにわ会HPの閲覧数 15万突破した。
(参考 他のクラスのHP閲覧数 6月20日現在 7T期36709
6月21日
6月21日の戦没者 66年前 昭和19年
65年前 昭和20年 なし
鎮魂、石間正次郎君 機、斎藤 義衛
本日は66年前のマリアナ沖海戦の日である。空母奮戦の戦いで、能代は傍観のような空しい海戦だった。戦没者記事の、同じ瑞鶴で戦った上野君の手記「石間正次郎君を偲ぶ」を再読、改めて冥福を祈る。機関科の戦死は主に機械室或いは缶室なれど石間君は応急指揮班の配置にあり、「応急班の真横の海面に落ちた爆撃の破片が狭い室内を駆け巡り、石間君の大腿動脈を破り出血多量で他には何の傷も無いのに戦死」と。君の無念や如何ばかり。
6月22日
泉 五郎君から、彼がなにわ会会誌に書いた戦記ものについて問い合わせがあった。そして、彼が大昔、会誌2号(昭和29年1月1日発行)に投稿した「腰抜け武勇伝」にめぐりあった。これはまだHPに掲載していなかったので、今取り込み中である。
ところで、なにわ会ニュースに掲載されている記事の見つけ方であるが、次のようにして見つける事が容易である。HPのトップ頁の目次のところに、「索引目次その1(リンクなし)」と「索引目次その2(リンク付き)」がある。「索引目次その1」をクリックすると、索引表が出てくるので、戦記なら戦記の頁を開いて捜せば見つける事が可能である。是非活用して頂きたい。
6月23日
6月23日の戦没者
65年前 昭和20年 上野典夫(302空 戦闘機)千葉県上空で
P51と交戦、落下傘で降下中、更に被弾戦死(雷電)
泉 五郎君の「腰抜け武勇伝」と「メレヨン島戦記」をHPに取り込んだ。
2月に横浜でお会いした福岡県に住んでおられるY氏から、原稿の追加を送ってもらいました。その中に蛟竜で自決した畠中君の事が書かれています。また、畠中君の事に関し甲飛会会報の記事も同封されました。今パソコンに取り込んでいます。
6月24日
終戦後の特攻出撃 水中特攻隊―蛟竜ー をHPに取り込んだ。
これはY氏が佐伯市平和祈念館「やわらぎ」に所蔵されている「戦争の思い出」といった種類の寄稿文集に掲載されていたものを筆写されたもので、Y氏から送ってもらったものである。
末尾に「甲飛会会報誌より」とあるので、甲飛13期の方が書かれたものと思われる。
この記事には、想像や創作が多く盛り込まれており、辻褄の合わぬことが散見される。
また、登場する名前は、仮名が使用されていて、畠山大尉は畠中大尉、山本上曹は渡辺上曹そして、林田一飛曹、川井一飛曹、岸本一飛曹は鎌田一飛曹、後井一飛曹、藤川一飛曹の事と思われる。
以上、お含みの上お読みいただきたい。
なお、畠山君の事については次の記事がHPにある。
1 嗚呼わが艇長畠中和夫大尉(藤川正視)
2 和夫ノ自決ヲ知り記ス(父 故畠中賢一郎)
3 古武士 故畠中和夫君(定塚 修)
鎮魂 機、齋藤
「終戦後の特攻出撃」を読む。畠中和夫君の最後の詳細を改めて知る。本日は沖縄戦終焉の日、静かに往時を回想改めて鎮魂の意を捧ぐ。
私は当時倉橋島の特潜本部基地である大浦突撃隊の整備士官学生の指導官を担当していたが、コレスの畠中君が九州基地に進出するまではしばしば士官室で談笑する仲であった。彼の救国の言動や勇猛な姿勢は今尚ありありと我が脳裏を去来する。
6月25日の戦没者
66年前 昭和19年 なし
65年前 昭和20年
安東種夫(伊361 潜水艦) 沖縄周辺海面で
20.5.23回天特別攻撃隊轟隊の一艦として沖縄方面に出撃以後消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛空母アンツオ艦上機により 20.5.30沈没:米車資料)
『帰って来た蛍』の公演
株式会社カートプロモーションが制作した『帰って来た蛍』が公演されます。
これは赤羽礼子、石井宏両氏の著『ホタル帰る』をもとに鹿児島県知覧を舞台に守るべきもののため、この国の未来のため、命を賭して戦った若者たちと知覧に到着してから出撃までの短い期間ではあるが、彼らを献身的に支え、兵士たちから「お母さん」と親しまれた富屋食堂の主人『鳥濱トメ』との心温まる交流を通して、この国の未来の為に命を賭して戦った若者たちの至純な想いを現在に受け継ぐ作品です。
【作品のあらすじ】
大東亜戦争末期、昭和20年春、米軍は沖縄上陸に向け大挙殺到して来る。その米軍に対抗する日本陸海軍は、弾薬・燃料が枯渇し迎撃もままならぬ状況に陥り、沖縄戦における特攻作戦の大命が下る。
