なにわ会のブログ 22年 1月
平成22年1月1日 明けましておめでとう御座います。
早や戦後65年、なにわ会会員の平均年齢からみると、今年は半数近くの者が米寿(数え歳で88歳)を迎えました。
区 分 兵 機 経 計
卒 業 生 総 数 625 111 51 787
戦 没 者 総 数 335 57 20 412
復 員 者 総 数 290 54 31 375
復 員 後 物 故 者 数 159 31 16 206
物 故 者 総 数 494 88 36 618
現 在 生 存 者 数 131 23 15 169
戦 没 者 比 率 54 51 39 52
生 存 者 比 率 21 21 28 21
約21%の者が米寿を迎えられた事になります。
例年どおり1月4日には上野三郎君、市瀬文人君の尽力で鎌倉に24名が集まって新春をことほぐ会がわれ、6月4日には靖國神社で永代神楽祭が行われます。
恒例だった年末クラス会は20年で終りとなったが、昨年は11月に左近允尚敏君の発案で東京クラス会がおこなわれました。今年も何方かが提案される事を期待しています。
なにわ会だよりは好評で、第2号は第1号を越えて72頁程度のものが発行出来そうです。
なにわ会ブログは殆ど毎日書いていますが、これも好評でクラスの情報資料として役だっていて嬉しく思っています。
昨日までかかって森教官の戦時中の日誌ともいえる想い出をHPにとりこみました。
その中の「29話 レイテ突入せまる」 の中に次の記事があった。
「12月14日頃(推定)以後、私は高雄のイ36司令部から今度はレイテ突入第10次輸送部隊という内示を受け、その準備をするように命ぜられた。話によれば第1次から第4次ぐらいまで、ことごとく全滅との由。」
これは19年の事である。もうこの時台湾からレイテに向かうのは死の航海であった。20年1月数度にわたりフィリピンからの搭乗員救出と比島防衛のための陸戦隊輸送作戦が実施されたがことごとく失敗であった。その中、20年1月31日、駆逐艦汐風、梅、楓の3隻で「パトリナオ輸送作戦」が行われ、私は楓で参加、敵機の空襲を受けて、梅撃沈、楓被弾、辛うじて高雄に帰投したことを思いだした。
森教官はあの激戦下、17年9月から18年6月迄の8か月余水雷艇「雁」の艇長として勤務し、さらに18年10月下旬から20年5月上旬迄の1年7か月間に合計44回の護衛を実施されている。この間、座礁事故、衝突事故等もあったが無事大任を果たされている。
この間、主計科の神林君が朝顔主計長として勤務していた記事もあり、左近允中将と会われて、左近允一家の事も書かれている。貴重な戦時記録であって是非読んで頂きたい。目次の数字をクリックしてください。
1月2日 レイテ作戦後
昨年12月、海軍兵学校時代の期指導官であった森 栄氏の戦時中の日誌をHPで見つけてその中から関係部分をHPにとりこみました。そして、取り込みながら読んでいると、戦時中の事が詳しく思いだされました。
そして、19年10月のレイテ海戦後の多号作戦が極めて厳しい環境下で行われていたことに気づきました。そこで、多号作戦を纏めてHPに取り込みました。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-reiteigo-kaijyousakusen1.html
多号作戦のあとで行われた比島残留航空搭乗員引揚輸送に駆逐艦楓で当たった私ですが、同航の梅は大破、航行不能になり僚艦汐風で処分、楓は前甲板1番砲塔に航空機からの爆弾が直撃、大火災、何とか消し止めましたが舵機故障で、人力操舵により高雄に引き返しました。この時は高杉敏夫君が楓主計長でした。
今から考えると本当に無茶苦茶な作戦だったのですね。でも、その時は、別に死ぬのが怖いとか悲壮な気持はもっていませんでした。
