鎮魂、機関科の3月の戦死者
斎藤 義衛
☆ 19年3月は0
米機動部隊パラオ来襲、古賀司令長官戦死。艦隊はリンガ泊地へ。
☆ 20年3月3名、
・合志秀夫、整備、硫黄島にて玉砕。
・寛応隆、彗星隊、九州東方海面。
・嶋野辰雄、イ8潜、沖縄周辺海面。
鎮魂、生存せる海軍通信兵の手記「17歳の硫黄島」を再読、合志の無念に涙す!!
3月1日
もう3月になりました。昭和19年3月の戦没者は3名、20年3月の戦死者は23名であった。20年の23名の内訳は艦艇1名、潜水艦6名、回天1名の他15名は飛行航空であた。戦況が悪化し、艦艇は殆ど活躍出来るものは無くなっていた。
3月1日の戦没者 66年前 なし
65年前 新保始明夫(133空艦攻操)台湾海峡で
天候不良の為ガランピー岬南山に接触墜落して殉職、
2月27日のNHK BSハイビジョン で放送された航空母艦「瑞鶴」の再放送が同じくBSハイビジョンで、3月5日(金)16:00 から行われます。
竹村 信君逝去
竹村 信君(名簿20P)が平成22年 2月 1日(月)に逝去されていました。
喪主は長男の竹村潔様です。奥様は既に逝去されていました。
ご子息 竹村潔様から次のFAXを頂いて知りました。
『父竹村 信儀 去る2月1日 虚血性心疾患の為、85歳で永眠いたしました。
謹んでご通知申し上げます。
なお、葬儀および告別式は2月10日相済ませました。』
ご冥福を祈ります。
3月2日
昨日あたりからなにわ会だより第2号到着したようで、会員、遺族会員、有志会員等多数の方から受け取り、感謝の電話やメールを頂きました。今回文字が大きくなったのでちても読みやすくなったという感想が多数ありました。また、次の意見がありました。
@ 表紙のなにわ会だより第2号のあとに(通算第102号)を加えられては
A 頁52ですが、「1ヶ月あたりの戦没率を見ると72期の2,3%が最大で・・・」が、どういう計算かよく分かりませんでした。
B 最後の表の最下部に復員者生存率を加えられては
44,43,48、44 になるようです。
これに対し次の用に返事しました。
@についてはご意見参考とさせて検討致します。
Aは次のとおりです。
次のように計算して求めました。
卒業から終戦までの期間は1年11月即ち23ヶ月です。戦没者数は335名ですから、これを23で割ると1ヶ月あたりの戦没者数がでます。これで計算すると毎月14.56人亡くなったことになります。14.56人はクラス総員625名の0.0023即ち2.3%です。
我がクラスが卒業後の短い期間にいかに多数の会員が亡くなったかを示したかったのです。
Bについてはなにわ会だより第3号から掲載しようと思っています。取りあえずHPの現状の所を修正しました。
このようにご意見頂くと編集上とても参考になります。
また、ある遺族会員から『今回は振込用紙が同封されていなかったが、会費大丈夫ですか』とメールをいただきました。これに対しては、『会費の方は年会費は20年迄完納されています。連絡報(なにわ会だより)の方は1000円納入済みですのでご心配なく。会の基金が不足したら改めてお願いしますのでその節はよろしくお願いします。』と返事しました。
3月3日
昨日はなにわ会だより第2号を受け取った。有り難うという電話やメールを沢山頂いた。
そのなかからいくつかの意見、感想を書いて見ます。
@ 長期にわたる会誌編集のご功績を称える言葉は見つかりません。小生、少なからず歩行が弱ってきましたが、現在も作業帽をかぶり小型トラックで走っています。こんな田舎の爺さんに生き甲斐と誇りを与えて下さるのはなにわ会だよりです。重ねて心より感謝いたします。
A なにわ会だより第2号受け取りました、有難う御座いました。活字が大きく、行間も広くなりとても読みやすくなり、しかも内容が多岐に亘り興味深々、受け取った昨日中に読み終わりました、ご苦労に感謝します。同封の永代神楽祭出欠回答の中の近況(なにわ会だより第3号に掲載します)とあり、もう第3号への手配が始まっているのだと、編集長の気配りの大変さを感じました。