陸軍最大の特攻基地となった《知覧》。全国各地から召集された特攻隊員達は、まだあどけない表情の残る十代から二十代前半の若者達であった。その特攻隊員達の母の代わりとして彼等を手厚くもてなし、無限の情を傾けたのが富屋食堂の女主人、《鳥濱トメ》であった。
富屋食堂を訪れた大勢の若者達の中に色白で優しげな青年がいた。彼の名は《宮川三郎》。一度出撃し、生きて戻った汚名を着せられ、苦悶の日々の中で僚友滝本との出会い。親友松崎との再会。
そして宮川三郎は出撃前夜、20歳の誕生日の日に、とめに別れを告げにやって来る。
宮川は明日の出撃の夜、蛍になって帰って来ると約束し、勇躍出撃して行く。
6月6日夜、富屋食堂に奇跡が起こる。
【本作品について】
本作品は戦争賛美の作品ではございません。戦争は非なるものであることは間違いないでしょう。しかし守るべきもののため、この国の未来のため、命を賭して戦った若者たちと知覧に到着してから出撃までの短い期間ではあるが、彼らを献身的に支え、兵士たちから「お母さん」と親しまれた富屋食堂の主人『鳥濱トメ』との心温まる交流を通して、この国の未来の為に命を賭して戦った若者たちの至純な想いを現在に受け継ぐ作品です。本作品を一人でも多くの方にご覧いただき特攻の真実を伝えていきたいという思いから本作品を制作いたしました。
【公演概要】
日程
= ◆草月ホール
住所:東京都港区赤坂7-2-21
草月会館内(B1階)
TEL:03-3408-9113 FAX:03-3405-4947
アクセス:東京メトロ半蔵門線・銀座線・都営地下鉄大江戸線 青山一丁目駅4番出口より徒歩5分
2010年7月15日(火)〜25日(日)
15
日(木)、16 日(金) 1900〜
17
日(土) 1300〜 1900〜
18
日(日)、19 日(月) 1300〜
21
日(水)、22 日(木) 1300〜 1900〜
23
日(金) 1900〜
24
日(土) 1300〜 1900〜
25
日(日) 1300〜
BS
フジ放送
7
月12 日(月)22:00〜 「知覧ホタル巡礼記」
◆南九州市文化会館(旧・知覧文化会館)
2010年8月12日
=映像上映予定
◆靖國神社(能楽堂)奉納行事『忘れない日本』
2010年7月4日(日)
予定
《遺書の朗読・日本舞踊・歌(童謡)・芝居の予告編》
6月26日
昨朝のサッカー デンマーク戦 素晴らしい試合で日本中が喜びで湧きましたね。良かった。良かった。
新聞各紙には「歴史的快挙」といった見出しが躍り、また、日本─デンマーク戦のテレビ中継は放送終了時間が午前5時30分前と早朝だったにもかかわらず、瞬間最高視聴率が41%超を記録した。
また、東京・渋谷駅前のスクランブル交差点では、日本代表のユニホーム姿のファン1000人余りが集結。警察が拡声器を使って制止しようとするのも聞かず、大声で叫ぶなどの騒ぎが起きた。
一方、大阪では、50人以上のファンが道頓堀川のよどんだ水に飛び込んだ。との報道もあった。
機55期訃報
小畑 哲夫 様 H22. 6.20 没
Comments(2)
斎藤 義衛
私も3時に起きて観戦応援した!今迄はどちらかと言うとラグビーや野球のフアンだったが、初めて興奮堪能。20日に亡くなった機55機の小畑君は私が1号の時の同分隊3号、明日香の歴史研究に詳しく平成13年の奈良クラス旅行では明日香の地を案内して頂いた。2年違いなれど3号に先立たれるのは寂しい。生徒時代を回想、冥福を祈る。
伊藤 正敬
私の所で案外他のクラスの訃報が分りますので兵69期から兵74期まで(相当の機・経のクラスを含む)の訃報をブログに掲載しています。案外同じ分隊だったと言う方が見えます。お役にたって嬉しいです。
6月27日
なにわ会だより第3号概ねまとまりました。記事は次の予定です。
連絡事項、訃報、後藤英一郎君を偲ぶ、なにわ会だよりについて、第2回永代神楽祭、22年前期歩こう会の記、関西なにわ会記、パインなにわ会記、なにわ会だより受領して、会員だより、66年前の元旦、小山 力君を偲んで、高橋義郎中尉の出撃、卒業直前のクラス会、HPの取り持つ縁、他のクラスの情報、プログとHPについて、携帯のお薦め、ブログ抜粋(会員の情報、戦没者の情報、戦記、会合、その他)海軍兵学校72期連絡網、入金報告、名簿変更訂正、編集後記、現状
このような形式のなにわ会だよりはこれが最後となります。第4号からは次のもののみとする予定です。