これら多号作戦で次の会員が亡くなっている。ご冥福を祈ります。
11月11日 主計科の恵美純吉(若月)と坂巻和一(島風)戦死
12月 2日
兵科の鈴木敏旦、主計科の岩佐肇(ともに桑)戦死
12月 7日 兵科の宮林久夫(杉)戦死
12月11日 兵科の前田政夫(卵月)戦死
1月3日 丹下教官
一号時の56分隊の分隊監事 丹下教官が100歳でご健在、教官の年賀状ガ74期談話室にありました。
1月4日 湘南新年クラス会
今日は恒例の湘南新年クラス会が鎌倉二楽荘で行われた。
1月7日 なにわ会だより第2号
なにわ会だより第2号を76頁に纏めました。校正担当に校正をお願いしました。
名簿に住所のない赤尾正長、佐藤 達、池田道久の諸君のほか最近連絡出来ない浅沼 薫、石坂美男、志満 巌、平野芳徳、本山和男の諸君、体調不良の情報のある伊集院正年、塩見頴一、後藤俊夫、多胡光雄の諸君の情報を持ちの方、情報お知らせください。
このほか、20年迄の年会費又は連絡費未納の4名の方には、なにわ会だより第2号に振り込み用紙を再度同封して発送します。
1月8日 蒲地経春君(954空)
マニラから南西約50海里沖で駆逐艦檜は1月5日 駆逐艦「樅」と共にフィリピンマニラからサン・ジャックへ航行中、マニラ南西沖でアメリカ海軍第77任務部隊の航空母艦艦載機の空襲により航行不能になるが、応急修理後マニラに帰港する。
1月7日 マニラを出港後、アメリカ海軍駆逐艦4隻(「チャールズ・オースバーン」「ブレイン」「ラッセル」「ショウ」)と交戦し撃沈されて8日戦死。
蒲池君は赴任のため駆逐艦檜に便乗していた。彼とは一号55分隊で一緒であった。便乗中の戦死で、さぞ残念だったであろう。ご冥福を祈る。
蒲池君について堀剣二郎君から次のメールを貰った。
『蒲池君と昭和19年11月のある日(日にちは忘却)。フイリピン、ルソン島のリンガエン湾の湾口にあるサンフェルナンドであった。彼は水偵隊の隊長であつた。最初は6機いたが1機になった。と云っていた。単発の水偵が1機マングロウブの下につないであった。
俺が隊長といって意気軒昂だった。 好漢のご冥福を祈る次第。』
訃報 安井四郎治君
安井(服部)四郎治君(名簿34頁) 平成21年12月17日(木曜) 逝去
大槻敏直君が安井夫人からの喪中欠礼の葉書で知り教えてくれた。
電話で奥様に確認したところ、7月29日に脳梗塞で倒れ入院、病院で療養していて、8月26日転院、
引き続き入院、リハビリを続けながら療養していたが、12月17日息を引き取ったとのことである。
日記 1月9日
1月7日に書いたクラスの記事を見た田島明朗氏から次の情報を頂いた。
『志満巌氏は、住所、電話共に名簿と変わり無くお元気で、月に一回、旧ネイビーの昼食会でお会いしております。どうも71期の気分が抜けない様です。』
1月9日 会員の情報
1月7日に書いたクラスの記事を見た田島明朗氏から次の情報を頂いた。
『志満巌氏は、住所、電話共に名簿と変わり無くお元気で、月に一回、旧ネイビーの昼食会でお会いしております。どうも71期の気分が抜けない様です。』
1月10日
昨日富山の高松道雄君から頂いた年賀状にメールアドレスが書いてあったので、メールを送ったら返事が来た。
これからは高松道雄君にも情報を直接流します。
森栄教官の戦時日誌、都合でHPから削除しました。
1月11日 メールアドレス
ご参考に なにわ会会員、同遺族会員のメールアドレスをメールで送った。
1月12日 情報の配布
一括宛名で流している情報について、携帯で受信している者は添付書類が見られないようである。これからは出来るだけ本文に入れて送るようにします。
1月13日 1月の戦没者
1月中の戦没者は40名、内訳は艦艇3名、潜水艦5名、回天7名、航空24名、航空整備1名となっていて航空が一番多い。