B 第2号受領しました。貴兄のなにわ会に対する長い間の献身的ご努力に改めて心からの敬意と謝意を表します。今回も充実した内容ですね。原爆直後の呉、廣島を知る一人として秋田君の最後は本当に気の毒です。
C なにわたより有難う。健康には気をつけて、ぼつぼつやって下さい
D 本日、「なにわ会だより第2号」を、お送り頂き有り難う御座いました。嬉しく拝見致しました。以前のように年会費の、振込み用紙が同封されていると思いましたが、同封されていませんのでどうしたら良いのでしょうか。お世話になるばかりで大変心苦しく思って居ます。
E この他電話で沢山感想等頂いています。
なにわ会第1号頂いた覚えが無いという方がありました。もし、そんな方が他におられたらご連絡下さい。若干余分がありますので送らせて頂きます。
74期訃報
74期 岡村虎彦 様 3月2日 逝去
3月4日
なにわ会だより第2号概ね到達したようですね。
もう永代神楽祭出欠の葉書が10数枚きました。今年はなにわ会だよりを送っている方全員に葉書を送りましたが、もう参加は無理な方等連絡不要の方には来年からは送らないようにして経費の節減に努めます。その為、返事には今後の連絡必要の有無を必ず書いて下さい。
ところで、埼玉県居住の谷内能考君に送ったなにわ会だよりが宛先不明で帰ってきました。電話しましたが連絡とれません。彼の事ご存じの方がおられたら教えて下さい。
海軍機関学校55期の会報 たんご37号 を頂きました。その中に次の訃報がありました。
古賀 正敏 様 H21. 4. 8 没 牧野 諭 様 H21. 6.13 没
脇山 茂造 様 H21. 7.15 没 鷲山 林蔵 様 H18. 9.20 没
宮野尾光昭 様 H22. 2. 7 没 小林 四郎 様 H21. 2. 6
3月5日
今日は斎藤義衛(機)が綱島まで来てくれ、いろいろ機関科会員の現状等を聞かせてくれ、また、HPやブログの事も話し合いました。彼の言によれば携帯電話で充分HPもブログも見られる、とても勉強になって「なにわ会」の事がよく分ると言っていました。機関科の生存者の現況を詳しく聞き、やはり米寿を迎える歳だから已むを得ないと思った。また、斎藤義衛君は20年8月5日広島に出張しており、当日宿泊予定だったが都合で宿泊せず帰ったので6日の原爆をま逃れる事が出来た。秋田君の記事を見て彼は本当に気の毒だった。お人好しで砲術長の代わりに艦長と行を共にしたため原爆にあってしまった。
一昨日から毎日10数通の出欠葉書を頂いて、楽しく読ませて頂いて居る。体調不良でもう神楽祭参加不能だから連絡不要という会員やご遺族が随分多くなった。
なにわ会だより第2号で泉五郎君の園田 勇君の事を掲載したが、彼の中学の2年後輩の竹中君が予科連で海軍に入隊し航空(偵察)になり戦死しているが、その時の機長(操縦)が72期の野上祝男君であったという電話を貰った。この顛末を次号に掲載する予定。
3月6日
昨日渡辺収一君から、なにわ会だより第2号71頁に掲載した海軍兵学校72期通信連絡網に渡辺収一の名前がないと電話を貰った。今回改正した連絡網には長期年会費未納又は体調不良で長期療養中の会員は除いたが、間違えて渡辺収一君も除いてしまった。第3号で訂正するが、取りあえず樋口 幹の第2受信者に加えることにした。再度チェックしたら鈴木 彊とその第2受信者が二重に書かれていた。71頁の右下の鈴木 彊とその第2受信者を削除して下さい。なお、此処に掲載していない会員は所在不明の赤尾正長、佐藤 達、三宅道久、会費未納の6名、退会希望の渡辺光允、連絡不要の百瀬 茂の11名である。
戦後亡くなった期友の森園良巳君と佐藤英一郎君の奥様から多額のご寄付を頂いた。
3月5日現在の永代神楽祭出欠通知 出席、16名うち4名参拝だけ、欠席28名。
日記 3月7日
今日は日曜日、特に書き込む事はありません。