連絡事項、訃報、会合の記事、ブログ抜粋(会員の情報、戦没者の情報、戦記、会合、その他)入金報告、名簿変更訂正、現状
そして、次号に同封する振込用紙で年会費を納めて頂いた会員、遺族会員のみに発送します。
6月28日
参議院戦が7月11日に迫ってきて、選挙運動が激しくなって来た。先般の菅直人首相の発言以来消費税問題が最大の争点になっていた。、朝日新聞社が26、27の両日実施した全国世論調査(電話)によると、消費税の引き上げを参院選の最大の争点だと思う人は19%で、「消費税以外にも大きな争点はある」とする人が71%にのぼった。菅内閣で財政のムダ減らしが「進む」と思う人は、「大いに」「ある程度」を合わせて46%、「進まない」は「あまり」「まったく」を合わせて51%と、見方が分かれた。
消費税引き上げに反対の人(全体の44%)でも、選挙の争点について「消費税が最大」は25%で、「消費税以外にもある」が61%になる。引き上げに賛成の人(全体の46%)では15%対81%だ。有権者の多くは幅広い問題を選択基準にしようとしている。
消費税問題での菅直人首相の説明や対応を「評価する」30%に対し、「評価しない」が50%で、必ずしも説明が十分とはみられていない。
消費税だけでなく、高齢者健康保険、介護保健、所得税、地方税何れも最近の国民の負担は随分大きくなってきている。財政の無駄を減らし国民の負担軽減を図るべきではないか。
なにわ会ニュース第3号の校正を都竹卓郎君、窪添龍輝君にお願いした。
6月29日
我々が海軍兵学校を卒業して艦務実習をした時の“八雲”の航海士であった岩淵成忠様(70期 1号時5分隊)の甥にあたる岩淵成紘から要旨次のメールを頂いた。
『先日の泉様のメレヨン戦記拝読し、その後段に候補生として乗艦した八雲で同期お二人の泉様が大変仲良くかつ要領もよく(?)、航海士の叔父の指導に対処していた件を読み、厳しい生活であったろうことは想像に難くありませんが、その当時の有様を想像し微笑ましい場面が浮かび何かホットするするものがありました。若き日の叔父を偲びまた数十年前の叔父の姿を知っている方がご健在のこと、嬉しく思っております。』
『別件で叔父のアルバムの中に橋中の小母さんを真ん中に同期の方々でしょうか、一緒に移った記念写真があります。これは橋中倶楽部の小母さんなのでしょうか? 』
岩淵成忠様は昭和19年11月13日駆逐艦曙砲術長として敵機と交戦戦死されていますが、「3月14日(?)東京雑司谷のわが家を訪れた。御馳走よりも畳で寝たいと、折角の来訪も多くを語らず、1月7日生まれの甥成紘を抱き、男子誕生を悦んだ。」と70期の記録『澎湃の青春』に書かれている。
なにわ会だより第3号の校正をお願いした。(都竹卓郎君、窪添龍輝君あて発送)
6月30日
深夜のサッカーのワールドカップ(W杯)南アフリカ大会は29日、プレトリアのロフタス・バースフェルド競技場で決勝トーナメント1回戦の日本(世界ランク45位)―パラグアイ(31位)があり、0―0のまま延長戦でも決着がつかず、今大会初のPK戦になり、3―5で日本が敗れ、初めての準々決勝進出はならなかった。
日本は、本田を1トップに置く1次リーグ3試合と同じ先発メンバーで臨んだ。
初シュートは大久保。前半1分、ペナルティーエリアの外から狙った。最初のピンチは20分。至近距離でシュートを浴びたが、川島が好セーブを見せた。22分に松井がミドルシュート。40分には本田もミドルを狙うなどしたが、パラグアイのペースだった。
後半も球は支配された。6、11分とゴール前へ迫られたが、闘莉王と中沢がそれぞれ体を投げ出して防いだ。最初の交代は20分、松井に代えて岡崎が出場。36分には、中村憲が阿部の代わりに入った。本田がロスタイムに警告を受けた。
15分ハーフの延長戦。前半を無得点で折り返すと、後半1分に玉田を投入。
0―0でPK戦へ突入した。PK戦で後攻の日本は1人目遠藤、2人目長谷部、4人目本田が成功したが、3人目の駒野が失敗。パラグアイの5人全員にしっかり決められて、3―5で敗れた。
敗れたのは残念だったがよく頑張ったと思う。
参議院選挙運動が活発化してきている。昨日中学の旧友から今度の選挙に立候補した自民党比例代表(全国区)の宇都隆史を紹介された。宇都は防衛大学42期卒業、平成10年航空自衛隊入隊、19年航空自衛隊退官、松下政経塾に入り今回立候補した。
消費税10%論もあり、今度の選挙はどうなるか、最近の国の政策、庶民を苦しめるものが多い。深い関心がある。
6月も今日で終り。明日からは7月である。