1月14日新年賀詞交換会
1月14日水交会で行われ参加しました。参加者は水交会会員178名、海上自衛隊現役52名、招待来賓9名の合計239名で盛会でした。今までに比較して現役の参加者が多かったのが目立ちました。
85歳以上長老が紹介されました。海軍兵学校卒業生の参加者は次の通りで、海軍機関学校卒業生はなし、海軍経理学校卒業生は37期の水谷氏だけでした。
67期市来氏、70期高井氏、宮崎氏、72期伊藤、73期川浪氏、深田氏 松井氏、 74期植田氏 片桐氏 堀江氏、75期秋澤氏、大久保氏、刑部氏 佐藤氏、鈴木氏、高田氏 谷山氏、吉田氏、76期宇佐美氏 中村氏、袰岩氏、77期岩崎氏、 田中氏、森本氏 78期木岡氏、草野氏、難波氏の27名でした。(名簿による)
昔の知人等多数の知り合いに会えて楽しい一時でした。
1月16日 71期
久し振りで71期のHPを見たら次の更新記事があったので紹介する。
1 21.11.15 最後の懇親会が東京新橋駅前の第一ホテルで行われ、期友会員29名(同伴者14名)遺族会員11名が参加、これにてクラス会が解散された。
2 訃報
谷 光司 様 H21.
9 没 鬼塚義雄 様 H22. 1.15没
3 会員の現状(21.10.11現在)
入校時 601名 卒業時 581名 戦没 331名
終戦時復員 250名 現在の健在者 92名 連絡拒否者 1名 所在不明者 2名
最後の慰霊祭出席者 42名 最後の懇親会出席者29名
1月18日 有志会員
ある有志会員の方が2008年の私の誕生日にお書き頂いたその方のブログの記事ニ次の文章がありました。
『伊藤さんは、海軍兵学校72期・海軍機関学校53期・海軍経理学校33期の同期の会「なにわ会」の会報の編集を担当されています。と同時に、なにわ会のホームページ、なにわ会のブログを開設し、若くして戦死した同期生たちの事蹟を語り継いでいくとともに会員の情報交換の場の維持に努められています。
もちろん、そのどれも続けていくのは大変なことだと思うのですが、このなにわ会の活動、とってもすばらしいと思うのは、広く門戸を開放されていることです。同期生のための会なので、同期生以外は立ち入り禁止になっていても不思議ではないのですが、なにわ会の場合、会員以外でも、問い合わせをすれば親切に回答してくださいます。
現に、先日、「なにわ会のサイトに自分の戦死したお父さんのことが出ていた、その文章を書いた人と連絡を取りたい」という方からの問い合わせがあったそうです。残念ながら、その文章を書かれた方はもうお亡くなりになられていたそうなのですが、なにわ会のブログにそれが載ったところ、「その人のお父さん知っている」という会員の人たちから連絡が来て、直接その方と交流を持たれたということです。感動しました。
戦後、ずっとわからなかったお父さんの戦死状況が、なにわ会のサイトの記事でわかったということ。同期生で戦記をまとめられたとしても、なかなかサイトで公開しているところまでないのではないでしょうか。そして、60数年間、同じ日本にいながらまったく別々の場所で暮らしていて何の縁もなかった人が自分のお父さんのことを知っていて、それを語ってくれたこと。―なにわ会のサイトが取り持った縁です。きっと日本にはたくさんそういう方たちがまだまだいるのだろうと思います。
戦死した夫の、父の、兄弟の、最期を知りたい人―。戦友の最期をご遺族に伝えたい人―。でも、出会えないままになっている・・・・。
伊藤さんが地道に続けられているHPやブログが、そのうちの一人の方の思いにこたえたのだと思うと、自分のことのように嬉しくなりました。伊藤さんがHPやブログのお世話をされていなかったら、この邂逅はありえなかったですね。