先日斎藤義衛君と話した時、「携帯電話を持っている会員は随分いるが、電話だけに使用している人が多いようだ。現在の携帯は随分進歩して、メールは無論、HPも楽に読む事が出来る。
会員がみんなパソコンか携帯電話でなにわ会のブログを見れば情報がよくわかるのに」と言っていた。
全く同感である。私は毎日情報配布に頑張っている。諸君も情報入手に努力して欲しい。
北川 誠司氏(昭和38年、埼玉県生まれ。旧日本陸海軍の戦車・装甲車の研究に励んでいる)から次のメールを頂いた。
「海軍陸戦隊における戦車(隊)についての書籍を準備しており、現在各種の資料の収集や聴き取りを継続いたしております。ただ如何せん、先の大戦から既に月日が多く過ぎており基本的に多くない陸戦隊戦車のご関係者様をお探しするのには大変苦労しております。お集まりのお仲間内、もしくは先輩後輩御関係者様の中に陸戦隊で戦車(隊)に関係された方が居られましたら是非ご紹介いただければ幸甚に存じます。」
陸戦隊に行った期友は殆ど戦死しており、生存期友には心当たりが無いが、もし海軍陸戦隊の戦車に関連した方がおられたら伊藤正敬に連絡して下さい。
3月8日
斎藤義衛君から機関科戦没者の不足写真を頂いたのでHPにとりこんだ。あと、2名の写真が手に入ると全部揃います。
小西愛明君から昭和18年卒業直前に写した彼が四号の時の36分隊で一緒だった8名が集まって写した次の写真を頂いた。
今日も神楽祭出欠の葉書ととなにわ会だより受け取りの礼状を沢山頂いた。その中にワープロかパソコンで打ち込んだものが2枚あった。会員だよりに入れるのに、スキャナーでパソコンに取り込めるので編集担当としてとても助かります。出来るだけ、手書きでなく、パソコンかワープロで打ち込ん頂きたいものです。
3月9日
3月7日ブログに書いた海軍陸戦隊の戦車に関連して、特四号自認の田島明朗氏から参考資料があるとのメールをいただいた。早速お尋ねの北川氏にメールで知らせた。田島明朗さん有り難うございました。
永代神楽祭の出欠葉書毎日何通か来ていますが、整理して困るのが、ご遺族で続柄の所がただ弟とか妹だけで誰のご遺族なのか、その都度名簿で調べねば○ならないことです。故人の名前の記入欄を省いた為ですが、〇〇の弟のように書いて頂けると助かります。
機関科 近況 斎藤 義衛
残存艦艇23隻、昨年来沈没なきも船体老朽化エンジン不調数多。地域分布、鹿児島1隻・山口2隻・関西4隻・首都圏16隻。
本日は岩間正春が会長を務める山岳写真展を歩けのメンバー(と言うも、最近は歩けずワイワイガヤガヤの集まり)で鑑賞。〈村山・室井・三沢・野崎・金枝・齋藤〉
65年前の3月10日 齋藤
陸軍記念日のこの日を狙ってか、東京の下町はB29の大空襲により灰燼に帰し、無辜の民、大量焼尽!深川辺りを訪れると、今尚焼殺の怨念が漂う。広島・長崎の原爆とこの文明犯罪的な歴史を今の政治家は知っているのだろうか!?と疑わざるを得ない昨今である。
3月10日 東京大空襲
斎藤義衛君が書いて呉れたように、今日3月10日は東京大空襲の日である。東京は、1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。太平洋戦争(大東亜戦争)中に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に被害を与えた空爆である。死亡:8万3793人、 負傷者:4万918人、被災者:100万8005人、被災家屋:26万8358戸を数えている。
私は3月10日 呉発上京し、半年ぶりで東京大森区の雪ヶ谷の自宅に帰った。わが家には被害は無かった。父の日記には、10日未明の夜、敵大挙150機にて帝都空襲、各所で火災発生せりと書かれていた。実際は、B-29爆撃機325機による空爆であった。
3月11日
永代神楽祭の出欠回答 現在まで78通頂きました。そのうち参拝のみの方6名、懇親会にも参加の方17名、欠席45名です。