今日、8月29日は伊藤さんの85歳の誕生日です。おめでとうございます。これからもなにわ会の活動、陰ながら応援しています。』
このように、HPやブログの感想を頂くととても励みになります。
このようにHPを見て問い合わせのあった方が約30名おられます。
1月19日 工藤俊作艦長顕彰会
元日本海軍中佐故工藤俊作氏の顕彰会のビデオを田島明朗氏から頂いた。
この救助劇の概要は次のとおりである。
大東亜戦争勃発翌年、昭和17年3月2日、日本海軍駆逐艦「雷」の艦長であった工藤俊作海軍中佐(海軍兵学校第51期)は、スラバヤ沖海戦で撃沈された英国海軍所属の巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」の乗組員422名の生存者が海上を漂流している現場に遭遇。交戦国将兵であるにもかかわらず生存者全員を敢然と救助し、友軍以上に厚遇した。このとき敵潜水艦や航空機の脅威下にありながら、工藤艦長以下「雷」乗組員全員は一丸となって救助にあたり、英国海軍将兵に深い感銘を与えた。このとき救助された将兵の数は「雷」乗組員全員の実に2倍に相当するものだった。
ところが、この行為は戦時下とあって秘匿され、さらに昭和19年4月「雷」はメレヨン島近海で米海軍潜水艦の雷撃をうけ沈没。その結果、工藤艦長「雷」乗組員の気高い行為は歴史の彼方に忘却される寸前だったが、その折救助されたサミュエル・フォール卿(89歳、元英国外交官、昭和17年当時英国海軍少尉、「エンカウンター」乗組)が、平成15年に工藤中佐の墓所や遺族を尋ねて訪日、その体験を語られたことにより、私たち日本国民は工藤俊作中佐と駆逐艦「雷」の勇気ある行為を知ることになった。
残念ながら、このときには工藤艦長の消息を知ることはできなかったが、その後の調査により墓所が判明。フォール卿の60数年来の悲願である工藤艦長の墓参が可能となった。
このような経緯で、日英外交150周年という記念の年に、平沼赳夫衆議院議員を実行委員長として、経団連をはじめとする財界関係者ならびに防衛省はじめとする関係者の協力により平成20年12月7、8日に墓参ならびに都内ホテルにて盛大な顕彰会を開催した。
顕彰会当日に89歳という高齢をおして車椅子にて出席したフォール卿は、その短い挨拶の中に心からの感謝の気持ちをひしひしと感じ取ることが出来た。
また当時、雷航海長だった谷川清澄氏(大正5年福岡県生まれ。海軍兵学校卒業(66期))も参加され当時の事を述べておられる。
当時、このような行為は国際法に照らしても軍人としても当然のこととの考えで、工藤中佐自身も語ることはなかったと言われている。恵隆之助氏(元海上自衛隊幹部、現在評論家)の著書「敵兵を救助せよ!」に詳しく記されているので関心のある方はご一読いただきたい。
1月20日 太田浩二様
中国大連在住の太田浩二様から要旨次のメールを頂き、返事を送りました。
『貴ウエブサイトを大変に感慨深く拝見させて頂きました。
私の叔父 太田正一の写真とクラーク基地からゼロ戦で飛び立ち敵艦巡洋艦に体当たりしていった状況、また桂理平様御執筆の所感を拝読してあらためて叔父そして戦死した兄を思う父の心を大陸の大連にて思い巡らせております。』
昨年暮、福岡県居住の、佐伯市生まれの山本さんから要旨、次のメールを頂きました。
『その私が、数年ほど前に思い立ちまして、現在ちょっとしたものを書いております。
私の祖父は、佐伯市の湾に浮かぶ大入島で、イリコの行商などをして暮らしを立てておりました。書いているものと申しましたのは、この祖父と子供たち(つまり私の父と叔父叔母)を主人公にした、昭和十九年から戦後にかけての物語でございます。・・・・ インターネットで検索いたしましたら、樋口直様が、原田大佐の思い出をお書きになった一文に巡り合ったわけでございます。・・・井尻文彦中尉の弟様でいらっしゃる、岡野武弘様のご寄稿で今回始めて知りました。』
という事で、樋口直君と岡野武弘様に連絡を取りたいといわれ、両人のご了解を得て住所等をお知らせし、山本様は連絡が出来たそうです。それに関連して、岡野様から『兄の殉職となにわ会』という孫達への証言を送っていただきました。
なにわ会だより第3号に掲載したいと思っています。
1月21日 なにわ会だより第2号
お願いしていた「なにわ会だより第2号」の校正が都竹卓郎君、窪添龍輝君から帰ってきました。後、窪添龍輝君から会計報告を頂けば原稿すべて完成します。
1月21日 湘南歩こう会
21日湘南歩こう会が行われ、写真の10名(左から高田、上野、幸田、深尾、深尾夫人、伊藤夫人、藤井夫人、小松崎夫人、品川夫人、加藤夫人)が参加した。
76期会報128号を頂いた。76期は21年11月24日、東京ドームホテルで全国総会・懇親会が会員304名、準会員同伴者130名、来賓13名の参加を得て盛大に実施された。行事の中の講演会に、講師として池田武邦君が「戦争体験と戦後の価値観」と題し、巡洋艦矢矧乗艦による3つの海戦、マリアナ、レイテ、沖縄海上特攻の奮戦体験談が行われ、好評を博した。なお、この会には都竹卓郎君が来賓として招聘され参加していた。
74期の青池明様(三号24分隊) 21年12月11日逝去。
昨日府中市の方(昨年 21年5月22日ブログ参照)から次のメールを頂いた。
「流星のごとく〜富士栄一氏追悼録〜」の中に、谷内能孝様
が書かれた『南方赴任』という文章を拝読したいのですが、どちらで読む事ができますでしょうか。」
質問の富士栄一氏追悼録は冨士君が亡くなって1周忌に出された本であって、多数のクラスメイトが冨士君の思い出を書いている。その中の一部はHPに取り込んであるが谷内能孝君の記事は取り込んで無かった。今改めて、この追悼録を読み返して冨士君を思い出し冥福を祈った。それにしても、なにわ会のHPは本当にいろんな方が読んで頂いているようで有り難いことだ。
1月22日 湘南歩こう会
上野三郎君から先日の湘南歩こう会の記事を頂いた。
1月23日 歩こう会
1月21日に行われた湘南歩こう会の記事を上野三郎君から送って貰った。
「平成22年最初の歩こう会は1月21日に明治神宮参拝が実施された。
昨日の記録破りの温かい大寒の入りとなった流れを受け、今日も17℃と春を思わせる恵まれた天候の中、神宮境内の散策を楽しんだ。
明治神宮と侮っていたが、万歩計は戸口から戸口までなんと10,500歩を突破し久方振り「歩く歩こう会」となった。参加者10名(男子4名、女子6名)、JR原宿駅集合11時、解散14時30分
神宮橋を渡った所で,「ねぶた」の歓迎を受けた、これは青森県のPRの催しの一部であることを知った。
(大衆の中に溶け込んだ神宮だとの印象)
お正月を過ぎているのに、参詣者の列が三々五々続いているのには、人気の高さに驚いた。
幸田君先頭の我々のグループ(写真略)
大鳥居に達しその大きさを実感(写真略)
我国最大の木造鳥居 昭和56年12月にある篤志家の寄贈により大正9年の鳥居の形に再建。台湾丹大山の樹齢1,500年の檜材使用。
本殿の参拝を終えた後西側の門を出て宝物殿に向かったが、生憎休館日だった。此処で集合写真を撮影。
(21日のブログに掲載)
近くに「さだれ」石があったので撮影(岐阜県揖斐郡産出)(写真略)
北池を渡り、本殿、神楽殿の東側を経て大鳥居を左に見て、代々木の森の森林浴を楽しむ。
代々木の杜は全国から10万本の木と11万人の勤労奉仕で完成したもので木種は椎、樫,楠等で、杉、檜は関東ローム層には不適ということで植えられていないのが特徴。
明治神宮文化館にて昼食、疲労を癒やし、元気を回復、南池のある明治神宮御苑に向かう。この御苑は明治天皇が