7T期HPから 訃報
梨本徳彦 様 H19. 2. 7 没 広崎亮二 様 H22. 2. 4 没
乙部英爾 様 H22. 3. 1 没
3月12日の戦没者 66年前 なし
65年前 清村克己(伊371潜水艦)内南洋方面で
20,1.31 トラック発内地は向かったまま消息を絶つた。
当日戦死と認定された。
ブログのロゴ写真を海軍経理学校の写真に変更しました。
なにわ会のHPの閲覧数が141,455に達しました。
他のクラスのHPの現在の閲覧数
兵73期 41,775 兵74期 34,511 兵75期 19,048
兵76期 21,553 機55期 8,395 経36期 25,700
となっていて、なにわ会のHPは断トツである。
一方、このブログを見て頂いている回数は毎日約50回であり、次のことから考えて少ないように思います。極力毎日何か書き込むように努力していますので、もっと覗いて頂きたいものです。
現在私のところでメールアドレスが分っている会員は38名、遺族会員は33名、有志会員は6名、その他の関連者は43名、合計120名おられます。
最近会員の斎藤義衛君、堀剣二郎君やご遺族の深井紳一様、春日様が書き込んで頂いていますが、もっと多数の方に見てもらいたいし、書き込んでもらいたいものです。
3月13日
74期は昨年12月の全国大会でクラス会の行事の幕を閉め、会報も昨年 8月の360号で終わりとなり、現在は談話室が連絡手段の中心となっている。この談話室は寄稿者も多く、なかなか盛況である。
行事、幕閉め後も地区単位の集まりは盛んで、一昨日 3月11日(木)に丸の内ポールスターで丸の内木曜会 3月例会が開催され、25名が集まっている。このクラスは 3月30日に靖国神社永代神楽祭を行う。
74期の訃報 田中 修 様(三号時9分隊) 平成21年11月24日 没
3月14日の戦没者 66年前 なし
65年前
溝上正人(伊368潜水艦) 硫黄島西方海面で
20.2.20 回天特別攻撃隊千早隊の一艦として硫黄島方面の敵部隊攻撃に向かったまま消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛空母アンチオ艦上機の爆撃により20.2.27沈没:米軍資料による)
林 慶治(伊370潜水艦) 硫黄島周辺海面で
20.2.21 回天特別攻撃隊千早隊の一艦として硫黄島方面の敵部隊攻撃に向かったまま消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛駆逐艦フィネガンの爆雷攻撃により20.2.26沈没;米軍資料による)
白木常雄(呂 43潜水艦) 硫黄島周辺海面で
20.2.16 南西諸島方面に向け呉出撃、硫黄島方面に配備を変更されたあと消息を絶つ(戦死認定)
(米護衛空母アンチオ艦上機の爆撃により 20.2.27沈没;米軍資料による)
3月15日
3月14日現在の永代神楽祭の出欠回答
受信葉書総数 87通。そのうち参拝のみの方8名、懇親会にも参加の方25名、欠席54名です。
76期HPから一部紹介
昨21年11月に行われた76期の総会で池田武邦君が講演を行っている。
『池田先輩は自己紹介を兼ね、昭和18年9月海軍兵学校卒業後、軽巡洋艦「矢矧」に航海士として乗艦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦い、昭和20年4月、沖縄海上特攻作戦に第二水雷戦隊旗艦「矢矧」の測的長として出撃、「矢矧」が撃沈され海上漂流5時間、火傷と負傷を負いながら駆逐艦「冬月」に救助されて、九死に一生を得られた悲惨な体験を生々しく語られた。
以上のような戦歴に触れながら、その痛烈な反省から日本は「どう立ち直るべきか」、航海士、測的長として米国戦隊と幾度も戦い、彼我の戦力なかんずく科学技術水準の質的な差を”イヤ”というほど徹底的に知らされた、そうした実戦の体験から私の戦後の進路は自ずと決まったと述べられている。