「うつせみの 代々木の里は しづかにて 都のほかの ここちこそすれ」
と詠まれたように全くの別天地だ。元々は江戸時代初期加藤家、井伊家の下屋敷の庭園であった所。25,000坪
隔雲亭(伊藤夫人がお茶のお手前をやられたことがある由)、お釣台、菖蒲田四阿(あづまや)(写真略)、四阿(あづまや)奥に清正井がある、なんと若者に人気があり4時間待ちだ、此の井戸を携帯に収めると自分の願望が叶えられるとか、不思議な風潮が出来たものである、入り口で其の信者の若者一団に出会ったが、今日はもう間に合わぬとがっかりしていた。(未だ午後2時過ぎだのに)
今回は神社を離れた裏街道を中心に観察したがスケールの大きさには驚かされた。
(注)大正9年11月に明治神宮は完成したが、昭和20年4月14日の空襲で全焼した。昭和33年11月現在の社殿修復が完了、引き続き手が加えられ現在の姿になった。」
この記事をHPに取り込んだ。写真はHP↓を見て下さい。
12月暮、なにわ会様のホームページをご覧になった福岡県に住んでおられる方からメールを頂いた。
その方は大分県の佐伯市生まれで、数年ほど前から、昭和19年から終戦迄の佐伯に関する物語を書いているそうです。そしてHPに書いてある樋口直君の記事、故井尻君の弟岡野さんの記事を読まれ、当時のことを聞きたいので、何とかお二人を紹介して頂きたいと頼まれました。
樋口直君と岡野さんの了解を貰って紹介し、お互い連絡が出来て近くお会いになって話されるそうです。
その間の経過について、御丁寧な報告を頂いた。
日記 1月25日 コメント
最近いたずらコメントがよく書きこまれます。ご覧の皆様に不快の念を与えないようコメントを承認制にいたしました。ブログの持ち主(私)が承認するまでコメントは表示されないようになりました。
このグログ毎日45〜50名の方がご覧になっています。毎日何か書きこむように努力しています。
会員、遺族会員の方、どんどん書きこんで下さい。書きこむには、右上のログインをクリックして下さい。次に左に出て来たエキサイトIDの所に naniwa-navy を打ち込み、その下のパスワードの所になにわ会の各クラスの数字6桁を打ち込み、ログインして下さい。出て来た画面で、右上の投稿をクリックして記事を打ち込んで下さい。
もしうまく出来ない時は、メールで送ってもらえばその方の名前でブログに書きこみます。
会員、遺族会員の積極的書き込みをお願いします。
1月26日 石井 晃君 訃報
今日石井君の訃報を流したが、これに関連してHPの次の頁を訂正した。
@ 22年訃報 A 現在員 B 兵生存者名簿 C 兵物故者名簿 D 名簿訂正 E TOP頁 F 四号時の分隊別人員 G 四号時の分隊別名簿
会員の訃報を知った方は重複してもいいですからその都度伊藤正敬迄知らせて下さい。
訃報 石井 晃
氏名 石井 晃 君(名簿4P)
平成22年 1月22日(金) 逝去
喪主 妻 石井 和子 様
鈴木彊君から渡邉望君経由で、電話で知らせて貰った。
奥様に電話で聞いたところ、40日程入院して療養していたが、1月22日に亡くなった。
葬儀は親族のみで1月24日行われた。
1月27日 訃報関連
昨日の訃報に関連、次のかたからメールを頂いた。
田島明朗さん(沢本が子会社に出て尼崎に居た頃何度かご一緒した。あの歌も聴けなくなった。)
小灘君の長女の遺族(母と石井様の奥様は知り合いのようです。
太田正一君の遺族(石井様のお名前をネットにて確認致しました。)
70期の森田さん(毎日貴プログを拝見するのが日課のひとつです 貴クラスの活動や消息の記事に往時を思い起こし 感慨もひとしお まことに懐かしく ネービーの香りや息吹きを感じております)
堀剣二郎君(話上手の好漢ともお別れか。)
1月28日 永代神楽祭
6月4日の永代神楽祭について靖國神社と打ち合せに左近允尚敏君と上野三郎君が今日行ってくれた。結果については後ほどお知らせする。機関科の斎藤義衛君は立派な携帯電話で毎朝ブログを見て呉れているそうで有り難い。これからは訃報等連絡事項があるときは、直接一括メールで斎藤君にも流すことにした。
1月30日 永代神楽祭
左近允尚敏君から昨日靖國神社と打ち合せされた結果を次のとおり知らせて頂いた。
『〇 懇親会場は96名の部屋に確定した。
〇 会費
参拝のみされる方:500円(参拝料)
参拝後懇親会に参加される方:3000円(参拝料500円と懇親会費2500円)
〇 弁当は昨年のより上等の幕の内弁当にした。』
今年は全般を上野三郎君が引き受けて呉れることになった。
細部案内はなにわ会だより第2号に掲載し、出欠は同封の葉書によることにする。今年は昨年の如く狭くて動きがとれない事は無いと思うので多数の会員、ご遺族の参加を期待している。
高橋義郎中尉の出撃の様子
深井良の甥深井紳一です。今「戦艦ミズーリに突入した零戦」光人社 可知晃著 という本を読んでいます。その中で72期から艦爆へ行かれた、高橋義郎さんの出撃直前の一言が書かれていました。時任少尉と出撃の飛行場に駆け付けたその父とのやりとりを中心とした短い描写ですが、数時間後に確実に死を控えたと思えない、同僚偵察員の親を思いやるようなご立派な態度に感動を覚えましたので引用します。
両親との決別
国分基地の慰霊祭には、第一草薙隊・時任正明少尉(予備学生13期、中央大、鹿児島出身。4月6日、南西諸島海域にて戦死)の姉上の前田良子さんも、宮崎県から出席されていた。時任少尉は、99艦爆で、台地の上の第二国分基地から発進して行った。少尉の実家は、第二国分基地から北へ直線距離にして50キロくらいの、伊佐郡菱刈町本城であった。十三塚原特攻碑保存委員会編『鎮魂 白雲にのりて君還りませ』という、国分第二基地から発進していった特攻隊員の手記がある。ここに掲載されている時任少尉と両親との飛行場での別れの場面が非常に印象的で、以前から強く記憶に残っていた。早速、話が聞きたくて、鹿児島県の前田良子さんに電話をした。半世紀の時間を感じさせない、姉の弟を想う暖かな優しい気持ちが感じられた。以下の様な状況だったという。
「国分の息子さんから電話です」役場の小使いさんの呼び出しで、両親、祖母、姉は役場に急行した。出撃前の夜、国分基地から時任少尉の最後の電話だった。父「正明か、往っておいで。家の事は何も心配いらない。立派に戦っておいで。成功を祈る」
母「正ちゃん、いよいよ往きますか。元気で往ってください」姉「正ちゃん、元気でお往きなさい。心残りなく戦って下さい」思い思いの声が受話器にすがる。父「おばあさん、これが正明の最後の電話ですよ。良く聞いておきなさい。涙声をださないように」促されて、祖母は生まれて初めての受話器をとった。祖母「正ちゃん、明日発ちますか。行っておいで。そして元気に帰っておいで」後は言葉にならなかった。電話は切れた。零時半だった。家に帰り大急ぎでご飯を炊き、おにぎりをつくり、身支度をして午前二時、両親は家を出た。夜通し、三里(12キロ)の道を歩いて、国分の宿舎である農学校に九時に着いた。時任少尉は、すでに五時半に宿舎を発っていた。両親は休む間もなく、さらに二里(8キロ)の山道を登って、ようやく飛行場の端に着いた。十一時十五分だった。次から次へと離陸する飛行機。何人かの人に尋ねて、広い飛行場を走り回り、ようやく発進直前の時任少尉機のそばに駆けつける事ができた。父「正明っ!」正明「はい、お父さん。来られましたか」父母「良かったね、間にあって。元気で往きなさい」正明「有難う。お父さん、お母さん、体をお大事に。おばあさん、お姉さん、お兄さんによろしく。近所の方にもよろしく。何も思い残すことはありません。喜んで往きます」すぐ伝声管で前の操縦士に話をすると、すぐ前の窓があいて、「高橋です。いってまいります」と笑顔でいった。第一草薙隊指揮官の高橋義郎中尉(海兵七十二期)であった。(時任少尉は、指揮官機の偵察員であった)