昭和21年4月 東京大学工学部建築科に入学、24年卒業、工学博士、大きな建築の設計に携わり、(霞が関ビル,京王プラザビル、新宿三井ビル等々)
「日本設計」の創設に関わり、取締役、社長、会長、日本建築学会名誉会長、長崎総合科学大学教授、同校名誉教授,等々を歴任され、建築学会や同業界で指導的役割を果たされている。そういう経験を踏まえて、技術革新、事業の近代化、合理化の重要さ(”文明”視点)と共にそれらがもたらす”負”の遺産への反省と対応、歴史と伝承の重要さ(“文化”視点)を強調されて、最後に「このことを諸君のお子さん、お孫さん達への教訓にして欲しい」と述べて講演を終わられた。われわれ76期にとっては殊に有意義な講演だったと思う。』
回想 機、齋藤
戦後65年改めて回想する。ホームページの戦記の大半をプリントして再読する昨今です。私は矢矧と姉妹艦である能代で奮戦沈没。矢矧で戦死せる伊藤比良雄君の舎弟とは現役時代の会社で同期入社でした。そして矢矧の油絵作品を供養を込めて進呈しました。
3月16日の戦没者
66年前 石原 博、太田基彦(白雲駆逐艦) 釧路沖で
船団護衛中、敵潜の雷撃を受け沈没、戦死
少尉任官翌日の戦死であった。
65年前 なし
74期は昨3月15日、水交会会議室において最後の残務整理委員会を開き、江鷹会の最終報告を昨年12月の全国幹事会構成員宛に発送、江鷹会の組織的活動の終結した。
74期会員は今後のクラスの事について談話室に期待するコメントが多い。
3月17日 硫黄島玉砕
3月17日の戦没者 66年前 なし
65年前 合志秀夫(南方諸島空 整備)硫黄島で
敵上陸部隊と交戦後玉砕
昭和20年3月17日は硫黄島玉砕の日である。
20年2月から3月にかけて行われたこの島の攻防(硫黄島の戦い)で、日本軍2万129人が戦死、米軍2万8,686人(戦死6,821名・戦傷2万1,865名)の戦死傷者を出す大激戦が繰り広げられた。そして3月17日、硫黄島は米軍に占領された。終戦後、島はアメリカ合衆国の施政権のもとにおかれ、1960年代までアメリカ空軍基地として核兵器保管などに用いられた。1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還された。その後、海上自衛隊硫黄島航空基地隊が設置されている。
平成22年の新年の「歌会始の儀」に元陸上自衛官・古川信行氏(94)が目出度くも入選し、1月14日、皇居・宮殿で行われた儀式において天皇、皇后両陛下や皇族方の御前にて朗詠された。お題は「光」。
同氏の入選作は、次のとおり。
燈台の 光見ゆとの 報告に
一際高し 了解の聲
この一首は、先の大戦末期における自らの戦争体験を詠んだもので、相手の魚雷攻撃を受けて日本に帰投する沈没寸前の特務艦から、下田沖の灯台の光が見えた時の安堵感が鮮やかに、リアルに描写されており、海外を含む2万3千余首の一般応募作から選ばれた。 古川さんは海軍経理学校第27期の出身で、創設期の警察予備隊に昭和26年入隊し、需品学校教官、陸幕補給課や厚生課の班長等、岐阜地連部長、調達実施本部の連絡調整官などを歴任した元陸将補。昭和42年、自衛隊を定年退官した後は靖国神社などに奉職 し、最後は奉賛会事務局長を務めた。
また、今回の入選者10人のうち、古川さんは最年長の94歳であり、これまで記録が残る昭和38年以降でも最高齢者。
歌会の宮中参内の後、古川さんは「入選者として歌会始の儀に参列し、陛下から直接お言葉を賜る光栄に浴することができましたのは偏に、戦時中は海軍で、戦後は自衛隊でご指導ご鞭撻を戴いた皆さんのお陰です」と喜びを語っている。
この古川信行氏をお祝いする会が3月28日(日)に行われる。世話役は35.36.37期で26期から39期迄に声を掛けたとの事である。
鎮魂 斎藤 義衛
17日硫黄島玉砕の日
戦記、山下茂幸君の『硫黄島』を再読し合志兄の無念に思いを馳せ、涙禁じ得ず!!