この日は同じ72期の艦爆搭乗員牛尾久二中尉、前橋誠一中尉も第一正統隊として沖縄の海に没しています。
1月31日
1月も終りです。20年1月の戦没者はなにわ会全体で40名に達してしていました。
そのうち、艦艇は5名で大部分は航空の26名、あとは潜水艦2名、回天7名でした。
昨日深井良君の甥紳一様が高橋義郎君の事を書きこんで呉れました。とても嬉しかったです。このブログはなにわ会会員のブログです。会員は遺族会員を含め遠慮なく書きこんで下さい。書きこみ方の分らない方は、伊藤正敬宛メール下さい。その方の名前で書きこみます。なお、携帯からの書き込み、可能の筈ですが今一うまくいきません。更に勉強致します。皆でこのブログ盛りたてて下さい。
早速斎藤義衛君からメール頂きました。
1月31日 木林 健一君
木林君とは4号時代に同分隊だった。クラス会名簿にかかれている情報だけではどの辺で何の作戦で戦死したのか今日までわからず気になっていましたがブログを見て胸が晴れました。函館から10月7日に出撃したとあります。と云う事は函館船渠で整備したことだろうと思います。私は海上自衛隊時代に大湊総監部所属の護衛艦に乗り組んでいたことがあり、函館ドックにはよく入渠したことがあり、また10月7日ごろの気候は10月10日に初雪のあった年もありうすら寒かつたことも思い 合わせて出撃の状況を想像しております。
堀 剣二郎
楓の思いで 伊藤正敬
今から65年前の昭和20年1月31日私は駆逐艦楓の航海長だった。
在フィリピンの航空部隊は壊滅したが、搭乗員は相当数が乗機を失って、フィリピンから脱出することもできなくなっていた。そこで20年1月31日
に、第43駆逐隊の「梅」「楓」「汐風」の3隻に、ルソン最北端のアパリにむけ、航空要員を救出するため 出撃することが命じられた。「パトリナオ輸送作戦」である。
しかし、すでに制空権は完全に米軍のものとなっており、水上艦隊が動けるような状態ではなかった。
1月31日、「梅」 「楓」 「汐風」の3隻は、台湾の高雄からルソン島最北端のアパリへ向け出港する。
アパリ防衛のための高雄陸戦隊を乗せ、空襲を避けるためアパリ近郊のパトリナオ村を目指して午前8時高雄を出港、24ktで南下した。
10時、バシー海峡でアメリカ軍哨戒機に発見される。
15時頃、台湾最南端ガランピ岬の南方約35kmで米陸軍第14航空軍所属のP38戦闘機に護衛された第38爆撃航空団所属のB25爆撃機12機と第35戦闘航空団所属のP47戦闘機4機の空襲を受ける。
先頭にいた「梅」は、左舷側から集中攻撃を受け、主砲指揮所と前部砲塔と艦橋間の甲板などに3発被弾、機械室を破壊されて航行不能になる。
15時18分、「楓」が艦首に被弾、「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する。
18時過ぎ、「梅」は「汐風」の砲撃により自沈処分となる。吉田司令など生存者は汐風に救助され、作戦の中止により高雄に引き返す。「梅」は約80名、「楓」は50名以上が戦死。
この時、楓主計長は高杉敏夫君だった。
私は卒業後終戦まで、終始艦艇(山城、隼鷹、羽黒、楓)勤務だったが、被害を受けたのはこの時と終戦直前の7月末、倉橋島で空襲を受けた2回だけであり、一度も泳ぐことは無かった。
65年経過しても、この日のことを何時も思い出す。
機関科の戦没者 斎藤 義衛
座右に戦死者の年月日順の手帳あり、20年1月は機関科6名散華、私は浦賀で宵月の艤装中であった、その頃1号同分隊の都所、豊住は回天でウルシーに突入せり、