3月18日の戦没者 66年前 なし
65年前
杉坂 善男(戦303 戦闘機) 鹿児島上空で
鹿児島上空哨戒中F6Fと交戦戦死
植田 伸二(戦307戦闘機)宮崎県富高で
敵機動部隊来襲時迎撃に向いここれと交戦戦死
生田善次郎(801空大艇操)本邦南方洋上で
本邦南方哨戒のため基地発進後、消息を絶つ
3月19日の戦没者 66年前 なし
65年前
向坂 清(葛城 空母)呉港で
敵機動部隊の本土空襲に際し銃撃を受け戦死
坂田明治、藤田春男(攻103 偵察)九州南東海面で
神風特別攻撃隊菊水部隊彗星隊として敵機動部隊に突入戦死
渡部 幸博(343空 戦闘機) 四国上空で
本土来襲の敵機と交戦戦死
昭和20年3月19日、呉軍港はアメリカ海軍第58機動部隊の艦載機約350機により午前7時20分頃から午前11時5分までにわたって激しい攻撃を受けた。
また、名古屋市にも大規模な空襲が有り、死者1037名、負傷者2813名、焼失家屋3万6千戸を発生している。
3月20日の戦没者 66年前 なし
65年前
寛応 隆(戦311 戦闘機) 九州南東海面で
神風特別攻撃隊菊水部隊彗星隊として敵機動部隊に突入戦死
故小灘利春君の奥様郁子様から「回天特別攻撃隊の母・おしげさん物語」という小説の原稿を送って頂いた。これは、山口県光市に住む古川知明氏が書かれたものであり、この小説の中心人物は回天の母と言われ、回天搭乗員から「かあさん」とか「おっかさん」と呼ばれて親しまれた倉重朝子さん(おしげさん)である。
回天特別攻撃隊の訓練基地・大津島で猛訓練に励む若い隊員たちが休暇を楽しみ、また出撃前の別離の宴席が設けられたのが、徳山市糀町の高級割烹旅館「松政」だった。
後に「回天の母」と呼ばれた倉重朝子さんは、大正15年から「松政」で奉公を始め、結婚して一度は辞めたものの夫の病死により、昭和15年から再び「松政」に戻った。戦中の物資の乏しい時代にも係わらず、宴席の時には七輪や炭をかき集め、出撃隊員には白い絹のマフラーを贈り続けた。
戦後になっても、住み込んでいた「松政」の居間に戦没隊員の位牌を祀って毎日手を合わせていた。昭和32年、出光興産徳山製油所が完成した時に「松政」で祝宴が開かれ、出光佐三社長(当時)は朝子さんから回天との因縁を聞いて感銘を受け、大津島の回天碑・回天記念館の建設に協力した。
昭和42年「松政」は店を閉め朝子さんは故郷へ帰ったが、大津島の追悼式には毎年欠かさず参列したと云う。昭和60年 2月22日、持病の悪化で息を引き取られた(享年78才)。
この原稿を読んで、回天特攻で亡くなった戦友を思い起こし、また先年逝去した故小灘利春君との交友、特に海軍兵学校2号9分隊で1年間生活を共にした当時の事を思い出し冥福を祈った。た。
小灘君と言えば、回天会会長として回天に関する記事を沢山書いていた。これは、彼が「人間魚雷・回天特別攻撃隊の歴史を、搭乗員の思いを、正しく後世に伝えたい」という主旨のもとに、生前に会報・雑誌・新聞等に発表されたものであった。
この遺された貴重な多数の記録が、散逸することなく永く後世に語り継がれんことを祈念して、ご令室・郁子様のご許可を頂いて、峯一央氏(73期峯眞佐雄氏のご令息)が収録されたものが峯氏のHP(http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konada.htm)に有った。その数はなんと180件に及んでいる。このうち、なにわ会に関連深いもの、約40件をなにわ会のHPにリンクさせた。是非お読み頂きたい。
なお、HPで見つけた『突然の悲劇 殉職ショック乗り越え奮起」という黒木、樋口先輩の殉職記事とおしげさんに関連した記事をなにわ会HPに取り込んだ。
3月20日現在の永代神楽祭の出欠回答
受信葉書総数 116通。そのうち参拝のみの方9名、懇親会にも参加の方31名、欠席76名。
3月21日
増田 實(戦313 戦闘機)茂原基地で
千葉県茂原基地にて訓練中殉職(零戦)
古関建治(攻711 偵察)・小原正義(攻711 兵器)沖縄周辺海面で
第1神風桜花特別攻撃隊神雷攻撃隊として沖縄沖に突入戦死
3月22日 ブログHPに取り込み
平成21年12月、22年1月、2月のブログを整理してHPに取り込んだ。
21年12月 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/burogu2112.html
22年 1月 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/burogu2202.html
22年 2月 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/burogu2202.html
3月23日
65年前の4月は大和特攻で多数の将士が亡くなっている。その戦没将士の慰霊塔が徳之島犬田岬に建築されている。この慰霊塔は世界最大規模の芸術性の高い慰霊塔である。潮風等にによる塔の経年劣化の情況について、構造強度に関する綿密な性能再調査したところ、立て替えでなく特殊な修復工事により強度を回復させ、今後の劣化を止める事が可能との結論を得た。
この調査は、海兵出身「矢矧」乗組み生存者で日本を代表する建築家、池田武邦先生の影響力もあり、慎重に丁寧に実施された。そして、修復工事が終わり、来る4月7日には修復完了した慰霊塔の前で慰霊祭を執り行う予定である。(水交3・4月号記事から)
HPのTOP頁を更新しました。
HPに取り込んであるファイルの数は総数1238件、うち ニュース記事が 855件、(海兵記事13件 戦記関連 250件 戦没者関連177件 物故者関連362件 遺墨関連45件 その他 8件)目次300件、名簿15件、分隊監事 3件、訃報4件、戦没者44件、記録5件、写真 多数、資料4件、分隊別写真8件となっている。
3月24日
65年前の3月24日、米軍は沖縄本島に上陸作戦するための支援として沖縄本島への艦砲射撃開始した。
3月25日
なにわ会だより第2号は76頁にもなり、なにわ会ニュース第102号とも言うべきと好評をいただいたが、今度の第3号も、2号に劣らぬものになりそうだ。永代神楽祭の出欠回答の葉書に書かれた近況が随分多く、嬉しい悲鳴を上げている。その中、ご遺族の井ノ山様から葉書に書いた近況をメールでも送っていただいた。メールで頂くとコピーして貼りつければいいのでとても助かります。それに打ち込み間違いもありません。本当に有り難い。深く感謝します。
65年前の3月25日 、沖縄の第32軍司令部は全軍に戦闘配置を下令。
京都の山本省吾君カらの情報
『関西なにわ会を来たる4月4日正午より、京都駅横の第2タワーホテルで開催します。小西君と共に世話をしており、出席者は10名程度で楽しみにしています。昨年開催時より桂・石井の両君が亡くなり寂しくなる一方です。なお会食後、元気な者のみで近辺の枳殻邸(きこくてい)に花見に出かけます。後日、写真や内容など送る予定をしています。
最近、古い写真の整理をしていたら、第二期兵器学生の卒業写真が出てきたので送ります。70期1人、71期2人、短現技術中尉2人、その他は72期、コレスの者です。これも、クラスの生存者は溝井君のみです。』
3月26日
65年まえの3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島の座間味島など数島に上陸、占領してから沖縄戦が始まり、以後、6月23日まで熾烈な戦いが続いた。
78期の会報『針尾』52号を頂いた。
このクラスもクラス会終結への道筋について次のように提言されている。
1 平成27年6月末日に期会を解散する。
2 次の業務については平成22年10月1日より水交会に委託する。
@ 78期事務局を水交会におく。
A 78期宛の郵便物を同所に保管する。
B 期友の異動(死亡・転居等)をパソコンに入力管理する。
C 期友の要求により最新の情報を提供する。
イ 個人情報 ロ 分隊会名簿 ハ 支部会名簿
D 「針尾」送付用宛名ファイルの作成
3 期会事務局は22年10月末日をもって閉鎖する。
4 針尾の発行は第57号(27年3月発行)を最終号とする。
5 「針尾』掲載の一般原稿は第53号(23年3月発行)までとし、54号以降は、期会カらの期友へのお知らせ、ブロック、支部、分隊などの集いの期友の投稿、名簿の補正の紙面になる。
78期は昨21年11月5日から7日にかけて江田島で傘寿の集いを盛大に行った。
参加者期友265名、同伴家族110名、計375名
3月28日
3月28日の戦没者 66年前 なし
65年前 高嶋 肇(901空 偵 察)東支那海洋上で
東支那海の索敵に発進、敵機と交戦戦死(一式陸攻)
昨日までの永代神楽祭の出欠返事
参拝のみ参加13名、参拝し懇親会にも参加37名、計50名参加
欠席83名 今までの回答者133名
昨27日、幸田正仁君主催の歩こう会が行われた。
参加者 会員、幸田、浦本、高田、深尾の諸君
会員家族 伊藤、小松崎、品川、深尾、藤井の各夫人
昨日泉君から20年4月1日に神風特攻で戦死した清水武君の弟昭君が書いた「無名の碑」という素晴らしいものがあるが、この記事ニュースに掲載されていたか問い合わせがあった。そこで、なにわ会HPの索引目次で戦没者を捜して見たところ次の記事が出てきた。
無名之稗を読んで(押本直正)
清水武を読んで所感(桂 理平)
無名之碑(清水 武) (清水 昭)
比島台湾に散華した戦闘機友(藤田 昇)
索引目次はその1とその2がある。その1はHPに取り込んでいないものもすべて記載してある。
その2はHPに取り込んだものだけを掲載してある。
とても便利なので大いに利用して頂きたい。
3月29日 75期会報
3月29日の戦没者 66年前 なし
65年前 戸塚 弘(381空 戦闘機)南支那海で
船団護衛中、P−38数機と交戦戦死(零戦)
兵75期会報(H22.3「古鷹」第49号)を頂いた。
1 平成23年度末で兵75期会を終結する。
2 終結総会を平成23年5月9日1200からホテルニューオータニで実施する。
3 会報「古鷹」は51号を最終記念号とする。
4 最終名簿を発行する。
5 期会終結後のあり方
a 完全終結が前提。
b 弔意表示は不可能。
c 古田か発行 希望は強いが不可能。
d 名簿の更新不可能。
6 総員3390名中生存会員1738名(生存率51.3%)
3月30日の戦没者
66年前 菊池祥一(若竹 駆逐艦)パラオ西水道で
敵機の空襲を受け交戦中、大爆発を起こし沈没戦死
65年前 河合不死男(1回天隊回天) 沖縄周辺海面で
第1回天隊長として第18号輸送艦で沖縄へ進出の途中、攻撃を受け、搭載中の回天8基と共に消息を絶つた。
河合不死夫の遺した写真をHPに取り込んだ。
戦没者の名簿・記録を再チェックしてリンクを貼り直した。
3月31日の戦没者 66年前 なし
65年前
増田佐輔・嶋野辰雄(伊8 潜水艦)沖縄周辺海面で
20.3.20沖縄南方に向け佐伯出撃、30日深夜爆雷攻撃を受け浮上,砲戦中被弾沈没
白井刊徳(1081空 大艇操)本邦南方海面で
横浜基地発進、九州南方で消息を絶つ(二式大艇)
昨日は我らの3号 74期が海軍兵学校を卒業した日で、74期はこの日を永代神楽祭の日としている。
第1回の神楽祭が昨日行われ、ご遺族4名、会員(家族を含め)25名が参加した。
参集殿2階控室で写した写真(参加者全員)が江鷹会談話室にある。